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文句を口にするためにお金を払っているのか?
わたしには思っていることがあります。
なんだか、世の大衆たちって文句を口にするためにお金を支払っているみたいな人、多くない?
消費者の方が多いこの地球という世界、地球という世界では生産者と消費者が共存しており、一個人の単位でも生産者と消費者が共存しています。
それは別にどうでもいいのですが、なんとも、わたしには《消費者然としている人》が多すぎると感じます。
《消費者然としている人》とはなんだ。ということなのですが、端的に云えば "お客様感情" が強すぎる方々のことですね。
「こっちは客だぞ!」「お客様は神様じゃないのか!」とかの世迷い言の類を一心に信じ込めていらっしゃる方々です。
客は神様ではないですし、客も店員さんも人間です。
あとお金を支払っている時点で神様の類ではないです。
というのはこれまでも書いてきましたが、最近思ったのです。
「そういった方々ってお金払ったら何言っても良いとか考えてる?」
お金のやりとりというもののは価値の交換でございますので、五千円には五千円の、百円には百円の、壱萬円には壱萬円の価値が交換される必要がございます。
もちろんその価値は相対的なものでございますので、同じ内容を提示された場合でも満足と不満足があるでしょう。
ただ、わたしが言いたいのはそこではなく、《消費者然としている人》たちは "お金を支払うという行為" を経ると、客側が絶対的優位な立場に立てると思っている節があるように感じるんですよね。
金銭のやりとりがあっただけで、立場的優位性なんて何も変わらないと思うのですが、どうしてか?そちらをご認識でない方が多くいらっしゃるっぽいです。
ではそんな偉そうなことを言うわたしは、金銭の受け渡しに対してどのような感覺を持っているかというと、喩えるならば【覺悟】に近いです。
『お金を払ってるからといって、お金を払う決断をしたのは自分。それを選ぶ選択をしたのも自分』という感じです。
万一思っていたものと違う結果だったとしても、それは「自分には合わなかったというだけ」であったり「話のネタにすればいいや」と思うだけです。話す相手はいませんが。
ただもちろん求めた内容と違う内容が提供された場合は、さすがに意見はしますけどね。海老チャーハンを注文したのにパーコー麺が来たとしたら、それはさすがに違い過ぎますから。いや、それはそれで面白そうだから食べるかもしれないけど。
それは謂うなれば〈心の余裕〉などと形容されるのかもしれませんが、なんというか、そういった【覺悟】であったりといった『自分にも "選んだ" 以上は責任がある』みたいな感覺を持っていらっしゃらない人って、もしかして、案外といらっしゃるの?と感じることが度々あり、驚愕しています。
そういったところから《消費者然としている人》というのは「施されて当然」という、卑しい感覺を持っているの??もしかして??との考えを思い至りました。
そして《消費者然としている人》になるためには金銭の受け渡しが発生し、金銭の受け渡し、つまり〈お金を支払う〉という行為に対して『覺悟を背負う』という認識がないからこそ、文句を垂れ流し、"お客様感情" を逞しくさせ、《消費者然としている人》としての感情がより強固になる。
という無限の輪を繰り返すのでしょうか。
と、思ったりします。
わたしはプライドが高い。
わたしはプライドが高い。
認めたくないものですが認めざるをえないくらい高い。
貴族かと思うくらい氣位が高いように思う。
それは別に良い面と悪い面とがありますが、わたしの場合は悪い面が多く出ているように思います。
そういえば以前の労働で同僚の方に「お食事の召し上がり方が大変お上品でいらっしゃいますわね。貴族のお出かと思いましたですわよ」と評されたことがあります。
確かにそれまでも衆人環視で一挙手一投足を品定めされているという自意識の中で生きていたため(ある種の病的なまで。過剰的自意識)、その過去が由来しているのかもしれません。それ以来、貴族的な所作を意識するようにもなりましたが、瑣末でそれこそ庶民平民的な悪あがきだと思いますわね。ホホホ。
というわけでわたしはプライドが高い。
どうにかしないとなあと思いながらも、そのプライドの高さで心を守っても来たしなあと足踏みをしちゃったりもする。
そういえば昔世話になっていた、こうもりという先輩バンド(仮名)のギター・フユキさん(仮名)にも「プライド高いもんなあ」と評されていたことを憶えています。
そのプライド高さには、前述のような『《消費者然としている人》と、金銭受け渡しの【覺悟】』といった構図を思いついてしまう、構造を解明しようとしてしまう、一種の病的執着も起因していると考えています。
反感を恐れず言えば『ちょっとばかし頭がキレちゃって氣付いちゃう』『ちょっとばかし頭がよいっぽい』です。
ただそのプライドの高さと書いていることの小難しさ故、鼻についたり、相手にされていない感覺も感じるのが正直なところです。
一般的一般人の人間様が大多数の、この社会では、共感が何よりの武器であり盾であるらしいですからね。
共感できない = 仲間ではない = 共同体にヒビを入れる(組織刷新をする)危険性のある存在は、積極的に損切りをする。
《愛》の〈かたち〉
ある日思いました。
『愛というものは、自身物質的に無形・無物質なくせして知らないうちに意識存在的に確固たる〈かたち〉を形成している。"親愛" や "情愛" 、"愛欲" などといったゴーストのような觀念的な〈かたち〉に囚れていては、自分が作り上げた〈かたち〉に合わない対象を愛することなんてできないよなあ』
『ということは、いろいろな対象に《愛》を向けたければ「愛の形を固定しないようにしなけばいけない」し、自分の常識にない行動をする、ゴースト的觀念の中にいる者には理解ができないから敬遠するしかなくなる。曖昧模糊とした流動的《愛》は他を呑み込んでしまう危険性があるから』
『《愛》とは、本来曖昧で流動的なもので、"注ぐ" といえば液体で、液体といえば流動体で、流動的なものといえば《愛》で……。。 (以下繰り返し)』
あまりに安部公房さん的すぎる。
最近『砂の女』を読み返しているのですが、下記の文章には痺れました。
自分が持っているイメージが、相手の無知によって冒涜されたように感じた
頭を殴られたような衝撃がありました。
最高に痺れます。
上記した内容は、
"《愛》の〈かたち〉として一輪の花を贈り、花瓶に飾ったとしても、『花瓶』を満たしているわけではない"
という感じです。
もちろん『愛の形としてお花を贈る』という行為も素晴らしく素敵だと思うし、その方法が必要な時もあると思います。
ただ、《愛》の表現方法がそればかりだと、花瓶が満ちることは決してないということですね。
まさか自分が『愛』について哲學するとは思いもしませんましたが、考えついた時は何か腑に落ちました。
そして「また一つ賢くなってしまった」と思っていました。
しかし、こうやって賢くなるのも考えものだし(共有できる人がより狭まる)、『また一つ賢くなってしまった』などと自負できてしまう自意識も考えものです。
ただわたしは哲學をすることをあらかじめ定めづけられているように思える思念体。
この呪縛から逃れることはできないのでしょう、わたしがギターを弾き、曲を作り続けるのと同じように呪われているのでしょう。
良い人生です( ¨̮ )
noblesse oblige
ところで。
前述の『《消費者然としている人》と、金銭受け渡しの【覺悟】構図』や、今回書いた『《愛》の〈かたち〉』のお話。
以前書いた『紙一重』のお話や、『循環』のお話。
これらはきっと世にいる人々の三割も腑に落とすことはできないのでしょう。
人にはそれぞれ知れる時期であったりがあるみたいですので別にもうどうだって良いのですが、自分で考えついちゃった身としてはできることがあります。
それは『配慮』であり、大変に偉そうだなあと自分でも思うわけですが、あなた様は『noblesse oblige』という考え方をご存知でしょうか。
ノブレス・オブリージュ。
《貴族には貴族の責任がある》という意味を持つ言葉で、すごーーーーーーーーーく簡単に説明するなら『高所得者は高額納税しましょうね』みたいな感じだと思っていただけたら良いかなと思います。
正確にはもっと複雑ですけどね。
おそらくですが我々が仕事を色々と選んで生活できるのも『noblesse oblige』があってくださるからです。
皇族の方々は生まれた時から『皇族の暮らし方』が運命づけられるでしょ。
わたしは貴族の出などでは全くございませんが、一丁前に精神性だけは貴族のようです。
そんな一丁前に精神性だけは高貴なわたくし。
実際にかなり哲學的なことを考え、"その時点" ではあるけれど一つの答えにも辿りつきました。
これらの考え方って、ある意味では『noblesse oblige』的な役回りがあるんじゃないでしょうか。
と、思います。
つまり「自分には哲學的な知性がある。なのでそれを持たない人を相手にしても仕方がない。ですが表現する責任はある」という感じです。
大変偉そうですね( ´・◡・`)
ですが、豚の耳に念仏、馬に真珠、蛙の子は背比べ、どんぐりの子は蛙なのです( ´・◡・`)
というわけで、わたしが哲學的な対話を求めたところで豚さんに真珠をあげるだけなのだな、と諦めましたとさ。
という偉そうな妄言でしたとさ。
( ´・◡・`)
「許してあげてよ〜」
というような偉そうなことを書いていても、わたしも所詮は思念体。
地球という感情わんだらんどで肉体を持って闊歩する思念体です。
瓶ビール用のコップにマリアナ海溝ほどの水を注ごうとしたところで容量不足によりコップは意味をなしません。
それどころかコップ側に「配慮しろよ!」とお叱りを受ける理不尽なえぶりでぃ。
曖昧模糊で実態が摑めないものを人間様は恐怖するようですので、わたしは結構日常的に理不尽えぶりでぃなえぶりでぃです。
しかしわたしも瑣末な人間物質。
理不尽を受ければ不満は感じるし、マリアナ海溝ですので受領できる量も多いと来ている。
例の通り寝る前にM.O.8²・いら² としながらまどろんでいましたら、右側から「許してあげてよ〜」という声が聞こえたのでした。
その声は謂うなれば『年長者なんだから、大人になってあげて?』みたいな感じの言い方だったのですが、「そうか、許してあげないとなのか」という想いと「えぇ〜〜〜〜」という反発したい感情とを覺えました。
ちなみに一人暮らしですので『ゆるしてあげて』と口にする人はいませんし、物質的に鼓膜を震わせる感じではなく意識に直接語りかけるような感じでした。
そこで『noblesse oblige』の考え方を思い出した次第ですが、そうか。
そりゃあ知りもしなかったら、考えることなんて以ての外だよなあ。
彼らや彼女は知らないんだ。
知らない方々に知らないことを話したところで、伝わらないのは当然ですね。
『配偶者との別離から感じた悲しさ』を未成年の子どもたちに話しても、そりゃ伝わるわけがない。
そんなことも氣付いていなかった、わたしは幼かったですね。
良い経験でした。
という、おとぎ話( `◟ 、)
わたしはわたしみたいな未来の方々に向けて手紙を飛ばそう。
ところで今この記事を書いているときになって思うのですが、『許してあげてよ〜、ね。この通り!ほんと!』と、わたしに連絡を取ってきたのって、イエスですか?
ありがとうございました( ¨̮ )
