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勉強の功罪 =大前提: 勉強は重要だということを考慮して=
今回は『魂』という哲學的なお題目についての記事です。
過去、わたしは生や死などの哲學的な要素を議題に記事を書いてきました。
その通り、わたしは哲學的なお話が好きです。
というよりも《そんなこと考えてもしょうがないじゃん話》を考えてあれこれ煩悶するのが好きなのだと思います。
なので(なので?)哲學的な話題は好きでありながらも、世にある哲學書はほとんど読んだことがありません。
唯一哲学書の分類では池田晶子さんの書籍を読んだことがあるくらいでしょうか。
そのためきっとわたしが苦心して(大して苦心もしていないかもしれない)思い至った考えも、きっと偉大なる先人が既に思い至ってることでしょう。
なので『生死とは所詮循環の一期間である』や『人生は影響と継承』という考え方についても偉大なる先人の隠者が思い至っているなんて往々にしてざらにあるでしょう。
ですが、それで良い。
何億という時が流れている世界で『自分が初めて』なんて望まないが吉だと思いますからね。
それを望んじゃうと、きっと躍起になっちゃって苦しい苦しいですから( ¨̮ )わたし自身はそうでした( ´¨̮ )b
そんな感じで哲學書などを読んでいないことによって起こりえることがあります。
『その主張、誰それがしてたよ』です。
先人の隠者と同じ仮説に至ったのは大変光榮。但し、いただけないことがある。
上記いたしましたとおり、わたしの考え至ったことが諸先輩隠者の考え至ったことと一致していることは大変に光榮たることです。
然し、そうして思考の結論が同じだった際、恐らくとてもよくお勉強なさっている方から「それ、誰それの考えと一緒だね(ニヤニヤ」との殊勝たるご指摘をいただくことがあります(哲學などに限らず)。
そんな時には「はあ。そすか」と思うのですが、同時に『でさ、そういうあなたは同じことを考え至ったの?』との疑問が浮かびます。
"きっと" ではありますが、考えもしなかったのではないかと思います。
勉強の功罪とはここにあると思います。
勉強の功罪
改めて言っておきますが、勉強はとても大事ですしとても重要です。
勉強は知ろうとすれば知ることができる。
大変に良い側面ですね( ¨̮ )
ですが、同時に『理解したつもりになる』という罪の部分、悪い側面もあるとわたしは考えています。
物が落ちました。
その様を見ていた少年は不思議を感じます。
「ものが落ちる時って、そういえばいつも下方向にだな。つまり地面の方向だ。なぜだ?地面が引っぱっているようにしか思えないぞ」
少年が感じた不思議、現代では万有引力と定義付けられています。
万有引力とはかのニュートン氏が発見したと言われていますが、果たして少年はニュートン氏に劣るでしょうか。
知識というものは必ず生まれた後に付加されます。
つまり生まれた瞬間は何も知らないということですが、もし、万有引力という知識を知らない状態で万有引力の法則を見つけたとしたらば、その法則を自らの觀察で見つけだした人はニュートン氏よりも劣るのでしょうか。
わたしは、その瞬間少年に起こった閃きはニュートン氏に匹敵すると考えます。
同じ疑問を閃いたわけであり、違うのは時代だけなのですからね。
もちろん感じた疑問を証明や究明するかどうかについてはその人次第ではありますけどね。
それに対して(?)、勉強には〈不思議を感じる〉という閃きはあるでしょうか。
わたしとしては "ほとんどない" のだろうと感じます。
当然、最初は知識として知ったことからでも不思議を閃く人はいらっしゃるでしょう。ですが圧倒的少数だろうとも思います。
勉強の罪とは『理解してるのではなく "知ってる" だけを増やすこと』であり、最大の罪とは『その人自身で考え、閃くという機会を永久に消し去る』ということじゃないか、と今現在のわたしは考えております。
『自分で考え、至った結論なら結果的に模倣になっていようが構やしない』とわたしは思っていますが、もしかしたら勉強というのは逆説的に考えない阿保を量産する行為なのかも。知らねーけど。
ただ、『知っているだけで理解しているような顔付きをしたボンクラ』は鼻持ちならないということです。
受け売りなら受け売りと腹を明かせ。卑怯者。
「勉強は大事」の〈大事〉たる部分
ちなみに『勉強は必要と言うが、どうして、どのように必要なのだ』という疑問があるじゃないですか。
この議題に対して、以前いんたねっとにて「勉強をしていると目の前にある水を色々な解釈で紐解くことができる」みたいな見解を目にし、「それはその通り」と概ね同意です。
わたしの考え的に違うのは『正しく勉強をしていると、一つの事象に対して色々な解釈や見解を持つことができるが、「自分が動いて解釈するか」「動かずに矯めつ眇めつ眺めるか」という手段を知ったり、その場その場で使い分けることができるという自由度の高さを知ることができる』というところですかね。回りくどくて伝わりにくい説明だなあ。
清涼飲料水がイロさんとハニさんの間に置いてあり、イロさんには商品名しか見えていない。
ハニさんには成分表示しか見えていないとしたら、たとえ同じものを見ていても話は噛み合いませんが、互いが清涼飲料水の商品パッケージ全容を知っていたら「ははぁん、相手は〇〇を見ているのだな?」と推測を立てることができます。
この推察ができず推測が立てられないと、たとえ同じ対象物について話していたとしても「こっちはこう見えているのだからこちらが正しい!そちらの意見は間違っている!」という話の食い違いが起きてしまうのです。
どうにもそういった齟齬が往々にして起こりうる現代社会な感慨がいたしますね( ¨̮ )
あとは勉強をする(正しくは知識を付ける?)と『一見では違うもの同士』でも関連を見つけて繋げ合わせることができます。
具象と抽象ってやつですね。
「國家」と「電車」と「料理」と「地球」
これらは一見すると全く関連が無いように思えますが、抽象化の目線でそれぞれを觀てみると『異質なもの同士が集まってひとつの事象を構成している』という関連性が浮かび上がってきます。
まぁ強引ではありますが、このように勉強をすることで洞察と觀察の自由度・柔軟性が高くなります。
( ¨̮ )
というわけで今回の本題である魂のお話でーす。
天邪鬼、魂について考える
以前、日本と西洋とで「心がある」と考えられている場所が違うという言説を見ました。
これをお読みの方も "ご自身の心" がどこにあるか、ちょっと触れるか指し示していただきたいのですが、日本人は【心】が胸中にあると捉え、西洋人は頭にあると捉えているらしいです(個人差など細かい差異はあると思います)。
こちらの情報を知った時は『なかなか興味深いこともあるもんだなあ、みつを』と思ったものですが、今改めてこの違いを考えると、奇妙な疑問が浮かんできます。
魂はどこにあるか?
2025年現在のわたしが覺えた奇妙な疑問。
それは「なんで双方とも心が自分の中にあると思ってるの?」です。
理由?としては『自分が "思って、考えている" のだから、心は自分の中にあると考えて当然だろう』と推察することができますが、そもそもの信じて疑わない前提があることを認識した以上、天邪鬼の性格を持つわたしは "心、実は自分の中にないとしたらば?" と考えます。
つまり〈心、自分の外にあるのでは?〉という仮説を考えたわけです。
ここで白状するのですが、上記した『日本人と西洋人とで心の場所が違う』との興味深い考え方。
確か【心】だったけども【魂】だったかしら?とうろ覺えのところがあります。
というわけで【心】と【魂】、ついでに【精神】を辞書で調べて見ました。



ほとんど書いている内容が同じでございます。
恐らく明確な違いはあるのだと思いますが「言語出力した時に実態が抜け出てしまう」という言語のあるあるが発生しているのだろうと思います。
閑話休題。
天邪鬼な性格のあるわたくしが考えた〈心、自分の外にあるのでは?〉という仮説。
では【私】という意識が存在するとしたら、その【私】という意識を保有している《自分》とかいうものはどこにあるのか。
しらねえわ。
その一言に尽きるのですが、その昔『我思う、故に我あり』と発言した哲學者がおりました。
「今、自分がこのように感じ、考えたから【私】というものはあるのだ」との考え方ですが、『その "感じた" 【私】は《出来事に対してただ反応するもの》でしかないと仮定』したらどうでしょうか。
「風が吹く」これが原因であり「桶屋が儲かる」これが結果です。
「風が吹く」これが原因であり「砂埃が巻き上がる」これが "風が吹いた" 結果です。
我々人間はこの砂埃なのではないか?というのが今回の仮説です。
…試してる?
『この世界には自分以外存在していない』という考え方があります。
はあ?って思われるでしょう。
そりゃあそうです。
街を歩けば人とすれ違いますし買い物をすれば金銭の受け渡しがあります。
そのような触れ合いがある以上は『世界には自分以外の生物も存在している』と考えるのは順当です。
さてはて、その前提を疑ってみました。
code:仮説
わたしたちが〈自分〉と認識している個人は【觀察対象】です。
その【觀察対象】に色々な事象を "ぶつけて" みる。
すると様々な反応があるでしょう。
風が吹いた時に巻き上がる砂、それが《反応》です。
別な表現をするならシャーレで実現される菌類やアメーバ。
この反応実験こそがこの世界なのではないのか?と考えたのです。
お手洗いで『いつも綺麗にご利用いただきありがとうございます』と書かれた掲示がされていたりするじゃないですか。
聞いたところによると『綺麗なご利用を心掛けください』よりも『いつも綺麗にご利用いただきありがとうございます』の方が効果があるそうなのですが(つまり利用者の汚れ具合が少ない)、これは掲示に対しての《反応》ではないでしょうか?
他にも『道に落ちている塵芥の類を見た時にそれを拾うか否か』や『困っている人を助けるかどうか』もあります。
「困っている存在を見た際にこの觀察対象はどのような行動・反応を示すのだろう?」と、觀察者が見ているわけですね。
あら?これってなんというかオープンワールドのゲームみたいですか?
本筋のお話を進めることもできるし、ゲーム内人物の依頼を受けることもできる。
塵芥に見向きもせず《その人自身が成すべきと思っていること》を邁進することもできるが、塵芥を所定の場所に収めたり困っている人に構ったりすることもできる。
わたし自身の経験ですが〈それまでにしなかった反応〉を一度でもすると、似た事象がわりと立て続けに起きるのはなんなのでしょうかね。
実験なのでしょうかね。
ということはこの世界には『わたし』と『あなた』などなどがいると思っていますが、"『わたし』という対象に対して『あなた』という対象が対峙するとどうなるのか" の反応実験なのかもしれません。
つまり: 心や魂と思っている我々は一つの反応対象に過ぎず、その反応対象へ様々な事象をぶつけている存在にこそ心や魂があるのではないか。
という仮説です( ¨̮ )
その仮説を元にすると、魂や心を持っているのはこの世界や宇宙全体、そしてこの世界と宇宙を創造した存在ということです( ¨̮ )
つまりのつまり: やはり我々が生活していると認識しているこの世界とはシミュレーションなのではないか。
というわけで、まさかここでシミュレーション仮説が登場するとは思いませんでした٩( ᐛ )و
梅花心易
最近わたしはフィリップ・K・ディックさんの『高い城の男』という作品を読みました。
その作品内では易が多用されます。
〈易〉とは、筮竹という道具を用いた出目で吉凶を觀る占いの一つなのだそうですが、易學を極めた方は筮竹すら用いず、その場の風景や状態などから占いを行うそうです。
そういった占い方の名前が【梅花心易】というのだそうですが、わたしがよくよく行っている觀察も梅花心易的な部分があるのかしら、と考えたりします。
別に吉凶を觀るつもりなんてないですし、そもそもぼんやり目についたものに対して「どうして今これが目についたのだ?」と疑問を持って "觀ようとしている" だけですので、占いの要素はないですね。
ですがどうにも、目に入ってくる事象には "何かしらの意図" が介在しているように思える。
先日もG-SHOCKの広告を見たのですが(通説から外れたことやってきた、みたいな内容)、やっぱりどうにも『今目にしているこの事象で、貴様はどう感じる?』と語りかけられているように感じる。
貴様らはどう生きるか?
反応をするか否か。
なんと言いますか、この世界、ことに人間世界というものはやたらと《反応》を求められるというか、"いかに反応させるか" に溢れている様に感じます。
我々の生活に一切として関係してこないスキャンダルやゴシップ。
渇いた者達によるマウント合戰やSNSを用いた分断演出。
赤ちゃんを見た時ににっこりしたり、眠たくなったら寝る、といった〈生物としての自然の反応〉は抜きにして、どうにも過剰反応を "させる" ような運用や流れになっているような感じがいたします。
仏陀さんは悟りに至る前にマーラという惡魔と対峙をいたしました。
マーラの話は実際に起きたことではなく仏教徒の方々が創作したお話・演出だという可能性もありますし、きっとそのマーラを生み出しているのは自分自身なのですが、マーラは様々な誘惑を仏陀さんにふっかけてきます。
このマーラさんは仏陀さんに対して《反応》をさせようとしましたよね。
マーラさんに反応をしなかったからこそ仏陀さんは悟りを得たのだと思いますが、だとしたらば、現代の過剰反応を煽ってくる世界は解脱から程遠い状況なのでしょうか?
ところで、前回の記事で『広告には二種類ある』という話を書きました。
『こういった商品・サーヴィスがありますよ』と通知するものと『旦那、この方法だと他と違って旦那だけ得ができますぜ』と語りかけるものです。
広告とは消費者に《反応》をさせる引き金となるものではありますが、後者はより反応を引き出すものですね。
さてはて、魂とはどこにあるものなのでしょうか。
ま、人間世界で生きてるわたしにはわかりませんですや。
あ。
そういえば以前『無伴奏チェロ組曲』についての記事を書きましたが、あれも《反応》を引き出すためのものだったのかもしれません。
もちろん知りませんけど( ¨̮ )
あくまでもトチ狂ったイチ妄想として( ¨̮ )
ありがとうございました( ¨̮ )

