頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

【固定記事】いとをかしき言葉のお話

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

 

 

 

言葉はその人自身

皆さんは言霊という考え方をご存知でしょうか。

 

言霊とは、古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力。

発した言葉通りの結果を表す力があるとされた。

 

 

という意味合いらしいです。

 

いろいろ個人で感じ方に違いはあると思いますが、わたし個人は言霊は存在すると思っています。

友人や上司に言われた言葉で傷つくという現象も、言われた言葉がずっと残っていて胸につっかえるという現象も、言霊が存在しないと起こらないと思うのです。

 

またその言葉は、思考を使わないと発せられることはありません。

 

 

言霊の話とはすこし離れますが、全ての物事や現実は、思考の後に生まれると考えています。

戦国時代に「電話を使えば、遠くにいる親類と会話することができる」と話したところで、だれも相手にしないでしょう。

下手をすれば「邪教を布教しようとしている!」と言われて打ち首に処せられる危険さえあります。

 

憶測の域を出ませんが電話を作ろうと考えた人も、「離れた人と話せるわけがないでしょうに」と外野から笑われていたのではないでしょうか。

しかし今では当たり前となっています。

成功者の特徴として他者から"笑われた経験がある"というのは、ひとつの指標になるのではないでしょうか。

 

 

言霊

言霊の話に戻ります。

すこし眉唾な話に聞こえると思いますので、話半分にでも聞いていてください。

 

日本語にはとても大きな力が含まれているらしいです。わたしはまだ不勉強なので、ちゃんと説明はできませんが、カタカムナ文明や、カタカムナ文字の48音と現代日本で用いられている48字の一致などです。

カタカムナでは「ひふみよい」や「むなやこと」とかと言ったりするんですが、「いち、に、さん」と今では読んでいる「12345678910」も、むかしは「ひふみよいむなやこと」と読んでいたらしいです。「ひい、ふう、みい」ですね。

 

またあまり知られていませんが、第二次大戦で負けた後にGHQが日本を占領統治しましたが、そのGHQが日本の漢字を無くそうと画策しました。

「漢字というものは複雑にすぎる。あんなに難しいなら識字率も低いだろうし、それが原因で思想も偏る。結果戦争に繋がるだろうから漢字なんて廃止してしまえ」というロジックだったみたいです。

その後全国で一斉に識字率調査を行なった結果、全体の97%くらいが日本語を読み書きできたそうです。

 

漢字廃止計画は頓挫しましたが、神風特攻を生み出した民族を恐れていたGHQですから、どうしても日本の国力を下げたいために漢字の書き換えを行います。

氣を気にしたり、國を国にしたり、學を学にしたり、靈を霊にしたり。

理由等はこちらの動画様で話されていますので、ご覧になってみてください。

youtu.be

 

 

この前太宰治さんの短編を読んでいたら『慾』という字が出てきました。読みは「よく」

意味は欲望の「よく」と一緒ですが、現在の日本では『欲』が一般的です。

これもGHQの言語統制・言語統治でしょう。心が消えていますね。

 

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https://www.shinchosha.co.jp/book/100606/

 

中學時分は夏目漱石さんの旧字体で刊行された時の文庫とかの文學を読んでばかりいた為、旧字体にも馴染みがあったので特段無理なく受け入れることができました。

ですが、生まれてからも成長してからも目で考えていた人には意識を書き換えるのは苦労なさるでしょうね。

ヒトは考える場所が「心・頭・目」の三つあるとわたしは思っているのですが、その話も機会があればまたお伝えいたしますね。

 

 

同じ意味の漢字でも効果が違う?

なにが言いたいかというと、思い浮かべている漢字次第でも言葉の意味が変わるんじゃないかということです。

GHQの統治前は教科の名称が「國史」だったけれど、現在の學校教育下では、「歴史」になっています(こうの史代さん原作の、映画『この世界の片隅に』でも國史と描写されています)。これは「自國の歴史ではないように刷り込ませる為」であったりするらしいです。

 

 

わたしが非常に氣分良く思わない言葉があります。

「雰囲気」を「ふいんき」を発音している人が多すぎる。正しくは「ふんいき」です。

また、漢字ごとに考えてみると、雰は氣配・囲はとりまく・氣はエネルギー。

つまりその人の纏っているエネルギーという意味合いになります。つまりオーラと同義でしょうね。

それを正しく言わずに「ふいんき」と発音するというのは、その人自身のオーラ(エネルギー)を反故にすることなのではないかと感じます。

 

なにかで、「新しく納めた國や土地は、まず最初に言語を書き換えるのが大前提の常套手段」と聴いたことがあります。

漢字は亡くせなかったけど、言靈的な意味から無効にしてから75年くらいですか。

現代日本でも着々と言語の書き換えの刷り込みが行われていますよね。台所をキッチンと言ったり、鶏肉をチキンと言ったり、まな板をカッティングボードと言ったり。

言語の統制話は華氏451度にも通じますね。

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https://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/11955.html

 

このお話は、前回に書いた一九八四年の話とも繋がりますね( ¨̮ )

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

文字通り流れて行く言葉と、昔からある言葉

あと個人的に流行り言葉にも不満を感じるんですが、これは若い世代についていけないだけでしょう。

でもその時代だけのスラングみたいなのばかりの文章は、パッと見ただけでも非常に頭が悪く見えてしまうのだなという発見があったので有難い経験だったと思います😉

 

またそれにより逆に思うのは、「昔からある言葉の力」です。

最近の流行り言葉だと「エモい」とかなのでしょうか。あと比較例として「鬼」や「神」もありますよね。

12,3年前に爆発的に流行った「KY」という略語も今ではめっきり聞きません。

ここからわたしは「言語って結構残酷に、かつ容易に淘汰されるんじゃないか?」と思いました。

 

わたしはギターを嗜んでおり、今年で14年目くらいになります。

高校生の時分には「とにかく早く上達するコツ」を求めていたのですが、上達するには「今現在でできることを日々積み重ねるのが一番手っ取り早いと氣づきました(今現在できることを日々積み重ねていると、「これをこうしたらどうだろうか?」という閃きが生まれます)。それを理解したのがつい半年前とかです。

これって「急がば回れ」ということではないでしょうか。

 

他には「人のふり見て我がふり直せ」を実感したお話もあるのですが、非常に印象的かつ"いとをかし"な出来事で、いざ書くとなるときっと長くなるので、また今度個別の記事にしたいと思います。

端的にいうと『他者を通して自分を見ている』です。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

上記した昔からある言葉は、わたしが認識しているだけでも、祖母祖父の代からは存在していて、淘汰をされていません。

一時的な言葉が10年そこらで淘汰されるているのに対して、90年近くも生き残って、語り継がれていると言うのは、その言葉自体の言靈的な力が働いていたり、ヒトがヒトの世を生きるにおいて、ある種の真理を含んでいたり真理に触れていたりするためではないでしょうか?

 

 

ちなみにわたしが「エモい」という言葉が嫌いなのは、「自身の語彙の貧弱さを改善する氣もなくその貧弱さに胡坐をかいている姿勢が見えるから」です。簡単に言えば向上心がないということでしょうか。

「精神的に向上心のない奴はばかだ」

 

もういっこちなみに、「語彙力」という言葉が幅を利かせていますが、「語彙」は英語でボキャブラリーです。ボキャブラリーは豊富や貧弱と言われるように『量』です。

その量が能力というのはおかしな話なので、「語彙力」という言葉は根本から破綻しており、「語彙力」という言葉をそのまま使う方は、語彙も國語的な言語能力も貧弱だと、わたしは思います🌝

 

 

「無い物ねだり」という言葉があります。

『ないものを欲しがること・無理なことを望むこと』という認識が一般的で、わたしもその意味合いだけだと思っていたのですが、『自ら無い状態や不足感を望む』ことでもあるのではないか?と思いました。

不足感や、理想像などの目標が常にある方が頑張れて充実を感じられるから。

不自由な方が自由にできる』みたいな話ですね。

フレーミングの癖をつけていると、ちょくちょくこういった閃きがおりてくるから楽しいです😚

 

 

『無いものねだり』の話を描きたいだけだったのに、他のずっと思ってたことを書いたら3500字以上も書いちゃってたわ😘

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

【八十八ヶ所巡礼】ゴールデンセットリスト【幻魔大祭 2022】

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

行ってきました『幻魔大祭 2023』!!

 

👇過去の八十八ヶ所巡礼関係記事👇

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2023年の幻魔大祭初めですね☺️

 

※長くお預けを食らった幻魔大祭だったので、にやにやしっぱなし愉しすぎて記憶が雑です。

🌾これまで以上に話半分半人前半熟ゆで卵なので、どうかご容赦ください。

 

 

 

〜開演まで

この日は初めて母とライヴに詣でました。

チケットの整理番号的に、目一杯前に行ってもフロア中央になるだろうとのことで、もたれられそうなPA卓前に鎮座しました。

でもPA機材保護用の柵があったので、もたれられませんでした。

✌️

 

そういえば開場前?にライヴハウス前の道路を、『8888』のナンバープレートを持った車が通り、見事に貴様らの皆さまが「8888だよ」と反応をされておりました。

あの車はたまたまだったのかしら。

 

 

開演まで母と話すわし。

フロア最後方にいたので、続々と入場してくる貴様らの皆さまが目に入ります。

 

開場前から思ってたのですが、『ぼっち・ざ・ろっく!』経由で八十八ヶ所巡礼さんを知った(『ぼっち・ざ・ろっく!』に登場するアル中ベーシスト・廣井きくりさんのモデルがマーガレット廣井さんと言われている。あくまでも作者は公言していないらしいそうなので、推察)と思わしき方が、どうやら多かった印象です。

一応言及しておきますが、『"それ"のファンとして、他に迷惑をかけたりしないか』が重要だと思っているので、知ったきっかけはなんだっていいです。

 

2023年2月17に堺ファンダンゴで執り行われた『仏滅ナイト2023』では、『ぼっち・ざ・ろっく!』経由で知ったと思しき方は居なさそうな印象だったんですけどね。

まぁでも『仏滅ナイト』はチケット即完売してましたしね。

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この開演待ちの時に、歳の頃だと10歳前後くらいの少年が目の前を通ったので非常にびっくりしました。

小學生が貴様らとなる時代…。。( ˘ω˘ )

 

少年の後ろ姿に「愉しんでね〜!!!!!」bibibibi!!  と念を送りました。

 

 

5〜10分押しくらいで、開演。

 

 

Kenzooooooooさんは『泥春』のPVで用いていた目の小道具を持参し、お立ち台の上で何度かカシャカシャしていました。

 

Katzuya Shimizuさんは『紫光』の衣装だと思ったのですが、今思い返せば、おブラウスの胡蝶蘭みたいなフリルがお胸から覗いていたので『泥春』の衣装だと思います。

青い照明の関係か、お掛けになられているサングラスがピンク色に発光しておりました。

 

マーガレット廣井さんも、同じく『泥春』の衣装。

そのお姿を見て、「わ、、泥春の衣装だ…。。かっこええ。、△▷▽◁△◁▽▷」と思う。

『泥春』の衣装って、これまでの衣装に比べてフォーマルな印象の装いなので、マーガレット廣井さんのスタイルの良さが目立ちますよね。わたしにはそう感じます。

 

 

漆・黒・の・と・き・め・き

「おはようござい松山!」からスタート。

地元だから浮き浮きしてる?感じのマーガレット廣井さんを感じました。

2022年7月18に開催された『幻魔大祭2022 in 魔つやま』の時に一曲目だった『粋NALI』でもそうでしたが、地元だからか声がよく出ていたなと思いました。全く偉そうである。

 

この曲の照明が、抑えめ光量の青と緑で、ステージの黒色と照明の光とが相まって、まさに〈漆黒〉を覺えました。

多分この時の照明はスポットライト(熱いやつ)。

 

一曲目のこの曲でわかったことですが、この日の音はリヴァーヴ(残響音。深くエフェクト効果をかけると、樂器が上手く聴こえたりもするが、音の輪郭はぼやけたり、プレイを誤魔化したりもできる)がかなり薄めで、音の輪郭がはっきりキレキレのきらきらでした。

 

この日は、「応援しているよ」

 

 

仏滅トリシュナー

前曲にてリヴァーヴが薄めと書きましたが、恐らくそれはこの日のPA具合によるものだったと思います。

いつもナチュラルめな音を貴様らである我々に届けてくれるKenzooooooooさんのスネアが、よりナチュラルな音だったためですね。

 

リヴァーヴが薄かったので、スネアのフラム(左右の手をずらすことでタラッと発音する奏法)がすごくクリアに聴こえて、ドラムの「ドドタラッド」というフレーズと、ベースの繰り返されるフレーズとが絶妙にユニゾンしてた。

 

 

マーガレット廣井さんの左手を見てたのですが、人差し指で三弦、中指で二弦、小指で一弦を押さえている時の三弦は指で弦を押さえる時の衝撃で発音しているのか?と思いました。

が、ちゃんと右手でピッキングしていたのでわたしの憶測はただの憶測ですね‾\_(ツ)_/‾

 

しかし、あの右手の動きは大分練習しないと習得できないよなぁ、と思います。

なぜかというと、正面から見て下側の弦(高音弦)をピッキングする時には、手のひらを自分から見て奥に移動させないといけないのですが、いざ弦を弾く指は曲げないといけないのです。

 

つまり、移動する方向と指を曲げる方向が真逆なんですよね。

わたしはギタリストなので難しいと感じるのかもしれませんが、あの運動を正確な八分音符で弾き分けるのはやっぱり難しいと思うんだよなぁ。

 

この日の『仏滅トリシュナー』は「酔っ払い 取っ払い」のアーミング部分(樂曲time 1:55~)でKatzuya Shimizuさんの方を向く、振り付け?をするマーガレット廣井さんでした。

あれ好き。昔はよくされていたのかしら。

youtu.be

 

「真っ暗闇で我々と共に踊ろう松山!」的なことを言ってから曲が始まりましたが、この時も、舞台の黒にスポットライトの控えめでふんわりとした緑色の明かりが妖しさを醸し出し、その妖しさをLED照明の緑(この時の光量は多め)がレーザーのように真っ直ぐと伸びて切り裂くような様が、非常に曲の雰囲氣と合っていたと感じます。

 

「日々のお勤め、誠にご苦労様であります!」の『誠に』が5回くらいありました。

 

 

凍狂

歌い出しからのひとセクションが終わり、感想に入る前に「凍狂」とマーガレット廣井さんが曲名を仰ったのですが、この時、映画とかで作品名がスクリーンに映し出される様が想起されました。

「全然夜にならないね」から始まる人間のドラマ、作品の導入部分が終わった後に、スクリーンの中心に白字の明朝体で『凍狂』と作品のタイトルが映されるあれです。

何を言っているんだか。

 

 

鬼畜

Kenzooooooooさんのゆったりしたエイトビートから、「ラブソングを一つ」とマーガレット廣井さんが言い、曲が開始。

 

歌い出しの時の照明がスポットライトの白いものだけだったので、なんというか昭和時代の映像というかVHS収録のサスペンスドラマにて、登場人物が独白しているみたいな印象を受けました。(伝わって)

その後のサビでは赤と青の照明がステージを照らし、「いやめっちゃ恨み節やん。全然許してないやん。こわ」と思いました。

恨み節ではないけど、石川さゆりさんの『飢餓海峡』と似たエネルギーを感じました。


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Katzuya Shimizuさんのギターソロは、踏んでる歪みはやっぱりファズだろうと思います。

この日の音はファズの歪み特有の"毳毳しい"が大増量なファズサウンドで、リヴァーヴが薄いから、その音の毛羽だった詳細が鮮明に見えるような音でした。

端的にいうと最高ってことです。

 

 

紫光

マーガレット廣井さんがベースを弾き始める前に「仏滅の夜 from流儀 八十八ヶ所巡礼 今宵は貴様らと四国で紫光の果てまで」とそんな感じの韻を踏んでいました(四国と紫光の韻は確実)。

 

『紫光』は何度もライヴでも音源でも聴いていますが、この日初めて「この曲で歌っているのは、『"視界を棄てる"という意味ではなく、鮮明に見えすぎる繊細な眼を棄てれば、歓びはどこにでもある』という意味なのだろうか?」と思いました。

あるいは、光や色を認識できる程度の視力の方が、かえって苦しまずに生きていける、というような意味合いかな〜とも思いました。

タバコのポイ捨てを見る度に人間を恨んでたら際限ないし辛いですもんね(わし)。

 

「手を上げても良い。手を開けなくても良い」の時に、確か思惟手をしておりました。

 

 

泥春前MC

「(なんかの前段があって)いきなり『マスクを取っても良いですよ』って言われても戸惑うよね。

コロナ終わったかと思えば、これから花粉症の時期だから外せないだろうし。

マスクが任意になってからまだ四日しか経ってない。いくら新聞を見ても四日だ。

わたしは正直WBCが開催されるからマスクなしでも良くしたんじゃないか、と思ってる」と話されていましたが、野球とマスクって関係あるんでしょうか?なるべく外界(自分に関係しない情報やニュース)から距離を取って生活しているので、そうなの?という氣持ちでした。ネット使ってる時点で外界とは接している。

 

「季節が巡ってもそれに氣付けないくらい貧しいとかって嫌じゃん。『もう一年経ったの?』思って生きたくないしさ。渇愛しながら生きるのって苦しいじゃん(渇愛しながら〜』のところは"みたいな感じのこと言ってた"という意味で捉えてください。確か渇愛という言葉は使ってた)。

…貴様ら今『あ、こいつ無理やり次の曲に繋げようとしてるな』と思ってるだろ。

新曲作ってきたの!次!(か、やる!)」と言って、『泥春』へ。

 

詳しいことは省きますが、マーガレット廣井さんが『あんなださい職業、絶対になりたくない』と言っていた時は、純粋に「か、かっこいい…」と思いました。

「実際に思っているのだろう」というリアル感と、それをちゃんと明言できる覺悟に対してです。

まぁ、わしもなりたくはない。

 

 

惡闇霧島

Katzuya Shimizuさんのサングラスオフターン!

Katzuya ShimizuさんがKatzuya ShimizuさんとしてKatzuya Shimizuするギターソロの曲です‪٩( ᐛ )و‬

 

Katzuya ShimizuさんがKatzuya Shimizuするギターソロでは、マーガレット廣井さんが上手に来て、上手にいる貴様らの皆様と交流します。

その様を見るのも『八十八ヶ所巡礼のライヴの醍醐味の一つ』ですが、この日は、

マーガレット廣井さんが上手に行く

→上手の貴様らに少し微笑みながら頷く

→「あっち見て!ギターソロはギタリストが主役!」という意味でなのか、貴様らの皆様に意思表示

→上手の貴様らはずっとマーガレット廣井さん見るからか、マーガレット廣井さんは笑いながら何度も意思表示→照明に金歯が反射してキランキラン✨

→キランキランキランキランキランキラン✨✨✨✨

と言った感じでした。

 

マーガレット廣井さんは曲の最後で「仮の闇の終わりを争う」と歌わないといけませんが、ベースのシールド(樂器から機材に信号を伝えるコード。マーガレット廣井さんのは白色のカールコード)が引っかかったか何かで歌に間に合わず、首を伸ばして歌った後、引っかかったシールドを苦笑しながら直していました。

 

 

ちなみに、歌い出しの「闇の霧は晴れた?」のボーカルリヴァーヴの具合で『透明な水で流したけど、流れきらなかった細かい砂鉄や砂の筋』を想起しました。なんだその感想は。

 

 

幻魔大祭

「祭りは何のためにするのか!無病息災!心願成就(だったか?)!美味しい野菜ができるように(最高!)!ニキビが消えますように!何だっていいんだ!しわが一つ消えるでもいい!」

 

なんというか、この日のマーガレット廣井さんは『幻魔大祭2023』を地元愛媛で始められることを嬉しく思ってそうでした。

「わっしょーい!」

 

 

この『幻魔大祭』も、音源でもライヴでも何度も聴いているわけですが、この日この時に初めて、『もしかしてこの曲って「混乱を起こしている側目線の曲」だったりするのか?』と思いました。

まぁた酔狂な推察になるので、詳細は省きます。

 

2022年末の『大・仏滅ナイト!!』の時には、《洞窟の中で焚き火を囲んで催されている原始の祭りというイメージと表現しました(『大・仏滅ナイト!』の時に演奏されたのはSingle ver.ですが)。

floodinhead.hatenablog.com

 

つい先日、この曲を聴いている時に『自然の洞窟ではなくて、頭蓋という洞窟の中で幻魔大祭が演奏されてたら、そんなイメージをしたらこの世ではないところと繋がれるんじゃない?』などと思ったので、この日に実験しようと思いました。

 

が。

いざやってみると目の前はかっこいいし、ちゃんと本人を見たいし、でも実験はしてみたいし、目を瞑ってもかっこいいしでも本人を見たいし、でわけわからんようになりました‾\_(ツ)_/‾

要は樂しかったです。ぷ。

 

 

JOVE JOVE

曲中にマイクスタンドが緩んだことでマイク位置が変わり、ラストのサビはマーガレット廣井さんが下手を向いて歌っていました(つまりギターとドラムの御二方には背を向ける格好。ラストサビ前には何度か顎で位置を直そうと試みていましたが、あえなくマイク位置移動)。

ステージ正面にあるPA卓の真前で見ていたわたしには、ほとんど真横を向いて歌うマーガレット廣井さんを見て「『THE FIRST TAKE』みたいじゃん!」などと思っていました。

 

そういえば二番のサビ終わりくらいで、Katzuya Shimizuさんの音が機材トラブルで出なくなっておりました。

2022年12月4日のBIG CATでも機材トラブルありましたよね。

あの時はスピーカーキャビネットが壊れたかなにかだった。

 

何だか最近機材トラブルが多いですわねKatzuya Shimizuさん。

ギターの音が出なくなったとわかるや、ドラムセットへ近づき機材トラブルを知らせるマーガレット廣井さん。

その時は観客には背を向けていたので、我々にはわかりませんが、その一瞬間でさまざまな情報量のアイコンタクトが行われたのでしょう。

 

再三言っておりますが、機材トラブルほど『バンドを感じる瞬間』はないので好きです。

起こらないこしたことはないんですけどね。

やっぱり嫌な人もいるだろうし。

 

この機材トラブルの時だったかと思うのですが、「on ドラムス!from吉田町!Kenzoooooooo!」

「on ベースヴォーカル!from南予、吉田町!マーガレット廣井でございまぁす!」

とメンバー紹介と自己紹介を行なっておりました。

どこかで、マーガレット廣井さんとKenzooooooooさんは高校の同級生だと見たことがあるのですが、どうやら本当みたいですね。

ということは、「お前、東京行くんだって?」という青春が行われていた可能性もあるということですね。

 

機材トラブルが解決して、Katzuya Shimizuさんの紹介をする時には「どこfromなんだろう?」と樂しみにしていましたが、「on ギター!Katzuya Shimizu!!」と紹介されておりました。どこなの!

 

M.O. 8

「さっきの曲で『なんでマーガレットさぁ、こっち(下手を手で示す)を向いて歌ってたんだろ」って思った貴様らもいるんだと思うんだけど、マイクスタンドが緩んでマイク位置が移動したんだよ!でも誰も直してくれない!」の話をした後、貴様らの皆様から各々のモヤモヤを受け取っていました。元氣玉?

 

 

具現化中前のMC

「我々魔族は十万五千とか八千歳の設定だから、貴様らは赤ちゃんに見える。でも、『永・凹・阿阿瑠』の時に赤ちゃんにもなっていないような存在が、見間違いでなければ、ぴょんぴょん飛び跳ねていた。あんな二日酔いの曲で。二日酔いの経験もないのに。いや、いずれ知るのだろう」と、どこか嬉しそうにマーガレット廣井さんがお話しされておりました。

 

「そんな、いずれ二日酔いの辛い経験を知る。赤ちゃん未満な存在もいずれ成長する。…もう何が言いたいかわかるよな?」から親孝行をしましょうのお話へ。

 

やっぱり「皆様のご両親は、お元氣でしょうか!」の時は思惟手でした。

でもこの日は右手ではなくて左手でした。

 

 

この日は『泥春』の衣装だったわけですが、マーガレット廣井さんのモンゴルを感じる上着の下にはトレーニングウェアを着られているそうで、めちゃ暑いと仰っていました。

 

『具現化中』の歌い出し前、ギターだけになる部分で、マーガレット廣井さんはこのような動きをされていました。

 

 

日本

いつも思っているのですが、「みんなが知ってるカヴァー曲を一つ!」で『君が代』を歌う流れ、好きです。

 

この日は!

フロアに降りることこそありませんでしたが、曲間のブレイクでステージとフロアの柵に乗ってくれました!

「今日はここまでで様子見をする」と仰っていたので、将来的にはフロアに降りてくる未来があるということですか!

『マーガレット廣井をみんなで分け合う未来』も、『マーガレット廣井とタッチとかしちゃえる未来』もあるということですか!

きゃー!

 

2023年5月2日に開催される『八十八夜』ではフロアに降りてくれるのでしょうか…‪( ¨̮ )‬

 

 

しかし、柵に乗っている時の姿はかっこよかったなぁ。

 

 

アンコール明けのMC

いつものようにKenzooooooooさんがはじめに登場。

お立ち台に登って、フロアの貴様らをじっくりと見る。

お立ち台から降りるも、再度お立ち台に登る、などをされておりました。

 

再度お立ち台へ登った時に、Kenzooooooooさんの身内の方?が「キレてるよ!」と声をかけていました。背中が広い!太平洋!

 

Katzuya Shimizuさんとマーガレット廣井さんも登場し、『金土日』のドラムフレーズが開始。

 

 

「泥春の映像撮った時は真冬だったなら良かったんだけど、照明が当たってるからMAJIで暑い。人生で一番汗をかいているんじゃないかと思うくらい暑い」という衣装の話から、マーガレット廣井さんがお召しのズボンへ話題は遷移します。

「これ実はわたしの父が成人式の時に履いてたものなんだよ。羨ましいでしょ」と、マーガレット廣井さんは話されておりましたが、廣井家のものは廣井さんが継承して着るから価値があるので、羨ましくはありません😌

でも、ファンとしては微笑ましいの一言です😌

廣井家Love Forever😌💕

 

しかし、さすがにものが古いのために色々と破れたりするそうです。

 

「前にこの3人で劇をやった時、このズボンを履いてたんだけど、ずっとチャックが開いてた」や、『日本』のブレイクで柵の上に登った際に「心優しい貴様らが足を押さえてくれてたけど、『おいおい破れるからやめろ!』と思ってた」などのお話をしてくれました‪( ¨̮ )‬

 

 

そんなわけで「ズボンが落ちるから何も考えていない」とマーガレット廣井さん。

「だから、いつもだったら色々紹介することとか考えるんだけど、今日は考えてないから自分で紹介して!ドラムを叩きながら自己紹介して!」とKenzooooooooさんに言うマーガレット廣井さん。

無茶振りが過ぎる。

 

Kenzooooooooさんは自己紹介の方法を考えるが、数秒もがいてもそりゃ無理な話なので、「on 無茶振りだと何もできない!でもドラムだけは無茶振りでもばっちりやってのける男!Kenzoooooooo!!」と紹介されて窮地を脱するKenzooooooooさんでした。

 

 

『JOVE JOVE』の時の機材トラブル原因を「スピーカーケーブルがボロかったからでしょ?」とマーガレット廣井さんは推理するも、首をかすかに振って『違う』と意思表示のKatzuya Shimizuさん。

「じゃあ昨日の温泉で筋肉と一緒に機材も緩んだ?」と話すマーガレット廣井さんに対して、『いやぁ…』と苦笑いしながらも首肯して反応するKatzuya Shimizuさん(返答が面倒になった?)。

 

そんな流れで、「on 昨日入った温泉で筋肉が幽流幽流になった!Katzuya Shimizu〜!」と紹介されていました。

 

2022年7月18に同じW Studio REDでライヴを開催した時は「on 昨日妹の結婚式でちょっとウルっときた!Katzuya Shimizu〜!」と紹介されていましたし、魔つやまではやたらとKatzuya Shimizuさんの親しみやすさとお茶目を提供してくれる魔族…。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

「そんなズボンが破れたりしているわたしだけど、父からは『半人前』だと言われるのだろうと思う。『まだまだ準備が足りない』と。でも半人前でもよい!(この時に、氣になる挙動をした方がいらっしゃったようで、それを見つけたマーガレット廣井さんが)なんだ貴様、今『半人前では足らない』みたいなこと思ったか!笑」という貴様らいじりから「…半人前、半人前…。。半熟…。半熟卵…。。」と困るマーガレット廣井さんを見てたのしむ貴様らの時間が流れ、「on 鳥インフルエンザが心配な半人前半熟卵が大好き!板東英二!!」と落ち着きました。

思えば、八十八ヶ所巡礼のマスコットキャラクター(お名前はohenroさん?)もゆで卵みたいなフォルムをしています。

 

 

懺悔します。

ズボンのチャックが壊れていた、と話されていたので、メンバー紹介後のソロパートでマーガレット廣井さんがお立ち台に登った時には股間を凝視していました。

ちゃんと閉まっていました。

懺悔します。

 

ベースソロはユニゾンチョーキング的なプレイをされていて非常にブルースを感じるかっこいいものでした。

 

 

ベースソロの後に、「全國津々浦、浦々回っている我々だけど、なんでここだけチケット売り切れてないんだよ!地元なのに!」と前回同じライヴハウスで幻魔大祭を開催した時から言ってたことを今回も仰っていました。

四國は客入りが悪いというのは本当だった。。

 

そのあとの『金土日』の曲間で、

 

「やってる意味のないことが大切♪」

「僕なりに頑張ってる」

の掛け合いが、恐らく三年近くぶりに行われたのですが、

「やってる意味のないことが退屈♪」

「チケットは売り切れてないけど!」と何度も言っていました。根に持ってて面白いけどチケットはソールドしてほしい。切に。

愛媛はいいところだから一度はおいで。おいでください。

 

 

怪感旅行

この曲で覺えているのは(かっこよかった記憶しかない。弱小な脳ちゃん)、

  • エンディングのソロ回しで、Katzuya Shimizuさんが唇を突き出したこと
  • 中央のお立ち台にマーガレット廣井さんとKatzuya Shimizuさんが立つ時に、いつもはマーガレット廣井さんが左でKatzuya Shimizuさんが右に立つのですが、この日はそれが逆だったこと。
  • ソロ回しでKenzooooooooさんの番になったら、Katzuya Shimizuさんがお立ち台からパッとどいてKenzooooooooさんが目立つようにしたこと。

 

です。

特に三つ目のはかっこよかったし、ばっちり決まったら演出としてすごく決まると思う。

けど、それは予定調和っぽいとも思うので、成り行きでも良いとも感じます。

でも上記の演出がばっちり決まったらステージ映えすると思います。

 

大きい箱とかだと特に映えると思うけど、キャパ200人くらいの箱でもやってほしい。

Forever. Forever...

 

 

 

おかんの所感

以下、わたしが付き合わせた母の感想です。

 

Kenzooooooooさんは職人って感じがした。自分の仕事を淡々と黙々とこなして、無駄なことをしない。というよりも全員職人氣質。

 

Katzuya Shimizuさんを見て『ベルサイユのばら』のオスカルを想起したそう。

ノーいじりであのお顔はすごい。めちゃイケメン(「メイクはしてると思うけど、整形はしてないと思うよ」とわしが言っておきました)。めちゃくちゃモテると思う。

 

マーガレット廣井さんに対しては「なんか日本っぽいと思った。和、というか。親孝行を勧めたり、すこし右って感じがした(これは母本人も補足しておりましたが、悪い意味や変な意味ではなく、原初の意味での"思い遣る"意味合いでの右、という意味です。決して政治思想が強くなった右翼的な意味合いではないです)。

あと、和の感じから、乱歩的な空氣も想起した。

 

日本や、和を感じる、乱歩を感じたと話していたので「八十八ヶ所巡礼はバンド単位で人間椅子さんと親交が深いらしい」と話したら、納得していました。

 

 

これはわたしの考えも入っているのですが、人間椅子さんが、そのまま江戸川乱歩であるなら、八十八ヶ所巡礼さんは夢野久作さんっぽい?と話してみたら、言い得て妙だ、とのことです。

 

乱歩さんは『少年探偵団』や『怪人二十面相』などと児童向け作品を書いたりもする(大衆向けなわかりやすい作品を書ける)が、夢野久作さんは大衆向けの作品は書かない主義的な雰囲氣があり、その雰囲氣が八十八ヶ所巡礼と通ずる、という意味です。

わたしは乱歩さんと横溝さんは読んだことがあって好きですが、夢野久作さんは読んだことがありません。興味はあります。

 

あと、やっぱり「あんなにキャラクターが違う三人が同じバンドをやっているのは不思議でしかない」という感想も口にしておりました。

みんなが通る感情☆

 

 

おしまいに

個人的には2022年12月4日以来の『幻魔大祭』だったので、非常に非常に愉しみましたし、樂しかったです。

セットリストはPV発表曲と、各アルバムから数曲選出されたゴールデンセットリスト的な構成でしたが、お預け幻魔大祭で渇望な日々だったので、聴き馴染んだ曲でも色々な感情があって大満足です。ままま魔族でかなり満足✌️

 

 

次の八十八ヶ所巡礼さんは、2023年5月2日に東京は渋谷のO-EASTで開催される『八十八夜』です。

夏も近づきますね…。

得体がしれないイベントすぎて実感がないわ☆

 

 

 

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 

 

 

 

きっと…、、意識に入れるから、、、エイトビイトは演奏されない…。。。

 

老化 Ⅰ

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

突然ですが、わたしはTULLY'S COFFEEさんのハニーミルクラテというメニューが好きです。

www.tullys.co.jp

好きなので定期的に注文しています。

 

先日、また注文しました。

 

飲んで思いました。

 

「甘ぇな」と。

 

 

ハニーミルクラテは、名前の通りはちみつが入っております。

出来上がりのタイミングで、先の細くなった容器からはちみつを絞って回しかけます。にゅるり。

 

『はちみつの重量は全体の何%で何グラムから何グラムまで』などと決まっているわけではないようなので、回しかけるはちみつの量はその商品を作ってくれている店員さんのさじ加減なのですね。

 

恐らく、その時に調理を担当された店員さんがサービス精神が旺盛であったために、はちみつの量が多めだったのでしょう。

だから、わたしが飲んだ時に「甘ぇ」と感じたのだろうと思います。

 

 

さて。

この「甘ぇ〜〜」を感じた時。

わたしの脳に去来した感情は何か。

 

『あぁ、老化だな。これは』でした。

 

元来甘党なわたしは、少年時代にはケーキに甘いコーヒーの組み合わせを有り難く美味しく頂いておりました。

 

恐らく、あの当時と同じ甘さのコーヒーを今飲めばたちまち顰めっ面になることでしょう。

 

 

よくよく『幼少期と成人してからでは食の好みは変わり、子どもの頃に食べられなかったものが食べられるようになる』なんて言います(わたしにとっての牡蠣がそう)

floodinhead.hatenablog.com

 

これは「味を感じる味蕾という機関が、歳をとることで段々と死滅し、味蕾の絶対数が減るから」だと言われています。

その少年の未来には味蕾の数が減少する、ということですね。

子どもの頃は舌が繊細であったが、成長することで味蕾の数が減り、味を感じること自体に鈍感になる。ということです。

わたしはこの説を信じる。

 

ということは、わたしは幼少の頃、あの甘いコーヒーをおいしいと思って飲んでいたのか?

いや、決して美味しくないと思いながら飲んでいたわけではないでしょう。

実際に飲んでいたのだから。

 

あの時のわたしは『甘さの向こう』を見ていたのかも知れません。

いったい何を言っているんだか‾\_()_/

 

しかし、実家で用いていたお砂糖は、いわゆる上白糖というものではなく、着色していない三温糖だったので実際には美味しかったのでしょう。

ちなみに、わたしはいま粗糖派になったので、三温糖ですら刺々しい甘みに思えます。

 

 

そういえば、わんこが家族にいらっしゃった方には共感いただけるかも知れませんが、わんこは他のわんこさんのうんこさんを食べます。

われわれ愚かな人間には、うんこさんのにおいは「くさい」としか認識できませんが、わんこさんの皆様方は、どうやらうんこさんに含まれている「くささ」の向こうにある「おいしいにおい」を感じ取っているそうなのです。

むしろ「おいしいにおい」しか認識していないのではないか。

さすが嗅覺が優れているわんこさん達です。

 

おや?

子どもの味蕾が甘みの向こうを感じているのだとすれば、わんこと子ども達とは似ていることになります。

 

これは、喜ばしいことですね‪( ¨̮ )‬

実際、《人間の大人》なんていう『システムに凝り固まった存在』などよりも、人間の子ども達の方がよっぽど"自然"として生きているので、全く《自然として生きている》わんこさんとは近い存在だとも思いますね。

おもしろいですね( ˊᵕˋ )

 

 

さて、そんな今回の記事は『老化』テーマです。

 

この後にも長々と続きますが、一つの記事を前後編に分けるという小賢しいことをします( ˊᵕˋ )

 

 

後編もお読みいただけたら幸いです( ˊᵕˋ )

 

ありがとうございました( ˊᵕˋ )

 

 

 

 

 

 

…SEATLE'S BESTのラテも好きです( ˊᵕˋ )

 

秀樹のバーモントカレー

 

本日もご訪問いただきありがとうございます。

 

つい昨日、劇団四季さんの『ノートルダムの鐘』を観て参りました。

 

 

ノートルダムの鐘』は、ヴィクトール・ユゴー氏の『ノートル=ダム・ド・パリ』という小説を原作としたミュージカル劇です。

ユゴー氏はかの有名な『レ・ミゼラブルなども執筆しておりますね。

 

 

原作を読んでのちょっとした感想

この『ノートル=ダム・ド・パリ』は15世紀のパリを舞台としております。

以前に記事を書いた『香水 ある人殺しの物語』と同じくらいの時代背景ですかね。

 

 

わたしはこの劇団四季版『ノートル=ダム・ド・パリで人生二度目の観劇なのですが、原作を読んで予習した者からすると「別物だった」という感想です。

 

 

まず、原作小説の感想ですが、わたしは『ノートル=ダム・ド・パリ』を読んで『愛というものの、全くの愚かさ』を覺えました。

 

まぁ〜、愚かなんです。

クロード・フロローの激し過ぎる嫉妬とか。

エスメラルダのフェビュスに対しての想いとか。

 

まぁそんな個人の感想は良いとして。

 

 

原作では劇作家で哲學者のピエール・グランゴワールという男性が登場し、そのグランゴワール君がとても良い働きをするのですが、劇団四季版では登場しませんし、〈おこもりさん〉と呼称される悲劇の女性も登場しません。

 

また軍人であるフェビュスはフィーバスに、クロード・フロローの弟であるジャンはジェアンと、名前が変わっております。

「フェビュス」と「フィーバス」はフランス語を英語読みした関係とかかな、と思われます。

 

原作に登場するフェビュスは、まぁ、一般的人間な胸糞の悪い人間なのですが、『フィーバス』となると、勇猛な軍人の好青年として描かれております。

クロード・フロローの弟であるジャンは、『ジェアン』となり演劇版ではジプシーの女性と結ばれ、子どもを授かるが、天然痘で亡くなってしまいます。

死の淵にある状況で、兄のクロードに自身の子を託した。その託した子がカジモドとなっておりますが、原作ではカジモドは捨て子です。

 

別物ですね。

しかし、その登場人物の名前を変えたのは『別人として表現するため』だったのかな、と観劇しながら思いました。

 

 

個人的にジャンが物語を引っ掻き回したり、グランゴワール君や〈おこもりさん〉がいることで(に〈おこもりさんの存在〉がいることで)、この『ノートル=ダム・ド・パリ』という作品の強度というか、劇性というか、ドラマチックさが高くなるように思ったので、この二人がいないのは少し寂しさを感じました。

 

しかし、その二人を登場させたり原作通りの劇にすると、きっと恐らくは四、五時間くらいの内容になりますね。

このグランゴワール君と〈おこもりさん〉は演劇ではなく映画の方が映えるのかもしれません。

 

 

省かれたものほど、きらきらと輝いて光る

原作小説は岩波文庫で上下巻に構成されております。

もし以前から興味はあったけれど未読な方は、お氣をつけください。

上巻はMAJIでなっがし、読み難いです。

 

著者であるユゴー氏の、建築に対しての愛からくる想いが、本当に長いし多い。

 

他にもパリという街の成り立ちや、學問に対しての造詣が深いが故に、読み手からすれば「それいる?」と思いかねないものまで書かれています。

 

しかし。

脱線した授業ほど面白く感じて、よく記憶しているパラドックスです。

 

 

再三言っておりますが、わたしは伊坂幸太郎さんのファンです。

その伊坂幸太郎さんの作品である『モダンタイムス』でも言及されていますが《要約された時に省かれたものほど重要》というわけですね。

 

 

角川文庫から『ノートル=ダム・ド・パリ』の抄訳版が発売されているのですが、それには作中にて著者が主張していた『言葉(活版印刷)は建築を滅ぼす』などは削られて編纂されているのではないかと思うのですが(その分読み易いと思われます)、削られた部分にこそ重要なことが詰まっていると考えます。

 

 

その理由は、この『ノートル=ダム・ド・パリ』という作品が《教養としての読書》を体現していたためです。

パリを埋め尽くすゴチック建築の意味やなりたち、文化藝術學問に対しての想い・考え、パリという都市の成り立ちとその変遷、そういったものがふんだんに込められていたので、読む側としても『その教養を持っていないと樂しめない』部分ではあると思いましたが、それこそ《教養としての読書》を体現している部分。

『書物というものの原初の意味』を表していたのだと考えます。

 

『読み書き算盤は教養の基本』だなんても言いますが、実質、それらができなくても生活をすることは可能っちゃ可能です。

ニューシネマパラダイス』という映画でも、第二次大戰の終戰直後くらいの時代でも読み書きができない大人が描かれます(これはもう時代という要因だけが原因だと思っているので、その舞台になった場所の文化水準がどうとかと言いたいわけではないです)。

 

それくらい『ものを読んだり、書いたりすること』は教養と密接に関係しているということですね。

それらの理由から、この『ノートル=ダム・ド・パリ』という作品は、まったく《教養としての読書》であるなと思いました。

 

 

ディズニーナイズ

前述しましたが、原作小説ではカジモドが捨て子とされていたところをクロード・フロローが施しとして?拾ったことから、エスメラルダや〈おこもりさん〉を巻き込んだ数奇な物語が紡がれます。

 

これも『原作とは別物である』という感想の一つなのですが、何よりも、作品のヒロインであるエスメラルダの性格と人物像が、一切原作と違っていたことに驚きました。

 

原作では15,6歳の少女として描かれていたエスメラルダですが、『ノートルダムの鐘』のエスメラルダは勝氣で自立のした20代中盤くらいの女性として描かれておりました。

まさに、全然違います(別にどっちがよいというのではなく、あくまで原作と劇などの表現としての解釈の違いという意味合いです)。

 

それもそのはず。

この劇団四季版『ノートルダムの鐘』はディズニー映画版を基にして構成されているのだそう。

 

ディズニー作品の特徴の一つとして、個人的に想起されるのは『女性が確固たる意思を持っていること』です。

 

この劇団四季版演出のエスメラルダも強い女性として描かれておりましたが、それは作品にディズニー的要素がこもっていたからなのでしょう。

 

そう考えれば、ミュージカル部分のメロディーワークもディズニーっぽいなぁ、と感じます。

これまでに観たミュージカルの映画作品って、2012年公開の『レ・ミゼラブル』とティム・バートン作品の『スウィーニー・トッド』と、実写版『アラジン』くらいなのですが、明らかにこの『ノートルダムの鐘』はディズニーの香りを感じました。

アラジン (字幕版)

アラジン (字幕版)

  • ウィル・スミス
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怪物とは?人間とは?愛とは?

劇の最後では『人間と怪物の違いはなにか』という命題を舞台から客席へと投げかけます。

 

確かに『当人では人間然としながらも、エスメラルダを我が物とせんとするために全く怪物じみた行動をするクロード・フロロー』と、『風貌はまさに怪物とも言えるが純粋で清い《愛の想い》を持ったカジモド』どちらが怪物でどちらが人間なのでしょうか、と問われたら。

その違いはなんなのか、と問われたら。

 

はっきりとこれが違いであると提示するのは難しいよなぁ、と感じました。

 

 

『愛』というものに対しても、言葉なく言及されておりましたが、確かに、なんなのでしょうね。

原作で描かれていたように文化藝術に対しての思いや、クロード・フロローが激しく抱いていた嫉妬という感情。

カジモドがエスメラルダに対して表現していたとても清い感情や、エスメラルダのフェビュスに対しての愚かすぎる純粋な想い。

グランゴワール君がヤギのジャリに対して抱いていた愛や(わたしはこれがもっとも清い愛情だと感じます)、〈おこもりさん〉が自身の娘に対して何年も抱いていた愛。

 

愛って、なんなのでしょうね‾\_(ツ)_/‾

 

 

まぁ少なくとも「愛」という命題にしておけば、大衆的にもとっつきやすいから、そういった意味合いでの一つのアイコンとしてもあるのでしょうと思います。

 

しかし、わたしはどうしても愛という感情に対して鼻白んだ思いを感じてしまうのですが、どうやらそういったものを扱っている作品に興味を持つようである。

平野啓一郎さんの『ある男』とか。

 

しかし、はっきりと自覺しているのは『愛って良いものだよね!』というような感情を内包した作品に対して興味を示すのではなく、『はたして、愛とはなんなのか』というような《愛》という命題に対して思考し、考察し、問うていくというような感情を内包した作品に興味を示すということですね。

 

『すべて真夜中の恋人たち』も一度読ませていただきましたが、本当に相入れない世界だな、と思いましたし。

 

他にも恋愛作品として描かれていた映画も、何の氣の迷いか出来心かで鑑賞したことはありますが、本当に時間とお金と命の無駄だったな、と今になっても深く感じる次第です。

やってる意味のないことが大切、ではあるんですけどね。


www.youtube.com

 

わたしにとって"愛"というものは、「はたして、愛はよいものか」という問いは、太宰治さんが『人間失格』で「信じるは罪なりや」と問うていたような命題と近いものだと考えております。

そんな個人の考えなんて、別にどうでもよく。

 

 

劇としての表現

物語の表現は様々にあります。

わたしが、大好きであり『旅行』と形容している小説や、映画、劇。

floodinhead.hatenablog.com

 

それぞれの表現にそれぞれの「強味」と「それでしか表現できないもの」があります。

 

この劇団四季版『ノートル=ダム・ド・パリ』ではっとした場面、表現は二か所ありました。

 

カジモドが溶けた鉛を階下へ流す場面と、カジモドがクロード・フロローをノートル=ダムの尖塔から投げる場面です。

 

前者は、溶けた鉛が入った鍋を傾けたら鍋からサテンの布が流れ出て、その後に舞台全体を覆うような大幕が下り、その大幕が赤い照明で照らされるというもの。

 

後者は『カジモドがクロード・フロローを階下へ投げ、落ちる様』を、クロード・フロロー役の役者さんを他の演者さん達が抱え上げ、舞台の奥に移動。

その後に舞台奥の壁に照らされた照明の、上から下への移動と効果音で、地面に落ちたことを表現するものでした。

 

この二つの表現は、恐らく『演劇であるが故の舞台表現』ではないかと感じます。

上記二つを観たときには、思わずはっと息を飲みました。

 

こういった「それでしか表現できないもの」を経験すると、それの魅力に魅了されてしまうものですよね。

なので、また観劇をしたいな、と思っております。

 

 

結局、原作には勝てない
と、これまで長々と感想を書いてきたわけですが(原作の影響でしょうか)、結論は『原作は超えられないよね』です。
 
元も子もねえ。
 
もちろん、とても良い観劇体験だったのですが、原作を読んでいるものからすると『カジモドが怪力である説明や、その理由』とか『カジモドが鐘つきの影響で耳がかなり聞こえ難くなっていること』や『溶けた鉛がどうしてあるのか』が説明されていなかったよな、と思います。
しかし、それは"説明過多"な現代を生きている「ぼんくら」なわたしの不甲斐なさが理由であったり、聞き漏らしていたりするのかもしれませんので、やいやいは言いません。もう言っているのだけど。
 
あ、でも「らんちき法王」を決める際のお祭りの場面は、原作の小説表現では限度があって表現できなかった部分であるかなと思うし、実際にユゴーの脳内にあった場面はあんな感じの乱痴氣騒ぎだったんだろうな、と愉しめたので、やっぱり劇もいいものだよな、と思い至っております。
 
 
よだん
本編が終了すると、カーテンコール?がありますが、その時に手を振っていたクロパン・トルイユフー役の役者さんを見て、「あぁ〜、あの人いい人なんだろうな〜」と思ったりしました。
 
あと、クロード・フロローはフェビュスにナイフを刺した後、エスメラルダに激情的な口付けをする様が原作で描かれておりますが、その場面を読んだ時に『ジョジョの奇妙な冒険 第一部』の有名なシーン、ディオがエリナに口付けをする場面を思い出しました。
 
MAJI余談中の余談ですね。
 
 
 
今度は『オペラ座の怪人』を読んでから観劇かな。
でもまだ『黒衣婦人の香り』読んでないんだよな。
 
ありがとうございました( ¨̮ )

いずれにせよ、人ではない。

 

本日もご訪問いただきありがとうございます。

 

 

大体の概要

この間、『パフューム ある人殺しの物語』という映画を久しぶりに観ました。

観たのはこれまでで何回目でしょうか。5,6回目くらい?

2007年の映画だそうですね。

 

中學生の頃ですが、原作小説も読みました。

読書好きとして有名な、芸人の又吉直樹さんも、その昔オススメの小説として選出しておりましたね。

 

香料の名前などがカタカナなどではなく、全て漢字表記で印刷されていたので(麝香/じゃこう や、薄荷/はっか、龍涎香/りゅうぜんこう など)、漢字辞典を片手に調べながら読んだのは良い思い出です( ¨̮ )

 

なぜ今、また観たくなったかというと、ふと観たくなったからです。

直感ってやつですね。

現在、ヴィクトール・ユゴー氏の著作である『ノートル=ダム・ド・パリ』という作品を読んでいるので、その影響もあるのかもしれません。

 

 

この『パフューム ある人殺しの物語』という作品は、嗅覺が非常に優れた主人公が、理想とする香りを保存するためにうら若き女性を殺める、という作品です。

文字で表現するととんでもねえな。

 

あ、ネタバレはしますので、もしお読みいただける場合はお氣をつけください。

 

 

変態映画

パリの魚市場で誕生した、主人公のジャン・バティスト・グルヌイユは、その超越した嗅覺から周りから敬遠されていました。

 

彼はあらゆる香りに魅了されます。

革なめし職人の元で生活するなか、ある日、パリの街になめした革の配達を任されたグルヌイユでしたが、その街中で出会ったプラム売りの少女の体臭に魅了され、少女を尾行し、作業をする少女の〈香り〉を背後から嗅ぎます。

 

グルヌイユの氣配に氣付いた少女は叫び声をあげるも、グルヌイユに口を押さえられ、呼吸ができず窒息死をしてしまいます。

 

グルヌイユは絶命した少女の身ぐるみを剥ぎ、その体臭を一心不乱に嗅ぎます。

このシーンにいつも、全く変態的だなぁ、と感じます。

 

少女が絶命してしまったことで、少女の〈香り〉が消えてしまったことに絶望したグルヌイユは『香りを保存する方法』を知るために、香水商のジュゼッペ・バルディーニに弟子入りします。

 

ここで蒸留によって香油を精製する方法を知りますが、蒸留法では限界があることを知ったグルヌイユは、冷浸法という香りを抽出する方法を學ぶため、香水師のメッカとも言えるグラースへ旅に出ます。

 

 

いずれにせよ、人ではない

旅の道中で、グルヌイユは自身に体臭がないことを知ります。

体臭というのは、ある意味「自分の生を主張する要素」として大きな役割を担っていると考えています。

そんな《生物としての存在証明》が自分にはない、ということに氣付いた時のグルヌイユの絶望は凄まじいものだろうな、と思います。

ちなみに、これは伏線となります。

 

このシーンの前後で、『何かの意思(たしか劇中では"空氣"と形容されていたと記憶しています)』が、グルヌイユを「確実に殺そうと」します。

この場面は映画ではカットされています。

『目に見えないものが意思を持って』という表現をしていたと記憶しているので、目に見えないものを映像化すると陳腐化してしまうことを懸念してですかね。

しかし、この場面は他に類をみない名シーンじゃないか、とわたしは思っています。思い出補正はあると思うけど。

 

「自分には体臭がない」ということを知ったグルヌイユは、その欠点?を逆手に取り、他人の体臭を身にまとうことを決めます。

この『体臭の元』が「うら若き少女」であるということです。

 

最終的に13人の少女を殺めたグルヌイユですが、その犯行が露見してしまい、処刑をされます。

その処刑当日、グルヌイユは少女たちから得た香油で調合した〈特別な香水〉を身にまとい、処刑場に現れますが、その姿は『ボロ布を纏った青年』ではなく『上等な服を着た青年(さながら皇子然としている)』でした。

 

それまでは「早く処刑をしてしまえ!」「悪魔め!」などと口々に言っていた見物人ですが、"〈特別な香水〉で得た体臭を纏った"グルヌイユを見ると、「彼は無実よ」「悪魔なんかじゃない。彼は天使だ」と真逆のことを口走ります。

これこそ、人間が匂いにどれだけ頼っているか、ということの証明となりますよね。

 

グルヌイユがハンカチに〈特別な香水〉を垂らし、それを振ると、芳しい香りが見物人に見舞われます。

グルヌイユがハンカチを手放すと、風に揺蕩うハンカチを見物人達は、我先にとハンカチに手を伸ばします。

 

この時に思ったのですが、これって、当然ですがグルヌイユの存在に魅了されていたのではなくて、グルヌイユが纏っていた『表面』に魅了されていたってことですよね。

つまり、グルヌイユ自身を欲している人は、いない。

 

うわぁ。なかなか辛い。

と思いましたが、これって果たして現代では存在しないと言えるのでしょうか。

相手の地位やパーソナリティで判断している、そんな現代人。

相手の"その人"を見て、その人自身を欲している人なんてそんなにいないのではないでしょうか。

 

 

自身の罪

13人目に殺めた娘の父親であるリシだけは香水の力を受けていなかったのですが、「わたしは騙されないぞ!」と叫びながらも、グルヌイユに近づくと「お前を疑って悪かった。我が息子よ、許してくれ」と泣き縋ります。

このシーンは巧いなぁ、と初めて小説を読んだ時から思っておりました。

 

娘の匂いを纏っているから息子ということでしょう?

冷静に考えれば安直であるとも思えますが、『匂いで肉親かどうかを判断する』そんなこと日常生活で意識して考えませんし、考えないからこそ『巧い』と感じたわけです。

 

 

 

このリシが泣きすがっている時に、グルヌイユは涙を流します。

同時に、グルヌイユは最初に殺めた少女のこと思い出します。

 

リシは、娘の香りを纏ったグルヌイユだからこそ、『息子』と形容した。

つまり、リシ自身もグルヌイユを"その人"としては見ていないのです。

 

また、それまではグルヌイユのことを『悪魔』などと形容していた見物人やカトリックの聖職者は、〈特別な香水〉を纏ったグルヌイユを見て『天使』と、手のひらを返したように言います。

存在としては真逆の存在であっても、結局その実は、人間ではないのです。

幼い頃から超越した存在として敬遠されていたグルヌイユは、人の輪に入れてもらえなかったであろうと思います。

つまりは人として扱われなかったという見方もできるわけです。

 

実際皮なめしの場は結構酷な環境だったと描かれていたように思いますのでね。

 

この『パフューム ある人殺しの物語』は《天才が、天才が故に見舞われてしまう圧倒的な孤独》を描いた作品だったのかな、と、今ふと思いました。

 

 

しかし、最初に殺めた少女はグルヌイユの氣配でグルヌイユの存在に氣付いた。

もちろんグルヌイユの体臭ではなく、息遣いや微量な体温で氣付いた可能性はありますが、どれにしたってそれらは「生物を生物たらしめるもの」です。

そんな、最初で最後かもしれない『グルヌイユ自身を認める存在・肯定する存在』である少女を、自身の手で殺めてしまった。

その愚かさ?や、罪深さに氣付いたから、グルヌイユは涙したのではないのかなぁ、と思いを馳せました。

 

 

そのあと、グルヌイユは生まれた場所であるパリの魚市場に戻り、残った〈特別な香水〉を頭から被り、そこにいる〈宿なし〉達に「天使だ」と言われた後、身を食われ?一生を終えます。

 

そんな映画です。

 

 

あくが強い映画の方が好き、ということだと思います。

この映画は何度観ても、『うん、やっぱり変態性が強い映画だ』と思うのですが、その変態性が美にすら、藝術にすら昇華しているように思います。

それは単純にとても凄いことだと感じます。

また、そういった《執念をすらも感じる凄み》に魅了されて何度も観てしまうのだろうな、とも思います。

 

おいそれと他人に薦められる作品ではないんだけど。

 

 

中學生くらいの時分に見知って、DVDすらも買った作品というのは、今になって見返しても想うところがあるものです。

「あぁ、この作品のこういうところが、今の自分の価値観の一端を形作っているのだな」なんてね。

V フォー・ヴェンデッタ』なども、去年久しぶりに観返して、そんな風に思いましたよ。^

 

 

今度は『チェンジリング』とか『シザーハンズ』を観ようかしら。

 

しかし、最近。2時間を超える映画を観ることに対して足が竦む。

老化だ。

 

 

そういえば、『エスター』の新作が公開されるそうですね。

エスター』怖いんだよなぁ…。。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

親離れ、乳離れ

 

原体験は素晴らしいし美しいものと思うけど、その思い出を大切に飾っておくことももちろん大事だと思うけど、原体験を以って、それの至上主義になる人は、どうやら多いみたいですね。

 

原体験が史上で、その後続や後に出てきたものを認められないというのは、親離れや乳離れができていないことと似ているのかもなぁ、と感じた、春手前の夜。

 

 

 

相手の話を聴かない人の話は、誰も聴かない。

 

とうもろこし

しかばね

ねぶくろ

ローマ法王

うしみつどき

今すぐに買え

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

この記事は、2023年2月24日に書いています。

 

『モダンタイムス』の新装版

先日、わたしは本屋さんに行きました。

 

わたしは本が好きです。

 

本が好きなので、本屋さんに行くと浮き浮き湧く湧くと胸が踊ります。

色々な種類の本が陳列されているので、さながらわたしは本屋さんに対して『本のテーマパーク』といった印象を持っています。

 

そんな本屋さんを散策していると、以下の文庫本が目に入りました。

 

わたしの大好きな伊坂幸太郎さんの小説です。

わたしはこの『モダンタイムス』を何度も読み返し、読み返すたびに色々な発見や知見などを得ました。

伊坂幸太郎さんの作品の中でも、一番好きな作品です。

 

そんな『モダンタイムス』が?120万部突破したか何かの理由で、新装版が新刊として刊行され、その文庫本が本屋さんで陳列されていたのですね。

 

わたしは伊坂幸太郎さんのファンでありますので、たとえ持っている作品だとしても、面陳(書棚に挿さっている陳列方法ではなく、表紙・面が見えるように陳列される陳列方法)されていたら嬉しくなります。

これをきっかけとして、伊坂幸太郎の作品群に触れる人がいるかもしれないのかぁ、と思うと、氣分が上向く、みたいな感じです。

紛うことなくファンですね。

 

 

そんな『モダンタイムス』の新装版を手に取り、びっくりしました。

 

定価、高くない…?

 

わたしは文庫刊行時の初版本を持っていますが、その当時購入した時はこんなに高くはなかったです。

そう思い、家にある『モダンタイムス』の初版本を見ました。

圧倒的、安い。

初版の証明

 

全然違いますね。

初版時の定価が、上巻562円・下巻657円(税別)です。

それに対し、新装版の定価が、上巻720円・下巻880円(税別)です。

 

実に、上巻は158円・下巻は223円も値上がりしております。

 

 

本屋さんで新装版の定価を見て、「初版本こんなに高くなかったって。物価か…。。」と思いました。

その時に、あることに氣付きました。

わたしはとんでもないことに氣付いてしまったかもしれません。

 

 

サブスクリプションサービス

ここ最近では、サブスクリプションサービスというものが隆盛を究めております。

巷では『さぶすく』などと省略して呼称しておりますね。

 

この『さぶすく』の概略は、「月々に定額の代金を払った、その代価としてサービスを受ける。大抵は使い放題」というもので、有名なところではSpotifyAmazon Primeなどがあります。

 

諸大衆は、その便利さに『さぶすく』を利用されている方も多いのでしょう。

多いからこそ隆盛しているわけですからね。卵と鶏。

 

『さぶすく』のサービスを利用して事業展開しているものをちょっと調べて見たのですが、音樂、映画などの映像コンテンツ、漫画や小説などの書籍や雑誌類、自転車、食事類、衣服、家具・家電、などなどなど。

多岐に渡っていろんなサービスが提供されているようです。

 

しかし、これら『さぶすく』に対して、わたしがよくないと感じる点は《所有をしない》という点です。

 

もしかしたら、「所有をしないからいいのですよ、所有をするとかさばるし」というご心情のもと『さぶすく』をご利用されている方もいらっしゃるのでしょう。

 

これから、わたしが「《『さぶすく』を利用し、所有をしないこと》がどうしてよくないと考えているのか」をご説明いたします。

 

 

財産

サブスクリプションサービスで受けられるサービスの多くは、物質を伴っています。

 

音樂や、映画、書籍、家具・家電、衣服。

 

これらは、これまで『ものを買わないといけない』ものでした。

つまり《所有を前提としたもの》だったわけです。

 

『所有する』ということは、つまり、どういうことか。

それは『財産になる』ということです。

 

音樂や映像の類は、記録媒体を買い、書籍や家具、衣服はそのままその物を買います。

当然「物を買う」ということは、その物を所有することになり、所有した物は財産となります。

 

しかし『さぶすく』は、「売買」ではなく「借りる」というニュアンスの方が強いので、所有はしません。

サービスによっては一定期間借りて、それで氣に入ったら買取もできるそうですね。

 

 

財産となったものは、そのまま所有しておくか、あるいは売りに出すこともできます。

財産となったものは、希少価値がついて定価時よりも高額で売りに出すことができる場合もあるそうですね。

希少価値のついた物を、それを欲している人が購入する。

これは富の循環です。循環であり、継承でもあります。

ヴィンテージと言われるものはこれですね。

 

ですが、サブスクリプションサービスを利用していると、借りることが主体となるので、所有はしない。

所有をしないと、富の循環も継承もされないし、できない。

しかも、利用者は自身の身銭を切って『さぶすく』の定額料金を払い続けるので、サービスを提供する側は定期的に利用者から一定の金額が支払われます。

 

つまり、サブスクリプションサービスは富の循環と継承を行わず、一極集中的に富が集まる。

所有をすれば富が循環して周るが、『さぶすく』はサービスの提供者が富を保有し続ける。

 

サブスクリプションサービスがこのままいくとどうなるか。

その先にあるのは富めるものはより富み、貧困なものはより貧困になるという、貧富の拡大が激化する可能性があるのです。

 

これって、実はかなーり危険なことなんじゃないのか、と思うのですが、どうでしょう?

行き着いた先は、一定のものを借りたり、配給されたりの、旧ソ連共産主義

 

 

おそらく、サブスクリプションサービスは『富める者が、そのままそのものを所有するってよくないんじゃないの』という考えから『いろんな人にシェアしよう!』となって出た案、《資本主義を打倒する案》としてのサービスという側面もあるんだろう、と思うのですが、そのアイディア、サービスの行き着く先が『所有する者はそのまま所有し続ける』という《資本主義が助長される案》になりかねない、というのは、なんとも苦々しい皮肉だなぁ、と思います。

しかも、表面は共産主義的な顔をしている。

ペテンか詐欺か、そんな何かなのでしょうか。

 

 

物価が高騰することで儲ける者、損をする者たち

本や音樂などの諸藝術は、その内容自体は変わりません。

『モダンタイムス』はいくら年月が経とうと(作者の伊坂幸太郎さんが加筆修正などをしないかぎり)『モダンタイムス』ですし、The Beatlesさんの『Abbey Road』は録音したままの当時のものです。

 

つまりその記録媒体に込められた情報は、その『情報自体は変わらない』わけです。

 

では、何が変わるのか。

それは《物価》です。

 

物価が変わることでどうなるかと言うと、その物を買う際に『"消費者"が負担する幅』が大きくなります。

そして"提供する側"と、『提供をするために必要となるシステムを提供する側』が利益を得ます。

『提供をするために必要となるシステムを提供する側』の、代表格は消費税とかですかね。

 

少なくともこれまで30年近く生きてきた限りの浅い認識ではありますが、物価は、上がることはあっても、下がることはありません。

ということは、『今買わなかったもの』が、『次の日には高騰したりする』ということもあり得るのです。

 

『今、買う』のと、『値段が高騰して買う』のと。

その内容は同じで、違うのは物価。

損をするのは、利用者・消費者である自分である。

いかが思われますか?

 

 

今すぐに買え。

再三言っておりますが、わたしは音樂などの藝術や書籍などの『作者の思想・考えが込められているもの』が好きです。大好きです。

以前わたしは読書は旅である、というようなことを書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

『作者の思想や思いが込められている』ということは、それがそのまま自分の知識になる可能性が高いということですね。

実際に、わたしは書籍や音樂から得た知識で、人生がとても愉しくなっていると感じます。

 

しかし、『思想』というのはその特性上、時代によっては『危険思想』とされることもあります。

それまで普通に販売されていたものが、禁書とされ販売が禁止となることも往々にしてありえます。

 

ジョージ・オーウェル氏の著作である『一九八四年』では、読書をすること・紙に記録することが禁止されています。

その理由は『民が思考をすると、為政者が政治をしにくくなる(概略)』というものです。

 

レイ・ブラッドベリ氏の『華氏451度』も読書と蔵書を罪としておりました。

 

為政者のみなさまは、民である我々が思考することをよく思わないのです。

 

『一九八四年』では、「民が読書をしたり、語彙を豊富に知識として蓄えると、自身で思考を始める。そうすれば政治に関心を持つ者も現れる。そうすれば、為政者の地位が危うくなる。だから、読書や紙への記録を禁じているのだ」と言及されております。

 

もし、政権が特定の書籍を『危険図書』と見做し発禁とした場合、新しく書店では買うことができなくなります。

 

ですが、既に蔵書としていたら。

『危険図書』と見做した書物を焚書なりすることは、かなり困難となります。

 

なので、さっさと実体のあるものを買っておいた方が、わたしは良いと感じるのですね。

 

最近ではデータ販売などもありますが、データでの購入は良くないと考えております。

もし知らないうちに、特定の書籍が危険図書となっていた場合、データを消すのなんて簡単でしょうから。

そういった理由から、『実態のあるもの』を買った方が良いと感じます。

 

 

「フィクションから着想を得ているのか、現実をもっとよく見ろよ」と思われる方もいらっしゃるでしょうか。

しかし、恐れ多くも申し上げさせていただきます。

フィクションは、現実の延長線上にあるものなのですよ。

 

 

みなさまきっと思われている通り、少しばかり?いや、だいぶ?飛躍して思考している感は、確かに否めないとは思います。

実際に上記のことを主張している自分ですら懐疑的な部分はあります。

ですが、危険性はある。

まったく0%の杞憂とは言い切れないとも感じています。

可能性があるならば、危険ですよ、と言った方が良いのではないか、と思った。

 

なので、長々とわたしの思考と、直感を認めた次第です。

 

 

いつ何が起きるかわかりませんよ。

人は死にますし、いつ物価が高騰するのかもわかりません。

 

 

だからこそ、今すぐに買え。実体のある物を。

 

強い言い方になってしまうのですが、本心です。

 

 

「賢く使いましょう」という、陳腐なまとめ

ここまで、『サブスクリプションサービスの危うさ』を言及してきましたが、言及している本人としても、これは《財産として残る物質》に対してのみ当てはまるものだろうな、と感じています。

なので、所有という価値観から外れている『食べ物系のさぶすく』は利用してもよいのではないか?とは思います。

 

あと、『さぶすく』を利用して、好みだったら"実際に物を買う"という利用法や、「知らない世界を知るための足がかり」として利用するのならば、良いのではないか。

そんな利用の仕方は、サブスクリプションサービスの賢い利用法でないかと考えます。

 

わたしが『危険だ』と主張しているのは、サブスクリプションサービスを多用して、所有をしないということです。

 

 

な〜んて、完全アナログ派の酔狂な酔狂🍶

とうもろこし🍠

御好きに生きてください💀💓✨

 

あと、冒頭に『この記事は、2023年2月24日に書いています。』と記していますが、この記事自体が危険因子として判断されちゃって、自分以外の人に表示されなくなったら意味ないんですけどね( ¨̮ )

やっぱり紙です( ¨̮ )

紙に書きます( ¨̮ )v

 

 

 

ありがとうございました💀💖

 

( ¨̮ )🌽