本日もご訪問ありがとうございます。
『ブルーボーイ事件』という作品を觀てきました。

『愚か者の身分』の記事で触れていた作品ですね。
現在、鑑賞後三十分以内ですが、素晴らしい作品でした。
これは2025年の映画部門ベスト作品ですね。
物語は性転換手術を行っていた産婦人科医師が逮捕されたことに端を発しますが、正直この作品はとりあえず觀てほしいです。
いつも映画作品の感想を書く際は「あそこのあれがどうで〜」などと御託を垂れますが、今回そちらの御託は最小限にします。
あとネタバレはします。
在り方
こちらの作品はゲイの方が出ますが、正直そうそう簡単なものではないです。
作品の主人公的立ち位置にあるのはサチという方ですが、どうやらこの方はゲイではなくトランスジェンダーという方のように思います。
数年前、Twitterにて『男性の中にもレズビアン要素があり、女性の中にもゲイ要素があるのではないか。傍目には異性愛として見えているけれど、内実は同性愛的な繋がりなのではないか』という説を拝見いたしました。
その時は「なるほどなぁ、確かにそのようなこともあり得るのだろうなぁ」と思いました。
このように性というものはどうにも複雑であるようです。
そして性格形成の根幹を握る部分でもあるため、易々と触れて良いものでもないとも感じます。
しかしこれはゲイやレズビアン、トランスジェンダーに限った話ではなくです。
よく『認める』という表現がありますが、わたしにはそういった個性をお持ちな方々を認めたりする姿勢を取ったりは致しません。
それは "わたしというものは認める立場に無い" という信条があるためで、そもそも《他者様を判断する》ということは《他者様から判断される》ということになります。
わたしはわたしのことを知りもしないボンクラ様から判断などされてたまるか、という自己保身から『認める』との姿勢をしないのですが、そもそも "認める" こと自体が認めていない前提じゃねえか。ふざけんなよ。
この世は存在してる以上世界から認められてるんだよ。ふざけるなよ。
ということで「同性愛だからという理由での差別はやめよう!」と意識し不自然なほどに軟化した態度をとることや、腫れ物を触るような態度は、逆に差別的側面を浮き彫りにするわけです。
本当の一般であれば、態度は変化しないはずですからね。
「トヨタ車が好きなんだ。わたしスバル車が好き」
「シャインマスカット、美味しいよね!巨峰も美味しいよね!」
なので、正直これを言っている時点で差別となる可能性すらもあるわけです。
「接し方、在り方が難しい」などと言っているということは、無意識であってもそれぞれで差が出ているということですから。
わたしはわたし自身の意識の低さを自覺しながら、粛々と精進いたします。
そもそもですが、"理解しようとしている" のが原因じゃ…?
錦戸亮さん演ずる狩野弁護士も劇中で口にされておりましたし、現実世界でもよく耳にしますが、そもそもとして『相手のことを理解できる』と思っていることが全ての齟齬の元凶なのでは…?と思います。
色々な場合で多数派は多数派であることを理由としたエゴを無意識に持ちがちなようです。
今回も数の理論で異性愛が多数派となり、その影響でマジョリティのエゴが発生し、そういった理由で "理解をする立場である" と思ったのか?と推察したりします。
しかしさ〜、性別はもとより出自すら違う人間同士なんだから、相手を理解することなんて土台無理っしょ。と思うのがわたし個人の本心です。
わたしは現在齢ハーフ還暦を少し過ぎた程度の若造でございますが、他所様を理解することも理解されることも放棄しています(理解される、につきましては他人様の自由なので "勝手にしたら良い" の姿勢)。
しかしわたしも分別はあると思い込もうとしている小市民。
「どうぞご勝手になさって?」と全てを投げている訳でもありません。
『そもそも個人個人なんだから理解なんてできるわけねえだろ』と思っているため、そう思っているからこそ相手を知ろうとはします。
相手のことを理解できると思っているからこそ、浅い位置で相手のことを知ったつもりになる。
理解できると思っているから、理解できないものは突っぱねる。
突っぱねる理由は『理解できない自身の知慧の低さを自覺したくない』という心理が動いているのかもしれません。
「そもそも他人のことなんて理解できるわけないのだから、せめて相手様のことを知ることくらいしよう」とは、"自分以外の他者に対して行う最大限の敬意" だと、わたしは考えています。
自分を理解するやつなんてのは自分自身一人で十分なんですよ。
手前さん自身が一番の理解者で居てやれや。
廓言葉みたいな
作中にてアー子さんは一人称を「アタイ」としています。
これはわたしの偏見も多く混ざっていると感じますが、『アタイ』という一人称はゲイの方がよく用いられている印象があります。
これはもう憶測の域を出ない考えですが、『アタイ』という一人称もゲイという集団での集団的結束感を強くするための言葉だったりするのかしら、と劇中思いました。
今でこそいんたねっとの普及や、先人の活躍と波及によりゲイの方々は市民権を得ています(しかしそれはあくまでも芸能人という道化的立ち位置上の話であり、実生活ではまだまだどうにも…と思う部分ではある)。
しかし、作品は1965年の話。
まだまだゲイの方の市民権が無かった時代では鼻つまみ者として扱われていたのでしょう。
アー子さんが暴漢によって命を落とし火葬をした際、外野の反応がそれを物語っていました。
そんな時代においては同じ個性を持つ者同士で結束し集団を作ることが重要となり、その結束要素が一人称とかだったりするのかなぁ、などと素人ながら考えたりしていました。
しかしアー子さんの火葬後にメイさんが外野へ対して発した「オカマも死んだら焼くのよ!」は素晴らしかった。
その通り、という部分と悲痛さ。肉体的性別・精神的性別に拘らず人間であるということ、そして何故だかそこに対して思い至っていない外野の思慮の浅さ。
あくまでもフィクション的な演出ではあるのですが、正直実際はもっと笑えない反応が茶飯的にあったのだろうと思います。
そしてアー子さんが亡くなった際にメイさんがアー子さんのお店に来ますが、あの場面は泣きました。
お話の冒頭ではメイさんとアー子さんは対立しているように演出されていましたが、きっとメイさんは現実を受け入れた方なのだろうと思います。
一方アー子さんはそれでもなんとか現実をひっくり返したい方で、憶測ですがかつてはメイさんもアー子さんと同じ氣持ちをお待ちだったのではないでしょうか。
だからこそアー子さんのことを羨ましく思うとともに疎ましく思っていた。
メイさんはアー子さんのことを『青臭い』と表現なさっていましたが、羨望もあったように感じます。
あくまでも憶測ですけどね。
ちなみに以前にも言及いたしましたが、男性の同性愛者を指す『ホモセクシャル』や『オカマ』という呼称は蔑称なのだそうです。
ですのでわたしは以来、男性の同性愛者のことはゲイと呼称しています。
【ホモセクシャル】は『同性愛者』という意味合いの言葉ではありますが、それならばレズビアンの方に対しても「ホモセクシャル」と呼称しないと辻褄が合わないわけです。
しかし何故だかそうはせず、ゲイの方にだけ「ホモ」という言葉を用いる。
その姿勢が差別意識の確たる証拠であるとわたし個人は感じます。
あとわたしより上の世代とかは親しみを込めて『オカマちゃん』と呼称なさる方もいらっしゃいますが、個人的にはどうかしらね〜と感じます。
その理由は上記した通り蔑称であるからです。
ゲイの世界では「このブス!」や「このホモ!」「オカマ!」と互いを罵り合うという、わんこでいう甘噛みに似たコミュニケーションをされる様子を見受けたりいたしますが、これはお互いが同じ個性を持っているからこそ成り立つやり取りであると考えているので、部外者が「オカマ!」などと言おうものなら、その一瞬間の内に立派な差別主義者となりますのでお氣をつけください。
黒人の方もBlackの集団の中では互いに対してNワードを使っている場面を見かけたりしますが、それと似たところなのかなとは誠に勝手ながら思います。
こちらも部外者であればNワードは絶対に使うべきではないです。
日本人が日本人に対して「よぉ黄色い猿」というような感じです。「お前もやんけ」となってケラケラ笑い合うだけで平和ですね。
つまりは〈理不尽に社会的欠点とさせられてしまった部分〉を克服したということですが、そういった方は強いです。
普遍性のある題材
第十回の公判にてサチさんが性転換手術を受けた時と受けた後の氣持ちを証言する場面がありましたが、あの場面は本当に素晴らしかったです。
それまでは所謂《性的マイノリティ》に向けた内容のお話だと感じて觀ていたのですが(「これって史実なんでしょ?凄いな…。こういった先人が居たってことで今を生きていらっしゃる同じ個性をお待ちの方々も勇氣を持って生きていけたら良いな」みたいなことを思っていた)、サチさんご自身が自覺した本懐の吐露を聴いた、その瞬間。
『ブルーボーイ事件』という作品が自分自身のものとなりました。
対岸の先にあったものが、すぐ側の体温すら感じられる場所にやってきた、みたいな感覺でした。
「自分自身の作品だ」と思ったと同時に、『万人の作品だ』とも思いました。
そしてしみじみと「これは間違いなく2025年の映画ベスト作品だ」とも沁み滲み感じました。
とっかかりの題材が〈性的マイノリティ〉という題材であるためにどうしても觀る人は選んでしまうと思いますが、この作品こそ多数派の方々が觀るべき作品であり、きっと遠い昔から語られてきた普遍的なお話でしょうかと存じます。
『ブルーボーイ事件』で語られている本質的な題材、それで悩んだことがない人なんていらっしゃらないと思いますからね。
この作品は全國の児童館とかにおいた方が良い。
雑記
映画表現良かったところを挙げる、一素人消費者の御託コーナーでーす。
映画冒頭、面会の場面。
網戸を挟んで狩野弁護士と赤城医師とが面会するところですが、赤城医師側から見ると狩野弁護士には小窓からの自然光が当たるために明るく、さながら救いの手を差し出しているように見えますが、網戸という境界が厳然としてある演出が良かったすね。
またサチさんが最後の性転換手術を受けようと寂れた町医者の戸を叩いた際、「今日中の手術できますよ」と決断を早急に迫る医師の言葉に対して、サチさんがそよ決断を渋った理由も後で描かれていたことも構成として上手だと感じました。
そして何よりも時田検事が良い惡役を勤めていらしたのが良かったです。
『性転換など許すまじ』という強硬派な立ち位置や【國家保存】を最重要視されていた方ですが、大東亞戰爭にて御従軍なさっていたという経緯があるならば、"健全な男子たるもの" という価値觀や 〈國民が國家に対して行うべき義務〉という考えが根底にあるのは当然です。
そして戰前に産まれた人と、戰中・戰後に産まれた人との間に対立が生まれてしまうのも、当然でもありますね。
そんな時田検事を完全な惡役として描ききらないのも天晴れ!と一消費者は思います。
あと何処かで赤ちゃんの泣き声が聴こえていましたがそこの演出も巧いなと思いました。何故思ったかは忘れました。
鑑賞後
物語の最後、1973年にサチさんはご自身のテーラーを経営されている描写がなされ終幕となりますが、主人公的な人物が『サチ』という名前で、最終的に幸せを得た終幕を觀てじんわりとした感動を、それは『ムーンライト』を觀た時と同じ感情を覺えました。
やはり心に寄り添う作品は良いですね( ¨̮ )
円盤買います( ¨̮ )
裁判映画という部類の映画があるそうですが、今作のように『法律の穴を別の法律で突く』という面白さがあるのか!と新しい発見がありました。
裁判法廷映画というものも今後注目して觀てみたいです。
鑑賞後、帰宅時はcali≠gariさんを聴いたのですが、やっぱり桜井青さんの曲は心に沁みますね( ¨̮ )
ありがとうございました( ¨̮ )