本日もご訪問ありがとうございます。
今回は〈ポケット書評シリーズ〉です。
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作品は村田沙耶香さんの『地球星人』
ネタバレはしまーーーーす。
あとネタバレですが全然ポケットではないでーーーーーす。
映像化不可能小説!٩( ᐛ )و
昨年『コンビニ人間』を読んで以来の村田沙耶香さん作品です。
『コンビニ人間』がなかなか凄まじかったので少しばかり及び腰でしたが、以前から氣になっておりました作品ではあったので新潮文庫の夏祭り対象作品ということもあり購入、読。です( ¨̮ )
そういうわけでわたしはこの作品を読んで、全く映像化不可能作品だなと思いました。
伊坂幸太郎さんの『ホワイトラビット』もそうですが、わたしは映像化不可能小説が好きです。
別に映像化した小説が好きではないというのではありません。
というよりも映像化不可能な趣向が凝らされていること、その心意氣が好きなのでしょう。
上記した『ホワイトラビット』はそのまま "映像化不可能な趣向が凝らされている作品" でした。
きっとラジオドラマ化だって無理でしょう。
そんな映像化不可能作品好きなわたしですが、この『地球星人』はそんな "趣向が凝らされた作品" ではなく、もはや暴力でしたね( ¨̮ )
描かれている内容はほとんど暴力的ですが、非常に無味乾燥に描かれていたため湿っぽさは感じなかったのですが、商業的に映像化するのならばエンターテイメントに寄せる必要がある。
冒頭の家庭環境、終盤の共同体へやってくる異物との戰闘。
前者は悲劇として、後者はホラー作品的に描かれるだろうことは必至です。
言うならば「十中八九〈地球星人の眼差し〉で制作される」というわけです。
地球は感情の星。
感情中毒の地球星人には感情移入が必須です。
そのため地球星人向けに調整された作品は『地球星人』の作品意図と合わないので映像化不可能であろうと思う次第です ( ¨̮ )
にんげん告発小説の類
村田沙耶香さんの作品は今作で二冊目です。
一冊目の『コンビニ人間』もそうでしたが、今作も《にんげん告発小説》の様相をもっていました。
《にんげん告発小説》と聴いて想起するのは、朝井リョウさんの『正欲』です。
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《にんげん告発小説》と一耳に聞いても、はてなマークが出る人がほとんどでしょうから簡単に説明します。
「見ないふりとか臭いものに蓋するようにしてるけど、にんげんってこういうところあるよね」という、禁忌じみた部分を指摘する、そんな内容の作品です。
例えるなら大人は触れない部分を子どもが無邪氣に問いただす、その様を見て「言っちゃった〜」と手のひらでおでこをさするような感情です。
同種族を棚に上げてなかよしをするのだけは上手なにんげん様方々。
そういった "いとなみ" に対して「え、なんで?」と正面から問い質していたのが今作の『地球星人』でした。
今回この《にんげん告発小説》の類を読むにあたって「また触れんでいいところを…」と戰々恐々と思いながらも、〈告発される側ではない自分〉に複雑な感情を覺えるわたしでした( ¨̮ )
ポハピピンポボピア
「やってくれたな村田沙耶香!!!!!」
この作品の主人公は笹本奈月さんです。
物語は小學五年生になった年のお盆から始まります。そういえば朝井リョウさんの『正欲』でも主人公が夏月さんでしたね。
祖父母宅へ帰省する際の道中から物語が紡がれますが、この場面で奈月さんは姉の貴世さんのことをうっすらと軽んじています。
いえ、これは軽んじている部類にすら入らない、きょうだい間、姉妹間で必然的に生じる心理動向の類でしょう。
そんな奈月さんには秘密があり、それは実は魔法少女だということ。
ポハピピンポボピア星から来たポハピピンポボピア星人のピュート氏から託された使命です。
あ、わたしはあくまでも地球星人的な目線でこの記事を書きます。
ポハピピンポボピア星・魔法少女という要素で姉を侮る少女も少女性を有しているという茶目っ氣と、どこのきょうだい・姉妹にでもある心理動向を表した場面だとわたしは思っています。
さて、ポハピピンポボピア星人のピュート氏。
これはまあイマジナリーフレンド的な意味合いでしょう。
それというのも、奈月さんが暮らしている環境はかなり過酷なもの。
母と姉からは虐待、父は空氣。話なんてろくに聞いてもらえる環境ではない。
となれば、自己を護るためにイマジナリーフレンドを創生するのは当然のことだろうと思います。
少し前の記事で書きましたが、以前に『スピリチュアルに傾倒するのは辛いことがあったから。だから可哀想に思っている』というご意見を目にしました。
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ポハピピンポボピア星、ポハピピンポボピア星人のピュート氏に関してはスピリチュアルとは違いますが、自分を護る為、自己防衛の手段としてイマジナリーフレンドを創り出すというのは至極当然というか、生存本能的に正常であろうと思います。特に本来は安心できる場所であるはずの家で安心できなければ。
わざわざ他者に同情するふりをしてその実はあげつらい嘲るような行いよりも、自己完結ができるほうが幾分も素敵だとわたしは思います。
物語の序盤で「子どもは親に命綱を摑まれているから、親の機嫌を取る必要がある」という発言がありますが、懐かしい感覺でございましたので「そうだったなあ!あったあった、懐かしい!」ときゃっきゃしていましたが、次第にあることに氣付きます。
「…自分がそう考えているということは、そう考えていない人・家庭もあったということ…?」
そんな仮説が頭を持ち上げてこちらを見ていますと、次第に限りなく原色に近いブルーが胸中を占拠します。
読むのにエネルギーを要するのは、
さて、奈月さんがポハピピンポボピア星人のピュート氏を見出した理由は主に親と姉からの家庭事情ですが、ポハピピンポボピア星という場所に避難した理由がもう一つあります。
忌まわしき塾講師です。
少女に性加害を行った人間なので同情など微塵もありませんし、講師・教師・政治家などの "先生" と呼ばれる人間は性犯罪者予備軍だという偏見を持っていますので(実際に教師と医者・政治家って少女の売春で捕まっているし)、さすがご立派に教師という立場を担っていらっしゃる!と頭が下がる思いですが、性犯罪の予備軍と実行犯は別物です。
まあ人間は醜いので、しかも塾講師や教師といった立場が明確にある環境では自分の欲望を相手が望んだことと倒錯する習性がございますから、性犯罪講師然もありなんと思いますが、理性と感情は別。
奈月さんの心を壊した罪は重い。
最初に奈月さんが性被害を受けた場面、ちゃんと描写されていたため呆然でした。
その描写と家庭内暴力の描写とが冒頭百ページで展開されていたので、「やってくれたな村田沙耶香!!!!!」と思った次第です。
あと今年も夏の百冊に選出されていた道尾秀介さんの『向日葵の咲かない夏』もそうですが、教師は危険な存在だという描写をしている作品をどうして二作品も選出するんだ!
夏休みに穢れをしらない學生さんが読んだらどうする!まだ「教師は尊敬するべき存在です」という幻想を抱かせて置かなければいけない時期ではないのか!などと非常に面倒な感情を持ったりしましたが、『幻想を抱いておく時期』なんていうのは謂わばこちら側のエゴイズムであるし、わたしもそうであったように聡明な子どもは若いうちから親世代や教師というものが如何に空虚で薄っぺらか知っています。
「あ、この人こちらが子どもだからという理由だけで侮っているな」や「こいつ経緯や原因わかってねーけど大人の体裁を保つためにハッタリ言ってるだけだな」なんて、すこし聡明な子どもであれば見抜いています。
しかし指摘しようものなら大人は自らの浅さを暴かれることへの恐怖で癇癪を起こしてしまうので、子どもたちは大人の欺瞞や空虚を見抜いても指摘はしません。
それに『幻想を抱いておく時期』なんて各々が適切な時期で勝手に抜けるのですから、こちらが配慮をする必要もない。
しかも人間や大人の醜さを無垢な子どもたちに開け広げるのも大人の責任であるとも思います。
さてまあこの作品は読むのにエネルギーを要します。
労働の休憩中にカスの塾講師が性加害を行う場面まで読んだのですが、その日の残り労働ではどっと疲れていました。休憩ができていない。
安心する場である家でも安心できない、また性被害の描写まであり非常に読むのがしんどかったのですが、あることを思いました。
きっと、読むのにエネルギーを要するものは、それだけの力動で誰かを癒しているのだろう。ということです。
創作というものは基本制作者のセラピー治療的な側面があると考えています。
押見修造さんの作品や太宰治さんの作品がその典型だと思いますが、得てしてそれは他者にも影響する場合があり制作者のセラピーが受け手のセラピーになるということです。
これを共鳴というのかなんなのかは不明ですが、実際にそのようなことはあります。
となれば、この作品で過激な描写がされていたのは "それでしか癒されない魂があったから" と考えることができますね。
上記した通り、わたしも長らく忘れていた「子どもは親に命綱を摑まれているから、親の機嫌を取る必要がある」という考えを思い出したわけですしね。忘れたままでよかったのだけど。
ところで今作の主人公・奈月さんと親戚の由宇さんですが、それぞれの家庭に事情を持っています。
まあ端的に言えば『親が親の役割を放棄している』という "どこにでもある" 事態なのですが、奈月さんも由宇さんもきっとアダルトチルドレンだったのだろうな、というよりも、幼少期から大人になるしか選択肢がなかったのだろうなと思います。
一言に親だと言っても親になる資格は不要です。
しかし資格は不要ですが親になる資格がないと感じる親も多くいます。
親というか大人か。自分の機嫌を自分で取れないとか。
精神的に未熟な親を持つ子どもは、その子自身が親になるしかない。となれば、未熟な親は未熟ですので子に甘える。地獄ですね( ¨̮ )
そのくせ親は親というプライドと薄っぺらさを所持しているので、自分の未熟さを自覚できないし自覺しようともしない。
わたしも家で安心できなかった人間ですが、そんな人は本を読んだり音樂を聴いたり自分が没頭できるものに逃げるしかないと思います。
しかし、あなたが没頭する世界は同じく没頭するしか選択肢がなかった先人が紡いでいます。なので、少しは心強いのではないでしょうか。
なんら変わらない。
話はぐっと飛び、物語の終盤部分です。
奈月さんと由宇さん、智臣さんの三匹で秋級に生息します。
この場面で三匹は隣家から食料を盗んだりと地球星人視点では褒められない行動をしたり、性犯罪者である塾講師の親と対決したりします。
前述の通りわたしは《にんげん告発小説》において告発される立場ではないので、特に何も思いませんでした。
というより、「みんなどの種族もやってることだから目くじら立てるものでもないね」という感慨が近いです。
塾講師の親は我が子である性犯罪者を殺されたから怒っています。
これは生物の感情的に真っ当なものでしょう。
その親はポハピピンポボピア星人三匹が暮らす巣へやってきますが、これは三匹からすれば侵略に他なりません。
であるので、死に物狂いで死守しようとするのも、これまた生物の感情的には真っ当なものだと思います。
我々だって外國が攻めてきたら応戰はいたしますし、我が家に知らない人がいきなりやってきて襲ってくれば防衛戰として闘うでしょう。それと一緒ですね。
まあそんなこと誰でも考えつくのでわざわざ言語にしないでもよいのですが、地球星人はどうにも自分のいる場所が正しく、もう一方が間違っていると考えがちなようですからね。
なので正当防衛です。
わたしが思わず笑ってしまいそうになったのは、徹底的なまでに〈記号〉として描かれていた部分です。
地球星人には名前を付けたり区別するという習性がありますが、この習性が排除されていたのですね。
人間という生物種であれば単位は人、人間以外の大型生命体であれば体、小型であれば匹、魚類であれば尾などと単位を分け、いささか固有の単位を持っている優位性を誇示しようとするきらいを感じたりしますが、ポハピピンポボピア星人の三匹は地球星人も匹として数え、〈男〉という記号で認識されていました。
わたし個人はこれはとても真摯だなと思います。
わたしは最近「人間は感謝をするという習性を持ち合わせている。しかしそれは感謝を覺えないといけない立場にあるからではないか?」と思いました。がそれはまた別の機会。
「墓の土が落ちない」
地球星人の男と女がポハピピンポボピア星人の巣・宇宙船にやってきたのは姉の貴世さんが吹き込んだためと目されています。
ではなぜ貴世さんがそのような行動を取ったか、というと、パート先でかなり奔放な性生活を送っていたことが露見したからだそうです。
わたし個人的にはあまりに莫迦らしく、「身から出た錆じゃねーかよ」と思うばかりです。
そんな貴世さんは以前、奈月さんに「見初められることがどれだけ素晴らしいことか」と説いていました。
ここでわたしは思ったのですが、お姉さんの貴世さんも地球星人の洗脳に苦慮されていた方だったのではないでしょうか。
性犯罪者の家で奈月さんが被害に遭遇している場を見て羨んでいたと言及されていましたし、もしかしたら貴世さん的には【性対象としての自分】が〈地球星人としての価値〉と認識されていた感があるように思います。
つまり、貴世さんもポハピピンポボピア星人であった可能性がある(もちろん別の星かも)。
と、奈月さんを激しく忌避していた存在はもう一人いまして、それは母親です。
この母親はわたしの親戚にもいましたが典型的な『きょうだい間で優劣をつける親』でした。
本来愛すべき親からこのような仕打ちを受けていても、子は親を愛する健氣な生き物ですので親の毒言をそのまま受け入れます。結果、子は親の言いなりになったり、自分を極端に低く見積もったりします。
この母親を読み、わたしが想起したのは数ヶ月前に読んだ萩尾望都さんの『イグアナの娘』という作品でした。
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これはあくまでも推論に過ぎませんが、笹本家はポハピピンポボピア星人だったのではないか。これがわたしの考えです。
自分の信念に背いて他者を受け入れた人間からすれば、自分の信念を貫いている方は羨ましくて嫉妬に狂いそうになる。
姉の貴世さんは【性対象】として地球星人の役割を得たのに、妹はその役割を遂行しようとしない、妬ましい。
母親は、これまで必死に隠してきた「自分はポハピピンポボピア星人である」ということが次女によって暴かれる可能性がある、恐ろしい。
そういった理由で奈月さんは母親と姉から糾弾されていたのでは?と感じます。
しかし、笹本家にはもう一人います。
父親。この父親はほとんど空氣ですね。
一応家長としての役割を保っていますが、専業主婦核家族家庭において家の実権は妻側が持っていて、妻側が責任を取りたくない事象を決定する時だけに駆り出される、そんな、よくある一般的な核家族家庭の一存在です。
わたしはこの父親はポハピピンポボピア星人ではないと考えています。
なぜかといえば、秋級の家こそがポハピピンポボピア星人の降り立った場所だから。
突拍子もないですね〜。
物語の中盤?で秋級の祖父が亡くなります。
土葬の場面で父親は「夏だからすぐに土が落ちるな」と言及します。
しかし二十年経過しても土は盛り上がったままです。
ここで思ったことは祖父もポハピピンポボピア星人だったのではないか?という仮説です。
地球生まれの有機体であればすぐに腐り朽ちるのが普通ですが、ポハピピンポボピア生まれの肉体であるため腐りもせず朽ちなかった。
そのため棺も腐らず二十年も墓の土は盛り上がったままであった。
わりと道理は通るのではないでしょうか。
また「秋級がポハピピンポボピア星人の地球的根源、漂着地であった」と考えれば、母親と姉の貴世さんが秋級を嫌っていた理由も説明がつきます。
母親と姉は地球星人になろうとしていた側ですから、自分の正体を暴かれそうになる場所は避けたい。
物語の冒頭で姉の貴世さんは吐き氣を催していますが、一般的に吐き氣というものは拒絶反応ですしね。知らんけど。
じゃあなぜ主人公の奈月さんは秋級に拒絶感を感じなかったかと言えば、それはもう個体差でしょう。ご都合主義ですね‾\_(ツ)_/‾
妊娠について
物語の最終盤。母親と姉が秋級にやってきます。
地球星人のオスとメスを食したポハピピンポボピア星人の三匹は仲良く暮らしていましたが、そこに来訪者があったのです。
かつて〈家族〉であった三匹を見て仰天する地球星人の二匹。
同行していた救助隊の地球星人(オス)も言葉に窮しながらも三匹の風体に疑問を投げかけます。
「その腹はなんだ…?」
「僕たち三匹は妊娠しているのです」
この後にポハピピンポボピア星人の三匹は地球星人が暮らしている星へと宇宙船から降りたち、物語は幕を閉じます。
この妊娠についてですが、まあ腹水でしょうね。と地球星人的な視点では考えます。
腹水とは榮養が偏った時に見られる身体的な変化だそうで、手足は痩せているのにお腹だけはぽっこりと張ってしまうあれのことです。
何十年と報道されるも一向に様子の変わらない(なんでかなあ)、アフリカの子ども達を想起していただければ問題ありません。
隣家から食料を盗んでいたり地球星人の肉を食っていたという描写はあったものの、流石に榮養失調にはなると思います。
その結果奈月さん、由宇さん、智臣さんの三匹ともがお腹を張った体躯になった。
とても地球星人には理解・納得しやすい理由ではないでしょうか。
流石にオスとメスがいても妊娠するのはメスだと思います。だって肉体は地球の有機物だろうし。
しかしそれも地球星人的な価値觀でしょう。そんな瑣末にこだわるなんて全く莫迦らしいよなあとも思います。
ちなみにちょろっと見た他人様の感想で「秋級で生活したことで忌んでいた性欲を感じたのは興味深い」というものを見ましたが、奈月さんは性欲を忌んでいたわけではないのではないか?と思っています(智臣さんはその雰囲氣があったけれど)。
『繁殖は良い!みんなするべき!』と礼賛しているわりに性欲を包んで見ないように、また "別の表現をしていること" に対して純粋な不思議や疑問を感じていただけだと解釈しています(セックスを「なかよし」と言うの本当に氣持ちが悪かった)。
『心地よい快感が、ずっと膝の骨を裏側から擽っていた』という表現。
この表現にわたしは強い美しさを感じてとても好きです。
そこで思い出したるは少し前に惡魔のSNSで見た『最近の若者はセックスを求めているのではなく、精神的充足を求めている』という考えです。
セックス依存などもありますが、あれはつまり心の渇きを満たしてくれることの手段や媒介としてセックスがあり、セックスそのものをしなくてもいいのなら依存にならないのではないか?と勝手氣儘に考えています。
おそらく奈月さんは地球星人の社会で闘っていたのではないか。というよりも闘うしかなかったのではないか。
しかも多くの場合で精神的な揺り籠になるはずの性という場所も、性犯罪者の塾講師に壊されています。
そんな奈月さんが心地よい性欲や恋のような感情を憶えたというのは、それはつまり生物が生物としての安寧や安心を得ることができたからではないのでしょうか。
ということは、性欲を『忌避していた』のではなく『感じられる環境ではなかった』ということではないのでしょうか。
逆にいえば、ポハピピンポボピア星人との巣を作ったからこそ、ズタズタに壊され踏みにじられた心が、癒され、生物としての根源を取り戻したのであろうかなと思いますが、考え過ぎでしょうか。
自己を取り戻すため
この作品は奈月さんが自己を取り戻す軌跡が描かれた作品だと捉えています。
先述の性欲についてもそうです。
超個人的な話になり恐縮ですが、わたしも二十代のころにメンタルヘルスにて食事をしてもおいしいを感じられなかった経験があるので、奈月さんが味を感じて耳が聞こえるようになった時は誇張なしで泣きました。
性犯罪者の塾講師に壊された口と右耳が奈月さんのものに戻ったのです。
これを泣かないでいられますか。今でも泣きます。
本当によかった。
奈月さんが〈自分〉を自分に "取り戻した" 時、奈月さんは羽化したお蚕さんを想起します。
この『地球星人』は養蚕がモチーフとして描かれますが、読んでいる時は何に対しての表現なのかわかりませんでした。
しかし、今になればわかったような氣がいたします。
養蚕はその言葉の通り、お蚕さんを養殖する行為です。
桑の葉をたっぷりと食べさせ、繭になった段階で水に沈めて殺します。そうしてできたものが、絹糸です。まあ常識ですね。
つまり養蚕の行為自体が地球星人的なものであり、謂わば『育ちきる前に死ね』という意味合いであると考えられます。
奈月さんはそれまで地球星人の洗脳を望んでいましたが、ついぞ叶わず(頭が良かったのでしょう)繭になることもできなかった。
そんな人が同士と共同体を作って生活したことで、繭を作って、殺されることなく成虫として羽化することができた。
たとえ数日で死んでしまうとしても、自分の翅で飛べる術を手に入れた。
お蚕さんという喩えはそのまま地球星人と、その洗脳から抜け出して自分を取り戻すこと表していたのだろう、と愚かしくも考えたりします。
この作品に触れることで、自己を取り戻す方が少しでも多くいればいいなと思います。
ポハピピンポボピア
ポハピピンポボピア。
何度となく言及される言葉です。
ポハピピンポボピア。
言いにくい、けれどなんだか語感が良い。
ポハピピンポボピア。
わたしはこの作品を『凄まじい作品』『素晴らしい作品』だと思います。
しかし全く万人向けではないのが考え所です。
ですが少なくとも読んでよかった作品だと思います。
その理由は、これまで地球星人たちに糾弾されて静かに死んでいった魂たちの鎮魂になるだろうから。
そしてわたしは他の方が何を感じたのかが氣になりました。
すると「ポハなんたら星人」と言っていたり、「ポ…星人」と言っていたりする方が結構いる。
失礼じゃない?と思いましたが、これこそ作者の村田沙耶香さんが用意した仕掛けかもしれません。
『ポハピピンポボピア』や『ポハピピンポボピア星人』をちゃんと認識しようとしていたか。
ということです。
ちゃんと認識して自分の腑に落としこもうとする真摯な方なら『ポハピピンポボピア』を『ポハピピンポボピア』として受け入れようとする。
どこか鼻白んで小ばかにする人はちゃんと覺えようとせず、『ポハピピンポボピア』の部分も流し読みをする。
つまり『ポハピピンポボピア』という言葉への向き合い方で読み手の地球星人度合いがわかってしまうということなのかしら、ということです。
怖いひとです。村田沙耶香さん。
あ、妄想でーす。
最後に
奈月さんが性犯罪者からの性加害を友人に打ち明ける場面があります。
この場面で自分が欲しかった言葉を自覺しますが、奈月さんはその言葉は受け取れませんでした。
今もし精神的に疲弊を感じていて、カウンセリングに行っても自分がほしい言葉を受け取れず袋小路になっている方がこの文章を読んでいたとします。
その場合は、自分がほしい言葉をあなた様ご自身がかけてあげてください。
何故ならば「そんな言葉をほしいのではない」と思っているということは、『ほしい言葉を知っている』ということであるからです。
正直、自分を癒すのは自分しかいません。
わたしはそうやって癒しました。
とはいえ、どうしても他者から言葉がほしいときもあります。
もちろん百発百中でほしい言葉はもらえませんし、何度挑戦してももらえないこと、何度も挑戦する根氣も必要です。
そんな、生きようともがいている姿は、どうしようもなく美しく思えます。
ほどほどに好きに生きてください( ¨̮ )
ありがとうございました( ¨̮ )
読まなくていい追記 ~忌まわしき塾講師の背景を想う~
何度も書いている通り塾講師はクソです。
物語の中盤で死ぬことになりますが、まあ因果応報ですよね。同情してもらえるとでも思っていたのか?というのが正直な感情です。
本当の意味で奈月さんの心を殺そうとしていたわけですので、奈月さんが取った行動も正当防衛でしかないと思う。
なので塾講師には同情をしませんが、同情をせずに切り捨てるのは流石に平等ではないので、塾講師はクソですがその背景を想ったりしました。
まあ情け、意味もない道樂です。
この性犯罪者は一見容姿が良いと描写されています。
時を騒がす男性アイドルに似ているとも言及されています。
わたしは思うのですが、容姿が良い人ほど地球星人からより強い圧力をかけられるのではないでしょうか。
下記記事で書いたようなことです。
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もちろん容姿が良いことで数々の恩恵を得ることがあるのでしょうが、それだけとてつもないストレスや重圧もあるのでしょう。
なので性犯罪者になったのではないか?
また容姿が良いことでなんでも許されていたため、性犯罪も許されると考えていたとか。
考えが甘すぎますけどね。
また『先生と言われると性格が歪む仮説』もあります。
教師や医者や政治家など〈先生と言われる立場〉にある人は、性格がひん曲がっていたり幼稚な部分を多く持っていたりする印象があります(あくまでも偏見)。
性格がひん曲がったから性犯罪者が増えたのか、性犯罪者予備軍だから〈先生と言われる立場〉になれるのか。
いえ、理論が破綻していますが、これはあくまでも偏見ですのでどうぞご容赦を。
また〈先生と言われる立場〉は、その立場上『正しい行い』を求められます。
『正しい行い』を求められるという重圧で性格や性嗜好が歪(ひず)み、一般的に異常とされている性犯罪や小児性愛趣味に走るのではないか?と考えたりします。
あくまでも憶測、妄想の範疇ですけどね。
という具合に性犯罪者の塾講師の背景を想像したりしましたが、人の心を壊した人間には同情しません。
当然の報い、因果応報です。
くたばれ。