頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

【固定記事】いとをかしき言葉のお話

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

 

 

 

言葉はその人自身

皆さんは言霊という考え方をご存知でしょうか。

 

言霊とは、古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力。

発した言葉通りの結果を表す力があるとされた。

 

 

という意味合いらしいです。

 

いろいろ個人で感じ方に違いはあると思いますが、わたし個人は言霊は存在すると思っています。

友人や上司に言われた言葉で傷つくという現象も、言われた言葉がずっと残っていて胸につっかえるという現象も、言霊が存在しないと起こらないと思うのです。

 

またその言葉は、思考を使わないと発せられることはありません。

 

 

言霊の話とはすこし離れますが、全ての物事や現実は、思考の後に生まれると考えています。

戦国時代に「電話を使えば、遠くにいる親類と会話することができる」と話したところで、だれも相手にしないでしょう。

下手をすれば「邪教を布教しようとしている!」と言われて打ち首に処せられる危険さえあります。

 

憶測の域を出ませんが電話を作ろうと考えた人も、「離れた人と話せるわけがないでしょうに」と外野から笑われていたのではないでしょうか。

しかし今では当たり前となっています。

成功者の特徴として他者から"笑われた経験がある"というのは、ひとつの指標になるのではないでしょうか。

 

 

言霊

言霊の話に戻ります。

すこし眉唾な話に聞こえると思いますので、話半分にでも聞いていてください。

 

日本語にはとても大きな力が含まれているらしいです。わたしはまだ不勉強なので、ちゃんと説明はできませんが、カタカムナ文明や、カタカムナ文字の48音と現代日本で用いられている48字の一致などです。

カタカムナでは「ひふみよい」や「むなやこと」とかと言ったりするんですが、「いち、に、さん」と今では読んでいる「12345678910」も、むかしは「ひふみよいむなやこと」と読んでいたらしいです。「ひい、ふう、みい」ですね。

 

またあまり知られていませんが、第二次大戦で負けた後にGHQが日本を占領統治しましたが、そのGHQが日本の漢字を無くそうと画策しました。

「漢字というものは複雑にすぎる。あんなに難しいなら識字率も低いだろうし、それが原因で思想も偏る。結果戦争に繋がるだろうから漢字なんて廃止してしまえ」というロジックだったみたいです。

その後全国で一斉に識字率調査を行なった結果、全体の97%くらいが日本語を読み書きできたそうです。

 

漢字廃止計画は頓挫しましたが、神風特攻を生み出した民族を恐れていたGHQですから、どうしても日本の国力を下げたいために漢字の書き換えを行います。

氣を気にしたり、國を国にしたり、學を学にしたり、靈を霊にしたり。

理由等はこちらの動画様で話されていますので、ご覧になってみてください。

youtu.be

 

 

この前太宰治さんの短編を読んでいたら『慾』という字が出てきました。読みは「よく」

意味は欲望の「よく」と一緒ですが、現在の日本では『欲』が一般的です。

これもGHQの言語統制・言語統治でしょう。心が消えていますね。

 

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https://www.shinchosha.co.jp/book/100606/

 

中學時分は夏目漱石さんの旧字体で刊行された時の文庫とかの文學を読んでばかりいた為、旧字体にも馴染みがあったので特段無理なく受け入れることができました。

ですが、生まれてからも成長してからも目で考えていた人には意識を書き換えるのは苦労なさるでしょうね。

ヒトは考える場所が「心・頭・目」の三つあるとわたしは思っているのですが、その話も機会があればまたお伝えいたしますね。

 

 

同じ意味の漢字でも効果が違う?

なにが言いたいかというと、思い浮かべている漢字次第でも言葉の意味が変わるんじゃないかということです。

GHQの統治前は教科の名称が「國史」だったけれど、現在の學校教育下では、「歴史」になっています(こうの史代さん原作の、映画『この世界の片隅に』でも國史と描写されています)。これは「自國の歴史ではないように刷り込ませる為」であったりするらしいです。

 

 

わたしが非常に氣分良く思わない言葉があります。

「雰囲気」を「ふいんき」を発音している人が多すぎる。正しくは「ふんいき」です。

また、漢字ごとに考えてみると、雰は氣配・囲はとりまく・氣はエネルギー。

つまりその人の纏っているエネルギーという意味合いになります。つまりオーラと同義でしょうね。

それを正しく言わずに「ふいんき」と発音するというのは、その人自身のオーラ(エネルギー)を反故にすることなのではないかと感じます。

 

なにかで、「新しく納めた國や土地は、まず最初に言語を書き換えるのが大前提の常套手段」と聴いたことがあります。

漢字は亡くせなかったけど、言靈的な意味から無効にしてから75年くらいですか。

現代日本でも着々と言語の書き換えの刷り込みが行われていますよね。台所をキッチンと言ったり、鶏肉をチキンと言ったり、まな板をカッティングボードと言ったり。

言語の統制話は華氏451度にも通じますね。

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https://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/11955.html

 

このお話は、前回に書いた一九八四年の話とも繋がりますね( ¨̮ )

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

文字通り流れて行く言葉と、昔からある言葉

あと個人的に流行り言葉にも不満を感じるんですが、これは若い世代についていけないだけでしょう。

でもその時代だけのスラングみたいなのばかりの文章は、パッと見ただけでも非常に頭が悪く見えてしまうのだなという発見があったので有難い経験だったと思います😉

 

またそれにより逆に思うのは、「昔からある言葉の力」です。

最近の流行り言葉だと「エモい」とかなのでしょうか。あと比較例として「鬼」や「神」もありますよね。

12,3年前に爆発的に流行った「KY」という略語も今ではめっきり聞きません。

ここからわたしは「言語って結構残酷に、かつ容易に淘汰されるんじゃないか?」と思いました。

 

わたしはギターを嗜んでおり、今年で14年目くらいになります。

高校生の時分には「とにかく早く上達するコツ」を求めていたのですが、上達するには「今現在でできることを日々積み重ねるのが一番手っ取り早いと氣づきました(今現在できることを日々積み重ねていると、「これをこうしたらどうだろうか?」という閃きが生まれます)。それを理解したのがつい半年前とかです。

これって「急がば回れ」ということではないでしょうか。

 

他には「人のふり見て我がふり直せ」を実感したお話もあるのですが、非常に印象的かつ"いとをかし"な出来事で、いざ書くとなるときっと長くなるので、また今度個別の記事にしたいと思います。

端的にいうと『他者を通して自分を見ている』です。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

上記した昔からある言葉は、わたしが認識しているだけでも、祖母祖父の代からは存在していて、淘汰をされていません。

一時的な言葉が10年そこらで淘汰されるているのに対して、90年近くも生き残って、語り継がれていると言うのは、その言葉自体の言靈的な力が働いていたり、ヒトがヒトの世を生きるにおいて、ある種の真理を含んでいたり真理に触れていたりするためではないでしょうか?

 

 

ちなみにわたしが「エモい」という言葉が嫌いなのは、「自身の語彙の貧弱さを改善する氣もなくその貧弱さに胡坐をかいている姿勢が見えるから」です。簡単に言えば向上心がないということでしょうか。

「精神的に向上心のない奴はばかだ」

 

もういっこちなみに、「語彙力」という言葉が幅を利かせていますが、「語彙」は英語でボキャブラリーです。ボキャブラリーは豊富や貧弱と言われるように『量』です。

その量が能力というのはおかしな話なので、「語彙力」という言葉は根本から破綻しており、「語彙力」という言葉をそのまま使う方は、語彙も國語的な言語能力も貧弱だと、わたしは思います🌝

 

 

「無い物ねだり」という言葉があります。

『ないものを欲しがること・無理なことを望むこと』という認識が一般的で、わたしもその意味合いだけだと思っていたのですが、『自ら無い状態や不足感を望む』ことでもあるのではないか?と思いました。

不足感や、理想像などの目標が常にある方が頑張れて充実を感じられるから。

不自由な方が自由にできる』みたいな話ですね。

フレーミングの癖をつけていると、ちょくちょくこういった閃きがおりてくるから楽しいです😚

 

 

『無いものねだり』の話を描きたいだけだったのに、他のずっと思ってたことを書いたら3500字以上も書いちゃってたわ😘

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

この人生がコンテンツだと仮定して

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

今回のテーマはタイトルの通り『この人生がコンテンツであった場合』についてです。

以前にも書いたようなネタですが、書きます。

 

 

人生、という、コンテンツ

まず、「コンテンツとはなにか」ですが、大まかに言うと〈情報の中身〉とか〈内容〉とか、そんな意味合いらしいです。

 

『人生がコンテンツとして消費されていること』を描いた作品で有名なのは、映画の『トゥルーマン・ショー』ですね。

 

以前、上記の映画について少しばかり言及しましたが、大したことは言っておりませんでした。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

さて、今回は『みんな、みんなの人生って実はコンテンツとして消費されているんじゃない?』という、そんなお話です。

 

この話はシミュレーション仮説とも関係がありますね( ¨̮ )

 

 

以前に『ある男』という小説について言及しました。

floodinhead.hatenablog.com

 

この作中で、確か主人公の城戸だったかと思いますが(確か『〈「ある男」であるXの素性を追うこと〉と、〈小説を読むこと〉は似ていて、他人の人生を側から触れることで、自分の傷を癒している』みたいな部分で)、「この生活もだれかが見ている人がいて、この人生を創作している人さえもいるのかも」みたいなことを話しておりました。

 

この『実はこの生活を創作して、その創作物を見ている人がいるのかも』という話、仮説?は、伊坂幸太郎さんの著作『ペッパーズ・ゴースト』でも言及されておりました。

 

たしかネコジゴハンターの二人が話していたと思います。

 

 

この『人生が実は創作されたもので、それを樂しんでいるものがいる』という感覺。

 

これに対し、一蹴して一笑に付す方もいらっしゃるでしょう。

別にそれは構わないし、知らない。どうするかはその人の自由だし。

 

しかし、いろんな人間たちの半生を描いた作品が我々を娯しませているのは事実です。

太宰治著作の『人間失格』や、夏目漱石著作の『こころ』、サマセット・モーム著作の『月と六ペンス』などなどなどなど。

映画ならば『ショーシャンクの空に』や『ジョーカー』とか、他にもいっぱいあります。

それだけの人生があるということですね。

 

 

夢の意識が反映される夢

いきなりわたくし事になってしまい誠に恐縮なのですが、わたしはよく睡眠時に夢を見ます。

「むしろそれは睡眠をしていないんじゃない??」と思われるくらい夢を見ます。

 

そんな夢の中でも、非常に現実感を伴った夢を見ることがあるのですね。

そんな夢では大抵主人公的な人物がいて、それを背後からというか、側から見ています。

そんなわたしの意識、夢の中の意識が、「こんな時はこうなっているものだよね」とか「ここでこういった行動をとることで、この人物の性格傾向をうまく表現できるな」とか「ここにあるものにこれがあったら物語は面白くなる。そして主人公である人物は知らん間に消えているものだ」などと考えたりします。

 

すると、その夢の中の世界は、『夢の中の意識が考えたこと』が反映されて展開されるのです。

これは〈夢が、ある空間では現実化している〉という感じなのではないのか、そう思います。

 

この『夢の中の意識が想ったことが、その夢の中で反映されて展開していく』というのは、まったく創作と同じであると言えますし、夢の中で物語が進んでいく。

 

これは『胡蝶の夢』と同じなのではないか。

 

つまり、「自分が見た夢の中でも発生していること」なのだから、この自分の生活も「何かが見ている夢」なのではないのか、ということです。

 

 

あり得ない話でないと思います。

 

むしろ"夢があって"良いのではないでしょうか。

 

 

 

ちなみに、わたしは夢で見た光景が数ヶ月?くらいの時間が経過してから、現実として遭遇することがあります。

別にいらない話ですね( ¨̮ )

 

👇過去の夢話👇

floodinhead.hatenablog.com

 

 

『夢を見る状態というのは、熟睡できていない状態である』なんていわれたりします。

その通りだと思います( ¨̮ )

わたしは泥になりたい。贅沢を言うなら泥の中のバクテリアになりたい。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

氣の正体

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は『氣』についてです。

お風呂に入っている時に、ふと氣付いたのですが、『氣の正体』がわかったかもしれません。

 

始まりからいきなり結論となり、誠に恐縮ですが、『氣』というものは何なのか。

 

『氣』というもの、それは『熱』あるいは『体温』なのではないか、と思います。

 

 

『氣』というものは、言い換えると〈エネルギー〉ですが、この地球上でエネルギーが高い存在といえばなにか。

それは赤ちゃんや子どもたちだと感じます。

 

赤ちゃんや子どもたちの共通点はなにかといえば、体温が高いことです。

 

人間は一般的に年を取るごとに体温が下がっていきます。

小學生諸氏は真冬なのに半袖半ズボンなんて方もいらっしゃいますし、北國の女子高生さんは大雪の中、脚を出して登校されていたりします(厚手のストッキングを履いていらっしゃったりするんだろうけど)。

しかし人類は加齢と共に厚着になっていきます。

それは、加齢と共に体温が下降していくから。

 

 

また『赤ちゃん』の《赤》はエネルギー値の高い色と言われており(還暦で赤いちゃんちゃんこを着るのは、『暦が一周して新たに生まれ変わる』という意味と『赤ちゃんの"赤色の力"を宿すため』だそうです)、赤色自体も、火を表すときの色です。

そして火は、それ自体が温度の高いものですよね。

 

火力発電や原子力発電、蒸氣機関なんかも『熱をエネルギーとして』発達したものです。

 

 

他には、我々人類は全く愚かな存在なので病氣になります。

簡単なものでいうと、風邪などになった際に、発熱も共に引き起こされることがあります。

熱はそれ自体はネガティヴに感じる部分はありますが、それ自体は病原菌等をやっつけるために引き起こされているそうです。

つまり、熱を以ってして体内に入ってきた敵に打ち勝つということです。

 

 

発熱機関

『氣(エネルギー)=体温()説』を強固にする事例は、ほかにも色々とあります。

 

 

「筋トレしたらポジティヴになるよ!」なんてよく言いますが、ではどうして筋肉を鍛えたらポジティヴになるのかといえば、人体の発熱器官である筋肉が大きくなればそれだけ基礎体温があがります。

これも体温を上げたことでポジティヴに、氣分が上向きに、元氣になった、ということなのではないか、と思います。

よく考えれば、基礎体温が上がった結果に、氣分が上向きになるのは当然と言えます。

 

しかし、現代の日本では何かと言えば、飲み物に氷を入れる文化となっておりますね。

わたしはなるべく水筒にあったかいお茶を入れて持ち歩き、もし外出先で冷たい飲み物を飲む機会があった場合は氷少なめでお願いしております。

 

加齢からか、キンキンに冷えたもの(氷水で〆たおそうめんとか)を摂取すると、氣分が悪くなっちゃうもので、、、。氣分が気分になっちゃうもので、、、。。

 

 

そういえば、この記事を書いている時期は冬真っ只中なのですが、最近では『冬季うつ』なんていうものも頻繁に見られているそうです。

一般的に、冬季うつになる原因は『寒いというのはとんでもないストレスであり、それに足して精神的ストレスがあることで、脳が処理できなくてパンクする』や、『日照時間が短いためにビタミンDが体内で生成されず氣が滅入っていく』と言われています。

それはおそらく正しいことでもあると思うのですが、それよりも『寒いために体温()が奪われて、氣分が落ち込む』ということが大きいのではないのか?と思います。

 

全く崇高な自然の世界では、冬は休息の時期となっておりますが、春の時期には様々な生命が動きだします。

それも、大氣の温度が暖かくなっていくからです。

 

 

精製したことで起きた、氣の弱体化

ちなみに、敗戰の際にGHQが日本人の弱体化を画策した、とは以前に書いた次第ですが、

floodinhead.hatenablog.com

 

『氣から気に変わった時期と、小麦が本格的に輸入されるようになった時期って一緒じゃない?敗戰きっかけでGHQが日本に乗り込んできて、お米の文化ではなくて小麦の文化が輸入された。それから日本人の精神性が下がったのって何か関係あるんじゃない?『氣』の漢字が、"米"から"メ"になったのと関係あるんじゃない??』と思って、意気揚々と調べたのですが、小麦にしろお米にしろ体温を下げる作用はある模様です。

 

しかし、精米や製粉されたお米や小麦に限っての話。

つまり、玄米や全粒粉でできたパンは体を温める作用があるようです。

 

現代では「柔らかいこと」を有難がって、精製した白い穀物を食しています。

体温の低下。あれ??

 

 

病は氣から

基礎体温を上げたら病氣になりにくい体になる」と、よく言ったりしますが、《病は氣から》という昔から言われる言葉があります。

これって『氣=エネルギーが下がることで、病になってしまう』ということなのではないでしょうか。

決して〈精神論〉という言葉だけでは片付けられない話になってきたように思います。

 

また言葉の記事にて以前言及いたしましたが、『昔から連綿と語り継がれる、言い継がれる言葉』というものは、それだけ『真実や、真理を内包しているもの』であるから、何十年何百年と継がれていくのです。

 

 

『元氣』という言葉も、「体温を元にして生まれている」という意味合いであると感じることができますね。

 

 

 

色々と御託をならべてきましたが、なので、皆さん。

あったかくして、筋肉つけて、食べるものに氣をつけて、落ち込むことなく生きていってください( ¨̮ )

お元氣で( `◟ 、)

 

 

ありがとうございました( `◟ 、)

 

 

藥でぼやかした分だけ、ぼやかした部分が鮮明になった

 

守るために持ったものが、知らないうちに自分を傷つけて

 

かりそめの紙一重は、その切っ先にわたしが滲む

 

夜に浮かぶ太陽はいびつさ

 

水面にゆれる視線は明けるかい?

胎内回帰、再誕生。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

先日、稲荷神社の総本山である伏見稲荷大社に行ってまいりました。

 

本当は陽が出ているうちに参拝するはずだったのですが、すっかり日が暮れてしまいました。

 

 

夢で睨まれた楼門

駅を出てお宮へ向かう道中、昔はお初詣に香川県金刀比羅宮に参拝していたのですが、どちらも山にあるからか、似た空氣を感じました。

すこし『千と千尋の神隠し』の冒頭、夜の雰囲氣もあったような氣がいたします。

 

と、そんな雰囲氣を感じながら歩いていると(本当は「さむぅ〜」と思っていた)到着。

http://inari.jp/

 

大きかった。

 

そして、この記事を書いているこの時に思い出したのですが、この楼門、いつぞやの夢で見たものでした。

 

おかしな話になるので、お読み飛ばしていただいて問題ないのですが、わたしはいつかの夢の中でこの楼門を遠巻きに見ておりました。

本心を言えば、その楼門をくぐって中に入りたかったのですが、月明かりに照らされて青白く浮かぶその楼門に劇しく睨まれていたので、夢の中では入れませんでした。

 

どうしてどうして夢の中で月明かりに照らされたその門と、電氣で照らされた楼門とを同じものだと思ったかといえば、大きさ、形、月の光からでも色彩はなんとなく判断がつきますし、その青白い光でも朱色を感じたためです。

 

いまだから?思いますが、あの睨み方は完全に威嚇だったなぁと思います。

 

 

千年鳥居と胎内回帰

さて。

本殿を参拝し、かの有名な千本鳥居をくぐります。

先述しましたが、この伏見稲荷大社は稲荷山という山に抱かれております。

そのため、奥へ奥へと歩を進めるごとに傾斜を登っていく。

山登りも一緒に行う形になるんですね。

 

そして千本鳥居は行きと帰りがあり、山を登るにつれ鳥居も大きさが小さくなっていきます。

 

この時に、はっと思いました。

 

この道は子宮に還っているのだ。

 

山を登るというのは、天に近づいていくことでありますし、天というのは神と同義であるとも言えると感じます。

また鳥居を進むに従って狭くなり、地上に降りる時には鳥居は大きくなり広がっていく。

千本鳥居を進むというのは、胎内回帰であり、また新たに生まれ直すという行為なのだと感じました。

 

実際に神社の『参道』は『産道』であると言いますし、『お宮』は『子宮』であると言いますしね。

 

 

そういえば、伏見稲荷大社には『おもかる石』という《願いを想いながら持ち上げた時の感想によりその願いが叶うかどうか》を占う石があるのですが、いざ持ち上げた時には「えっ、こんなもん?」と拍子抜けする感じでした。

ずっしりとした重量はありましたが、だとしても「そんなに重くないね」という感じでした。

 

おもかる石があった辺りだと思うのですが、なんだか日本酒の匂いがふんわりするなぁと思いました。

誰か酒盛りされていたのかしら。

 

👆の写真のあたりとかが特に日本酒でした(日本酒でした?)。

この段々の先に行きたかったのですが、行ったら絶対に良くないこと起こるな、と思ったのでやめました。

 

 

千本鳥居の帰りで右に曲がれるところがあり、そっちにふらりと歩を進めていたのですが、あるタイミングで異様な寒氣を感じた境界がありました。

言うなれば直感というやつです。

冬の夜の山なので、そりゃあ寒いものですが、おそらくあの寒氣は冬のものだけではないと思います。

 

しかし冬の山の匂いは良いものですね。土の匂いです。

落ち着くし、それでいて背筋が伸びる感じ。

 

 

お狐さんの品定め

「ここまで来たら稲荷山も登ろう!」と決起し、急遽登山に。

伏見稲荷大社はその山全体総てではあるのだとは思いますが、稲荷山に入る境界?門?となる場所が明確にあったように感じます。

その境界から『伏見稲荷大社への参拝』から『稲荷山への参拝』に変わるんだろうなぁ、と思っているのですが、この稲荷山への参拝に変わる境界に、いわゆる狛犬のようにお狐さんが左右に鎮座されていたのですね。

 

たしかその境界には石の鳥居があり、もちろん一礼して通ったのですが、この時にはっきりと『見られている感覺』を覺えました。

なんというか品定め?をされている感じですかね。

「こいつはどんな人間だ?」「こいつはこの山に入っても大丈夫な人間か?」と見定められているような感じです。

 

そんなこんながありながらも、頂上まで登り、お猫さんがいらしったのでお猫さんを眺め愛で、下山しました。

 

「『神』の字が渦なんだな。渦か、やはり螺旋なのか」と思ったりいたしました。

 

これはワンポイントアドヴァイスなのですが、稲荷山はDr.Martinで登るものではないです。

 

 

思ったこと

そういえば、中腹の売店?に、新年だからか『紅白ソフト』というソフトクリームのポスターが掲示されていました。

「紅白か、日本人は紅白が好きですよね。縁起がよいから。紅白なますや紅白まんじゅう(紅白まんじゅうって今でもあるんですか?わたしが遠ざかっているだけ??)。そういえばいちごのショートケーキも紅白を模して生み出されたものだそうですしね。あ、巫女装束もそうだわいね」とか考えている時に、わたし、ッピーンと来ちゃった。

 

スプーン印のお砂糖って、あるじゃない。上白糖の。

あれってずっとあるけど、あれがずっとあるのって、〈紅白だから〉なんじゃないかしら。

旭日章の時代から日本の國旗って紅白だし、紅白弁当なんてのもあるわ。

それほどまでに日本人は『紅白の縁起』を重要視しているし、親しんでいる。

 

だから目についたら、手に取っちゃう。

日本人の潜在意識をうまく使った広告方法ってわけね、天晴れだわ!

 

 

その他には「漢数字には難しいのと常用とがあるけど、『拾』が『十』に変わったのってGHQの影響とかあるのかなぁ、あいつら日本文明と日本語を解体しようとした背景あるし、『十』ってキリスト教のシンボルマークだしな」とか思ったりしました。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

そんな伏見稲荷と稲荷山の参拝記録です。

 

 

一度でいいから不思議なこと体験してみたいのですが、きっとこういうのって物見遊山的な観光氣分で欲したらいけないんだろうな。

ヒトにはヒトに適した世界ってのがあるんだろうし。

 

 

 

 

不思議なことでいえば、神社と逆(逆?)になりますが手相で仏眼という相があるのですが、その仏眼が昔よりも育っているような氣がいたします。

完全に仏眼ができたらどうなるのでしょうか。

 

 

参拝したのが夜だったために御朱印をお願いできなかったので、また行くつもりです。

玉置神社に行きたいんだよな。

 

お呼ばれしたい( ¨̮ )

 

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )v

大・大衆広告ツールSNS

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

もう一ヶ月前になるのですが、ある中華料理やさんに行きました。

 

そのお店はいわゆる町中華的なお店ではなく、商業施設に入っている綺麗で大きいお店です。

 

行った時間が土曜日の夜ということもあって、店内は混雑し、行列すらできていました。

 

いざ順番が来て入店し、座席に着きます。

 

満員の店内はがやがやと賑やかでありながらも、店員さんはきびぎびと配膳やお客さんを席に誘導しています。

そういった状況から、ある種の格式や高級感的な雰囲氣すら感じました。

 

さて、料理はすでに注文していたので、出来上がった料理を待つのみです。

 

わたしが頼んだのは炸醤麺(ジャージャー麺って読むんですって!)と小籠包。

 

しばらく待っていると炸醤麺が到着しました。

 

味はおいしかったですが、この記事で書きたいことは味ではないので割愛します。

味はおいしかったです。

 

 

炸醤麺をおいしいおいしいと思いながらお箸を進めていますが、一向に小籠包が来ない。

「あれ?どうしたのだろう。もしや忘れられている?まぁでも忙しそうだもんなぁ」なんて思いながら待ちますが、確かに来ない。

 

そろそろ炸醤麺が無くなりそうだったので、店員さんに注文を伺うと、どうやら注文が通っていなかったそうです。

 

所謂いつもの『申し訳ございません、すぐにお持ちいたします』の後に、いざ小籠包が到着しました。

 

料理を持ってこられた店員は口を開きます。

 

この小籠包は形があまり良くないのでお作り直しも可能ですがいかがなさいますか」

 

そう言われたわたしはあまり理解ができません。

 

形が悪い?でも小籠包の味には影響しないんでしょ?

 

あまりにも自分の感覺にない申し出だったので「え、冷えているとかですか?」とちんぷんかんぷんな返答をします。

しかし、状況としてまずいのは《形が悪いこと》だけ。

 

わたしは中身が一緒なら氣にならないので、「かまへんかまへん!(いえ、このままで大丈夫です)」と返答しました。

 

すると、店員さんは「でしたら、こちらの小籠包はサービスとさせていただきますね。新しい伝票を書いてきます」と言い、席を離れました。

 

 

棚からぼたもち、田中からぼたんえびです。

 

注文した料理がサービスになるなんて経験したことなどなかったので、なんだか狐につままれた氣分でした。

 

 

「日頃からちっっっちゃい善をしている(落ちているゴミをゴミ箱に入れたり。本当はそのゴミを出した本人の鞄に転送させたい)からかね〜☆」などと太平樂に思いながらも、どうして店側は《料理を無償提供する》という決断をしたのかを考えました。

 

 

現代は超SNS社会です。

そんなSNSで『どこそこのお店は注文した料理も通ってなくて待たされた挙句、出てきた料理も形が悪かった』などと書かれたら、悪評は立たずともネガティヴマーケティングになりかねません。

そういった事態を防ぐための手段としての《料理の無償提供》なのではないか、と思います。

 

料理が無償提供されたら、『どこそこのお店で食事をしたが注文が通ってなくて待たされて出てきた料理も形が悪かったけど、料理をサービスしてくれた♪』と書けばリカバリーが効きます。

 

そういった大・SNS時代に対応するための判断だったのではないかなぁ。と夢想しました。

 

 

そう考えると、現代は我ら大衆の全員が広告を背負っているということでありますね。

このブログもちょっとしたことで炎上をする可能性があるということです。

 

今の時代はなかなか恐ろしいですからね。

 

 

そういえばアメリカのキム・カーダシアン氏という方が、《どんな人種にも対応できるカラーバリエーションが特徴の肌着》を『KIMONO』という名前で売り出す、という発表をして大炎上をしたことがありましたね。

「死ねどす」が生まれた一件です。

 

あれもSNSを利用した《炎上マーケティング》です。

 

炎上マーケティングはお金のかからない宣伝方法ですもんね。

 

 

 

さて、そんな中華料理屋さんですが、どこにある何という名前か、とかは明かしません。

阿保くさいですしね。

 

 

ありがとうございました( ˊᵕˋ )

ガチャガチャとおひとりさま推移

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

ガチャガチャという文化があります。

 

最近ではソーシャルゲームにも起用されております。

もはや説明不要ではありますが、わたし自身の説明能力という意味で挑戦するために、説明します。

読み飛ばしていただいて一切支障はないと思います。

ガチャガチャというのは、いろいろなカプセルが入ったケースに既定の金額を投入し、丸いレバー?を時計回りに回したら中のカプセルが攪拌されて、結果、手元に落ちてくる、というランダム性とギャンブル性と運の要素が含まれた、愉しい遊戯です。

 

カプセルに何が入っているかというと、様々。

 

そのコンセプトに沿った品物(大抵の場合はおもちゃやキャラクーグッズ)です。

ちなみに、その遊戯には呼称が様々あり、『ガチャガチャ』や『ガチャポン』、『ガシャポン』と言ったりもします。

「ガチャ/ガシャ」はいずれもケースの中でカプセル達が攪拌される様や、丸いレバーを操作する音から来ていると推察され、「ポン」はカプセルが手元に落ちてくる様が、さながら「ポン★」と音が鳴るようであるから、という音声語だろうと思います。

 

そのカプセルに入っている品物が、ここ最近(わからんけど5〜8年くらいの間に?)色々なもののミニチュアが増えてきたように思います。

 

 

その流れに対して「なんでかなぁ〜」と、思ったりは正直しなかったのですが、ついさっき理由が分かったやもしれないので、今回この記事を書いている次第です。

 

 

日本はいつからか國民の未婚率が上がり、そんな未婚の方のことを『おひとりさま』と形容するようになりました。

 

そんな『おひとりさま』の方々が日々をどう過ごしているか、というと、そりゃその人それぞれですが、大抵の方は趣味事に没頭従事されているのでしょう。

 

自己探求や修行のために結婚はしない、という意志でおひとりさまでおられる方は、かなり稀有な方でしょう。

 

 

さて、そんな趣味ですが、お人形さんを自作したりされる方、自身が子どもの頃にお人形遊びが好きだった方が成人してから改めて樂しんでいる方が多くいらっしゃるのではないか、と思ったのです。

 

そんなお人形さん遊びをより愉しむための『あらゆるミニチュア』なのかなぁ、と思い至ったわけですね。

 

なので、《ガチャガチャの中身にミニチュアが増えてきたこと》と《日本國における『おひとりさま人口』》とは相関関係があり、その数の推移がそれぞれに比例しているのではないのか、ということです。

 

 

ひとりの酔狂な推測なので、もちろん当てにしないでください。鼻で笑ってください。

 

 

 

 

子どもの頃に好きだったことを成人してから再度愉しむというのは、ある意味では幼児退行的でもあるし、ミニチュアを作るってことは、ある種で箱庭療法的になっている、ということでもあるのですが、それはまぁ別の話で…。

ゲームの『どうぶつの森』もまんま箱庭療法ですしね…。

 

 

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬

比喩と現実感

 

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

この間、TVアニメ『ぼっち・ざ・ろっく』で活躍する、結束バンドのアルバムを聴いた感想を書きました。

 

アルバムの感想は以前に書いた次第ですが、このアルバムを聴いていて氣付いたことがありました。

 

 

なぜか対立構造

 

結束バンドのロックは、所謂「ロキノン系」とカテゴライズされる部類のものだと思います。

 

わたくしごとになりますが、『その人の音樂的嗜好を決定づける』と言われる思春期にはL'Arc~en~Cielや、ムックやcali≠gariDEAD ENDPlastic treeなどを好んで聴いていました(敬称略)

 

所謂、世間一般的に『ヴィジュアル系と形容される類のロックです(ラルクV系じゃない、というタブーは重々存じております。日本のヴィジュアル系の文化は《歌舞伎起源説》と《BOOWY源説》、《X JAPANhideさん起源説》があるが、ラルクDURAN DURANthe Cureなどの洋樂のニューウェイヴ、ゴシックロックからの系譜ですからね。ファンの皆様怒らないで わたしはギタリストの中で一番kenさんが好きです)

 

 

なぜかロキノン系とヴィジュアル系は互いを軽視しているきらいがあり、わたし自身、そんな思春期は確かにロキノンは合わないなぁ、と思っておりました。

でもASIAN KUNG-FU GENERATIONチャットモンチーBEAT CRUSADERS9mm Parabellum Bulletは当時から好きでしたよ。

 

知らん人間のつまらない自分語りですが、今もなお刊行されているGIGSというバンド雑誌を買っていた高校生時分にはSCANDALNothing's Carved In StoneRADWIMPSなどの皆様がよく特集されていました。

上記したバンドはロキノン系バンドと言えば、的な方々でもあります。

 

 

長らく「どうしてヴィジュアル系ロキノン系とは相容れないのだろう」と思っておりました。

 

その理由が、結束バンドのアルバムを聴いて少し分かったかも知れません。

 

 

けいよう!

 

『結束バンドのロックは、所謂「ロキノン系」とカテゴライズされる部類のものだと思われる』と、前述しました。

 

ロックという音樂を、〈ロキノン系〉たらしめている要素とはなんなのか。

 

それは歌詞における形容、比喩、メタファーが大きいのでは、と感じます。

 

 

結束バンドの歌詞には、『エリクサー(ギター弦)』や『スワイプ/スクロール』、『あのバンド』、『教室の隅』などの【"特定のもの"を示している言葉】がよく使われています。

 

"特定のもの"を示している言葉】を使うことで、曲の世界が自分の暮らしている世界と地続きになっている、という、ある種の『錯覺的効果』を得ることができるのですね。

 

その錯覺は、現実感や生活感がある言葉を用いているからこそ、もたらされるものであろうと思います。

 

 

それに対して、ヴィジュアルロックは比喩が多い。

多い。

 

そしてその比喩が分かりにくかったりもする。

 

比喩が多いことにより、もちろん非現実感が強くなるわけですが、ヴィジュアルロックを好む方は、音樂に現実感ではなく非現実を求めているのではないか、と、わたしは思うのです。

 

それは(わたしの憶測、妄想ですが)現実から逃れるために音樂に触れているきらいがあるように感じるからです。

 

だから現実感を謳っているロキノン系の音樂は相容れない。

「現実が辛いから非現実の音樂に寄り添ってんのに、どうしてわざわざもっと辛い想いをしないといけないのよ。ふざけんじゃないわよ、黒い球体ぶつけるわよ」となるのではないでしょうか。

あくまでわたしの妄想です。

 

どちらのロックのバンドも、大抵は愛や恋といった平易なものを歌っていたりするものなのですが、その対象に対しての切り口と表現が違うために相入れることができない(なんだかレゲエとヒップホップの関係と似たものを感じます)

 

大抵の人が愛だの恋だのという事象を経験するものでしょうからね

そういった事象はポップなのです。

 

だから、事務所の看板、稼ぎ頭になるバンドは恋愛的〜な歌を良く歌う印象があります。

 

確かに、king gnuさんの『白日』は《恋愛の曲に見せかけた書き方》をしたためにあれだけ売れたのだろうと思いますしね。

あくまで酔狂な妄想と憶測と思ってください。

 

 

比喩は自己満足と映りかねない

ロキノンロックとヴィジュアルロックの違いは比喩があるかないか、その程度、と書きましたが、その比喩によって、それぞれのフォロワーが相容れなくなっている側面もあるのではないか、とわたしは思っております。

 

ストレートな表現を好むロキノンロックのフォロワーはヴィジュアルロックの歌詞に対して「難解な比喩を使っているだけの自己満足」を感じ、ヴィジュアルロックのフォロワーはロキノンロックに対して「ひねりのない幼稚さ」を感じる。

あ、偏見です。

 

 

ちなみにわたしは『音樂』という高尚なものに愛だ恋だのの下劣なものを持ち込むなよ、と思うタイプです。

一番面倒な種族ですねˊᵕˋ )

 

 

そういった歌詞の妙があるから、完全にギターロックな音をしている凛として時雨ロキノン界隈でも特異な存在として異質な立ち位置にいるのではないでしょうか。

特異/異質、は、もちろん褒め言葉です。

凛として時雨の曲なら『illusion is mine』が特に好きです‪( ¨̮ )‬

 

 

『時計の針』を表現する際に「兄弟が追いかけっこをしている」とも「二人の心は近付いて離れて」とかとも表現できますし、「舞台の上であなたが動けば、空の色は変化して」とも表現できます。

まぁくどいし奇を衒い過ぎてて癪に触る表現ですけどね。

歌詞にはある程度の共感は必要。

狂感できない。

 

 

こうやって言及すると『ロキノンロックとヴィジュアルロックの違いは歌詞の書き方だけ』みたいなふうに思えるなぁ。

そうなると音は全部一緒なのかよ、という話になるし、ギターロックとメタルとフォークとヴィジュアルロックは歌詞の書き方でどうとでもできるって話になってくる。

 

そんなわけないし、実際に音の違いはある。

 

音の違いで言うならばなんだ

空間系を多用するのがヴィジュアルロック?

やっぱり魂?

はたまた、やっぱりそのみてくれ?

 

うーん、まとまりがない。

 

 

好きなままでいりゃいい

あ、ここまでのべつまくなし色々と偉そうに書いてきましたが、どっちが良い悪いではなく、それぞれの好みであって好きなんなら良いじゃんって話です。

 

少なくともはっきりしているのは、『これはよくてあれはだめ』といったような村意識じみたものでしょう。

良いものはジャンルに関係なく良い。

良くないものは自分が好きなジャンルにあろうが、良くない。

 

わたしはそう思います。

現時点ではね‪( ¨̮ )‬

 

好きを誇って!

 

 

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬