頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

今の自分は本当に『今の自分』を生きているのか。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は特に雑記的な意味合いが強いものとなります。

 

まずタイトルに書いたことがら。

 

「今の自分」というのは、本当に『今の自分』を生きているのか。という疑問です。

 

ぱっと聞いただけでは「何を言っているのか」や、「あたりまえだ、今の自分を生きている」といった返答、「いや、実はあまり生きれていないと感じます」といった返答があることだと思われます。

 

我々は常に自由意志で自己の行動を決定している(と思っている)わけですが、その『行動を決定するに至った根拠』は、〈今の自分〉由来のものなのでしょうか?

 

さっさと、今回の結論的疑問を表現するなら、『はたして〈今の自分〉というものは、〈過去に決めたこと(過去の自分)〉に縛られていないか?』ということです。

 

 

「犯罪はしない。なぜならば、その罪によって行動が制限され、唯一の樂しみであるギターが弾けなくなるからだ』と、過去の記事にてわたしはそう発言していました。(確か)

 

その氣持ちは未だ確かに変わりません。

 

ですが、ここが問題なのです。

 

「過去に思ったこと」を、今、反芻して「今も継続している」というのは、『過去の自分が下した判断に囚われている』ということなのではないでしょうか。

 

『過去の自分に囚われている』ということは、『今の自分を生きていない』ということになります。

 

本当に『今の自分を生きる』のならば、先の犯罪の例を再度用いますが、「過去の自分は犯罪はしないと思っていたけど、今は必要になった。いっちょ盗みでも働いてみよう」と、なったり「昔は必要ではないと思っていたけど、今はどうなのか。一度前提から考え直してみよう」となるはずです。

 

そういった『過去の前提』を解体して、〈今の自分〉で組み立て直す。

その〈今の自分で組み立てたもの〉に従って生活する、行動する、というのが、本来ある『今の自分を生きるということ』なのではないかと思いました。

 

 

一応言っておきますが『犯罪の是非』については、一つの例としての話です。

 

ここの『今一度前提から考え直してみるもの』を「服を着ること」であったり、「毎日三食食べること」であったり、「時間や時計や予定に従うこと」であったりとすることができます。

他にもいっぱいありますよ。

 

つまりは、『自分が当たり前と思っていることの〈当たり前〉を組み直す』みたいな感じです( ¨̮ )

 

今回はそんな「考え出すと頭が痛くなってきそうなこと」のお話でした( ¨̮ )

 

 

 

この記事を書いていて思ったのですが、「盗み」なのに「働く」なのですね。

面白いと感じました。

 

いや?これも『働く』という行為が『代価を得る・賃金を得る』ことだという、「過去の自分」が下した価値観を基準にしているからなのかしら。

 

 

a 迷宮( ¨̮ )

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )