頭の中の洪水

観察と思考と分析の日記ですよってね。たまに思想家が顔出します。よってね。

笑っているけど、よく見ると引き攣っているかもしれませんね

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は広告回です‪( ¨̮ )‬

以前の記事にて「また詳しく書きますね」と言及していた内容です‪( ¨̮ )‬

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

広告っておもしろいなぁ

広告というものは面白いなぁと常々思います。

広告一つで個人の行動を左右できると言っても過言では無い、それどころか『左右できる』と断言できるとすら考えています。

こちらは《自由意志なんてものはない》という考え方へ繋がっていくものですね。

今回はそちらについては言及しませんけれどね‪( ¨̮ )‬

 

さて、わたしが広告を見て「面白いなぁ、興味深いなぁ」と考えるのは、主に公共的な交通機関を利用している際になりますが、今回も同様な状況でふと思ったことです。

 

公共的な交通機関

つまり今回の場合は電車になるわけですが、電車と一口に言っても種類があるじゃないですか。

Japan Railwayや各種私鉄、地中を走る地下鉄道。

今回は地下鉄道を利用した際にて思ったことです。

 

 

地下/地上を往く、その違い

都市の地下を日々走る地下鉄道ですが、路線によっては地上に出たり地上の路線を主に運行している鉄道と連絡して切り替えたりするものがあります。

わたしの2025年現住所最寄り駅が地下しか通らない路線なのですが、最近地上に顔を出す路線を利用したのですね。

 

そしてその際、これまでに認識しなかったある違和感に氣付きました。

覺えた違和感とは「あれ?なんか車内広告の量、少なくね?」です。

 

中吊り広告、窓に貼られた広告、網棚上の広告、車内壁の広告、次の停車駅表示付近と、今現在乗車している地下鉄道の車両内には、割と所狭しと各社広告が貼り出されています。

今この記事をあなた様がお読み下さっている環境がどの様なものか、わたしには知る由もございませんが、同様の状況であれば眺めたり同様の状況でなければ想いを馳せてみてください。

 

そいで地上を走る電車なのですが、これが明らかに広告の数が少ない。

非常に興味深いです。

 

電車の広告といえば中吊り広告ですが、それだけでも地上の電車の方が少ないです。

こちらの理由、推察すれば然もありなん。当然至極なものだったのですが、大変に興味深いと感じたのは事実です。

 

 

鉄のみみず、腹のなかで相利共生を行う

さてはて地下鉄道と地上の電車とで車内広告の量が相違する。

こちら、どうやらJapan Railwayとか関係なく私営鉄道も含めた "地上を走る電車" の類はどうやら共通している様です。

 

その理由を考えてみました。

まあ単純に景色でしょう。

地上を走る電車は車窓から景色が見えます。

ですが地下の鉄道は車窓の外を見ても暗いコンクリートの壁しかありません。

 

つまらんのでしょうね。

景色が見えなくてつまらないので、地下鉄道は車内広告が多いのです。

 

解決!

一件落着!

 

 

でしょうか。

果たして。

本当に?

 

 

鉄のへびは配慮の笑みを浮かべるが、半ば引き攣っているかもしれませんね。

広告とは『広告主が掲載先へ《定められた金額を納めること》で掲示され、その影響で消費者が認知したり潜在的に認知したりすることで利潤を生み出す』という経済循環だと認識しています。

 

で、あれば。

広告掲載をする側は広告の掲載場所を次々と売り出せば良い。なぜならばその方が資本主義世の中で最も大事と認識されている(しかし絶対とは限らない)お金が多く稼げるから。

これは小學校で教わる足し算引き算と同程度に単純明快な話だと考えます。

 

しかしそうはなっていない。

なぜなのだろうか?と思いましたが、これも車窓からの景色、それとの兼ね合いだろうと考えられます。

地下鉄道の車窓から見えるのはコンクリートの壁と停車駅の駅舎構内ですが、地上を走る鉄道は景色が見えます。

〈景色〉と一言に聞くと自然的な印象があるのはわたしだけではないと思っていますが、都会の景色には広告があります。

看板もあります。

 

わたしは「地上の電車はこれらの看板たちに配慮して車内広告の量を減らしているのではないだろうか?」と考えています。

 

と言うと「先ほど貴様は『資本主義は利潤を最優先する価値觀だ』と言っていたな。しかし車窓から見える看板の企業や商店がいちいち律儀に鉄道会社へ金を貰っているとは思えない。そもそも掲載場所を確保するわけでもなく、ほんの一、二秒見えるかどうかものに金を払うと思えない。つまり貴様の主張していることはFAKEだ。嘘ハッタリだ」との具合のご指摘をいただきそうです。

 

その通り、わたし自身その指摘は自己反問をする際に浮かびました。

そして指摘は否定しないどころかごもっともだとすら考えています。

‪そんなことをするくらいなら車内広告の量を増やした方が圧倒的に儲けになるはずです。

 

しかしそうはならない。

どこに配慮しているのか。

 

わたしは思ったのですが、配慮しているのは一般的な企業や商店に対してじゃないのでは無いでしょうか?

 

以前に東京の地上鉄道を利用した際のことです。

知らん土地の車窓は愉しいを信条にしているわたくし(してない)。

確か恐らくきっと触れる座席も無かったので車窓の景色を見ていました。

 

そうしたらば、とある宗教団体を経営母体とした政党事務所の看板が目に入りました。

『へえ、こんなところに』と当時は思った程度でしたが、地上を走る電車の車内広告が少ない理由って、これが答えではないかしら?と現時点のわたしは考えます。

 

もちろん全ての結論ではないですが「おたくの車内広告が多すぎるせいでうちの看板が目立たないのだけど、どうしてくれるんだ」というご意見(言いがかり)が寄せられる可能性を極力減らすために、車内広告の量を少なくしているのではないか?というのが、今回の仮説です。

 

鉄の蛇は配慮と微笑みを讃えているが、その表情は引き攣っているかもしれない。

一方、鉄のみみずは腹の中で相利共生を行っている。

 

 

ちなみに政治団体や宗教団体に限った話ではないとも考えています。

一念発起で独立し起業した会社さんの負けん気の強い社長さんや役員さんが上記のご意見を言ってこないとも限りません。

そんな厄介事を未然に防ぐために地上の鉄道は広告の量が少なく、そのような厄介事とは無縁な地下鉄道は所狭しと広告が掲載されている。

そんな "仮説" ですが、聞いたところによると上場している企業さんの社長さんは電車通勤はしちゃあいけないそうですね。

競合他社から痴漢冤罪とか突き飛ばしの攻撃を受ける可能性があるからだそうです。知らんけど。

 

なので「そんな考え方もあるかしらね〜」程度にお考えください。

きっと全てわたしの妄想ですから‪( ¨̮ )‬

 

 

広告の觀察で意識下に動いたもの ~動くものと期間が超過したもの~

これより、広告を觀察したことで意識化したものを書き記して行きます。

 

先日、去るは旧暦十月一日に再び出雲大社さんにご挨拶に参ってきました。

 

さすが神在月というだけあって人間さんも多く、修學旅行生さんも多くいらっしゃいました。

 

その日の朝っぱら、地上の在来線電車を用いたのですが、その車両はJapan Railwayなだけあって朝っぱらは車内大混雑です。

「せせこましく押し競饅頭で生きていくのは、わたしの人生では嫌だなぁ」と感じながらも混雑のためにぼぉんやり停車駅の電光表示を眺めていました。

以前にも言及したような覺えがございますが、都会の電車は電工表示があります。

 

そして映像広告が流れているのですが、人間は動物なので動くものには意識を引かれます。

見るつもりはなくとも "動く" から意識が向いてしまうということなのですが、巧みだなぁと感じたのは『動くもの』と『動かないもの』の組み合わせです。

 

〈人間は動くものに意識を引かれる〉と上記しましたが、映像として動く広告をぼやっとでも見ている時に画面が動かない広告に変わった場合、「おや?」と意識の焦点がそちらに合うのではないでしょうか。

その切り替え?策略??(?)に、わたしの意識はまんまとはまったわけですが、上手だなぁ、巧みだなあと感じました。

そしてその『動かないもの』が「体調が優れない方やお身体が不自由な方には座席をお譲りください」だとか「痴漢は犯罪です」のような《最優先事項たる内容》だったのも、意図してのものだよなあ。巧いと言わざるを得ないよなぁ。と感じました。

まる。

 

 

もうひとつ。

同じく電光表示で思ったことなのですが、催事の広告でした。

映像広告の強みは映像としての動きや変化を出せることです。

催事広告が消費者に対して伝えたいことの一番は、催事内容とその日時だと認識しているのですが、先日拝見した催事広告は催される日時のほとんどが拝見した日時より前の開催。つまりすでに催しが終了していたのです。

広告を見た日が十一月二十日だとしたら、一回目11/1,2,3、二回目11/8,9、三回目が11/15,16という具合です。

 

「え、意味なくね?」と思ったのですが、すぐさま『いや』と思いました。

それは "第四回目、五回目と催事の開催が続く" という理由や、"広告の開催期間が一月契約" などという理由などもあると思いますが、わたしはどちらかというと『え、期間すぎてるじゃん』の引っかかりの方が重要な理由だったりするのかしらと感じます。

 

人による部分だとは思いますが、逃したものって自分で判断して逃した場合よりも多くの後悔が残ると感じています。

『自分の決断でなく可能性が無くなった』ことがより多くの後悔を生む理由かしら?と推察をいたしますが、後悔があるものって〈より記憶に残る傾向にある〉と感じます。

特に逃した魚が大きかったよろしく、自分が興味のある分野や興味を引かれた分野ならばなおさらですよね。

後悔が大きければ「来年はあるのかしら、来年こそは」と考えることでしょう。

この様な心理的要素を用いて "広告という語りかけ" は構成されているのかも、と考えると、奥が深く興味の底も深淵で見えないなぁと思ったりします。

 

 

ま、とはいえ考えすぎだとは思いますけどね。

きっと開催期間と後々の催事開催があるからでしょう。

しかしだとしたら、第一回〜三回目と、四回目・五回目の画像が違うのなら三回目の開催が終了した時点で四回目・五回目の画像だけ表示にしないのか?という疑問は残ります。

ま、わたしのような一介の消費者が伺い知るところではありません‪( ¨̮ )‬

 

 

書を捨てよ、町へ出よ

広告を見ているとですね、広告って大まかに觀て二種類の表現方法がある?と感じたりします。

 

一つは『この様な商品、サービスがありますよ』という語りかけ。

看板は基本的にこの方法を用いていて、世の中のほとんどの広告もこの方式です。

そんでもう一つは『この方法を用いれば得ですよ。今のままでは損をしてしまいますよ』という様な語りかけです。

こちらの様式は半ば詐欺広告的な趣を感じるためにあまり見かけませんが、確かにありますし別に詐欺広告ではなくとも見かけます。

そしてこの方式は人間の飢餓感を煽る内容でもあるので、広告効果は大きいと感じます。

 

広告の目指すところは《いかに消費者を動かすか》だと考えていますが、上記の様式では後者の方が "動かす力" は強いと思っています。まあ直接的ですもんでね。

だからなんだ、という話しでもあるのですが、『魂が自分の中には無い、と仮定した場合』の話では「あなたはどうしますか?」というような〈不特定多数の個人〉に向けた内容が重要となる、と、全く狂った夢想をしております。

『魂が自分の中にないと仮定した場合』の記事は年内には出したいなあなどと考えています。

 

『書を捨てよ、町へ出よ』とは劇作家さんである寺山修司さんの言葉ですが、現代では【書】の部分が〈インターネット〉であったり〈すまとほん〉だろうなと感じます。

そして実際に足を動かし世界と空氣とを攪拌し、広告などを目にして様々な発見などをしていると、そりゃあ色々と動かないと真実めいたものや真理らしいものには出逢うことなんてありゃあしないよな、と思いました。

 

 

 

ところで本日街を歩いておりましたら『本当の〜〜を知らないのは罪です』という様な売り文句の看板を見かけました。

「また強い言葉をお使いになって」と思うばかりでそのほかの感情はありゃしませんでしたが、昨今の広告は罪悪感などを刺激する刺激的な切り口のものが多ございますね。

感情をくすぐって感情移入させたら動くというのは人間の性なので効果的なのでしょう‪( ¨̮ )‬

からくりが分かってしまえば狼狽えることもありやしません‪( ¨̮ )‬

微笑ましいものです、などと知った様な偉ぶった感慨すら感じたりします‪( ¨̮ )‬

 

 

ところで²

SNSが広まった昨今、なんというか色んな方向に過剰な人が持て囃されている様な氣がいたしますなぁ、と、ほんの昨日か一昨日か昨日に思い至りましたす。

それは〈昭和や平成の時代にテレビが役割を担っていた部分〉が、単純にインターネットのSNSに変わったということだけなのだろうと思います。

 

スポンサー企業(取引先)の意向を聞くしかない立場であるから無難なものしか作れない、みたいな感じです。

いえ、実態は知りませんけれど?わたし平成生まれですし?

 

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬