本日もご訪問ありがとうございます。
今回は以前よりたびたび申しております『感情は宝』についてのお話です。
いつも以上に変なことを書くので読む人を選ぶと思いますが、本題の『感情は宝』という部分についてはなかなか読む価値があると思います。
あと前段の『卒業試験』については別に読まなくても問題ありません。
お読みいただくと、より一層、今回の記事をお楽しみいただけます。
卒業試験?
2025年ももう暮れに差し掛かっています。
そんな2025年、個人的におやや?、と思うことが続いておりました。
それは何かというと、ひとつに『これ、ぼんやり願ったことじゃない?なんか叶ってない?』がです。
以前記事にしましたが、ケーキとぶどうのお話がそうですね。
そして上記の出来事で書き忘れていたことがあります。
「生クリームのショートケーキとぶどうが食べたいな〜」と思っていたのは記事にした通りなのですが、実は別で「ピザも食べたいな〜」とぼんやり思っていました。
そしたらば、同時にぶどうが乗ったショートケーキとピザがもたらされたのです。
元から胡散臭くて信じがたい話なのにもっと胡散臭くなるのか、と自分でも辟易する部分もありますが、事実なので仕方がない。
信じるか否かはお任せいたします。
ちなみにわたしはピザハットさんが好きなのですが、近場にあったのが別のチェーン店さんだったので、ぼんやり思っていた『ピザ食べたいな〜(ピザハットさんの)』という望みは果たされていないことになりますが、流石に自分でも「贅沢だなぁ」と苦笑します。
そんなぼんやり願ったことが実現化している、ですが、今年何度か同様のことがありました。
『たこ焼きが食べたい。近々買おうな』や『久しぶりにマクドナルドの芋が食べてえよ」と思っていたら、別々の日に上司が差し入れで買ってきたり。
わたしは野菜ジュースを好んで飲んでいるのですが、カレーを作る時にその野菜ジュースを入れたかったがその日飲む分などを考慮して躊躇っていると、またまたその上司がたまたま買ってきた複数の200mlパックジュースの中にその野菜ジュースがあったり(もちろん喋ってなどいない。そもそも話すほどのことでもない)。
そんなことがありました。
そして、この引き寄せ?めいた?ものは十年ほど前もありました。
はっきりと覺えているのは『果物のジュースが飲みたいなー』と思っていたら先輩がりんごジュースを差し入れてくれたくらいですが(口にするものばっかりだな)、毛色としては全く同じものであると感じます。
他にも『自分よりも長く生きていてこの程度か』を感じる方との対峙もあります。
それはつまり "成人して何十年も経っている、わたしよりも一回り以上も年嵩なのに、まだ勝ち負けなどといった幼稚な価値觀に囚われ躍起になっているのか"・"どうしてそうも主導権を死守しようとするのか" という驚きと諦觀なわけですが、この2025年の前半にそういった幼稚な大人と対峙したのです(ちなみにそのような人種にはわりと高頻度で出会っています。正直勘弁してほしいけれど、わたし自身が學ぶべきものごとを學べていないから定期的に現れるのでしょう。多くを學びながら精進いたします)。
とか言って、果たしてわたしはどうなのか?と内省してもわかりません。
『自分よりも長く生きていてこの程度か』なんて主觀ですからね。他人様のお考えなんて伺い知ることなどありません。
何があってもわたしはわたし( ¨̮ )
他には、わたしはやはり発達障害と形容される要素を有しているのだろうということです。
恐らくADHDです。
所詮はSNSの情報ですので真偽不明ですが、ADHD特性を持つ人には下記の様な特徴があるそうです。
・ADHD特性を持つ人は音声記憶が苦手で文字として読んだ方が記憶できる
・ADHD特性を持つ人はコーヒーを好み、コーヒーを摂取すると落ち着く
・ADHD特性を持つ人の文章はやたらと()での註釈が多い。これは忙しなく脳内が稼働し思考しているからである
ざっと覺えている程度でこの三つですが、どうして憶えているかといえば身に覺えがあるから、ありまくるからです(特に三つ目には強かな痛手を負いました)。
そしてつい昨日『お金が貯まらない』というのも見ました。一番の痛手です。
しかし、"身に覺えがある" からといってそれらの情報の正確性を確かめようとは思っていません。
確かめたところでわたしの特性が変わるかどうかとかは別ですからね‾\_(ツ)_/‾
昔は『発達障害』という要素が避難場所だと思っていた時期もありましたが、その避難場所にも避難はできなかったし。
あと一般的に見て発達障害とされる特性があったからとて、何?とも思いますしね。
わたしはどう転んだってわたしですし、その特性があってこそのわたしなのですから( ¨̮ )
ちなみに、発達障害的な特性を持つかどうかの検査は七、八年ほど前に受けました。
が、結果は『その要素はあるけど、そうだとは言い切れない』というものでした。
白か黒か、0か100かに固執していた人間が蓋を開けたら白でも黒でもなかった。というのはなんとも笑えるお話です( ¨̮ )
とはいえ今ではどうでもいいです。
前述の通りですが、どうしたってわたしはわたしですから( ¨̮ )
反応実験
つい先日わたしは心やら魂の話と仮説を記事にしました。
その記事の中で『この世界は反応実験なのでは?』というトチ狂った仮説を展開したわけですが、この〈反応実験〉も卒業試験に含まれているのではないかしら?と思います。
わたしの二十代は基本的に鬱々とメンタルヘルスだったのですが、その理由のひとつに人間の醜さや汚さがあります。
どうしてそうも易々と塵芥を道端に棄てれるのだ。
それだと屑が塵芥を出していることになるじゃないか。
都会の街は大抵が汚らしいです。
どうにも綺麗に着飾っていらっしゃる方ほど性根心根はどす黒いものがあるようです。
煙草の吸い殻だとか包装紙などに準じたものが道に落ちていると人間の醜さに嘆き、その醜い存在と自分とが同じ生物種であることに絶望していた、そんな生活が二十代のわたしの脳内です。
今考えるとどうにも思い上がった、"自分が世界の罪を一身に背負った" みたいな傲慢さを覺えますが、あの頃はそうでした。
お笑いですね( ¨̮ )
あと「なんで時間なんてものがわたしを縛っているんだ。氣に食わない!」などという癇癪も起こしていました。
同じくお笑いです( ¨̮ )
そんな一般的な若者を過ごしていた二十代のわたしですが、ハーフ還暦を過ぎて少しが経過した今はどうかと申しますと、塵芥や道端に棄てられた煙草の吸い殻などを見ても、以前のように感じることは全くありません。
「まぁ、人間だもんね。そういったこともしちゃえる生命体だから」と思っています。
全く偉そうです( ¨̮ )
『醜い人間と同じ生物種ということにより嘆き落ち込む』につきましては、「生物種としては同じだろうが、精神の面では全く違う意識体だからどうでもいいし、そもそも自分がしなきゃいいだけ」と思うようになりました٩( ᐛ )و
道端へ吸い殻を棄てる様を目の前で見たりもしましたが、これも「人間だもんね〜」と思う程度です( ¨̮ )
しかし『なんか塵芥を道端に棄てそうだな』と思った矢先に目の前で棄てる事象が起きるのは、あれはなんなのだろうか?
反応実験の一つではあるのでしょうが、『思考の現実化』と認識することもできるし『未来(と一般的に言われている軸)の発信をわたしの意識が受け取っている』のだろうか?
あと『見ている人がいるのに道端に塵芥を棄てる人』は、あれはなんなのだ。
「こんなことできちゃうんだぜ?」と得意にでもなっているのだろうか。
悪ぶれちゃうことで得意満面になれているというのは幼さの象徴だと思うのですがどうなのだろう?
わたしは、格好良くない行為だと、思います( ¨̮ )
this is ものは考えよう
どうしてか、昔からわたしはわりと理不尽なやっかみや "嫌い" を向けられがちです(きっとADHD的な特性も起因しているのでしょう)。
この十年でその事象に対しても「結局ものは考えようだな」とも捉えられるようになりました(正確にはこの一年で急激にだけど)。
一方的にこちらが嫌われてるとするじゃないですか。
例えば向こうから相手が歩いてきた際、明らかにこちらを認識した上でふいと進行方向を変えたとします。
そういった場合、これまでのわたしであれば『とても氣分が惡いぞ』や『こちらが何かした?』とぷりぷり、お尻を振り振りしていました。
ですがついこの間、系統の似た事象が発生した時、別の考えが脳に彗星しました。
「えっ?これってわたし、人を動かしてるってことにならない??」
「わたし、或るままの自分で生きてるだけで他人様を動かせる人間、ってコト?!?」
正直なところ自分でも強引な解釈だとは思います。
しかしですがしかし、これほどまでに《ものは考えよう》の説明に合う例はございますでしょうか。
わたしは裸眼ですが思わず目から鱗が落ちました。
this is ものは考えよう( ¨̮ )
ちなみに一方的に嫌われている、その理由はもちろん存じ上げませんし全くどうでもいいです。
どうせ所詮は "その方にとっての信念(又の名を執着)" にわたしが反していたりするのでしょう( ¨̮ )
ですが、正直そちらについてはその人がご自身の機嫌を取れていないだけですし、申し訳ない、その人ご自身の責任です( ¨̮ )
なーんてことを言うから嫌われるんだよ( ¨̮ )
卒業試験???
他にも十年前と相違していることに睡眠もあります。
十年前はやたらと寝れませんでした。
過緊張が原因していたのでしょうが、過緊張なんて情報はおろか言葉すらも存じませんでした。
まあ「時間がないなら睡眠時間を削ればいいじゃない!」と若氣の至りで阿保な解釈をし曲作りに精を出していた、という理由もあるのですが、二十代のわたしは常に寝不足でございました。
寝不足だと精神が不安定になります。
それにより病んで自己嫌惡、という繰り返しがわたしの二十代であった次第ですが、2025年現在は過緊張を解く方法も入眠の方法も心得たので、とても精神的に安定しています。
もし寝られなくても「まあ、そんな時もあるか〜」くらいの氣持ちで受け止めています(ということで昔は寝られない自分に対して『駄目』というレッテルを貼っていたわけです)。
他にも便秘のことや食事のことなど、様々なことをこの十年で知ってまいりました。
これを〈成長〉と呼ぶのか〈老化〉と呼ぶのかは個人の捉え方次第ですが、上記した様々がこの一年でわたしにもたらされたのです。
それはさながら、「今の貴様ならどう対処する?」と言われているように(誰に?)。
十年前と同じ状況が発生、その問題であったりの対処方法。
やたらと立て続け巻き起こるその様子、それはさながら學校などでの試験のようでした。
まるで期末試験。
あるいは卒業試験です。
何からの卒業?
~ 本題 ~
という長ったらしい前段でした。
ここからは本題の『感情は寶』について書いて参ります。
よく言うメンタルヘルスな方々、今現在お氣を病んだり苦しまれた方に届けば良いなと思っています。
半年くらい前からでしょうか、食事をした時に『おいしい』という思うと同時に「有難い」とも思うようになりました。
以前の記事でも言及しておりましたね。
そののち、もはやおいしいと感じるよりも前に "有難い" を感じるようになりました。
『有難い』とそう思う理由には「食べるものがある」や「噛める歯がある」や「食器が持てる」などのごく一般的な理由もございますが、わたしが食事の時に『有難い』と感じたその真意は、"おいしい、と思えること" にあります。
感情は宝
わたしの二十代、はたちyears Oldの頃はメンタルヘルスの歴史です。
寝不足も便秘も関係していたと思いますが、常に氣が塞いでいましたし常に情緒不安定。
「なんでこんなところに来ちゃったかなぁ」と、針で続けば水風船が割れてしまいそうな曇天を背負って日々を鬱々と過ごしていました。
伝わるかは不明ですが『ホワイトノイズのような絶望』を感じていた、そんな感じです。
暗い話になるので憚れますが、夜な夜な、日々の鬱屈した遣り場のない感情を包丁でダンボールを刺し発散していたりもしました。
しかしそんなことでは発散できていませんでしたし、ダンボールさんごめん。MAJIごめん。
今ならば『よく犯罪事を起こさなかったなぁ』と思ったりもしますが、早い話がその度胸も覺悟もなかったのでしょうね。無くて万歳です( ¨̮ )
そもそも実刑を受けたとしてもその先やっていけるとも全く思えなかったし。
簡単にいえば寄る辺がない者だったのですが、寄る辺のない者が行き着く安直な場所の一つに宗教組織があると考えています。
果たしてわたしはというと、そこにも所属はできなかったです。
実際には所属しようとしなかった、が正しいですね( ¨̮ )
人間に醜さを強く感じている当時のわたしは「現世で生きてる人間様如きが敬うべき神なわけないだろ」と思っていましたし、宗教にはまったところで借金苦になるだろうことも想像に難くなかった、そして結局はその場所も居場所ではないのだろうと薄々感じていたことが理由です( ¨̮ )
そしてそんな寄る辺ない者の帰着は二つに一つ。
「死のう」と思い至ります。
とある崖まで足を運び身を投げようと決意しました。
が、今この記事を書いている始末ですので死ねはしませんでした( ¨̮ )
怖氣付いちゃったわけです( ¨̮ )
お笑い( ¨̮ )
思えば犯罪を起こす度胸も覺悟もない人間が自決なんてできるわけがありません。
これで晴れてわたしは "死ぬもできない、生きるも不安" という状態に相成りました。
『何処にも行けない者』になったのですね( ¨̮ )
全くお笑いです( ¨̮ )
《何処にも行けない》
そんなどん詰まり。
思い悩んでいたら、自然と精神は不調になり、考え方も悲觀的になります。
よくある『自分には価値がない』と思っていたわけですね。今から考えればそんなことはあり得ないのですけど( ¨̮ )
『自分は価値がない』と自責しながらも死ねない。
死ねないということは生きるしかない。
生きるには食が必要。
しかし「わたしには他生物の死を享受してまで生きる価値があるのだろうか」と考え、また曇天を背負う。
という繰り返しの日々を送っていました。
氣を病んだ方が全員というわけではないと思いますが、わたしはその当時自炊をする氣力もございませんしたので、コンビニエンスなストアに行っては上記の曇天を背負うの繰り返しでした。
「とは言っても腹は減るんだよなぁ」なんて冷静な感慨も感じながら。
「感情、邪魔だなぁ。無くなればどんなに樂だろうな」などとも思いながら。
人間という哺乳類は食事をせねば生きていけませんので、わたしが今日を生きているということは氣を塞いでいた頃も日々真面目に三食食べていました。
しかし、その当時を思い出してもどうにも食事は味氣のないものであり、とてもじゃないですが『おいしい』とは思わなかった。少なくとも十年前の食事で『おいしい』と思った記憶はありません(十年前だからかもしれないけど)。
そこで最初に戻ります。
この半年でわたしは『おいしいを感じると同時に "有難い" と感じるようになった』わけですが、そう感じるようになった理由は「おいしい」を感じられない時期を経由したからに他ならないと考えています。
長え〜。本題までが長えよ。もっと簡潔に書きな?
ですがこれらは書いたほうがより伝わりやすいと感じたので書きました。
所謂〈解像度が上がる〉というやつです( ¨̮ )
《おいしいと思えない頃があったからこそ、"おいしい" と感情が動くこと》が何もよりも有難く、そして『 "おいしい" と感じることを有難いと思うようになれた』のも、氣を病んだために "おいしい" を感じられなかったという過去があるから、だと考えています。
この視点があれば、感情というものがどれだけ必要なものであるかを痛感するでしょう。わたしは痛感しました。
そして同時に、"視野狭窄の為、一見では【無駄】と思えること" でも、決して無駄ではないのだとも感じました。
ついこの間存じたのですが『失感情症』という状態があるそうです。
多大なストレスに晒されるがあまり、自己防衛としてほとんど感情を感じないようにする状態らしいのですが、もしかしたら当時のわたしはそれと似た状態だったのかも知れませんね。
今となっては知る由もありませんけれど。
感情は宝 に
宝物って言ったりするじゃないですか。
年齢が幼い頃ってのはよく「きみの宝物はなんだい?」などと質問があったりもします。
わたしは年が幼い頃から "宝物" という表現に疑問を覺えていました。
『宝…物…?物なんて所詮お金を出せば買えてしまうのだから、そんなに大したものでもなくないか…?』というような。
面倒なことを考える子どもです( ¨̮ )
そしてこの度、感情は宝という発見をしたわたくし。
《感情は宝》の視点を以て觀れば【宝物】の觀念?が分かるような勘違いがあります。
きっと感情が動くから【宝物】なのでしょう( ¨̮ )
宝物ってのは年齢を食っちまった人間にはどうってことなく見える物です。
・子どもの頃に少ないお小遣いを貯めて購入した図鑑
・いつも仕事で忙しい親御さんと行った遊園地で撮影した写真
・自らが苦心して作り上げた光る泥団子
正直それらは外野や他人からすれば「ふーん」くらいなもの。
ですが、当人にとっては紛れもなく【宝物】です。
その理由は『その人にとっては掛け替えのない思い出』であり、"感情が動く思い出" であるからなのではないでしょうか。
そして、感情。それこそが宝なのではないでしょうか。ね。
男女男男女男女
そういえば十年前は『泣いてはならない』などのしょうもないものでわたし自身を縛っていたように記憶しています。
感情は発露するもの。
その感情発露を自ら封じていたということは〈排泄期間を塞がれた〉ということになるわけですが、発露すべき感情を堰き止めていたのですからそりゃあ氣を病んでも仕方ないよなあ。とは、今であるからこそ思います。
ところで、わたしが二十代の頃に不満を感じていたものがあります。
性別です。それは。
どうしてそう大きなもの、太刀打ちができないものに噛み付くかなぁ貴様は。とわたしの中の冷静なわたしは( ¨̮ )な表情をして苦笑しています。
〈性別〉
なんで性別なんてあんの?
しかも男と女、オスとメス、すげー原始的じゃね?だとかって大して何も考えていないくせに偉そうなことを当時のわたしは考えていましたが、《感情は宝》の価値觀を元に考えて觀れば、この世に性別がある理由は想像に難くないと感じます。
わたしは悲しいかな人間です。
ですのであくまで人間世界の話しかできませんが、この世に性別という原初の隔たりがある理由は『男性でしか / 女性でしか体験できない感情がある』からなのではないかしらね、と考えます。
股間を蹴られた痛みと恐怖は男性しか体験し得ないでしょうし、出産の痛みは女性しか経験しえないものです(昨今の化學によって〈機械的な再現〉はできるようになっているみたいですが、それはあくまでも再現ですしね)。
今でこそ「男たるもの / 女なら」という考え方は少なくなってきたとは思われますが、なんだかんだでまだ残っているのだろうと感じますし、その性差別は受けた人しか "悔しさ" という感情を得ることはできません。
そのように、この地球上で性別がある "理由のひとつ" は『どちらか一方でしか感じられない想いがある』からなのではないかしらね、と、現状のわたしは思います。
実際のところは知らね( ´¨̮ )神にでも伺ってください( ´¨̮ )
ボワっと!(ボワッと!) ガチスピおじさん登場
わたしはスピリチュアルな話が好きです。
「宗教組織には寄る辺が無かったじゃないのかよ、スピリチュアルも宗教も似たようなもんだろ。なーんだ。」と思われる方もおられるのかも知れませんが、別にそういう価値觀もあります( ¨̮ )
わたし自身は『スピリチュアルな世界とは神道や仏道と近しい【道】的なもの』だと捉えているので、他所様の考え方に口出しするつもりはありません( ¨̮ )
わたし自身結構不思議なことも経験しているのでスピリチュアルには傾倒しており、他所様から見れば完全に "あちら側の頭の人間" として映るのでしょう。
それはさておき。
わたしは確かにスピリチュアルな世界へ傾倒しているので、スピリチュアルな情報も知り得ます。
その情報の一つに『地球は感情を体験するためのテーマパーク』というものがあります。
正直これまでは「へえ、そうなんすかねえ」と思っていましたが、きっとその通りだと思います。
男女という隔たりもある、絶望することもある、絶望したからこその光明を有り難がることもあるし、できる。
それは我々が生活している世界に感情というものがあるからなのではないでしょうか。
キャラクターものの商品があります。
キャラクターが既存の商品とコラボレーションする場合もあります。
資本主義的な理由はもちろん介在するのでしょうが、『好きなキャラクターがコラボしているから』という理由でその商品を購入するファンの中では〈好き〉という感情が動いています。
宝物の話にも繋がりますが、感情が動くからこそ世界も動くのですね。
またわたしは失感情症的な状態にもなっていたので、感情があるということ・感情を感じることができるということがとてもとても有難いです。
「その主張はちょっと人間的価値觀や人間感情を下敷きにしすぎていると思う」
知らぬ間に科學教へご入信されている人の中で『神はいない』とお考えの方がいます。
今からの話は神の存在は居ようが居まいが関係ないのですが、《神は居ない》勢の主張に「神がいるのならば、なぜ世界には戰爭や詐欺、略奪、貧困などの悲しいことがあるのだ。なぜ無くならない。神が実在するならば、そのような辛苦を失くすはずじゃないのか」というものがあります。
まあこの考えも色々な方が口にしていて新鮮さも面白みも最早ありませんが、感情は宝の考え方が意識に入ってしまうと「戰爭や詐欺、略奪、貧困などが悲しい」ってのは、あまりにも人間的な価値觀すぎねえですか?と思えてしまいます。
品のない表現をすると『それってあなたの考えですよね』ということです。
もし『地球は感情を体験するためのテーマパーク理論』が正しいのであれば、せっかくわざわざ "悲しい感情" と "その後にあるよろこび" を感じるために地球にやってきたのに、一人のエゴで〈娯しみにしていたもの〉を無いものにされたらたまったもんじゃないでしょう。
例えるなら絶叫マシンが好きな人に対して「いや、怖いからやめよう。絶対やめた方がいい」と主張するようなもので、絶叫マシンが好きな人からすればMAJIありがた迷惑ではないでしょうか。知らんけど。
それこそ戰爭でご苦労をされたことで反戰活動をして、反戦活動を通じて世界が変容したり似た境遇の方から感謝されたりもする。
それによって「自分のやっていたことが報われた」という満足の感情を得るかもしれません。
そしてその感情を得るために地球にやってきたのかもしれません。
もちろん戰爭は良くないですが、そもそも戰爭が良くないというのも一個人の価値基準によるものです。
ということで『神はいない』という主張の理由として「世界から悲劇が無くならないから」という説明は、ちょっと根拠が不十分というか、人間的な価値觀・主觀を軸にしすぎているかなあと思いました。
ま、神という概念も完全な人間の創作なのかもしれませんけど。
いち人間のわたしみたいな者にはわかる範囲のことじゃねーです( ¨̮ )
わたしは最強。そしてあなたも。
感情は宝。
『食事をおいしいと思えなかった経験があったからこそ、おいしいと "思えること" がとてもとても有難い』
マイナス・悲觀的な惡感情も、その後にある様々なプラスの良い感情のためにあるものである。
これってすごく救いになると思うんですよね。
何故ならば報われる未来が確定しているようなものですからね。報われるまでに時間は要するかもしれないけど。
今回の記事を見たことで少しでも氣休めになれていたなら幸いです。
そんです。
先日ちょっともやみょあすることがございました。
みょあもやしながらも「でもこれも未来のための伏線だ」などと強がっていたのですが、その時に思ったのです。
惡感情も受け入れられるってことは、わたし、最強じゃん?
小躍りしちゃいました。
よく『惡感情は考えちゃダメです』なんて言いますが、惡感情も自分自身が感じたものなのですよ。正直盲点でしたけど。
惡感情も良感情のための隠し味。そして惡感情も良感情も自分自身の感情です。
全ての自分を受け入れられていることなのではないかしら!と思うと同時に、八百萬じゃん!!!!!とも思います。
惡感情に見えるものも御靈信仰として奉るのです。
わたし!!最強じゃん!!!!
わたくし勝ち負けとかの価値觀って子どもっぽくて好きじゃないのですが、この度氣付いた考え方があれば、負けることはないでしょう。
負けることはない、ということは、もしかしたら「勝てない」かも知れません。
しかしわたしは "負けない" ことこそ、最も強固なのではないかなと感じます。
万物流転。いや〜人ってもんは変わるもんですね〜、ただし
夜な夜な毎日泣き腫らし、死のうと思い立ったが死ねなかったあの日から今までに短くはない月日が流れましたが、なんやかんやあったりなんやかんやしたことで今はかなり精神的にも落ち着いて幸せに生きています。
今の自分からすればあの頃の自分が愛おしいです。
人は変わるもんですね。
わたしはアトピーなのですが、便秘が重なると肌にも影響が出ます。
去年までは色々とお通じの対策をするも効果がなかったらすぐに嘆くという体たらくぶりを発揮していましたが、《感情は宝》の価値觀がある今は「すっきり出た時の快感のための伏線なのね〜」くらいで軽く捉えています。
これから冬の時期、わたしはアトピーが悪化しやすいのですが、傷跡の痛みすら精神的な快になっています。水で沁みたりもしますのでもちろん「嫌だね〜」と思いますが、その『嫌だね〜』の感情すらも面白がる感じです。
人は変わるもんです。
この十年で〈万物流転〉の考え方も取り入れました。
簡単に言うなら「この世で確実なものなんて無くて全てが流動的に変わるんだから、そんな狼狽えず氣樂に構えましょうや」というような感じです。
今でも思考優位な人間ではありますが、あんなにガチガチの理屈偏屈悲觀人間だったわたしがこうも変わるものかねーと自分でも驚いている部分です。
人は変わるもんです。が、それは踠いて足掻いて苦心する人だけかも知れませんね。
わたしはきっと運が良かっただけです。
運も流動的なものですので、今よりも悪い状況になるかもしれませんが、それもまあ難攻不落の氣分次第ってことで《感情を感じられること》に有り難みを感じて生きていきたいですね。
とはいえ一番変わったことといえば
人は変わります。
わたしも変わったはずですし、多分昔世話になっていた音樂の先輩と邂逅したら「変わったな」と言われるでしょうし「変わってねーな」とも言われるでしょう。
そんなわたし自身が一番変わったと思うことといえば、他人様に同意を求めなくなったことです。
どうにもわたしは世間一般から逸脱した、所謂変人みたいです。
「わたしの二十代はメンタルヘルスの時代」と前述しましたが、ヘンタルヘルスになった理由の一つに『自分の意見に同意・共感がされない』というものがあります。
『共感はされないが自分の考えは間違っていないはずだ』という一般的な若者の多くが持っている思い上がりをわたし自身も有していたので、世間との差異に打ちのめされ氣が狂っていたわけです。
そしてカウンセリングにも行きましたが、あそこは "患者相手の話を聞く場所" ですので、わたしが求めていた同意や共感は得られませんでした。
どうやらわたしはそんじょそこらの変人ではないみたいです(わたし本人は今でもいたって正常だと思っている)。
他人からの同意や共感を諦めたわたし(上辺の共感は結局透けてしまうし)。
そんなわたしはどうしたかといえば、徹底的に自分自身と対話をしました。
そして自分自身に対して同意と共感をするようにしたのです。
すると!みるみるメンタルが回復!するでもなくまあまあ結構苦しい日々を送りました。
ですが〈他者に共感を求める〉という無意識の他者依存、無意識に他人軸で生きていた頃に比べ、圧倒的に生きやすいし精神的に樂。圧倒的に樂です。
書いていると、いよいよ危ないやつだなと思えてきた。本当に犯罪を起こしていないのが不思議であります。
この記事でもそうですが、よく『〇〇だとわたしは感じます』というような表現をわたしはします。
これは『わたし個人はこう思います。しかし、これはわたし個人の意見ですので、あなた様の意見を否定しているのではありません』という意味合いが篭っています(うるせえやつだな、ほんと)。
ですが自分を肯定する人間も受容する人間も、結局最終的には自分しかいません。
自己否定的な声が聞こえたとしても、それは自分が自分に対して言い流しています。
誘惑です。反応実験です。マーラです。
つまり、敵は血に潜んでいるということになりますが、これまで書いてきた《感情は宝》の考え方、自分自身の八百萬価値觀を以ってしたらば、自分自身こそが最大の味方になるのですね。
自分の感情は自分だけのものです。
似た境遇であっても決して全く同じではないので、わたしは自分の感情は自分しか感じられないものだと思っています。
ですので、わたしはわたし自身の感情を感じきってやります。
自分の感情は自分だけしか感じることのできない一点物。
それはさながらきらきらと煌めき輝く宝石のようで、宝物です。
そんな大切で大事な大事な宝物を他人様なんかに感じさせてやるかよ。
おい、だからって勘違いするなよ。
よく樂曲とかで「世界は美しい」だとかって歌われてるじゃないですか。
わたしが氣を病んでいた時って「確かにそうなのかも知れないけどさ、そう思えないから困ってんのよ。どういう風に世界が美しいのか教えてくれよ」と思っていました。
世界の美しさをどう感じるかなんて十人十色、千差万別、その人自身で見つける必要があって、それこそが大事なのでしょうが、今回はその一例としてわたしが世界の美しさを見出した方法を書きました。
《感情は宝》の価値觀が一つ。
他にも『自分の非、自分も悪かったことを認める』が一つ、『自分自身の感情や考えを逃げずに背負うこと』が一つ。
まあ、あくまでも一例なので試行錯誤しながら煩悶しながらゆるゆる生きてくださいな。
そういえば、それこそ十年前は子どもたちを見ても「あぁ、こんな苦しいところに来てしまって。苦しい感情ばかりなのに」と悲しくなっていましたが、最近では泣いている赤ちゃんや、きゃっきゃとはしゃいでいらっしゃる學生さんを見ても「あら〜!感情発露してる。豊かね〜、あるべき姿ね〜」と思うようになりました。誰目線?
ところで。
わたしはわたし自身を救いました。
もちろん色々な方の考え方を参考にしたりさせていただきましたが、取り入れるかどうかを決めて実践したのは、わたし自身です。他人様ではありません。
ですので、わたしはわたし自身を救ったのです。
勘違いしないでいただきたいのですが、わたしはこれをお読みのあなた様を救いたいだなんて差し出がましいことは一切思っていませんし、どうでもいいです。
てめえはてめえ自身でてめえを救え。
さいごに
2015年の11月初旬か中旬にわたしは自死をしようと思いました。
が、怖氣づきました。
それ以来せっせこと生き、様々落ち込んだりしましたが、2022年頃から氣分が樂に?上がり調子に?なってきました。
2022年から今までの三年間。
怖氣づいた場所にまた行きたいな〜と思っていましたが機会がなく、ご挨拶を逃しておりましたが、先日行ってきました。
十年ぶりという人間世界的にきりが良いタイミング。
2015年は小雨の降る曇天でしたが、今回は晴天でした!
万物流転!
あの時やあの時に死んでいたら《感情は宝》ということなんて氣付けませんでしたし、自ら自分自身の人生に対して『失敗』の烙印を押すところでした。
おそロシア( ¨̮ )
そういえば再び自死をしようと思わなかった理由に「自死を選んだとて同じ人生を最初からやり直すことになるのだろう」と感じていたからです。
おソビエト連邦( ¨̮ )
ちなみにこのブログを始めた理由はツイッターの文字数では自分に合わなかったことと、自分の考えの整理。
そして自己対話や自己受容の意味合いも兼ねてのものでした。
それが2019年の頃だったのですが、後から知ったところによるとメンタルヘルスや鬱の治療方法には日記など文章を書くのが効果的なのだそうです。
もちろん知らなかったのですが、なんだか知らないうちにあるべき行動をしているのかなぁと思ったります。
が、きっとわたしは運が良かっただけです( ¨̮ )
ありがとうございました( ¨̮ )
お好きに生きてください( ¨̮ )
