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2026年最初の通常記事です。
かもねぎ
わたしは言葉というものに対して割と強い興味を持っています。
同時に都市伝説的なお話も好きです。
もう半年ほども前にこちらの動画様を拝見いたしました。
そう。ということは、つまり寝かした記事です。
パンか或いはうどんか?
内容は『鴨葱という言葉があるが、あれは賀茂氏が神社の禰宜さん派遣してきたことから端を発している。【かもがわ】という名前の川もあるのも、そういった理由からだ』というものです。
この視点を聞いた時、わたしは「は〜!おもしろ!」と思いましたとさ( ¨̮ )
何故ならば考えもしなかった觀点だったからです。
ただここで勘違いをしていただきたくない部分があります。
何も「鴨葱は賀茂氏と禰宜だ!」と本氣で信じているわけではありません。
わたしが言いたいのは、あくまでも《視点が面白い》という部分です。
『ホウ、面白い觀点だ』と、考えもしなかった視点の到来に対しての悦びを憶えているだけにすぎないのです。
意図を持ってミスリードを生み出すこともできます
『ねぎ』は〈禰宜〉だった、という視点を得た我。
こういった『同じ音でも字を変えて通知すること』というのは往往にしてあることなのでしょうね、と思います。
また似たような構図・手法のものも思っている以上にあるのでしょう。
そして『同じ音でも字を変えて通知すること』や、それと同じ構図・手法を用いることで捉え方を意図的に誘導することもできるのでしょう。
「公式が発表しているから」という判断基準がそれです。
ファンの推察が真実を射抜いているが、それを認めることはできないということもあったりするのでしょう。知らねーけど。
ただ、この姿勢もほどほどにしておかないといけないとも思います。
なぜならば『意図してミスリードを誘発している?』という視点は疑心が起こったり猜疑的になる、ひいては冷笑的な視点、また虚無の姿勢で生活を過ごしてしまう可能性が高いからですね。
あくまでも一つの手法や視点として〈ある〉くらいに捉えていたら良いと思います。
「この番組の演出、やらせかもしれないね。面白いからいいけど」という感じで、味付けの香辛料や隠し味的な姿勢で居れたら健全かもしれませんね( ¨̮ )
肆と四とよんとし
さてはて『ねぎ』は〈禰宜〉だった、の視点ですが、今回上記の動画を見て思ったことがあります。
「ねぎ」ってものは【音】ですが、『禰宜』となると【言葉】です。
つまり意味が固定される。
「ねぎ」の音が用いられる【言葉】は、せいぜいがお野菜の『葱』や神職の『禰宜』、初めて知りましたが地名の『根来』くらいです(発音する際に抑揚の差異は発生するけど)。
しかし他の言葉ならどうでしょう。
「い」という音であれば『胃』『意』『医』その他様々な字が当てられます。
日本語にはそのほか色々と別々の文字同士を同じ音で出すことがあります。
日本人は「し」という音を嫌います。
それは『死』を連想するからなのであろうと思いますが、果たして『四』はどうでしょうか。
『四』という漢字は「し」とも読みますし、「よん」とも呼びます。
この時に思ったのですが、同じ『四』という字であっても「よん」「し」と、音が違っていれば、その本質は違ったものになるのではないでしょうか。
同時に同じ意味でも字が違ったら本質は違うものになるのではないでしょうか。
『四』と『肆』、『4』と『Ⅳ』は同じ "よっつ" を意味する文字ですが、それぞれの出自が違うので、意味は同じでも本質が違うかもしれない。
あるいは「人間、意味を大事にしすぎるがあまり意味が大体一緒なら他のことは度外視する。それが本質たる部分であっても」ということなのか?
「いやどう考えたって『よっつ』ということが本質でしょ笑」というご意見も聞こえてきそうですが、それはまあそれでもいいです。
『肆』は『四』の文字改竄が発生しないようにということで、"よん" の意味をなすようになった、とのことですが、待ってください『四』の字のどこに改竄できる余地があるんだ。
『一』ならわかります。『二』にも『四』にも『六』や『七』にもできちゃいます。
なので『壱』という文字があてがわれた。
わかります。
でもやっぱり『四』は改竄の余地、改竄代がなくないですか?
何も別に改竄をしろと言っているわけではありませんけれどね。
これは推測ですが、元々の漢数字は『壱』や『弐』『参』であった。
しかしなんらかの理由(面倒になったとか?人間は便利の感情よりも不便の感情を刺激した方が動きますからね)で、「 "ひとつ" って意味がある『一』も『壱』として使うようにしようぜ」となったのかもしれません。
なんたってGHQさまさま方が日本語と漢字を無くそうとした歴史がありますから。
別に「戰後から漢数字の常用漢字が『一』『二』『三』などに置き換わった」と言いたいわけではありませんよ。
∞→0,1
『葱』と『禰宜』、『四』と『肆』とはそれぞれ同じ音を有しております。
そして "文字にすること" で意味が固定化する特性を持つ【言葉】というものですが、これって無限に広がっていく可能性があるものを "一つだけ" に閉じ込めることにもなると感じます。
「し」という音ですが、何も『四』『肆』『死』だけが持っている音ではありません。
『詩』のあれば『師』もあるし『市』もあります。
またスペイン語では「si」は『はい』という意味にもなるし、英語の「she」は『彼女』、『海』は「sea」です。
発音は違うでしょうが、《音》という意味ではほとんど同じでしょうし、日本人でも「し」の発音が違う地域や個体差もあるでしょう。
また我々のような平日本人のほとんどが知らない國や地域の言葉では「し」という音は『たのしい』という意味を持つかもしれません。
もちろんあくまでも可能性の話ですが、これは言い方を変えれば "無限に広がるアナログ性を持ったものを0と1的、デジタル的に一元化する" ということにもなると感じます。
「し」を『死』と書いたらば、生き死にのことにしか思考や話が広がりませんからね。
昨今の巷では「言語化がどうのこうの」と流行しているみたいですが、《音》という波が持つ揺らぎや曖昧さというのも捨てたものじゃないというか、あんまり侮っていると痛い目をみるんじゃないから、と思ったりします。
もしかして言語化うんぬんの波ってのは『無駄か無駄じゃないか』や『意味がある・ない』という、ある意味では現代病的な阿保な思考停止と思考錯誤が変遷した様なのかもしれません。
知りませんけど。
まあ人生なんて試行錯誤しながら生きていったらいいと思う。
そもそも今回の記事もあくまでもわたしの憶測や推察であるに変わらないのだし。
とはいえ適材適所というか、時と場合によっての使い分けが必要なのでしょうね。
好きに生きてください( ¨̮ )
ありがとうございました( ¨̮ )