頭の中の洪水

観察と思考と分析の日記ですよってね。たまに思想家が顔出します。よってね。

頼もしいじゃん。ある意味どう生きたって肯定されるんだぜ

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

 

わたしは普段『神』だの『死』だのを言及した記事を書いています。

書いている当人は全く意識しておりませんですが、もしかしたら「宗教くさいなあ」と思われる方もいらっしゃるかも知れません。

 

わたくし当人としては〈哲學〉的な意識で考えているからです。

 

そんなわたしですが、〈哲學〉と正面から相対して物事を考えたことはありませんでした。

 

と、いうことで、今回の内容は「めっちゃ哲學的なことを書いてみよう」の回です。

 

記事の主題は《なぜ生きるのか》と《なぜ生きないといけないのか》です。

 

先日書いた記事で触れていた内容ですね。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

ちなみにこの記事は当ブログで初めての有料記事です。

 

えぇ、そうでしょう。

どこのお馬さんの面の皮も分からない人間の、もしかしたら人間ではないかも知れない思念体の、齢ハーフ還暦超えた程度の若造の考えなどにお金を使うべきではないというお考え。

 

わたしのブログは『あくまでも暇つぶしで消費するものであるから、わざわざ大事なお金を払ってまで読むものではない』という認識の方もいらっしゃるでしょうし、むしろそんな方の方が多いのではないかと感じます。

実際、わたし自身にも同じような姿勢で娯しんでいる娯樂がありますしね。

 

なので、結論だけは書きます。

というよりも《なぜ生きるのか》に対しての答え・結論ではなく、結論の先にある『ならばどのように生きたらいいのか』を書くだけに留めます。

 

しかし結論だけ知っても意味はないです。

〈その結論に至るまでに思考した過程〉の部分が重要ですからね。

『人生は要約できない』と表現されていたのと同じですね。

 

結論だけを受け売りで他人に話したとて『受け売りの話しかできない薄っぺらい人間』と受け取られるだけですしね。

 

さてその【結論】の先、つまり『どのように生きたらいいのか』ですが、それは「ただ思うままに生きたらいい。悩んで、もがいていれば尚良い」です。

いかがでしょうか。

上記を見てご自身なりの考えで結論を導き出すのも良いかも知れませんね。

 

 

「 『思うままに生きろ』ってことは犯罪も許容するのか」というご意見をいただきそうですが、それについては条件付きで『はい・Yes』と返答します。

犯罪については〈そうするしかなかった場合〉や〈行為自体を悔いている〉状況などの場合でのみ、許容するという姿勢です。

 

嬉々として犯罪行為を行なっていたり、人様を騙くらかした内容をさも武勇伝の如く話しているような輩は駄目です。

しかし、そういった輩も結局は反面教師という形で肯定されるのですけどね。

 

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(血涙)普通じゃなくて、ほとほと良かった #強がり #滑稽

 

本日もご訪問ありがとうございます。

今回は多分に強がりが混ざっています。

 

もの好きな方はほくそ笑みながらお読みください。

 

 

そういえば以前『コンビニ人間』のポケット書評シリージを公開しましたが、かの記事にて言及忘れの箇所がございました。

floodinhead.hatenablog.com

 

奈月さんがお姉さんと話している時、「自分の生・命の鍵を相手に摑まれているのに、どうしてこうも生き生きとしているのだ」と疑問を感じる場面がありましたが、あれはむしろ "摑まれているから" こそなのではないか?と考えます。

〈地球星人〉と言及されていた謂わば普通の人たちは、自分の恥部を晒して摑まれているとともに、相手の恥部も摑んでいるように感じるのですね。

謂わば【相手を人質に取っている】ような状態です。

 

相互に相手を人質に取っているからこそ、相手も下手なことができないとわかっているからイキイキできる。という理論です。

 

 

あるひ。労働の場にて。

何故か慕ってくださっているように感じる方がいます。その実どうかは不明ですが、その方がわたしに話しかけました。

「今日なんだか眠くないですか??」

 

流石に存じない…。

氣溫や天氣がどうなりそうかであれば共有はできるものであるが、眠いかどうかに関しては完全にその人個人の領分です。

 

困る…。。。

 

困りに困ったわたしは「昨日遅くまで起きていらしたんですか?」と無難に返答し、ことなきを得ました(得たのか?)。

 

 

わたしは困惑です。

un普通なわたしからすると、その方はいかにも普通と感じる方なのですが、普通の方は自身の身体感覺すらも他者と共有できていると思っているのか、それを信じて疑っていないのか、と驚愕し困惑です。

それと同時に、「いや…これは試されているのか…? "共感" ができる人間が否かを見定められているのか…??」と疑心暗鬼のようにもなりました。

わたしは困惑です。

 

 

 

しかしわたしは普通でなくてよかったとは強く思います。

普通の方とは他の方が行っていることを見て自らの行動を決定する習性があるようですが、道端に "置かれて" いる細々とした不用品の芥を見て、ほとほとと斯様に思います。

 

なぜなのか不明ですが【普通】な方々は他者が行っていることは自らが行っても問題ないと考えている節があるようです。

人前に出ている芸能人の方を呼び捨てしたり、一般的に「ポイ捨て」と呼称される不法投棄を行ったり。

『みんなしている』からと言って、「自分がしていい」という理由にはならないはずです。

 

わたしにはわからない…。わからないな…。

 

 

「常識とはその人がそれまでに身につけた偏見」ってハナシ

また普通に対してその他にも色々な疑念点があります。

わたしは音樂を、ギターを嗜みます。

 

とある曲のコード進行が「一般のセオリーと違う」として惡魔のYouTube Shortになっていました。

わたしはそれを拝見しました。

 

わたしはどうでもいいと思います。

よく言うように、「常識とはその人がそれまでに身につけた偏見」であると思うからです。

 

そもそも普通が良いのなら藝術なんて有り難られないっての。

となれば?

共産主義的価値觀の中では藝術は生まれないのか?

ロシア文學?

ドストエフスキー氏もトルストイ氏もツルゲーネフ氏もロシヤ革命以前でした…。

 

普通を盲信しているときっと世界は衰退をするのであろうか。

超長期的に見て。

 

ウーム。

 

しかし普通が盲信されるが故に「普通ではつまんねー」が盛り上がったり、局所的で絶対的なカリスマが登場したりする。

とすれば、やはり普通か否かという行きつ戻りつも重要なのだろうと思いますね。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

しかし、わたしは普通でなく本当によかったとは思います。

しかしこれもあくまで嫉妬と憧憬が混ざっています。

わたしだって世にいる多くの一般大衆が興じることができる娯樂にたのしいと思える感覺でいたかったし。

平易なもので満足できる感性でいれば、辛苦もすくなかったであろうと思います。

毎日決まった内容と行動をできるさらりまんさんになれたら、と月も出ない夜空を見上げて祈ったりはしませんでしたが、世のさらりまんさんには尊敬しかありません。

 

ですがわたしはわたし。

嘘をついて満足できないもので満足しようとしちゃうと、仏が滅入りますからね。

しゃーない。

 

 

画一化するための勉強

勉強というものがあります。

いつか勉強に対しての記事も書けたらと思っていますが、學校というものに所在無さを感じていたわたしは、義務教育的な勉強に対しても馴染みがありません。

 

義務教育の機関というのは、往往にして社会の歯車を滑らかに動かす潤滑油を輩出する機関として機能していると考えていますが(ごくたまに歯車自体を生み出すこともある)、潤滑油になるための教育や勉強というものもあり、この過程を履修し修士すれば、晴れて〈普通〉という勲章を相互的に認識してもらえるように、その権利を得ます。

 

つまりこの項での題名である『普通という画一にするための勉強』ということです。

 

わたしは見事にこの画一からは逃げたのですが、まあ "普通ではない" という事実は面倒ではあります。それもわたしなのでよいのですけれど。

 

 

以前の記事にて「変質させられる恐れがあって基礎から逃げていた」と書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

上記した通り、自分が自分を確立する前に変質されて、言うなれば「故意に色々な形にされて出荷される果物」の様相をなすのが恐怖でしかなかったので、逃走に逃走を重ねていた次第です。

 

しかし、ギターをもうしばらく嗜んできて(先日満十九年になりました!)ある程度の自己を確立できた以前では基礎の重要さを知り、今では基礎を忠実に守ることに窮屈さを感じてきだしました。

ギタープレイのお話になりますが、わたしは要所要所で落ち着く演奏ではなく、綱渡りのように、ジャズミュージックのソロのように危うさすらも掌握する演奏がしたい。

 

この氣持ちの変遷を、共によく酒を呑む友人に話したら「守破離だな」と返答がありました。

なるほど守破離か。

 

 

ここいらの氣持ちの変遷もまたいずれ記事にしようと思いますが(何よりも書きたいネタや整理したい脳内が多すぎる。上に書いた勉強についてのものもそうだし、『天上天下唯我独尊の別解 ~ "今" は自分自身でしかないのではないか~』であったり『具体は抽象 抽象は具体』であったり)、最近は労働や日常生活に対しての捉え方も変質してきました。

これこそまさしく人生や生活ってやつですね。

 

というわけで、

 

かかってこいや ~ やれるもんならやってみろ~

〈普通〉から逃走し続けてきた理由は、自己が確立しきっていないにも関わらず、〈普通〉という一元に変質させられることに恐れを感じていたからでした。

 

わたしは今年でハーフ還暦をすこしすぎた齢。

まだまだ未熟でしかありませんが、とはいえわたしが大事にしたいことや核の部分は確立しました。

 

そんな今、わたしは労働においての〈普通〉という感覺を勉強するのがたのしい。

良い部分があれば参考にして糧にすらもしようと、ごく一般的な野心めいた感情もあります。

 

それはなぜなのか。

わたしはわたしが確立できているので、ちょっとやそっとの〈普通〉では動じませんし、恐れている変質なんて起こりはしないという確信がある。なぜだか強い確信。

わたしは自分自身に対しての厚い信頼があるので、もし変わったとてそれはわたし自身が選んだことに他なりませんしね。

 

かかってこいや。

変質できるもんならやってみやがれ。

 

 

 

 

ところで今年の目標である『モンテ・クリスト伯』を読むに倣いまして、積読を崩してようやっと読みだしたのですが、大変面白いです( ¨̮ )

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

PTSDはきっと儲かるのだろうし、格差とは熾火なのだろうか。『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』を観て

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は映画の感想などです。

昨今話題の『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』という映画です。

 

 

戰爭映画であり、今だからできた映画なのかも、と思います。

 

 

主人公はアラン・ネルソンという、実際にベトナム戰爭に従軍なさった方のセラピー兼実録ドキュメント映画の様相を呈していたと感じています。

 

ベトナム戰爭を題材にした映画といえば、スタンリー・キューブリック氏監督作品の『フルメタル・ジャケット』があります。

 

しかしわたし個人としては『ホテル・ムンバイ』を想起いたしました。

 

インドの9.11と言われるテロ事件のドキュメンタリー映画です。

 

 

『今だからできた映画』というのは『フルメタル・ジャケット』がアメリカ兵を英雄として描いている感が強かったと感じるからです。

しかし、だからといって「嘘っぱち」や「フェイク」などというつもりはありません。

あの映画も従軍なさった方々のPTSDを癒すための映画という側面も強かったように感じるからですね。

あとあの作品はアメリカとイギリスの合作映画ですから、國を礼賛しないとスーツに袈裟着た大人が黙っていないのでしょう。

 

対して今作の『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』は制作が我が國、日本。

ベトナム戰爭などで世界にちょっかいをかけ続けているアメリカ國さんには、我が國二度も原子力爆弾を落とされた過去がありますので、アメリカン・ドリームなどと嘯いている國も戰爭となれば誰もが同じく鬼畜になりますわ〜ね、という現実がしっかりと描れていたように感じます。

 

ところでベトナム戰爭は凄惨さと非道さをメディアが暴いた戰爭であると耳にしたことがありますが、この作品も似た趣を感じました。

 

 

と、つらダラダラつらと感想を書いていても仕方がないので二点だけ書きます。

PTSDは儲かるのだろう。と、貧困を改善しなければ使い捨ての駒が志願してくれるのではないか?です。

 

アラン・ネルソンさんは戰地の経験でPTSDになります。

わたしの祖父も大東亞戰爭にて支那國へ渡ったらしいです。

五体満足で服役し、老衰にて亡くなりましたが、わたしは祖父が老いてから生まれたので基本介護ベッドで寝ていた記憶しかありません。

母親から聞いた話ですが、深夜に大声をあげながら飛び起きることも一度や二度ではなかったそうです。

 

この『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』でも同じ描写がされていましたし、ベトナム兵の幻覺を見ていたりもしていました。

おそらく、誇張なくリアルなのでしょう。

 

さてそんなPTSDですが、寝るため、PTSDの症状を抑えるために多くの藥を服用する様も描写されています。

藥の原料を精製であったりだとか、PTSDにすれば、きっと大変に儲かるんだろうなあ。

 

【國家とは國家を存続させることのみが使命】であることは百も承知ですが、いかにご機嫌伺い的に國民を大事に思っているように振舞っていても、結局は使い捨ての駒なのだろうなあと思ったりします。

 

だってPTSDにでもなれば、それで利潤は生まれるのだし。

 

 

戰爭作品として水木しげるさんの『総員玉砕せよ!』も思い出しました。

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大前提、戰爭なんて絶対にいけない。

 

 

 

惡魔のSNSにて「この作品は戰爭を進めたい側には嫌われるだろうな」と評されていたこともあって、この度『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』を鑑賞しました。

作品内で言及されていましたが、戰地に赴くのは貧困層であったそうです。

 

そこで思ったのですが、各種税金も上がる一方で貧富の格差も広がる一方な我が "国" 日本。

政治家さんも選挙の時だけ良いこと言っていざ当選すれば、言葉うらはらあなた、反故にしている??まるで詐欺師のよう。。と思う人ばかり。

 

貧困が広がることで志願兵を募ろうとしている??

 

と思っちゃったりしました。

妄想です☆

 

それが真実なのか幻想なのかは不明ですが、日々軍靴の音が近づいてきているように感じる昨今の世界情勢にて戰爭を題材にした真摯な作品を見ることは、大変重要なのだろうなと月並みなことを思います。

 

そんなためには皆が対象を意識に入れることが重要だと思います。

手取り早く戰爭に向かわさないために行えることは、政治を監視することでしょう。

 

『宗教と政治と野球は人前で話さない方がよい』などと言ったりしますが、それって政治家さん含めた戰爭したい側が「好きに暗躍するため」に〈禁句〉にしたのではないのか?などと邪推しちゃったりもします。

 

 

最後に。

『ホテル・ムンバイ』を想起したと上記しましたが、その理由は、あえてこの表現を使いますが「良くも悪くも無知な少年・青年を兵士として使っていた」ためです。

戰爭をしたい方々は指示に対して疑問を持たない駒を欲しています。

 

「アジア人は人ではないと思え」と教官の方から教育されていましたが、若いうちは良くも悪くもものを知らないため、染脳することなどいくらでも可能なのでしょう。

などと言っているわたしも齢ハーフ還暦程度なので良くも悪くも無知な青年でしょう。

 

 

これが一番重要なのですが、戰爭をしたい方々は決して戰地には立たず、まあ十中八九我々大衆だけが戰地へ向かいます。

戰爭の首謀者は決して表舞台には出てこないものでしょうし、『有名無力、無名有力』ですから。

 

「なにかおもしろいこと」で戰爭を求めなどすれば、自分自身や自分以上に大事な方が戰地に向かって二度と会って話すことができなくなる恐れがありますもんでね。

 

 

 

個人的に印象的だった場面は出産の部分です。

あそこの "母" の眼差しは真に迫ったものがあった。本当に臨月の妊婦さんを役者として、実際の出産場面を撮影したのかとすら思うほどでした。

 

 

 

 

ちょっと心が入りすぎている記事なので、今回の内容と全く関係ないものの最近あってよかったことを( ¨̮ )

 

 

数日前に親戚が亡くなりました。

 

告別式に立ち会ったのですが、その場で赤ちゃんの頃から知っていて遊んでいた方が成人して、新卒さんにすらなっていらっしゃいました。

「ま〜〜〜〜!大きくなって!」と模範的親戚のおじさんかおばさんになったのは当然のことでしたが、何よりもお元氣そうで、それが何よりも嬉しくてそれだけでも生きてきた価値があったなと思いました。

 

また解散してから「あ!?」と思ったのですが、また別の親戚の方も大きくなっていて、これまたご就職されているようでした。

この方はむかーし、兄弟で比較する母親の毒牙に苛まれていた場面を見ていたので大変心配していたのですね。

なので、少なくとも今も生きていてくださり、見る限りではお元氣そうでいらっしゃったことが、なによりも本当に嬉しいです。

 

このように知っている方が無事生きていてくださること、それを拝見したりお会いしてお話しできることが何よりも有難いこと・嬉しいことなのだと思い、さすれば「長生きしたい」という感情の理由はそれか、と思いました。

 

たぶん悩み多くそれを周りに相談していた人ほど、元氣になったり元氣そうな顔を出す必要があるんだろうなと思います。

 

なによりも、生きていてよかった。

どうぞ!お好きに生きて!( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

現代は不健康な感情サプリメント生活!あっぷあっぷ!溺れる寸前!

 

怪談は生きてるを感じたいってことだしボーッと見るショート動画は瞑想だし放置系のゲームは植物栽培だしちいかわは育児。

 

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

巷では怪談話が流行っているらしいです。

実態は知りません。そしてわたし自身は実感がありません。とはいえ怪談は大好きです。

夜馬裕さんのお話が特に大好きです。

 

聴いた後に苦笑いを湛えるしかない感情になる自分を見つめると「わぁ〜、、夜馬裕さんのお話だ…」と思うしかありません。

 

怪談話と同様に二〇二〇年頃の集団倒錯時期に配信という文化が隆盛し、ホラーゲームも人氣が出ましたが、この二つには〈怖い〉という感情の共通点があるわけじゃないですか。

恐怖の感情は人間だけでなく生物が生存競爭を生き抜くために搭載された、生(き)の感情です。

 

そんな恐怖感情ですが、あるきっかけからそれを得るための娯樂が流行った(=異様に求める)という背景には、我々一般大衆が必要量の《生の感情》を日常生活で感じられていないからなのではないだろうか、と考えました。

それは日々の辛い辛いお勤めも含めて、感情を押し殺さないと生きていけない、という社会があるからなのだということでしょうが、なんとも世知辛いですね。

感情は宝物ですから、より生きにくい世界だよなあ。

 

 

そして以前に「ぼーっと眺めるショート動画は瞑想じゃないの」と言及しました。

floodinhead.hatenablog.com

 

それは現代社会が『意味のあること』に対して、そして "自分が〈意味のあるもの〉であるために" というある種の強迫觀念から、休息の時間なんて取れてやしない方が多いみたいじゃないですか。

そんな過緊張状態である生活の中、無意識が救難信号を送った結果「ショート動画を媒介して瞑想をする」という不健康な逃げ場所を見出したのではないでしょうか。

 

もちろんドーパミン中毒であるのも関係しています。

性的快樂の電極刺激を実験されているお猿さんと一緒です。氣の毒。

 

わたしもドーパミン中毒であるみたいですので、すまとほん端末に入れていたゲームアプリの類を消去しました。

本当に危険だと判断したからです。あっぷああぷう!

 

 

しかし、わたしも愚かな人間の皮を被った思念体。

ゲームはせずとも一番のドーパミン供給体であるYouTubeは拝見します。

そちらの広告にて放置系ゲームの広告を見かけました。

 

ゲームは距離をとったほうが良いなと思ったので見かけるに留めましたが、その時にある考えが脳みそにハレー彗星。

 

放置系ゲームって植物栽培じゃないですか?

 

そういえば昔々わたしが高校生の時分にはなめこというすまとほんゲームが流行しました。

あればまんま栽培行為ですが、果たして現代人は成果物に飢えているのではないか?

仕事においても役割役割の細分化にて『最初から最後まで自分で行い完成させる』という行為自体にも飢えているのではないか、と感じています。

 

そこでゲーム関係の職をしている友人に「放置系ゲームって植物栽培じゃね?」と連絡してみたらば「ザッツライツ。~足し蟹~。しかもハーブやどくだみ系の植物」と返事がきました。

どくだみという植物の生態を存じなかったので調べてみたのですが、この話の結論は『どくだみはしぶとい』です。

 

 

先日『ちいかわ』の映画を觀ました。

わたしの感想は「とてもすばらしい映画〜(にこにこ) 大衆が考える機会を強制されてる〜(にこにこ) いい映画〜(にこにこ) にしてもドストエフスキーぢゃん!」というものです。

今回の記事は映画についての感想や考察を書くものではないので省略しますが、わたしの觀点としては最後の場面はもっとも重要で必要だと考えます。

あの場面がなければ「結局隠し通して逃げ切ればいいんだ」と捉えられかねないからです。

事情はあるにしろ、【罪】を行なったのであれば、呵責と事実からは追われ続けなければいけないと、現時点でのわたしは考えます。

解釈は様々ですけれどね。

 

しかしとてもよい道徳の作品ですので、道徳の授業時間を二時間分とって九十分は鑑賞。残りの時間は感想や解釈・考え方を話し合う時間にすればとても有意義な時間になると思います。

惜しむらくは「その子どもたちの考え方を受け止めきれる教師が本当にいるのか」という部分ですね。

 

そんな『ちいかわ』の映画は色々な考え方やその人の精神性であったりを垣間見ることができるので、見漁るほどではないにしても目にしたら色々な方の感想を觀ています。


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そんな時に以前から見ている山田玲司さんが「ちいかわって育児じゃない?」と考察、言及されておりました。


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詳しくはご本人様の言葉で見ていただきたいのですが、なかなか面白い捉え方をされるな〜と新鮮でした。

 

わたしは船酔いを酒の酔いで相殺したいです。

 

 

ところであの作品であった "夜の島" の塗りが素晴らしくて前のめりになったのですが、どうして誰もあの美しさに言及していないのだ。

それも各々の愉しみ方の自由性という部分です( ¨̮ )

 

 

 

今回の記事で言及してきたことは以下です。

 

烏賊〜

 

・怪談は生きてるを感じたいってことだし、・ボーッと見るショート動画は瞑想だし、・放置系のゲームは植物栽培だし、・ちいかわは育児。

 

これらからわたしが思ったことが、今回の記事題名です。

現代日本人、人間(生物)として必要な感情や要素を色々なコンテンツから摂取しようとしていませんか?

不健康を、不足しがちな榮養素を補うためにサプリメントを飲み漁っているみたいですね。

 

一番に対処するべきなのは【不健康】という根っこなのですけどね。

 

( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

お氣に召さなかったのなら、夢だと思ってください( ¨̮ )

 

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本日は重陽の節句、別名菊の節句らしいので願いを書きます。

「ジミヘンコード」のようにメジャーナインスコードを代名詞にしたい!

 


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世界が健康でありますように!

お好きに生きられますように!

 

はじめに言葉あり。ことばは神なり。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回はキリスト教の考え方を哲學的解釈で考えちゃおっ回です。

 

シリージ化するかは不明です。

 

 

 

 

なかなか長くて雑記な内容なので氣になるものを拾ってください。

 

 

はじめに言葉あり

今回はキリスト教の考え方を考えてみましょーねという内容です。

その題材は〈はじめに言葉あり〉という一節です。

 

以前には「『はじめに言葉ありき』ってプログラム言語なんじゃないか?」と考えてみましたが、それはそれでその見地という觀点ですね('ω')

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ちなみにわたしはこの度キリスト教に改宗したわけではありません。

あくまでも一思考材料の一つとしての新約聖書という次第です。

 

 

はじめに言葉あり。ことばは神なり

さて、〈はじめに言葉あり〉という一節ですが、その次に続く言葉をご存知でしょうか。

學のないわたしはこの度初めて識ったのですが、「はじめに言葉あり。言葉は神なり」と続くのだそうです。

 

 

はじめに言葉がある。その言葉とは神である。

 

一聴、一見では何がなんだかわかりません。

確かに発する言葉はその人の看板になります。『類は友を呼ぶ』ということわざのように、同じ言葉を使う人同士は引き合います。

しかし、だからといって "言葉は神 " とはなりにくく感じます。

 

そんな時に新約聖書に記されている別の有名な一節を思い出してみましょう。

それは〈求めよ、さらば与えられん〉です。

この言葉は「望みを言っちゃいな☆ 求めちゃいな★ 求めちゃえば求めたものが漏れなく与えられちゃうって寸法☆」という意味合いだとわたしは解釈しています。

 

自己啓発の世界では『望みはより詳細であればよい』と言われているそうです。

実際、社会的に成功する方の特徴として "逆算思考ができるか" がとても重要であるそうです。

 

わたくしスポーツはてんで甜麺醤興味がございませんが、そんなわたくしでも大谷翔平さんは存じております。

その大谷翔平さんが高校時代に『マンダラチャート』という思考整理方法を行っていたというのは有名なお話ですが、このマンダラチャートこそ上記の【逆算思考】であると感じます。

 

【逆算思考】とは、叶えたい目標がどうすれば叶えられるのかを明確化する行為であり「目標への筋道を明らかにして、"絵空事のごとき目標" を〈現実味のある目標〉へ変える行為」だと捉えています。

目標を叶えるためには『イロ』が必要で、『イロ』の達成には『ハニホ』が必要で、、、と、道筋が明確化できるのですね。それが逆算思考です。

 

最近THE FIRST TAKEにご出演なさったことで若年層にも海外勢にも認知された西川貴教さんも、大阪の灰猫さん時代に逆算思考をなさっていた、とむかーしに言及されていました。


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柴崎浩さんのギター好きです。MUSICMANのLUKEをメイン機材に使っているだけあってSteve Lukather氏リスペクトなフレージングも特に好きです。

 

 

つまり「目標を明確化する」とは【言葉にする】ということではないか?と考えたりします。

【言葉にする】ことで『何が必要か』を自覺する、"必要なもの" がもたらされて具現化する。

というわけで〈はじめに言葉あり。言葉は神なり〉であり、〈求めよ、さらば与えられん〉であるのではないか?と感じます。

 

妄想でーす。

 

 

「カチッ」

と、わりと現実的に感じる感覺で書いてきましたが、わたしはスピリチュアリズムに傾倒しています。

自己啓発的な意識やら現実的な意識を上記しましたが、ここいらでボワっと(ボワっと)ガチスピおじさん(か、おばさん)登場、という幕にいたします。

 

わたしは現実ハーフ還暦を少し過ぎたくらいのお年頃なのですが、廿代の時分はま〜あ暗黒でした。

それはそれは辛かったですし、戸惑いの毎日でしたので日々就寝前に涙を流していました。

 

今では大方けりをつけたので生きるのはかなり樂になりましたが、それでもふと思い出して怒りを感じたりもします。

 

そういうわけでポハピピンポボピア!スピリチュアルの世界では予祝という価値觀がありまして、それを適用しました。

 

就寝時、横になった時に「(氏名)が経験したこれまでの辛い経験は終わりました。これからの人生は素晴らしく幸せになります」みたいな内容を発音しました。

すると、不思議なもので右側で「カチッ」とスイッチが切り替わる音が聴こえたような氣がしました。

もちろんそれは実際に鳴っていませんし、"聴こえた氣がする" という程度のものです。

右脳内で聴こえた音であるし、それこそ幻聴や妄想であることもあるし、統合失調症の可能性もあります。

 

しかしこの話で重要?なのは、脳内で音が鳴ったというよりも、自らの意識を切り替えたということでしょう。

なによりも誰よりも自分を愛せるのは自分だけですもんでね( ¨̮ )‬

 

そういえば、今思えば「カチッ」が聴こえたのって前に「許してあげてよ〜」の声が聴こえた時と同じ場所だったような氣がする。

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いよいよ統合失調症の疑いが…。。

正直「管理しやすいようにつけた名前」なんてどうだっていいんですけどね( ¨̮ )‬

 

 

ところで、この章で記したことに言葉特有の仕掛けがあったことにお氣付きでしょうか。

もしこの記事をお読みの方で過去の経験に今も苛まれていて、「辛かった」とお感じなのであれば。

『辛かった』という言葉は、過去形なのですよ( ¨̮ )‬

 

もし現在進行形でお辛いのであれば、万物流転。なんだって変わります。

 

 

【肩こり】という言葉がなければ〈肩こり〉自体がなかったという話について

わたしは未だに半信半疑なのですが、「肩こりという言葉ができたから、"肩こり" が生まれた」のだそうです。

本当に半信半疑半生半熟なのですが、言靈の価値觀や『言葉にすることによって現実化・具現化する』のであれば、上記のような事象も起こり得るのか〜とみょ〜ちきりんな感情も起こります。

 

となれば『自らが扱う言葉には細心の注意を以っていなければいけない』ということになります。

いえ、別に好きな言葉を使えばいいし、そうするつもりなのですが、やっぱり言葉は看板ですからね。

 

また「言葉をつくる」や「特定の言葉を意識に入れる」ことによって(広告の類)、意図した方向へ誘導することもできるんだろうなぁと、これまたみょ〜ちきりんなことも考えたりする。

【背徳感】とかもその施策の一環ではないかと考えていますが、思い過ごしであってほしい。

 

『新しい言葉で欲望を掻き立てるマスメディア 新しい言葉の裏側に隠されている真理』という次第です。


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MAJIでこれ以上いろんな方が過剰な精神的弥次郎兵衛にならないでほしいんだよ。

 

 

 

ちなみに〈言葉になったから事象が発現した〉とはまさにとてもプログラム言語っぽいですね。

ぷるぱんちょ。

 

 

歌詞にすることで口にできるでしょ

わたしは音樂が好きです。

好きを通り越して大好きです。

 

好きが昂じて、というよりも自家治癒的意味合いで曲を自作したりもしています。


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今は違って呪われていますけれど( ¨̮ )‬<しゃーないですわな

 

 

ところで単純に音樂大好きですので色々なアレンジに対して耳が広がったりします。

しかし最近は歌詞に対して耳が広がることが多くなりました。

 

わたしが一番好きでルーツミュージックとなっているL'Arc~en~Cielさんの曲で『In the Air』という曲があるのですが、その歌い出しにハッとすることも今年に入ってからありました。

hydeさんの歌詞って今更ながら素晴らしいですねえ。

 

『NEO UNIVERSE』が特に好きです。


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さて、目下の悩み?なのですが、「あ、こうすればいいんじゃない?」を話すことができないということです。

それは何も話し相手がいないのが理由ではなく(話し相手はいない)、発見を独り占めしたいわけでもありません。

なんだったら元来『世界、より良くしちゃお☆』の精神の方が強いので共有したいのですが、この世界って《その人がその人の力で知ること・発見すること》が最重要じゃないですか。

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ポップスのシンガーさん方々が「世界は素晴らしい」とよく歌っていらっしゃいますが、その理由が明示されてしまっていると〈その人自身にとっての素晴らしさ〉が、"それを知る機会" が永久に失われてしまう可能性があると感じるのですよね。

飛躍しすぎですが、感情や感覺の共有はファシズム的に発展する恐れがある。と差し出がましいながらも、わりと切実に感じている。

 

ファシズムに行かずとも〈その人自身にとっての素晴らしさ〉や、個々の機会が失われるのは絶対に避けなければいけない。

 

 

むかしむかし、それこそ暗闇の時分な自分は「どうして、どうして "世界は美しい" のか、教えてくれよ」と切望していました。

しかし、んなもん。いえ、それこそが手前自身で感覺を勝ち取る必要があるんですよね。

 

と、いうわけで、『あ、こうすればいいんじゃない?』を共有することができないんです。

そして各々が行う『あ、こうすればいいんじゃない?』こそが世界を攪拌させて流動させるんですよね。

たとえきっと総量は変わりやしませんが、攪拌させて流動させることこそが地球という場所での使命であったり、大いなる意志であったりするのだと、今のわたしは思っているのです。

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途方がねえ〜〜〜〜〜〜と思いますが、絵や登山と同じように「やってりゃあ完成する類のもの」であるので優しい世界ですね‪( ¨̮ )

 

 

あと、その流動を引き起こすための歌詞なのでないか、と思うのです。

わたしもその一人ですが、歌詞を見て救われることもあるし、無自覺であった意識を捕獲することもできますものね。

他にも臆病ちゃんが喉に空氣の球を詰め込んでしまっていて自分の言葉として言うことはできなくても、歌としてなら口に出せることもありますもんね。

 

もちろんインストゥルメンタルな音樂を否定しているわけでないですが(JAZZ大好き。Charles Mingusさんの『Pithecanthropus Erectus』とか好き〜)、歌詞とは言葉であることは周知のものごとであり、歌詞が色々な方を癒しているということは言葉という神が癒しているということにもなりえるのではないか?と感じます。

 

不器用でも器用に示唆した内容でも伝わっても伝わらなくてもいいんじゃんね。

生きてりゃあ風は起きるし。

 

地球の一員ってわけで自分も宇宙だってことで頼もしいすね( ¨̮ )‬

 

 

"世界を変容させる偉人は侮られる" という現象について

ところで社会的成功を収める方や、偉人として解釈される方の多くは侮られたり軽んじられたり莫迦にされたりされがちなのだそうです。

 

それって、"その人が世界を変容させる力を有している" からなのではないかしら?とつい先日思いました。

そして《世界を変容させる力》が強い人ほど、強く否定される。

 

 

白昼の理ですが、人間は怠惰じゃないですか。

怠惰であるから「より良い日を!」などと求めておきながら、いざ良くなる兆しがあれば文句の奔流でその兆しを反故にします。

暗黒時代のわたしがそうだったので激しく実感できますが、被害者や悲劇の主人公としての立場の方が圧倒的に樂であるので、文句を言ってその場に居座り続けたい氣持ちは大変よくわかります。

 

しかしそれは人間という生物の本能?らしく、人間は変化というのを嫌うらしいのですね。

変化に対してのストレスを感じるくらいであれば、現状の不満の方を受け入れるという心理らしいです。

 

さて、この変化・変容を起こす人や起こすことができる人を超無意識的、本能的な部分で感じているから、のちに偉人として語り継がれるような方は強く否定されたり侮られたり莫迦にされたりするのではないか?と思ったのです。

もちろんあくまでも仮説であるし妄想です。

だって "未来のことがわかってる" ということになるし‪( ¨̮ )‬

 

ですがこの仮説が正しいとした場合、逆に考えれば〈莫迦にされる〉ということは、同時に《爆発的な成功》を起こせる素量を有していると解釈することもできますね‪( ¨̮ )‬

 

 

ちなみにわたしは大口を叩くことって大事じゃないかしらと感じています。

大口を叩いていたらそれを面白がってくれて、何かしらの力となってくれる機会を与えてくださる方が出現する可能性が上がりますし( ¨̮ )‬

 

望みは口にしましょう。

言葉は自己啓発書ですもんでね〜。

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音樂と思考で世界に出たい!

こんなもん大きければ大きいだけいいですからね〜。

 

 

まどかマギカの新作映画を觀ました

 

『魔法少女まどか☆マギカ』の新作劇場版『ワルプルギスの廻天』を鑑賞しました。

 

『魔法少女まどか☆マギカ』はわたしが高校生の時分にTVアニメ放映されており、それはそれは毎週お祭り騒ぎであったことを記憶しております。

そんなわたしは当時はギターと音樂に一辺倒でしたので、同じ教室の友人らが盛り上がっているのを見ているという立ち位置にいたのですが、それから十年ほどのち、精神暗黒に向き合う引きこもり期間に作品を見て、見事『コネクト』の仕掛けに頭を撃ち抜かれ「ウッ、、ヴォォ〜〜…!」と泣いたような泣かなかったような。


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そのあとに『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』を觀て、梶浦由記さんの劇伴が良過ぎて初回限定版Blu-rayを購入に至った、という感じです。

 

そういった次第で今回は公開初日ではないにしても初週鑑賞をいたしました。

 

ハーフ還暦も生きていると色々な作品や古典にも触れたり日常生活も色々な辛苦を経験したりいたしますので、作品に対しての解像度というか解釈の幅が広がります(先だって公開された『ちいかわ』の映画に対して「東野圭吾作品」や「ドストエフスキーじゃん!」「これはフランス革命!」のように色々な解釈がされていましたし。わたしはドストエフスキーじゃん!と思いました)。

さてはて果たして今回の『ワルプルギスの廻天』も同様でございました。

 

 

モチーフ

どうやらこの『魔法少女まどか☆マギカ』はゲーテ氏の著作『ファウスト』を元にされているそうです。

 

あまりに古典すぎることと難しそうという一般的な恐れにて未読です。

なので "入っていない引き出しは開けられない" のと同じで、『ファウスト』に類した言及は行わず、わたしの引き出しにあることで解釈します。

 

 

まず思ったのは【毒親】という問題に対してです。

TVシリーズにて全世界の魔法少女を癒す側に回った鹿目まどかさんでしたが、その神になった鹿目まどかさんを取り戻そうとしたのが暁美ほむらさんでした。

今作にてマルグリートさんが言及したのだったか「当人が進んで背負った苦労を無視して自らの主張を押し付けるのか」と暁美ほむらさんに言い渡す場面があります。

この指摘ってすごく毒親問題に通ずるところがあると感じており、『相手のことを想って』などと嘯いているが、その実自分のことしか考えていない親というのは、確かにいるじゃないですか。

しかもその当人が望んで進んだ成長の機会を、(たとえ無意識であったとしても)自分の欲求で潰そうとする親は確かにいます。

 

その指摘を受けても暁美ほむらさんは「それでも彼女だけに責任を背負わせるのは忍びない」と返答しておりましたので、「エ…、、エゴだよそれは…」とわたしの中にいる生(き)のアムロ・レイさんが顔を出していました。

 

もちろん暁美ほむらさんの主張もわからんでもないんですけどね。

しかしそれが『自分に接してくれる相手の消失を恐れて』などであるとすれば、その可能性があれば、やっぱりお話は別です。

 

 

他にも〈ワルプルギスの夜〉になったマルグリートさんの願いも非常に毒親問題と関連性があると感じます。

マルグリートさんは見た感じヨーロッパの修道女であり、他の修道女や救済を求める方々のことを想ったことで魔女になり、名塚底根という魔女の図書館を作ります。

《魔女》とは魔法少女の行く先であり、『祈りが呪いに変わった姿』であると認識しています。

マルグリートさんは救済を求める方々に奔走して、自分の名すらも忘れようとしていた時に救済を求める方々のそれまでの名前ではなく、一切的に《魔女》と名付けることで救済しました。

 

なぜ《魔女》と名付けたかと言えば、救済を求める方々がマルグリートさんに「名前を呼んでください」と求めていたからですね。

名前というのはその人の根本でもございますから、その生きた証として名前を呼んで欲しかったのかしら、と考えたりします。

とはいえ、人間は忘れる生き物ですし、救済をしていたマルグリートさん当人すら自分の名前を忘れそうになっていました(だからこそ鹿目まどかさんに救いを求めていた)。

そういった救済の手段として《魔女》という名前を与えたのではないかしら?と考えるとともに、名前を与えるというのは謂わば "生まれ変わり" をも意味すると思えるので、「これまでの辛い思い出から放たれて、生まれ変わってください」という祈りの想いとして《魔女》という名前を与えたのではないか、と考えています。

しかし、その《魔女》という名前と、マルグリートさん自身の祈りが災厄という呪いに変わってしまったのは、とても辛い皮肉であると思います。

 

さて、『祈りが呪いに変わる』と毒親とがどう同じなのか、という段ですが、これは「幼少期に何かしらのご事情があって、手がかかる子どもだった思い出が強くあるがために、成長した子どもを直視できない」という事象と大変に近しいのではないか、と感じました。

端的に言えば〈子どもは成長しているのに親は成長できていない〉ということになるのですが、「不自由なく生き抜いてほしい」という親の無垢な願いや祈り(実際に無垢であるとは思う)が、子の成長にしたがって子には重圧となり呪いとなり、子どもを苦しめる。

これこそ『祈りが呪いに変わる』なのではないか、と感じました。

 

わたしも母親に辛苦を食わされてきましたが、その毒牙から解放されてきている今だからこそできる解釈だよなあと思います。

 

 

さて【毒親】という言葉はここ十年くらいに出てきた、謂わば流行り言葉の類だと思いますが、この『魔法少女まどか☆マギカ』はゲーテ氏の著作『ファウスト』を元ネタにしているらしいとは先述しました。

対して『ファウスト』の初出は二百年以上前の作品です。

 

そんな前から毒親問題ってあったのか?という問いが聞こえてきそうなもんですが、わたしはわりと恒久的な問題だったのではないか?と考えています。

今のように核家族化した社会ではなく、家柄であったり、政略結婚であったり儒教的な "親に従う" という意識が強固だった(と感じる)過去の方がより【毒親】という事象・現象は強かったのではないかな、むしろ恒常化して『普通』になっていたからこそ、問題と認識されなかったのではないか?と感じます。

 

 

毒親に対しての私見はまた記事にします。

 

 

落語だ!落語を聞こう!

わたしがこの『ワルプルギスの廻天』でなによりも氣の毒なのが、中盤の敵であるセルマ・テレーゼさんです。

 

あの〜〜〜〜〜〜〜、氣の毒すぎないですか。。。?

わたしは脳みそが幸福を求めているので、フィクション作品の中くらいはハッピーエンドになってほしかったです。

 

しかしあの虚淵玄さんの脚本ですし、TVシリーズでは巴マミさんを頭から喰い落とす描写をされていた方から考えるとかなりマイルドになったとも言えるか。。。

 

あと人生ってハッピーエンド一辺倒ではないし、なんでもハッピーエンドというのは、それはそれで御都合主義でもあるよなぁとも考えたりします。

 

 

ところでセルマ・テレーゼさんは「正当に評価してくれるから」という理由でキュウべえさんの側につきます。

結果利用されていたのですが、彼女の考え方って『鬼滅の刃』に登場していた獪岳さんと同じだなあとふと思いました。

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最後セルマ・テレーゼさんは「愛されたかった」と嘆きますが、それに対して百江なぎささんが「不完全な姿でいればよかったのにね」みたいな内容を言います。

 

これは大変不思議なことですが、完璧を求めると求めるほどに敬遠されるというか、愛されるには遠ざかるように思えます(逆に「利用される」には近づく)。

思考する限りでは『完璧を求めると完璧を求められそう』であったり『完璧を求めているが故に〈あそび〉がなくて精神的不安定になりがち』という理由があったりするのでしょうか。

 

いや、それはあれだ。

完璧を求めている以上、その人がその人自身を受け入れられていないからだ。

不完全や完璧ではなく思えても、それはその時どきにとって完璧な状態であるし、完全体になるためには不完全を経由することが必須思考ですからね。

 

公開年が違えど同じ題材のキャラクターが登場するということは、〈正解〉を過剰に求められていくであろうこれからの時代では、いかに【不完全な姿】を受容して愛せるかにかかっているのではないでしょうか?

自らの不完全を受け入れられたならば、他人様の不完全も受容できるってもんだし( ¨̮ )

 

落語だ!落語を聞こう!紺屋高尾!徂徠豆腐!

 

 

「びっくり箱の中身がわかってたらおもしろくないじゃ〜ん?」

物語の終盤で暁美ほむらさんが諦めます。

『鹿目まどかさんの選択を尊重せず自分の世界に押し込めようとする』のはやめる、ということであり、鹿目まどかさんに対しての執着を手放すということです。

 

しかし、これは清々しい類のものではなく、あくまでも諦めの体裁を為しています。

 

その諦めをみて佐倉杏子さんとかが「貴様だけはその立ち位置じゃだめだろ」と主張します。

『人間だった頃を知っているのは暁美ほむら、貴様だけなのだから、貴様が鹿目まどかへの執着を手放せば、それは鹿目まどかが神という役割だけを与えられた存在になる。だから、貴様は一生鹿目まどかを追い続けろ』という次第です(意訳)。

 

この言葉を聞いて暁美ほむらさんは最後まで鹿目まどかさんの神化に抗います。

 

 

この場面でわたしが思い浮かべたイメージは360度から放射状に引っ張られているが、押しても引いてもびくともしない《対象》です。

この《対象》としての物はなにを思い浮かべても良いのですが、上記を正確に言えば『360度から放射状に引っ張られているからこそ、押しても引いてもびくともしない』ということであり、その真ん中にある《対象》こそが、この世界ではないのかと感じました。

 

要約すると大変凡庸な表現になって、それが故にわたしの伝えたいことが伝わらない可能性があって恐怖なのですが、相手様を信頼しないと始まらないこともありますので書きます。

 

わたしはこの『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ ワルプルギスの廻天』を鑑賞して、「苦しいことばかり」と形容される世界も『それぞれ自身の天國と地獄』や、各々が願う『大切な存在が幸せでありますように』という祈りが互いに引っ張り合うことで絶妙なバランスを取っていることで成り立っているということ、だったのか?と思いました。

飛躍しすぎです。

 

つまり、思うままに生きろや( ¨̮ )、ということです。

あまりに凡庸なまとめすぎる。

 

 

そして上記した「なるほど!世界とは斯様だったのか!」という世界への解釈を感じた時に八十八ヶ所巡礼さんの『ウルトラ・ヘヴン』という曲が頭で鳴っていました。

日本

日本

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ん?永劫回帰?

自分の一挙手一投足の全てが世界に影響を与えている、となれば、なるほど!これが人生だったのか!ならばもう一度!となるのか?

ちなみに帰路は『日本』を通して聴きました( ¨̮ )v


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ところで前回公開した『緻密なトロッコ』という記事の内容で「一方の隆盛があればもう一方は衰退する。その繰り返しなシーソーが推進力となって、トロッコの如く世界をゴトゴト進めるのではないか」と推論を書きました。

地球は陰陽や潮の満ち引きがございますが、そういった『寄せては返す』があるからこそ地球という場所があるのでしょうか?

知りません。狂人の妄言です( ¨̮ )

 

 

ちなみにわたしは鹿目まどかさんが好きです。

彼女が偽善者と言われようが鹿目まどかさんです。

世界が悲しいで溢れるのは辛いでしょうが。

 

感情は宝であるという解釈もございますけれど。

 

つまりはお好きに生きて( ¨̮ )

 

 

フィボナッチ数列ってそれ、螺旋じゃね?

わたしのブログをよくお読みくださっている方であればご存知かと思いますが、わたしは螺旋に対して並々ならぬ関心を抱いています。

 

「螺旋ってこの世界の基礎コードなんじゃね?」とすら思っているみょ〜ちきりんな狂い人間です。

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ところで【フィボナッチ数列】というものがあります。

黄金比から曲線が繋がり永遠に続くというものですが、【フィボナッチ数列】って螺旋じゃないですか?

【フィボナッチ数列】は自然界にもあふれていますが、やはり螺旋はこの世界の基礎コードなのではないか。。

 

 

そして今回の記事で当ブログの投稿数が六六六回目です。弥勒菩薩です。

わたくしこの度初めて氣付いたのですが、アラビア数字の『6』って渦じゃないですか?つまり螺旋です。

左回転ですので広がっていく螺旋です。

 

繁榮できれば!

 

٩( ᐛ )و

 

 

2026年の下半期は觀たい映画がたくさん( `◟ 、)

個人的に2026年上半期の映画で最高だったは『マーズ・エクスプレス』くらいだったのですが、下半期は色々と鑑賞したい作品が揃い踏みです( ¨̮ )

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『八つ墓村』


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movies.shochiku.co.jp

 

『ディスクロージャー・デイ』


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disclosureday.jp

 

『バイオハザード』


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biomovie.jp

 

『mentor』


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www.mentor-movie.jp

 

『GROTESQQQUE-グロテスク-』


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movie-gtq123.com

 

『装甲騎兵ボトムズ 灰色の魔女』


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www.votoms-gh.com

 

 

ひとつは横溝作品のいちファンとして、ひとつは都市伝説とか好きな人間として、一つはホラーファンとして、ひとつは『愚か者の身分』での綾野剛さんの演技に惚れて、ひとつは〈センスいいものアンテナ〉が反応して、ひとつは単純に物語が面白そうだから。

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たのしみがいっぱいだ!٩( ᐛ )و

 

ありがとうございました‪٩( ᐛ )و

 

緻密なトロッコ

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

愚かしくも人間。

常識というものに遵守しようといたします。

 

しかしその常識というのも、時が流るるに従い形は変容していきます。

 

真偽は不明、また真意も不要ですが先日惡魔のTwitter鳥にて下記のような投稿を拝見いたしました。

 

~概要~

あんなに潰しちゃいけないと言われていたニキビも、常識って変わるもんだなあ。

~ニキビ柄のビキニ~

 

 

サン

 

ド

 

イッチ

 

 

上記しました投稿内容が意図していることとしては『以前までは御法度だったニキビを潰す行為も今では推奨されていて』ということでしょう。

その時のわたし : へえ〜

 

また上記投稿ですが、真偽は不明です。

そもそもブルーバードSNSの情報なんて間に受ける価値などほとんどない。きっと。

 

なおまつ毛程度調べたところ《ニキビは潰したほうが良い》という言説は見当たりませんでした。

〈ニキビを潰してはいけない〉派閥の理由としては、潰しても膿を出しきれない可能性が高いから・潰したニキビから炎症が発生する可能性があるからなどだそうですね。

その時のわたし : プァプァプヤ

 

ニキビへの対処法の是非などは割と心底どうでも良いのですが、その諸作に対しては "氣になるもの" があります。

 

 

ちなみにニキビは積極的に潰していた派ですが目視の限り痕にはなっていません。

 

 

"氣になるもの" というのは、〈ニキビは早急に潰すほうが良い〉派閥も実際に存在しており、〈ニキビは潰すべきではない〉派閥とその言説を転覆させたいと日夜研究を進めているのではないだろうか、という部分です。

 

その研究が功を奏し、将来的に「ニキビは潰して膿を出しきるべき」という価値觀が常識となれば、研究をしていた側としては悲願でしょう。

 

さて、その悲願の裏には何があるのかと思考を差し向けてみれば、〈潰しニキビ厳禁派閥〉の怒り。があるかもしれません。

果たして怒りはなくとも「これまでの研究が水泡に帰しちゃったじゃん」という遣る瀬なさはあるのではないかと感じます。

少なくとも資本主義の世の中では、常識とされている流れや流行に流れて行きますものね。

 

結果、何が起きそうなのか。と考えれば〈ニキビを潰すのなんて厳禁中の厳禁〉派閥の再興などです。

 

 

今回、誰もが経験したことのあるであろう【ニキビ】を題材にしましたが、上記した流れや榮枯盛衰の流動とかってあらゆるものに当てはめられるのだろうなぁと考えます。

企業間の自由競爭にしても、政治政党にしても、國家間にしても。

 

わたしはその流動に抗うというか、苦言を呈すつもりはありません。

きっとその流動とはヒト規模での〈システム〉に該当するのだろうと感じているからです。

 

そしてその寄せては返していく波のような流動は、極小の無意識となって我々に組み込まれている。

それはさながら基礎コードのようにです。

あら?螺旋か?

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一方が隆盛することでもう一方は鳴りを潜める。

時間の経過とともに鳴りを潜めていた一方は盛り返しが行われ、それまで隆盛していた一方の勢いは目立たなくなっていく。

それが超、一個人間で日常的に行われている。

 

流動的な波はシーソーのようであり、榮枯盛衰・盛者必衰がシーソーのようにギコバタと寄せ返し推進力となる。

このシーソーな推進力がヒトの社会全体を推し進める力になり、それは緻密なトロッコを模しているようだなと感じます。

 

 

さて、ここで問題?となるように感ずるは『シーソーは完全な個人意思で引き起こされる』ということです。

 

しかし。

本当に【完全な個人意思】なのでしょうか。

 

〈自由意志というものは、本当にあるのか?〉ということです。

 

寄せては返す波のように思える人間社会の流動が、果たして無意識に組み込まれたものであるならば、どうして《自由意志》と言い切ることができるでしょう?

 

 

以前わたしは『社会の歯車って言うけど、歯車なのは企業などの組織であり、我々大衆は精々歯車を滑らかに動かすための潤滑油なんじゃね?』という大変お氣分を悪くする推察をいたしました。

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ポ。

 

人間社会を発展させるため、超無意識的に "寄せては返す" を行なっているとの仮説を是とすれば、"寄せては返す" を担っている一要素としての個人が自死することや、他者を殺めるという行動が推奨されない理由が、自ずと浮き上がってくるようにも思えます。

 

そしてここで思い浮かぶは、映画『マトリックス』。

大変ネタバレですが、第一作目の確信とは「この現実社会は仮想現実にて、人間は栽培されており人間の感情を機械の原動力としていた」との内容でした。

マトリックス

マトリックス

  • キアヌ・リーブス
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【感情】と一言に書いても感情とは様々です。

では【感情】を〈寄せては返すもの〉と認識すれば如何でしょうか。

 

基本的に【感情】とは個人が持っている掛け替えのないものであり、そして宝物です。

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映画『マトリックス』では人間が栽培されておりましたが、その理由とは人間が生み出す感情を世界運用の原動力としていたためでした。

 

もちろん創作物ですし、今回の仮説もあくまでも思考実験の類です。

 

しかし、人間の【感情】が世界や社会を推し進めているのは事実ではあります。

だって『怠惰』や、その裏返しの『より良い人生を』という指標は色々なものを発展させるための原動力であり、且つ指標であることには変わりないためです。

 

 

さてはて、人間の【感情】は社会をトロッコの如くゴトゴト推進させて行きますが、その "推進" するものはあくまでも〈人間社会〉のみであるということにお氣づきでしょうか。

ふふふ。

fff.

 

あなた様もご存知の通り、この世界には人間という愚かな生物意外もいらっしゃいます。

というよりも、 ヒトの総数よりも他の生物さんや、ヒトが勝手氣儘に「虫」と呼称している存在の方が、遥かに個体数が多いのだろうなと感じます。

 

流石に思考がやりすぎていると思いますが、わたしはこの人間以外の生物とはヒトを監督する存在なのではないか?と考えたりもしています。

 

まあまあ、一種の娯樂。ただの思考実験ですから( ¨̮ )

 

もちろん本氣でそう思っている訳ではなく、映画『マトリックス』のように人間が【感情】を覺えることによって物事への原動力となるのであれば、実際に我々が生活しているこの世界も『マトリックス』の世界と同様であり、人間の【感情】を引き出すために蟲の皆様やその他多くの生物がいらっしゃったりするのではないか?と考えることもできる、という次第です。

真実なんてわかりっこないので好き放題言えちゃうって寸法です( ¨̮ )

 

もしこの思考実験のお題が正しいと仮定した時、ふと思うことがあります。

「人間、利用されていない?」

 

a. そうです。

 

「なんか使役されてる感じ、罪人か囚人みたいですね。強制労働じゃん」

 

A. そうです。たぶん。

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地球って刑場なんじゃない?知らないけけれど。

刑場という場所だから解脱という価値觀もあるんじゃない?知ららないけれれど。

 

となれば、キリスト教の価値觀であります『原罪』とは、ちきうにいるということの理由であり、その贖罪のためにちきうにいるのか?とかとも考えたたりしますすす。

 

色々な宗教的価値觀が入り乱れていますが、わたしは一つの価値觀を遵守することに重要さを感じていません。

 

ちなみに地球のニンゲンはほとんどが罪人だとは思いますが、だからと言って全員がそうだとは考えていません。

ほら、ちきうにも監獄ツアーってあるじゃないですか( ¨̮ )

またきっとたぶんおそらく、【感情】ってちきう特有の特産品ですからね。

 

 

また無意識の本能的部分が人間社会を発展(良くも悪くも)させているというのは、星新一さんの『宿命』という作品と大変似ていると感じます。

 

昨今は富豪さん方がしきりとちきうから出ようと競爭をなさっていますが(結構な事でございます)、もしやすれば上記作品の顛末と同じなんてこともあるやもしれません。

知りません‪( ¨̮ )‬

 

 

 

愚かね〜〜と思うも、なかなか面白みのある考え方だわね、と思うもご自由です( ¨̮ )

どう思うも自由、どうぞお好きに生きてください( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

(😭)

 

他者から軽んじられていた理由。

それはなによりも自分自身が自らを軽んじていたからだと、自覺してしまった。

 

最悪な氣分だ。

 

しかし、それはこれからの生き方に必要ではない価値觀であるから、今になって見えたのだろう。

 

氣分は悪いが光明は見えた。

 

敵は血に潜んでる。

 

のろまな時は止む、我らの先は絶妙〜ッ

 

🍶