頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

児童向けという副交感神経

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

少し前に『不思議の国のアリス』を読みました。

 

愚かにも読んだことが無かった

言わずと知れた超有名作品ですが、わたしは読んだことがありませんでした。

理由は『児童小説と侮っていた部分があるから』です。我ながら、まったく愚かだと思います。

ちなみに今になって読もうと思った理由は、ふと読みたいと思ったからです。

 

the chokkan-直感-

 

 

その感想~大人という浅ましさの中で~

初めて読んだ感想ですが、『口語体で文章が構成されているため、小説に用いられる文語体に慣れている身としては、どうしても読みにくさを感じた。また〈異化効果だけ〉でお話の流れが組まれていると感じたため、話(というか描写?)が右往左往しているように、荒唐無稽とすらも感じた。それにイギリスと日本と時代とで文化教養が違い、作品内で提示されている感覺の共有ができなかったため、自分がお話に上手く入り込めなかった』のが、率直な感想です。

 

ですが、『口語体で書かれている』のは著者が詩人の娘さんに即興で語って聞かせたお話が元になっていることが理由だと思いますし(聞くところによると角川版は文語体らしい)、『文化教養が違うために感覺の共有ができない』のはわたしの學と教養が足りないからである。

そして『異化効果だけで構成され、荒唐無稽とすら感じた』のは、読んでいるわたし自身に子どものような純粋性がなくなりつつあるからなのでしょう(子ども時代には、どんな荒唐無稽なことも疑問を持たず受け入れていたように記憶しております)。

 

〈どうしてそうなったのか〉という『理由』を求め、その「理由という型」に事象を無理矢理に押し込め安心しようとしている。

そういった"大人と呼称されるものの浅ましさ"に自分も染まってきているのだな、と実感すると、どこか寂しい氣持ちになりました。

 

 

さて、そんな『大人という純粋性の死』に着々と歩みを進めているわたし自身が、〈『大人という死』に歩みを進めているわたし自身〉だからこそ、この『不思議の国のアリス』を読んで感じたことがあります。

 

児童向け小説や作品など、『児童向け』と呼称されるものは副交感神経性を持っているということです。

 

 

交感神経と副交感神経

生物には交感神経と副交感神経というものがあります。

非常にざっくりと端的に言うと、交感神経は緊張、副交感神経は弛緩(リラックス)です。

 

この交感神経と副交感神経は、どちらも優位になりすぎてはいけません。

常にバランスを取ることが必要であり、時と場合によって使い分ける必要があります。

 

例えば、災害や人為的な事件が起こった場合に副交感神経が優位状態にあると咄嗟の行動が取れないので命を落とす可能性があります。

しかし、交感神経が優位なままであると過緊張状態になってしまったり、苛々しやすくなったりいたします。

反対に、一日の終わり、眠りに就くタイミングに交感神経が優位状態であれば、眠ることができません。

 

交感神経と副交感神経は、常にバランスを取ることが必要であり、適材適所で使い分ける必要があるのです。

 

 

大人的な生活は、交感神経優位でいることが求められる

そんな二つですが、大人に求められる時間軸や意識は、交感神経性を求められるのだと感じます。

仕事や未来や過去や健康、誰からどう見られるかなど、思考や時間を要するものに、現代の日本人は支配をされ、そればかりを考えています。

考えづつけるというのは、弛緩やリラックスといったものとは正反対ですので、いかに現代人が交感神経を優位にして生きるようにされているか、またそれを自らが己に課しているかがわかります。

 

しかし反対に、無垢な子どもたちは今を生きています。

その『今を生きる』というのは、言葉の通り未来や過去などのヴァーチャルを夢想していません。

つまり交感神経的ではなく、即ち副交感神経性であるということになります。

 

別の話として、大人ばかりの空間に一人でも子どもがいると、ふとした時に『大人の理解の外』の行動や発言をし、それを見て大人というカテゴライズされている者どもの意識や頬は、ふっと緩みます。

そういったことを以ってしても、子どもという存在は副交感神経的である、ということなのですね。

 

現代の生活システム的に交感神経を優位にするように設定されている現代という魔界では、子どもという副交感神経性の存在("自然として生きている"ということが重要ですので、子ども出なくてもわんこやにゃんこなどの人間以外の存在でも問題ないと感じます)と接することは、とてもとてもとても重要なことであると思います。

 

 

副交感神経性の存在としての「子ども向け」

では、身の回りに子どもという副交感神経性の存在がいない場合はどうすれば良いのか。

そういう時にこそ、『不思議の国のアリス』などの「児童向けとされているもの」に触れることが大事だと感じます。

 

そういった『児童向けとされるもの』には、対象とする子ども達に向けた交感神経性の要素(湧く沸く感や刺激)がありますが、大人と呼称される者からすればそれこそが副交感神経性として作用するのです。

 

偏見もあるのでしょうが、『児童向けとされるもの』に触れても愉しめない、どこか鼻白んでしまうという人もおられるでしょう。

それは恐らく虚無的、ニヒリズムになっているので、別のケアが必要です。

 

 

交感神経が優位になった状態が続いていると、自分が現在交感神経優位な過緊張状態にあるということすら自覺できないので、お氣をつけください。

 

バランス

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

お幸せに\(´-`)/

 

 

ありがとうございました\(´-`)/