頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

【固定記事】いとをかしき言葉のお話

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

 

 

 

言葉はその人自身

皆さんは言霊という考え方をご存知でしょうか。

 

言霊とは、古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力。

発した言葉通りの結果を表す力があるとされた。

 

 

という意味合いらしいです。

 

いろいろ個人で感じ方に違いはあると思いますが、わたし個人は言霊は存在すると思っています。

友人や上司に言われた言葉で傷つくという現象も、言われた言葉がずっと残っていて胸につっかえるという現象も、言霊が存在しないと起こらないと思うのです。

 

またその言葉は、思考を使わないと発せられることはありません。

 

 

言霊の話とはすこし離れますが、全ての物事や現実は、思考の後に生まれると考えています。

戦国時代に「電話を使えば、遠くにいる親類と会話することができる」と話したところで、だれも相手にしないでしょう。

下手をすれば「邪教を布教しようとしている!」と言われて打ち首に処せられる危険さえあります。

 

憶測の域を出ませんが電話を作ろうと考えた人も、「離れた人と話せるわけがないでしょうに」と外野から笑われていたのではないでしょうか。

しかし今では当たり前となっています。

成功者の特徴として他者から"笑われた経験がある"というのは、ひとつの指標になるのではないでしょうか。

 

 

言霊

言霊の話に戻ります。

すこし眉唾な話に聞こえると思いますので、話半分にでも聞いていてください。

 

日本語にはとても大きな力が含まれているらしいです。わたしはまだ不勉強なので、ちゃんと説明はできませんが、カタカムナ文明や、カタカムナ文字の48音と現代日本で用いられている48字の一致などです。

カタカムナでは「ひふみよい」や「むなやこと」とかと言ったりするんですが、「いち、に、さん」と今では読んでいる「12345678910」も、むかしは「ひふみよいむなやこと」と読んでいたらしいです。「ひい、ふう、みい」ですね。

 

またあまり知られていませんが、第二次大戦で負けた後にGHQが日本を占領統治しましたが、そのGHQが日本の漢字を無くそうと画策しました。

「漢字というものは複雑にすぎる。あんなに難しいなら識字率も低いだろうし、それが原因で思想も偏る。結果戦争に繋がるだろうから漢字なんて廃止してしまえ」というロジックだったみたいです。

その後全国で一斉に識字率調査を行なった結果、全体の97%くらいが日本語を読み書きできたそうです。

 

漢字廃止計画は頓挫しましたが、神風特攻を生み出した民族を恐れていたGHQですから、どうしても日本の国力を下げたいために漢字の書き換えを行います。

氣を気にしたり、國を国にしたり、學を学にしたり、靈を霊にしたり。

理由等はこちらの動画様で話されていますので、ご覧になってみてください。

youtu.be

 

 

この前太宰治さんの短編を読んでいたら『慾』という字が出てきました。読みは「よく」

意味は欲望の「よく」と一緒ですが、現在の日本では『欲』が一般的です。

これもGHQの言語統制・言語統治でしょう。心が消えていますね。

 

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https://www.shinchosha.co.jp/book/100606/

 

中學時分は夏目漱石さんの旧字体で刊行された時の文庫とかの文學を読んでばかりいた為、旧字体にも馴染みがあったので特段無理なく受け入れることができました。

ですが、生まれてからも成長してからも目で考えていた人には意識を書き換えるのは苦労なさるでしょうね。

ヒトは考える場所が「心・頭・目」の三つあるとわたしは思っているのですが、その話も機会があればまたお伝えいたしますね。

 

 

同じ意味の漢字でも効果が違う?

なにが言いたいかというと、思い浮かべている漢字次第でも言葉の意味が変わるんじゃないかということです。

GHQの統治前は教科の名称が「國史」だったけれど、現在の學校教育下では、「歴史」になっています(こうの史代さん原作の、映画『この世界の片隅に』でも國史と描写されています)。これは「自國の歴史ではないように刷り込ませる為」であったりするらしいです。

 

 

わたしが非常に氣分良く思わない言葉があります。

「雰囲気」を「ふいんき」を発音している人が多すぎる。正しくは「ふんいき」です。

また、漢字ごとに考えてみると、雰は氣配・囲はとりまく・氣はエネルギー。

つまりその人の纏っているエネルギーという意味合いになります。つまりオーラと同義でしょうね。

それを正しく言わずに「ふいんき」と発音するというのは、その人自身のオーラ(エネルギー)を反故にすることなのではないかと感じます。

 

なにかで、「新しく納めた國や土地は、まず最初に言語を書き換えるのが大前提の常套手段」と聴いたことがあります。

漢字は亡くせなかったけど、言靈的な意味から無効にしてから75年くらいですか。

現代日本でも着々と言語の書き換えの刷り込みが行われていますよね。台所をキッチンと言ったり、鶏肉をチキンと言ったり、まな板をカッティングボードと言ったり。

言語の統制話は華氏451度にも通じますね。

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https://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/11955.html

 

このお話は、前回に書いた一九八四年の話とも繋がりますね( ¨̮ )

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

文字通り流れて行く言葉と、昔からある言葉

あと個人的に流行り言葉にも不満を感じるんですが、これは若い世代についていけないだけでしょう。

でもその時代だけのスラングみたいなのばかりの文章は、パッと見ただけでも非常に頭が悪く見えてしまうのだなという発見があったので有難い経験だったと思います😉

 

またそれにより逆に思うのは、「昔からある言葉の力」です。

最近の流行り言葉だと「エモい」とかなのでしょうか。あと比較例として「鬼」や「神」もありますよね。

12,3年前に爆発的に流行った「KY」という略語も今ではめっきり聞きません。

ここからわたしは「言語って結構残酷に、かつ容易に淘汰されるんじゃないか?」と思いました。

 

わたしはギターを嗜んでおり、今年で14年目くらいになります。

高校生の時分には「とにかく早く上達するコツ」を求めていたのですが、上達するには「今現在でできることを日々積み重ねるのが一番手っ取り早いと氣づきました(今現在できることを日々積み重ねていると、「これをこうしたらどうだろうか?」という閃きが生まれます)。それを理解したのがつい半年前とかです。

これって「急がば回れ」ということではないでしょうか。

 

他には「人のふり見て我がふり直せ」を実感したお話もあるのですが、非常に印象的かつ"いとをかし"な出来事で、いざ書くとなるときっと長くなるので、また今度個別の記事にしたいと思います。

端的にいうと『他者を通して自分を見ている』です。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

上記した昔からある言葉は、わたしが認識しているだけでも、祖母祖父の代からは存在していて、淘汰をされていません。

一時的な言葉が10年そこらで淘汰されるているのに対して、90年近くも生き残って、語り継がれていると言うのは、その言葉自体の言靈的な力が働いていたり、ヒトがヒトの世を生きるにおいて、ある種の真理を含んでいたり真理に触れていたりするためではないでしょうか?

 

 

ちなみにわたしが「エモい」という言葉が嫌いなのは、「自身の語彙の貧弱さを改善する氣もなくその貧弱さに胡坐をかいている姿勢が見えるから」です。簡単に言えば向上心がないということでしょうか。

「精神的に向上心のない奴はばかだ」

 

もういっこちなみに、「語彙力」という言葉が幅を利かせていますが、「語彙」は英語でボキャブラリーです。ボキャブラリーは豊富や貧弱と言われるように『量』です。

その量が能力というのはおかしな話なので、「語彙力」という言葉は根本から破綻しており、「語彙力」という言葉をそのまま使う方は、語彙も國語的な言語能力も貧弱だと、わたしは思います🌝

 

 

「無い物ねだり」という言葉があります。

『ないものを欲しがること・無理なことを望むこと』という認識が一般的で、わたしもその意味合いだけだと思っていたのですが、『自ら無い状態や不足感を望む』ことでもあるのではないか?と思いました。

不足感や、理想像などの目標が常にある方が頑張れて充実を感じられるから。

不自由な方が自由にできる』みたいな話ですね。

フレーミングの癖をつけていると、ちょくちょくこういった閃きがおりてくるから楽しいです😚

 

 

『無いものねだり』の話を描きたいだけだったのに、他のずっと思ってたことを書いたら3500字以上も書いちゃってたわ😘

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

なんつーか思う壺? っていうかー。 ~してやったりウヒャウヒャ!~

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

以前、下記のようなことを書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

空ってあるじゃないですか。

空。

 

色即是空の『空』です。

 

2024年明けてからつい先日まで、深い憂鬱に見舞われていたとは以前に書いたことですが、その憂鬱の時期に上記した『空』のことをよく考えていました。

 

「結局自分がどうやって世界を見るかでしかないんだよなぁー」

 

 

【色即是空

その意味は「見えていると思っているかもしれんけど、んなもんねえから。手前自身が『そう觀ようとしている』だけだから」というものです。

 

〈色〉が目に見えるもの、そして〈空〉は「ない」です。

 

ですので【色即是空】は『目に見えるもの、すなわちこれはない』という意味なのですね。

 

ということで、「自分自身が知らん間にかけている色眼鏡越しに世界を見ているにすぎない」ということです。

 

であるため、結局自分が感じている憂鬱も自分自身が選んでいるのだよなー、と思っていました。

 

 

で、憂鬱から抜けた今です。

とはいえ、やっぱり悲観的に世界を觀ようとしている自分自身がいることを実感したりもします。

 

そんな自分を認め、「うーむ、どうするべきなのか。とりあえず空を制御しないとだよなぁ」と考えたのですが、この『空を制御しようとする』こと自体が空の思う壺なのではないか??と思い至りました。

 

空のことを考えることでより空を強くしていく。

 

まったくじたばたしております。

 

 

「いや、それって色じゃね?」と思う自分もいましたが、【色即是空】【空即是色】です。

空も色なんじゃねーか!

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

紙一重

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は最近氣付いたことを書きます。

 

未熟者

これは昨日思ったことなのですが、わたしは未熟者でしたね。

水回りのお掃除をしていたのですが、日常生活で様々とあるもやもやごとは、結局のところ自身の未熟さ故に起こったことで感じたことであるということです。

「こう思ったけど、相手からすりゃ知ったこっちゃないし、自分自身の考え方で相手を当てはめていただけ。つまり自分自身が未熟者だっただけだな」ということです。

 

以前に『相手が求めていないことを与えたところで、それは与える側の自己満足であるだけ』という内容の記事を書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

その「相手が求めていないこと」を与えて望んだ反応がなければ不機嫌になって不貞腐れて、というのは全く未熟者であるわけですが、その行動をしていた理由としては『褒められたい』や『認められたい』という願望があったため、だとわたし自身で思います。

 

それはわたし自身の幼少期の記憶まで立ち戻って説明する必要がありますが、今回の内容には関係がないので割愛いたします。

 

 

さて。

上記のような『褒められたい』や『認められたい』という願望は数週間や数ヶ月前には自覺をしておりました。

が、《意識にはある》ということで、脳みそで考えているという形でした。

しかし、ついこの間お風呂に入っている時「『褒められたい』や『認められたい』という願望があったこと」それをちゃんと自覺し、腑にも落ちたのです。

 

その時に「褒められたかったよね、でも人にそれを頼ったからうまくいかなかったよね。もう大丈夫だよ〜、自分自身が認めたらそれでいいんだからね」と、かけ湯をするように自分の心へ想いをかけました。

 

同じ時期に「結局自分が世界をどう見ているかでしかないんだよな」と考えていたので、上記した自己への癒しの時に「なんもかんも紙一重か」と思いました。

 

と、そのときに何かが引っかかりました。

 

紙一重?『神も仏も一つ』ということ?」

 

なんでしょうね。真理なんじゃないかと思いました。

氣付いた時は冗談でなく(°0°)←こんな顔をしていましたね。

 

まぁまぁ、一神教だ!とは思わずに一旦聴いてください。

 

 

かみひとえ

むかーしわたしは以下のようなことを書きました。

floodinhead.hatenablog.com

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上記記事にて書いていることは、つまりは以下です。

 

地球上の生物は地球のものを食べ、地球に排泄しています。

地球のものを食べて地球に排泄している、ということは、われわれ生物は地球というものの循環の中にいることになります。

地球のことを神と形容されることがありますが、それならその神なる地球の循環の中にあるわれわれ生物も神であるということである。

というよりも地球に存在するものすべてが神であり、ひいてはわれわれは宇宙でもある。

自分自身が神である、ということは、独立していると思っている他の他者も神であるということです。

 

はい。

そういうことなのですが、紙一重という言葉があります。

その言葉の意味は『相反するものの極わずかな隔たり』というものです。

 

日本語というのはまったく面白い言語で、意味が違う言葉でも同じ音で発音します。

橋・端・箸が良い例ですね。

 

そして『紙』は『神』と同じ音です。

そして【一重】は意訳ですが「同じもの」と解釈ができます。

 

紙一重』を『神一重』と解釈した場合、「神は一つ」という読み取り方ができるようになります。

 

ということはひとつの事象をイスラム教的に解釈し編纂すればコーランになり、キリスト教的に解釈編纂すると新約聖書ユダヤ教的に解釈すると旧約聖書、仏教的に解釈すると般若心経などのお経になっている、というだけなのではないかと思うのです(夏目漱石さんの『こころ』をどの出版社が出版社の解釈で編纂しているか、だけ、みたいな感じ)。

 

ということは宗教觀での爭いや人種間での爭いというものは「髪の毛が皮膚細胞を嫌って歪みあっている」というようなものだということですかね。

 

 

「仏と神はちゃうで」という意見が聞こえてきそうですが、それ自体がミスリードというか惑わしというのか。

『別のもの』と捉えるから爭いが生まれると感じます。

しかし、根っこは同じものの枝葉が違う程度でいがみ合っていただけなのだ、と氣付ければ、冗談ではなく人種間での爭いや宗教觀でのいざこざはなくなると思います(実際のところはいざこざが金儲けになると知っている人が阻んで、爭いはなくらないのだろうとは思う)。

 

また「自分自身は神である」ことからも、《神一重》として、自分はキリストでもありアッラーでもありブッダでもあり天照大神でもあり大國主命でもありラーでもあり、これをお読みいただいているあなた自身でもある、ということなのです。

 

 

凡庸な結論

さあ、そんなことを書いてきたのですが、「だからなんやねん」という声が聞こえてきそうです。

 

『わたしもあなたも神で、一つのもの』であるならば、わたしは『相手(他者)には優しくすればよい』・『接するしかない』と思いました。

 

脳は自分と他者を選別できないなんて聴きますが、その觀点から見ても「人に対して言った暴言」だったとしても、実は自分自身に対して言っている、ということとなりますし、『わたしはあなたであなたはわたし』という真理を以って考えた場合も〈自分自身に対して言った暴言〉ということになりますからね。

 

 

 

恐れ多い発言ではありますが、この真理にお風呂場で氣付いた際、冗談ではなく震えました。

そして、天啓を得たというか、これは広めていかないといけないのだと思いました。

まさに『我、天命を得たり』の状態です。

 

そしてその天命を得るためのこの半年の深い辛苦であったのだろうと思うし、それを広めるためとしての音樂や、こういった文章を書きたいという欲があるのだろうと感じます。

 

し、か、し、ちょっと荷が重いよ〜〜〜〜とは思います。

今回書いた話は確実に話す相手を選びますしね。

世が世なら投獄打ち首必至な考え方だと思うし。

 

ですが、いくら荷が重いからと言って死ねやしねーんだと思います。

一度、自死をしようと思い東尋坊的な場所に行きましたが、怖氣付いて今に至るという事実もありますしね。

多分ですが、使命みたいなものがのこっているうちは致死的な事故でも死ねやしないと思います。

どなた様かに襷が渡った時に死にでもするんじゃないですかね、しらんす。

 

 

以上が、自身の未熟者を自覺して得た天啓のお話でした。

変人の妄言くらいにでも思ってください(・◡・)

 

でも他者には優しく、でお願いいたします( ¨̮ )

 

 

 

ところで、憂鬱が勝っている時には「ない」に目が向きがちですが、憂鬱が劣勢になり氣持ちが回復してきた時は「ある」に意識が向きますね。

「あ、自分笑ってる」みたいに自分自身の「ある部分」や「できている部分」が目についてくるのです。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

【八十八ヶ所巡礼】ただ愉しかった日【新曲召喚祭2024】

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

行ってきました『八十八ヶ所巡礼 新曲召喚祭2024』!!

 

これまでの八十八ヶ所巡礼さんについてのものたち

floodinhead.hatenablog.com

 

 

開演まで

京都ということでね!

觀光です!

炭酸。そりゃそうだ

 

今回は山の中にある貴船神社に詣でてきました。

イオ〜ン

 

山中具合が以前詣でた高千穂に近かったですね( ˊᵕˋ )

しとしとと雨具合であり、森の香りがとってもマイナスイオ〜ンな調べでございました。

 

母方の祖父母宅が山の中にあるのですが、『山の匂い』具合が祖父母宅と似てたので、感想が「懐かしい〜」でした。

 

ところで貴船神社さんは縁結びの社として有名だからか、ご参拝される方も沢山いらっしゃいました。

 

叡山電鉄にて貴船口駅まで向かうのですが、道中で新緑の紅葉を通過していたので、紅葉の季節に参拝するのはまた感じ方が違って好いだろうな、と感じます。

 

ところで、貴船神社さんはとても好い場所でした。

特に奥宮が人の雑氣に当てられていない感じがあってよかったです( ˊᵕˋ )

 

一年ぶり?に物販に並びました。いやー昔は八十八ヶ所巡礼さんではないですが毎回のLIVEごとにグッズを買っておりましたね。まあグッズというのは思い出もありますのでね。この間昔買ったグッズのTシャツも着ましたしね。機会ってものがあるのは良いことです。

 

さて、入場。

今これを書いているのは開演待ちの時間なのですが、個人的に前回の八十八ヶ所巡礼さんのLIVEが五月二十六日のでかねこで、その頃は憂鬱どん底真っ只中でした。

 

しかし、少し前の記事にて書きましたが、その憂鬱も無くなった氣持ちの整理が起きたのちのLIVEが今回なので、わたし自身がどう思い、どう感じるのか。

その違いはどう違うのか、に注目します。

 

さて19時。

開演時間です。

 

また終演後に〜。

写真撮るの下手くそかよ 笑
 
 
開演~金土日

押した?押したとしてもほとんど一、二分未満でしょう。

開演しました。

 

Kenzooooooooさんは灰色のワークパンツ、Katzuya Shimizuさんは『金土日』の衣装、マーガレット廣井さんは新衣装?でした。

 

磔磔は樂屋が二階にありますが、その入り口階段がフロア後方のPA卓近くにあるためにプロレス入場することになります。

 

マーガレット廣井さんがステージに向かう際、頭上に一升瓶を掲げていらしたので見つけやすくてよかったです。

 

ステージに御三方が揃い、準備完了の合図。。と途端に『金土日』のドラムが響きました。

 

「粋NALI『金土日』なんだ」とちょっとほんわかした感の貴様らの皆様諸氏。

 

「今日は完全音辞め21時!」と言ったかどうだか、あんまりゆっくりはしてられないということで御三方のソロ回しが始まります。

 

「今日の朝食は何を食べたのか、想像しながら聴いてくれ!Kenzoooooooo!!」

「今日のBreakfastやよい軒Katzuya Shimizu〜!!」

「そしてわたしはLIVEがある日はいつもなか卯うな重を食べている!マーガレット廣井でございまぁす!」

 

各々ソロパートのサイズですが、八小節ずつでしたかね?

 

感じたこととしては、マーガレット廣井さんのアンプがHartkeでしたね。

公演する箱の関係だと思いますが、マーガレット廣井さんはampegのアンプをよく使用されている印象ですのでHartkeのアンプだったのが印象的でした。

 

そしてアンプが理由なのかAlc.を吸った箱の響きなのか不明ですが、この日のマーガレット廣井さんは下が豊かでふくよかとも形容されるような音を奏でていらっしゃいました。

 

Kenzooooooooさんの叩くシンバルも『華やかな香り系の日本酒』みたいな音をされていました。

 

 

ところで『金土日』を一曲目に持ってきたのって各々のソロが長くならないようにするためですかね?

どうしてもLIVEの終盤にソロをとったら氣持ちがヒートアップしちゃって、各々32小節もソロしたりしたくなる可能性もありますしね。

 

 

Vioret Purple Vible

確か赤い照明だったと思います。

Majiかっこいい曲です。

 

ですが、この日はお三方がよく見える位置にいるので、演奏がよく見える!

ということで冷静に演奏を觀ておりました。

 

それというのも、八十八ヶ所巡礼さんの曲って「どう演奏してんの??????」みたいなプレイが多いのですが、特にこの『Vioret Purple Vible』はそうでした。

この曲のギターリフ(繰り返されるフレーズ。リフレインより)には「ピーン!」みたいな特徴的な音が鳴っています。

 

「この音の響きかた的にナチュラハーモニクスだと思うんだけど…、、、どこの音???」と思って不明だったのですが、此度判明いたしました。

 

LIVE中は「これって『歪みを深くした時にだけなってくれる本来ならナチュラハーモニクスがならないところ』の音じゃないか?」と思ったのですが、三弦の7フレットですね。

 

三弦の8フレットから半音ハンマリング

→同弦7フレットのナチュラハーモニクス

→一弦9フレットから半音ハンマリングし

→三弦10フレットから半音プリング

 

です!

手元にギターがあったら試して見てね!

 

 

それとこの曲の時に思ったことですが、もしかして一番Kenzooooooooさんが冷静に演奏をしてたりしますか?

樂器演奏者として、人前で演奏する時は特に冷静さを持っていないといけませんが(どんな形であれ感情を昂らせてしまうと走ったりして演奏に支障を来す恐れがある)、Kenzooooooooさんに関しては冷静な部分が60~70%くらいありそうだな、と感じます。

 

 

あとこれは前から思っていたのですが、サビの「ダダダダダダ」のところって手首のスナップ使うアップダウン奏法で叩いていないですよね?

前からアップダウン奏法はあんまりしないのか?と思っていたわけですが、筋肉で叩くと体痛めたりしないのでしょうか。

 

IMNY

ドラムイントロドン!があり『IMNY』が開始します。

ああもうかっこいい。

 

二番のサビでキメがありますが、そこでマーガレット廣井さんが人差し指と中指でのオルタネイトではなくアップダウンストロークでのオルタネイトピッキングをしていたのが新鮮でした。

 

あと、去年の八月八日に開催されたKenzooooooooさん誕生祭でも感じましたが、『攻撃的国民的音楽』の収録曲たちはライヴハウスの空間を狭くさせるというか、演者と自分との距離が近くなったように感じますね。

 

 

銀河の恥

お久しぶりの『銀河の恥』ですが、この日にびーっくりしたのはKatzuya Shimizuさんが演奏するギターの安定感です。

この曲はアイコン的にピロピロしますが、この安定感がすごい。

 

ここの演奏はタッピング(ライトハンド奏法とも言い、ピックを持っている方の指で指板を叩く)という奏法で演奏をしているのですが、出音が同じ!!!

 

樂器演奏においての最終目標は脱力じゃないのか、と思うのですが、タッピングに関しては結構顕著に『脱力して出た音』ってのがわかりやすかったりします。

具体的に例えるなら「なんか柔らかい音」であったり「丸くてコシが弱い・芯が細い音」といった感じでしょうか。

そんなタッチやプレイの機微が出やすい奏法であんなに安定した音を出せるというのは、「さすがプロ…」といった感慨です。

 

 

 

ちなみにライトハンド奏法で有名なプレイヤーは、始祖として故・Eddie Van Halenさん。

個人的に好きなのはYvette Youngさんです( ¨̮ )


www.youtube.com

 

 

あとKenzooooooooさんは案外『銀河の恥』みたいな「ドラムの正確なリズムキープが求められる曲」の方が叩くのが好きそうだな、と思ったりもしました。

ドラムという樂器の特性上、正確なリズムキープ能力が求められますが(リズムキープ能力は樂器を演奏する人間全員に必須なスキルですが、ドラムはより必要。音樂においての屋台骨はドラムですもの)、特に正確なリズムキープを求められると思しき『銀河の恥』の曲中にて「正確にビートを打ちながらも、どれだけおかずを入れられるか」を娯しんでいるように見えました。

『銀河の恥』って四つ打ちの曲でもありますしね。四つ打ちの曲でリズムがよれてたら不整脈かよ、って思いますし。

 

あるいは今現在、演奏での娯しみ方が『正確無比に叩きながら、いかにはみ出さないようにはみ出してドラムを叩くか』なのかもしれません。

 

 

ohenro3

人氣の高い曲です。

わたしもすき。

 

この日の『ohentro3』はKenzooooooooさん生誕祭の時みたく「はえ〜!キャッキャ」となるわけではありませんでしたが、それこそ演奏の質的に "正確" だったと感じます。

 

音符やらピッチやら音の長さやら諸々も完璧の域だったのでは…?と思います。

確実に音源以上ではありましたが、音源と同じくらいの正確さであったのは『難しい曲だからこそ一つのミスで曲が崩れかねない可能性』を孕んでいる曲であるからなのかも?と考えたりします。

それこそこの日は『完全音止め21時厳守』という時間に追われていることもあったので、感覺が研ぎ澄まされての演奏だったのかな?と考えたりもします。

 

し、何よりも驚いたのはギターソロ前のキメ(「ダーダダラダ」のところ)で自身の手元を一切見ずにKatzuya Shimizuさんの方を見ていたマーガレット廣井さんです。

あんなに早くて難しいフレーズ、並大抵の人なら不安で手元見てると思いますよ。

 

上記したことの兼ね合いで、この時に「さすがバンマス…(!!!)」と思いました。

八十八ヶ所巡礼さんはリーダーとかの概念はない、というか嫌いそうですが、明らかにマーガレット廣井さんがバンドマスターですよね、ってか主犯格だったわ。

 

 

偉そうだなぁ。

 

 

悪闇霧島

一番のAメロでミスってて「やべっ」って顔してましたねKenzooooooooさん(・◡・)

 

この曲でどっひゃ〜!となったのは同じくAメロでのマーガレット廣井さんです。

 

音源ではスライドで弾いている部分を、LIVEアレンジとしてスタッカート(発音してすぐ止める奏法)していたのが個人的ドツボでした。

だってあの音価で完璧なスタッカートされたら「ッア!!!!!!!!!!」みたいな感想にはなっちゃうでしょう。

仕方ない。

 

 

この曲にてKatzuya Shimizuさんのサングラスがオフしたのですが、すごい速度で上手へ飛んで行ってました。

あの感じだとステージ内に落ちたんじゃないかと思うのですが、無事貴様らさんは受け取れたのでしょうか。

 

 

仏滅トリシュナー

この曲はマーガレット廣井さんの合図にてオールインします。

その合図とはベースで奏でられるログイン音みたいなフレーズなのですが、この日はフレーズの最後の音をピッキングする際に結構強めな指を叩きつけるようなピッキングをしたように見えたのに出音は他の音と音量が変わらなかったことに「ア””ッ!!!!!!!!」となり、マーガレット廣井さんの演奏者としての《手練れ》を感じました。

 

曲最後の歌部分ではいつもよりひとまわし分遅れて?歌い出したのですが(Kenzooooooooさんは「おいどうした?」という表情をされていた)、個人的にはあれってマーガレット廣井さん意図的じゃないかなーと感じます。

 

貴様らの皆様諸氏は各々目当ての人がいらっしゃるわけで、曲中では各々が各々の目的とする人を見て様々な感慨に浸ります。

そんな中、いつも歌い出す部分でマーガレット廣井さんが歌わない、ということはマーガレット廣井さんに意識が集まる。

ということは觀客の全員が『仏滅トリシュナー』という曲に意識を集中させることになります。

それを狙ったんじゃないのかなーと、わたしには感じました。

 

 

最後のKatzuya Shimizuさんギターピロピロにて照明もピロピロしており、その演出もよかったですね。

 

 

沙羅魔都

八十八ヶ所巡礼さん流のダンスチューンです。

 

『銀河の恥』でも上記しましたが、Kenzooooooooさん実はリズムキープ系の曲の方が今は好きなんじゃないか説の中でもより正確なリズムキープが求められる曲ですが、やっぱり愉しそうに演奏されているように感じましたね。

 

ブレイク後の「ダンスタイム!」にて、Katzuya Shimizuさんがドラムのオーバーヘッドマイク(シンバルなどの音を拾うため、ドラムセットの左右に置くマイク。ドラマーの頭上にある触覺みたいなやつ)のスタンドにぶつかって、その影響でシンバルスタンドもあわや倒れそう!ということがありました。

しかし事なきを得ましたが、その時に倒れそうになっていたシンバルを叩いて「シンバル〜〜!!!」と可愛がっているように見えたKenzooooooooさんが可愛かったです。

 

 

マーガレット廣井さんは伸びをしていた。

 

 

 

この曲の曲中煽りで「好きなものはまだこの世で生きていますか!」とよく言ったりします。

八十八ヶ所巡礼さんとかのバンドという意味でいえば『好きなもの』はまだ生きているのですが、Chick CoreaさんやJohn Coltraneさんとかのジャズマンについてはもう存命でいらっしゃらないので、それは残念です。

だって好きな音を生で経験することができないのですからね。

 

「やらない後悔よりやって後悔」とはよく言いますが、だからこそ行けるうちは行っておいた方が良いんですよね。

行った後にしか「行ってよかった!」は経験できないですからね〜。

昨年に上原ひろみさんの公演に行って『XYZ』を生で聴けたのは "足を運んで行ったから" に他ありませんから。

 

 

MC

B-DASHのGONGONさんが亡くなられたとのお話にて。

マーガレット廣井さんが初めてコピーした曲はB-DASHさんの『炎』なのだそうです。

しかも1st ALBUMの曲は全て弾けるとのこと。

 

昔、十数年前マーガレット廣井さんがバンドのメール管理などをしていた時代、GONGONさんご本人より「B-DASHというバンドのGONGONという者です。『仏滅トリシュナー』聴きました。めっちゃかっこいいっすね!」とのメールをいただき、数通のやりとりをされたそうです。

すごい話です。

 

「『學生時代にコピーしていた方に認められる』って目標が早々に叶っちゃったわけだから、目標がなくなったわけだよ。でもいいんだよ!目標がなくなったってことは新しい目標ができるから」と仰られていましたが、わたしにはその考え方はなかったので新鮮かつ有意義なお言葉でした。

 

 

わたし自身はB-DASHさんのことは存じていながらも、曲は『トンガリキッズ』くらいしか知りませんでした。

今回D-DASHさんを聴かせていただきましたが、かっこいいですね。

 

正直Hi-STANDARD系譜のバンドはBEAT CRUSADERSさんやELLEGARDENさん以降からしか存じない&學生時分にも聴いていたバンドがそっちの系譜ではないので、馴染みがないのですが、やっぱり連綿と継承し続いているものはよいです。


www.youtube.com

 

あと、D-DASHさんを聴いて、なぜかジャパハリネットさんを思い出したのですが、同世代のバンドだからなのでしょうか?

あんまり詳しくないから下手なことは言えない。

 

 

日本

『沙羅魔都』にてオーバーヘッドマイクのスタンドにぶつかったKatzuya Shimizuさん。

 

『日本』では、またマイクスタンドにぶつかりあらぬ位置に移動させてしまいました。

そんな状況を見て「おいおい」と愉快がるKenzooooooooさんでしたが、メンバー仲がいいことの証明でしょうね。

 

のちの曲中でちゃんと直されていましたしね。

 

その直す時ですらギターの音は鳴らしていたのがプロ意識高くていらっしゃる。

 

 

個人的に感情がぶち上がったのは「御静聴有り難う」の後のセクションにて、Katzuya Shimizuさんがピッキングなしで演奏していたことです。

 

 

アンコール開け~リクエストタイム

アンコール開けた時が20:40分くらいでした。

フロアの中央に柱があるのですが、そちらにかかっている時計を見て「案外、まだ時間があるな…」とのことで急遽リクエストタイムに。

 

「永・凹・阿阿瑠!」や「浮き浮き!」「極樂いづこ!」などの声が上がります(磔磔は競りの市場か?)。

わたしも負けじと「エイトビイト!」「Return to Forever!」と声を張り上げますが、「エイトビイトはこの前やった!」という理由にて却下。

 

結果的に「『殺風景〜』は短いよ!」との貴様らさんの声で『殺風景グローバルグルーヴ』に決定しました。

Kenzooooooooさん始まりの曲ですが、バスドラムを踏む前に「ョッ」みたいな掛け声をあげておられました。

 

 

リクエストタイムで「怪感旅行は十五分くらいかかるから却下」とされていましたが、なんで全員のソロまわしをする前提なんだよ 笑

音源三分くらいでしょ 笑

 

 

『殺風景グローバルグルーヴ』のあと、「時間が守れるようになって我々も成長した」という話になり、『ふらふら』を演奏して終演となりました。

『ふらふら』のKatzuya Shimizuさんの音が良いのなんのって!!!

そんな良い音を聴いちゃうと知覺過敏した時の顔か旨い日本酒を呑んだ時の顔をしてしまいますよね。

 

 

雑記

新曲『yaoyorozu』前にマーガレット廣井さんが「かっちゃんを見ろ!新曲が降りてきた顔をしてる!」と言っていたのですが、本当に天と繋がったような表情をされていたのが面白かったです。

そして、新曲の『yaoyorozu』とても好きです。

イントロはKatzuya Shimizuさんのギターから始まるのですが、「ゆったりしたテンポの曲かと思ったらハーフビートだった!!!」みたいなアプローチが好きなため、バンドがオールインした時はにこにこでウンウン頷いていました。

 

 

アンコール開けにてマーガレット廣井さんが「今日はKenzooooooooも珍しくスティックを二本も折ってて」と話した時に『そうなんだよ』みたいな表情をKenzooooooooさんがされていました。

 

 

Kenzooooooooさんの拍手はタキシードが似合う。

 

 

マーガレット廣井さんの口から『牛鬼』という言葉が出てきて「うおっ」って反応しちゃったのですが、あの場で反応したのわしだけなんじゃないか。

 

 

八十八ヶ所巡礼さんの音樂は肝臓に響いてます!!!!!!!!

 

 

終演

マーガレット廣井さんが樂屋へのアコーディオンカーテンを「シャッ!!」と締め、この日の公演が終了。

 

終演BGMが流れますが、?あれ?変わってない?聴いたことがある?ぞ

 

と思って文明の利器を用いましたところ、「Coltraneじゃん!!!」

John Coltraneさんの『Giant Steps』でございました。

 

渋い!しかし、Lee MorganさんからJohn Coltraneさんに終演後のBGMを変えたのでしょうか?

もしかしたら京都だから?とも思ったのですが、実際のところどうなんですか?

 

もう『Return To Forever』は演奏しないんですか

 

 

ところで新曲召喚祭、新曲ということはNEW ALBUMの存在が意識にもたげられますが、いつかのHi-STANDARDさんみたいに完全シークレットで店頭に並ぶ、とかありますか…?

 

それとか新曲のPV概要欄に『NEW ALBUM いついつ(アップロード日) 発売!』とか書かれているとかもあったりするんですかね?

 

今見たら八月二十八日は水曜日だ。

 

つーか今の時代でも新譜は水曜日発売なの??

 

 

個人的次回の公演は八月二十四日、二十五日の心斎橋Club JANUSです。

そろそろ『Return to Forever』が聴きたい!!!!!

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )


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おまけ ~深い憂鬱を越えてのLIVE~

「え〜〜〜たぁ〜のし〜ぃ〜い〜〜〜〜〜〜」

 

これが七月十二日の感想です。

LIVE日の前日、久しぶりに人間の毒氣や嫌氣に当てられて「あーそうそう人間ってそういうことする生物」と思ったため、正直その時の感情がふと蘇ったりしたこともありました。

しかし、その嫌氣がきっかけで色々と吹っ切れたので結果万々歳です。

 

 

さて、前回のでかねこではそれこそ「浮世が地獄」状態だったわけですが、その憂鬱から抜けた今、音樂を聴いても非常に樂しいと思うので、結局凡庸な帰結になりますが「あれがあったから今がある」ということだと思います。

 

ほら、山となるにも綺麗な湧き水や清水が出ずるにも多くの死があってこそ。

それがないと生まれないものですからね。

 

 

またわたしは音樂を作っているのですが、過去の偉大なミュージシャンのほとんどが精神を病んでいたそうですしね。

それこそこの世の汚さを強く感じたからこそ美しいものが生まれるってものですね。

正直このきったならしい世界で病まない方が狂っているとも思うし。

 

蓮の花みたいなものです。

 

 

ところで公演中?か公演後に感じたことなのですが、音樂やら表現ってのは見せる為、見てもらうためにやっている行為なのに、なーにを恥ずかしがっているんですかね。自分。

自分の作品ってのは自分から行動しないと触れてもらう機会さえ起こり得ません。

 

だから、相手にとって多少図々しいと感じたとて「わいこんなことやっとりますねん!!」を言って行った方が良いのだろうな。

「積極的?表現をする人間は多少アホなくらい、というかアホなフリした方が良いんだろう」と思いました。

流石にすれ違った人に話しかけるのは違うとは感じますけどね。

 

ということでわたしの曲聴いてください( ¨̮ )


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ありがとうございました( ¨̮ )

警察のご厄介になりました

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

題名の通りです。

 

本日、警察のご厄介になりました。

 

労働のあと、帰宅している帰路のこと。

 

地面で緑色の何かが光っていました。

 

「お菓子の包装が反射しているのかな?」と思いましたが、どうやら違います。

 

近づいて見てみると、それはApple Watchです。

 

「ったくしょうがねえなぁ〜」と思って、警察へ届けました。

 

とさ。

 

 

ドサッ。

 

 

最寄りの交番が警察署だったのでたっぷり一駅分歩き、「あっち〜なー」と思ったり、ゴールデンレトリバーなわんわんに破顔したりしました。

 

誰ぞわからん他所様のApple Watchを片手に、いざついた警察署に入署するさい「出頭〜〜〜」などと思いながら。

 

警官の方による対応は滞りなく終わり、良い散歩になりましたとさ。

 

 

 

土佐っ。

 

 

 

 

しかしさすが警官の方。ムキムキでガタイが良かったです。

普段本当に参る機会がないので新鮮な経験でした。

 

 

 

 

Apple Watchをおとされたかたへ。

 

けいさつしょのけいかんさんにとどけたので、いってみてね。

 

まる。

 

 

 

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

したっ!( ¨̮ )

 

自信はない。事実がある。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたくしごとで大変恐縮ですが、わたしはこの半年間爆裂に病んでおりました。

それはもう生きていない方がマシだと思うほど。

 

しかし『病んでいた』と書いている通り、つい先日にその憂鬱がなくなりました。

 

そのことについて、今回は記します。

 

 

とは言っても、大したことはしていないし、起こってもいません。

 

髪切った!

占いに行った!

なんか憑き物が取れた!

 

と、そんな感じです。

 

 

スピスピする〜しかな〜い

わたしはスピスピの類なので占いなども好きです。

以前、先輩が「自宅では人寂しさを紛らすためにYouTubeで占い動画を流している」と話していたのですが、ここ数年はわたしもそうです。

 

ですが、いわゆる占いの館に行き、鑑定を行ってもらったのは数年振りでした(十年近く振り?)。

 

「占いしてもらお」と思うにもきっかけがあり、そのきっかけがYoutubeの占いで聞いたことが当たった、からでした。

 

その当たった内容というのが『嫌い・苦手な人間がなんかしらんけどいなくなるよ』です。

上記を聞いた時は憂鬱真っ只中だったので「実際はないのだろうな」と思っておりました。

 

しかし、ある日労働先にて、非常に馬の合わなかった人間がご退職されるとのこと。

しかもその日がわたし自身との顔合わせ最終日(ガッツポーズ)。

 

「おや?」とは感じましたが、「まぁ偶然だろう」と思ってその時は終わりました。

 

 

また別の日。

 

わたしは占いジプシー的な感じになっているので(人寂しさの理由もある)、色々な動画を見ます。

ある日の動画で「綾波レイ…?じゃなくても、眼帯をした人を見たら〜」と占い師の方がお話されていました。

それを聞いた際、「いや〜そんなに眼帯している人なんて見ませんよ??」と思って、面白く持っていました。

 

その話を聞いた数日後、労働後帰宅していると、左方向から女性がわたしを横切る形で歩いてきました。

思わず目を疑ったのですが、その女性が眼帯をしていたのです。しかも右目。

 

流石に二度も占いの動画で発言していたことが起きると、「おや、なんだろうこれは」とは思います。

 

 

『おや?』と思った状態で『あなたに起こるすごいこと』的な内容の動画を見ました。

そちらでは「想いが報われるよ〜」や「めちゃくちゃ状況が好転するよ〜」と言われていましたが、その "きっかけ" として《「今の時代それ?!」みたいなヒョウ柄を見かける》というのが挙げられていました。

 

ヒョウ柄に関しては今現在見かけていませんが、『「今の時代それ?!」みたいなヒョウ柄』という言葉は耳にしました。

それを聞いたのが、先日行きました断髪にて、です。

 

 

念を断つ

先週の七月四日に髪を切りに行きました。

我ながら驚いたのですが、前回に切ったのが四月十八日だったので、実に二ヶ月半ぶりとなります。

 

前回髪を切った時も憂鬱真っ只中でしたが、憂鬱だったから髪を切らず期間が空いたというよりも、担当の美容師さんとの予定が合わないなど単純にタイミングが合わなかった感じです(もちろん理由として憂鬱があったとは思いますが)。

 

そんな二ヶ月半振りに髪を切った際に、髪の長さの話になり、こんな会話が起こりました。

 

わし「毛先が明るいんですけど、これって傷みですか?」

先方「いや、これは前に染めたやつの名残ですね〜」

わし「!」

先方「髪の毛って大体一ヶ月で1センチ伸びるので、一年で12センチって感じで。だから昔染めた子が残ってるんですよ」

わし「(なるほど、の顔)」

先方「だから女性は付き合ってる人と別れたらばっさりと髪切ったりするんです」

わし「相手がロングヘアが好きだったりして、それに合わせてて」

先方「そゆこと」

わし「髪の毛ってまんま人の念ですもんね」

先方「だから、今日髪切って嫌なことも落としちゃいましょ!」

 

 

髪の毛は念です。

言ってしまえば『生きてきた証明』とも表現ができます。

 

肌はターンオーバーなどがあるため、垢として表出、そして流れていきますが、髪の毛はその人自身が「切ろう」と思わないと切れることはそうそうありません。

 

正直、髪を切った程度で精神が上向きになるとは思っておりませんでした。

とはいえ、『髪の毛を切ろう』とは思えたので、まだ健康な精神状態ではあったのでしょう。

 

 

 

 

占いにて

YouTubeの動画にて得た不思議な出来事。

それによって、久しぶりに対面占いに行ってみようかしらと思い至りました。

 

で、以下は占いにて言われたことです。

 

  • 人氣者
  • 山の属性
  • 山の属性を二つも持っているから平地の人を導く人
  • 山の属性を持つ人は『山』という特性上、苦労する
  • 深夜に生まれている以上、精神的に向き合う人
  • 強い
  • モテる
  • 表現する人
  • 音樂はセンスでできる

 

などです。

 

山の属性なのですが、その特性があるために、あまり他の人と話が合わないことが多いそうです。

そして、山となるためには時間がかかる。時間がかかるということは天氣も変わるので、どうしてもいろいろな人生を生きる必要がある。

また『山に成るため』にはいろいろな土や砂、死骸が必要となります。そのために苦しむ。

 

これを言われて、今思うのは「だからなのか」というところです。

 

 

自分でも辛苦の少なくない人生だったと思います。

これまで書いてきた過去の記事をお読みいただいている方ならばご存知かもしれませんが、わたしの意見はなかなか他の人の意見とは一線を画しています。

『一線を画している』ということは、《理解者が得られにくい》ということでもあると感じます。

【自分が思ったこと】を話しても「はぁ〜何言ってんの意味ふめ」という反応をされたことも少なくないです。

 

それも生まれに起因していると知り、なんというのか肩の荷が下りた感覺があったのですね(『呪い』とも取れるけど)。

 

 

また【強い】について。

わたしとしては自身を強いとは思っていない(できる」し「そうするしかなかった」のだから)のですが、思い返してみれば『憂鬱の理由を一つ一つ見つめて、ケアして一つずつ理由を潰していき、自分自身を癒す』なんてそうそうできないのかもしれません。

 

カウンセラーの方に話したところで、自分が欲しい言葉をくれるわけではないのですし、"【自分が欲しい言葉】が分かっている" のならば自分自身でカウンセリングした方が早い。

そうするしかなかった、というのがわたし自身の意見ですが、もしかしたらこれをできる人って少ないのかもしれません(実際に行うと「死んだ方がまし」と思うほどしんどいことでもあるし)。

 

あとはわたしは『自分が考えていること』を内觀することをよくしているのですが(あの時のあれで傷ついたのはなぜか。それはこういった理由で、こうして欲しかったから。でもそれをしなかったという自分にも非はある。など)、それすらももしかしたら他の人にはできないのか?と思ったりもします。

 

でも実際に『自分自身を正面から見つめる』というのはそう易々とできる人は少ないのかもしれません。

人間誰でも「自分は正しい。間違っていない」と思いたいものですしね。

 

 

 

『表現する人』についてなのですが、「あなた自身が歌う、というよりも作曲したい人ですね」と言われ、その通りなので驚きました。

わたしの曲はわたしで歌っていますが、それは歌う人がいないからに他なりませんし、上手でもない歌を自分で歌うよりも歌が上手い人に歌ってもらった方が確実に良いし。


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また『音樂はセンスでできる』について。

鑑定にて言われたことを要約すると、以下です。

「センスで曲を作ることができる人だけど、センスだけで日の目を見ると一発屋になってしまうから、長く注目されるために下積みという形で苦労する必要がある。それが今」

 

 

 

 

しかし、『モテる人』は本当に言われますね。

わたし本人はよくわかりません。

わたし自身はモテてはいないと思いますが、もし好意を寄せていただいていた方がいらしたならばその方に申し訳ないので、『モテない』とは言えませんね。

あと別にモテたくもないし。

 

 

自信はない。事実がある。

さて、そんな占い鑑定が終わった後に、Tully's Coffee様にて読書をし、帰宅しました。

 

そして数時間過ごすとなんだか氣分が軽くなっていました。

 

鏡を見てみても明らかに表情が違います。

まさに『憑き物が取れた』という表現がぴったりな印象です。

 

 

また、考え方にも変化がありました。

半年続いた憂鬱の原因・理由として「他者から認められないから」というものがあったのですが、今考えたら「は〜ァ?なんで他人なんてものに認められないといけないと思ってんの?アホちゃう?」です。

 

しょうもない他人に言われたことじゃなくて、自分がどう思っているか、でしかないのに、どうして他人の言葉を正しいものだと思ってんだよ。

 

どうして他人なんぞに配慮して無能なフリをしないといけないんだよ。

 

これまで『他人は敵』だと思っていたのですが、敵ですらありませんでした。

【取るに足らない存在】です。

 

敵は血に潜んでる。


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えらい変わりようですよね。

正直自分でもこんなにいきなりぱっきり変わったのが不思議でしかありません。

 

 

 

上記を見て「すごい自信だな」と思う方がいらっしゃるでしょう。

しかし、わたし自身としては『自信』ではありません。

 

あるのは【事実】です。

 

『自分が存在している、自分は他に類を見ない最高な存在』という【事実】があるだけなのだから、「信じる」必要なくない?

というより「信じる」ってことは『そもそも自分のことを良いと認められていない』ということなんじゃない?

 

これからは、ぶっちぎり、です。

 

 

時間の問題

わたしはやりたいことがあります。

端的に言えば、それは音樂やらの表現にて認知され飯を食うことですが、正直時間の問題だろうな、と思っています。

それは《広く認知されるまで》です。

 

「いつまでにしないといけない」「いくつだと不可能」なんてのは自分自身が作った自分を殺す言葉です。

なので、そんな莫迦は踏みません。

 

 

そして、認知をされるまでは『やることをやってたらいい』のだと思います。

〈やること〉とは【曲作り】であり【自分自身との切磋琢磨】です。

 

ま、たとえ認知されなかったとしても自分が存在しているんだから世界にとって莫大な財産でしょ。

 

 

 

今回わかった、憂鬱に落ちた理由

さて、以上がこの数日での変化でした。

 

一切空。

 

てめえが世界をどう觀るか、でしかありません。

だからこそ『敵は血に潜んでる』なのです。

 

 

ところで、この半年間深い深い憂鬱に沈んでいた理由。

それが昨日判明したように感じます。

 

それは『自分自身の価値を他人に任せようとした』からなのであろうと思います。

 

別な表現をすれば、『人間になろうとしたから』です。

 

 

 

どうぞ、ご自由にお生きなさってください。

この世界はあなた様のもの。

この世界を觀るのはあなた様ご自身です( ¨̮ )

 

 

空!

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 

鬼滅の刃 柱稽古編 最終話『柱・結集』 感想・考察

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

いよいよ最終話となりました、『鬼滅の刃 柱稽古編』です。

 

 

👇これまでの鬼滅の刃についてのものたち👇

floodinhead.hatenablog.com

 

 

永遠

鬼舞辻無惨さんが産屋敷邸を訪問し、当主であり鬼殺隊の長である産屋敷輝哉さんと対峙します。

 

ここでは互いの願いを話し合うわけですが【永遠】を願う鬼舞辻無惨さんへ、産屋敷輝哉さんが【永遠】という言葉の意味を説きます。

 

【永遠】の本当の意味は『願い』である。

 

 

産屋敷輝哉さんの意見に対し、鬼舞辻無惨さんは「わたしには何の天罰も下っていない。何百何千という人間を殺しても、わたしは許されている。この千年、神も仏も見たことがない」と主張をします。

 

しかし、産屋敷輝哉さんは返します。

「この千年間、鬼殺隊はなくならなかった。けしてなくならなかった」

 

《鬼殺隊が千年続いている》ということは『鬼殺隊士たちが許していない』ということです。

その強い想いが千年も続いていて、その想いがあったからこそ鬼舞辻無惨さんが生きている。

つまり「神や仏が赦したから生きている」のではなく「神や仏が赦していないから生きている」ということなのです。

 

この入れ子構造というか、本当の理由みたいなところは素晴らしいですね。

 

内実を知った鬼舞辻無惨さんとしては腹立たしくて仕方ないのではないでしょうか。

 

鬼舞辻無惨さんからしたら「思い上がんなよ。」と言われたのと同義でしょうからね。

しかも『〈見下していた存在〉が居たから自分は生きている』という真理を突きつけられたのですから。

そもそも鬼は人間を喰らうわけですが、その『人間』がいないと生きてもいけないわけですしね(この『食べるものに生かされている』というのは人間含め全ての生物がそうです。なので、日々感謝をして決して見下したりせず生きないといけませんね)。

 

 

また産屋敷輝哉さんは「わたしを殺したところで、痛くもかゆくもない。わたし自身は、それほど重要ではないんだ」と話します。

ここも良いです。

「それほど」と言っていて、組織の原動力となっているのは『人の願い』であるということが示されます。

 

そして産屋敷輝哉さんが「君は、君たちは、君が死ねば全ての鬼が滅ぶんだろう?」と鬼舞辻無惨さんの図星をつきます。

 

頭がいなくなったら崩壊するようなものは【永遠】ではない。

これまた真理でありますし、組織を動かすものは『人の願い』であることの証明になります。

 

現実世界で、虐待をしていた親がいなくなれば虐待行為はなくなるでしょう。

それは〈虐待行為は『人の願うこと』ではない〉からだと思われます。

しかし、実際のところそんなに単純なものでもないとは思いますけれどね。

でも、決して『虐待されることが世界への存在理由』だなんてことはないんですよ。

 

 

ところで、産屋敷家一族は病弱であるがゆえに短命、齢三十程度までしか生きることができないとのことです。

産屋敷邸を訪問した鬼舞辻無惨さんですが、「二十代半ばから後半」の容姿をしています。

 

鬼舞辻無惨さんは自身の容姿を自由に変えることができますが、劇中で妙齢になったり老人になったりしていません。

これって、潜在的に死を徹底的に恐怖している、そして元々は産屋敷一族の分派である自身により『産屋敷家一族は短命』という要素が無意識にあり、若い姿に執着しているのではないか?と感じました。

 

 

孤独

産屋敷輝哉さんは鬼舞辻無惨さんに対して「ありがとう」と言います。

この時に感じたのですが、もしかしたら鬼舞辻無惨さんは『ありがとう』と言われたことがない、あるいは少ないのではないでしょうか。

 

鬼舞辻無惨さんの出自では不満の多い性格だったように描かれていました。

これは憶測ですが、周りからもあまり好かれてはいなかったのではないか、と感じます。

 

 

また産屋敷邸を訪問した際、鬼舞辻無惨さんは『奇妙な感覺』として《安堵》を感じます。

これは唯一の「血縁」である産屋敷輝哉さんと対峙したからこそ感じた感情ではないのか、と考えます。

 

 

それらから考えると、鬼舞辻無惨さんは永い間、強い孤独を感じていたのではないか。と感じました。

むしろ激しい孤独を感じていたからこそ、鬼という同類を増やしていったのではないか、と思います。

《無限城》というお城を作ってまで配下をすぐそばに抱えているのは、抱えている強い孤独を薄めるため。

 

しかし、これはわたしの感覺ですが『想い』や『願い』でできた繋がりでない限り、寂しさは癒えないと思います。

現実世界で言えば、お金で繋がっている状況と近いでしょう。

お金があるから、食事代を出してくれるから交流を持っていただけで、その人のお金がなくなってしまえば、交流していた人は去っていきます。

 

鬼舞辻無惨さんは暴力で支配していたわけで、そんな支配関係で相手から『想い』や『願い』が生まれるわけがありません(「あなたのためを思って」などの理由での暴力は詭弁でしかないので履き違えないでくださいね)。

 

 

鬼舞辻無惨さんは怒りますが、それもまぁさもありなんという感じですね。

何故ならば『自分の生き方を否定されたから』です。

 

鬼舞辻無惨さんは多くの配下を産んだわけですが、本当に慕っている人はいないでしょう。

ということは、鬼舞辻無惨さんは実際のところ独りで生きてきたわけです。

 

案外多くいるように感じるのですが、『自分は一人で生きてきた』と思っている方は、その人生が辛いものだったとしても生きてこれた分、その生き方に少なからず自負を持っているように思います。

しかし、その『自負を持っている生き方』を否定されると、それはつまり《その人のこれまでの人生》を否定していることにもなりかねません。

 

またこれもわたしの所感ですが、『自分は一人で生きてきた』という感覺が強い人ほど否定されたと思ってしまう確率が高くなると感じています(自分自身にそのきらいがあるので知った感覺)。

鬼舞辻無惨さんは千年も独りで生きていたので、産屋敷輝哉さんと鬼殺隊の理念に拒否反応を示してしまうのは仕方ないのかなぁ、と思います。

 

 

願い

爆発した産屋敷邸。

 

わたしはこの時「え、なんで?」と思ったのですが、どうやら産屋敷輝哉さん自身の罠だったようです。

 

 

ところで産屋敷邸に各柱が向かっている際、水柱の富岡義勇さんの余裕のない声が聴けますが、新鮮でした。

いつも基本的に冷静で淡々としている性格でしたからね。

しかし、炭治郎くんのセラピーがあったからこそ、富岡義勇さんが感情を出せるようになったのかも、とも思います。

 

 

罠に嵌められた鬼舞辻無惨さんは産屋敷輝哉さんに対して『腹黒』と形容しますが、誰が何を言っているんだ、と思います。

がしかし、言わば『自決をしたが隊士には「鬼舞辻無惨が手を下した」と思わせることができる』ので、そういった策士な部分を取れば、『腹黒』とは言わないまでもやり手だとは感じます。

とはいえ、武士の世界でも責任をとって切腹するという考え方があるので、別に定石であるとも取れますね。

 

 

珠世さん自ら鬼舞辻無惨さんに一矢報い、〈鬼を人間に戻す藥〉を吸収させます。

鬼の鬼舞辻無惨さんからすれば部下からの謀反以外の何物でもないわけですが、謀反を『逆恨み』と形容します。

 

鬼舞辻無惨さんは「お前の家族を殺したのはわたしではなく、お前自身であろう。その後も何人も人狩りを愉しんでいた」と珠世さんを責めますが、珠世さんが鬼になった理由は『我が子が大人になるまで見届けたい』という《願い》が理由でした。

 

 

しかも、鬼舞辻無惨さんが鬼に勧誘する際の語口は、どうやら「まだ死にたくないか?」的なことだったようです。

「死にたくないなら鬼にならないか?鬼になればこれこれこうで…」と説明するのではなく、良い側面だけ説明したのではないかと感じますが、このやり方って詐欺師の手法ですよね。

ますます鬼舞辻無惨さんが嫌いになりますね。卑怯者です。

 

 

「病で死にたくないと言ったのは、子どもが大人になるのを見届けたかったからだ!」と涙ながらに発言する珠世さんですが、これまでのお話で初めて鬼の表情になります。

これはさすがにわたしの深読みだと思いますが、子煩悩の由来となった(と以前聞いた)鬼子母神と重ねての演出なのだとしたら、ちょっと感服するしただごとじゃないですよ。

 

珠世さんが鬼になった時代のことは描かれておりませんが、少なくとも現代日本のような飽食で緩んだ時代ではなかったため『子どもが大人になるまで見届けたい』という願いは相当に切実なものだったのでしょう。

 

その想い・願いを利用して踏みにじった鬼舞辻無惨さん。

許せませんね。はよくたばれ。

 

 

無限城

『願い』によって動きを封じられた鬼舞辻無惨さん。

その場に全ての柱と炭治郎くんが集います。

 

渾身の想いを込め、一斉に斬りかかった隊士ですが、鬼舞辻無惨さんが不敵な笑みを浮かべると琵琶の音色が響き、隊士の足元に障子が出現します。

 

こうやって無限城編へつながっていくんですね〜。

 

悲鳴嶼行冥さんが鬼舞辻無惨さんの頸を討った時、「え?頸なくなったけど?無限城は?」と思っていたのですが、そうなるのですね。

 

 

しかし、鳴女さんの障子がいろんな場所に生じているのは理屈がわかりませんね。今後のお話で説明がなされるのでしょうか。

 

 

無限城入りした各隊士が、楼閣内を移動します。

しかし無限城は映画で映えそうですね〜。

実際に無限城編は劇場版三部作だそうです。

 

隊士が突然の無限城入りに戸惑っていますが、伊之助さんや善逸さんなどの主要人物はすぐさま状況を飲み込んでいますね。

この臨機応変に対応できる力こそが階級を上がることができる隊士の特徴ということでしょうか。

 

ところで栗花落カナヲさんが他の隊士へ「しっかり捕まって!」と声をかけている場面はいいですね〜。

初登場時は自分の氣持ちを外に出さなかったのに…。。と、その成長に対して勝手に感慨に沁みております。

 

 

 

 

悲鳴嶼行冥さんが「お館様は常に相手が一番欲しがっている言葉をかけてくださる」と考えておりました。

その場面を見て、わたしは「あぁ、それでいいのか」と思いました。

 

よくよく「相手はこんな言葉が欲しいのかしら」なんて思ったりすることはありますが、「とは言えそれって自分にとっては嘘だしなぁ」と感じていたんですね。

しかし、たとえそれが嘘でも相手が前を向いて生きれるのならば、別に良いのかと思った次第です。

それこそ『あなたには生きていてほしい』という《願い》が生んだ言葉なら、問題ない、というよりも、願ったことが本心なのであれば、その表現、表面的なものは嘘や真は関係ないというような。

 

 

 

夢幻

そ、し、て、エンディングですが、ちょっと素晴らしすぎませんか?

 

 

わたしは『鬼滅の刃』は原作を読んでおらず、これから先の内容も原画展にて仕入れた知識しか知らないため、物語の仔細は存じません。

よって、オープニングの曲もなんとなくで聴いていました。

「わーHYDEさんだー。VAMPSをやってたからかしら?」程度です。

 

しかし、この『鬼滅の刃 柱稽古編』の最終話でオープニング曲の『夢幻』が流れた時、心底驚きました(この驚きは『魔法少女まどか☆マギカ』のそれに匹敵します)。

 

もう思わず歌詞を検索してしまいました。

産屋敷輝哉さんが鬼舞辻無惨さんに対して歌った曲だったんですね。

 

 

曲の題名は『夢幻』ですが、同じ音で『無限』があります。

【無限】は【永遠】と近い言葉ですが、『夢幻』と題したのは「鬼舞辻無惨さんの考えていることは実体のない夢まぼろしだ」という考えからですよね。

 

同じ音だけど、意味が真逆となる。

これは本当に日本語の妙であり、素晴らしく、美しいところです。

 

西洋の言葉も音が似た言葉はありますが、「LとR」や「SとCとTH」などの文字・子音自体が違うので、日本語のように子音も文字も一緒なのに意味がまったく違うというのはかなり特殊な言語(素晴らしい文化)だと本当に思います。

 

そしてこの『夢幻』には英語が一切使われていない部分も、作品にあっていて良いと感じます。

 

 

個人的に歌詞で好きなところは「夢幻を他人に託した弱き人」と「この身に宿る万物で終いよ」です。

特に後者は先の闘いで命を落とした煉獄杏寿郎さんの考えを引用しているので特に好きです。

 

また「嵐に種を撒いていく」の部分も『失意の最中にある "子どもたち" に、生きていくための種』を撒くということだと考えられますし、種は芽吹いて花となり、花はやがて身をつけて種になります。

 

『お花』という愛の循環こそが無限であり永遠である、ということです。は〜〜〜素晴らしい。

 


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傑作

再三言っておりますが、やっぱり『鬼滅の刃』は一線を画した傑作ですね。

悲しいことにきっと「過去の作品」にはなってしまうのでしょうが、この作品に込められた想い・願いは不滅であろうと思いますし、わたし自身この先を生きるとしたらば折に触れて思い出す作品だと思います。

 

この類の願いは、それこそお花のように必要な時に必要な人へかければ良いものですからね。

そうすればいずれは詠み人知らずとなって恒久的な作品になるでしょう。

 

 

 

はぁ、五千文字超えてしまった。

やっぱり愛を語るのは文字が必要になります。

 

この『鬼滅の刃 柱稽古編』の感想・考察をお読みいただいているかたがいらっしゃったなら、誠に有難うございました。

 

 

無限城編の感想・考察にまたお会いできるようであれば、お会いしましょう。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 

同じ穴の狢 ~多数派も少数派も同じような行動を取っていたりする編~

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は「具象と抽象」にもつながっていく内容です。

 

 

また乱暴に二分する行い

人類やら大衆やらという主語の大きなものを乱暴に二分すると【多数派】と【少数派】に分けることができます。

 

この【多数派】と【少数派】ですが、各々が反対の岸に所属する方を『住む世界が違う人』と認識しているように、わたしは思います。

 

ですが、「いや、案外双方とも変わんなくね?」と思ったりもします。

 

 

《多数派のエゴ》

まず、【多数派】には多数派であるがゆえの特徴的なエゴがあるように感じます。

そのエゴというのは『これくらい知ってて当然でしょ』というもので、これはほとんど無意識のレベルで存在していると考えています。

 

《多数派のエゴ》としてよくよくあるのは「世界は右利き用に作られている」というものです。

改札機やらカメラのシャッター位置やらスープバーのお玉などなどエトセトラ。

 

わたしは左利きなのですが、木べらやバターナイフなど、思っていたよりも膨大な量が右利き人口が使いやすいように作られています(特にお玉だけは一生許さない)。

 

これが《多数派のエゴ》の一例です。

 

 

では『これくらい知ってて当然でしょ』の意識とは何か。

多数の人類が認知していて、好きな人口の数が多い「野球」や「ポケットモンスター」といったものを好む方は上記したような『これくらい知ってて当然でしょ』の意識が確実に存在しているように感じるのです(理由としては好きな人の数が多いから)。

 

『これくらい知ってて当然でしょ』の意識が何を生むのか、というと「そんなことも知らないの?」という感情です。

興味がなかったら知ってるわけないだろうに。

 

わたし自身、上記したものに興味がない人間なのですが、興味がない人間でも関連する語句くらいは存じております。

ですが「ドラフトのシステム」やら「進化させるさせない、その後」なんて内実は知っているわけがないでしょう。興味がないのだから。

 

ここからわかることは『人間は自分の考えていることや、脳にあることは相手も知っている・共有できていると思い込みがち』ということですね。

 

 

いや、もしかしたらわたしの周りに性格の悪い人間が多くいただけかもしれない。

 

あと、一応説明しておきますが『野球』や『ポケットモンスター』に限ったことではなく〈【多数派】に属するものを好む人〉には《多数派のエゴ》が存在する、ということです。

 

 

《少数派のエゴ》

《多数派のエゴ》について書いたわけですが、一方で果たして《少数派のエゴ》はないの?と思ったりすることはあります。

そして《少数派のエゴ》も、しっかりと存在していると感じます。

 

 

【多数派】と【少数派】の違い。

それは対象物を好んだり所属する人間の数ですね。

 

対象物を好む人が多いものが【多数派】、対象物を好む人が少ないものが【少数派】と規定されます。

 

そりゃ当然。火を見るよりも明らか、という奴です。

 

 

では《少数派のエゴ》は何か、という話になりますが、それは『排他的』というものです。

 

なんというんですかねえ、【少数派】のものってどこか外に対して攻撃的な匂いを感じるんですよね。

いえ、それは「外から入ってこようとする人間を信用できるか」を確認しているだけなのかもしれないんですけどね。

 

あとは「わかるやつだけわかればいい」という意識でしょうか。

 

 

わたし自身にも「わかるやつだけわかればいい」の意識はありますし、このブログ自体がその権化のようなものなのですが、超個人的なブログや藝術作品に対しては「わかるやつだけわかればいい」の意識はあっても良い、というかそうなってしまう部分はどうしてもあると思います。

 

ですが【多数派】や【少数派】と形容されるような組織やコミュニティでの話となれば、「わかるやつだけわかればいい」の意識があって良いかは別じゃない?と感じます。

 

〈派閥〉やコミュニティが発生している以上、『排他的』という無意識は死活問題というか言語道断、もってのほかじゃないのか??と思うのです。

 

 

エゴの共通点

「排他的の無意識は死活問題、言語道断、もってのほかじゃないかしら」と前述しましたが、これって何も【少数派】に限ったものじゃないよな?とわたしゃ考えています。

 

というよりも【多数派】【少数派】双方に『排他的意識』はあるように感じるのです。

 

 

まず《多数派のエゴ》は『これくらい知ってて当然でしょ』ですが、【多数派】が「知っていて当然」と思うことを知らない人はコミュニティに入ったり近づいたりはあまりしないでしょう。

 

また《少数派のエゴ》は『排他的』でしたが、これはそもそも外から入ってくる人を拒絶しているとも取れるので、なかなか新しい人がコミュニティに入ることは難しいです。

 

 

【多数派】と【少数派】の共通点が見えてきましたね。

『各々のエゴ』はそれぞれのコミュニティを縮小していくということなのです。

 

【多数派】が持っている『これくらい知ってて当然でしょ』を知らない人はコミュニティに参加しないので、コミュニティは縮小していく。

【少数派】の持っている『排他的意識』は外から入ってくる人を拒絶しているので、新しい人の参加がなくコミュニティが縮小していく。

 

 

前述しました「いや、案外どっちも変わんなくね?」と、本記事のタイトルである『多数派も少数派も同じような行動を取っていたりする』ですが、その共通点は《無意識のエゴによって、コミュニティ自体が縮小しかねない》ということでした。

 

ま、なんだかんだ言っててもコミュニティが縮小ののち消滅するなんてことはそうそう無いと思いますけどね。

 

 

わたしが今回言いたかったことは「人間なんて案外みんな一緒なんだから仲良くしようぜ」ということでした。

 

 

あと【多数派】にも「わかるやつだけわかれ」という意識はありそうですよね。

どっちかというと「わからん奴は入ってくるな」の方が近いように思いますけどね。

 

 

俺はどこにも馴染めないんだってねぇ〜

ちなみに、わたしは【多数派】にも【少数派】にも所属している(できている)という意識がありません。

 

なので今回書いたような乱暴な意見が言えてしまうのです。

結局は《多数・少数に所属できる人》を羨んでいるということですね。

悲しいですね。

 

 

ありがとうございました。


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