頭の中の洪水

思想家があなたに話します。

【固定記事】いとをかしき言葉のお話

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

皆さんは言霊という考え方をご存知でしょうか。

 

言霊とは、古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力。

発した言葉通りの結果を表す力があるとされた。

 

 

という意味合いらしいです。

 

いろいろ個人で感じ方に違いはあると思いますが、わたし個人は言霊は存在すると思っています。

友人や上司に言われた言葉で傷つくという現象も、言われた言葉がずっと残っていて胸につっかえるという現象も、言霊が存在しないと起こらないと思うのです。

 

またその言葉は、思考を使わないと発せられることはありません。

 

 

言霊の話とはすこし離れますが、全ての物事や現実は、思考の後に生まれると考えています。

戦国時代に「電話を使えば、遠くにいる親類と会話することができる」と話したところで、だれも相手にしないでしょう。

下手をすれば「邪教を布教しようとしている!」と言われて打ち首に処せられる危険さえあります。

 

憶測の域を出ませんが電話を作ろうと考えた人も、「離れた人と話せるわけがないでしょうに」と外野から笑われていたのではないでしょうか。

しかし今では当たり前となっています。

成功者の特徴として他者から"笑われた経験がある"というのは、ひとつの指標になるのではないでしょうか。

 

 

言霊の話に戻ります。

すこし眉唾な話に聞こえると思いますので、話半分にでも聞いていてください。

 

日本語にはとても大きな力が含まれているらしいです。わたしはまだ不勉強なので、ちゃんと説明はできませんが、カタカムナ文明や、カタカムナ文字の48音と現代日本で用いられている48字の一致などです。

カタカムナでは「ひふみよい」や「むなやこと」とかと言ったりするんですが、「いち、に、さん」と今では読んでいる「12345678910」も、むかしは「ひふみよいむなやこと」と読んでいたらしいです。「ひい、ふう、みい」ですね。

 

またあまり知られていませんが、第二次大戦で負けた後にGHQが日本を占領統治しましたが、そのGHQが日本の漢字を無くそうと画策しました。

「漢字というものは複雑にすぎる。あんなに難しいなら識字率も低いだろうし、それが原因で思想も偏る。結果戦争に繋がるだろうから漢字なんて廃止してしまえ」というロジックだったみたいです。

その後全国で一斉に識字率調査を行なった結果、全体の97%くらいが日本語を読み書きできたそうです。

 

漢字廃止計画は頓挫しましたが、神風特攻を生み出した民族を恐れていたGHQですから、どうしても日本の国力を下げたいために漢字の書き換えを行います。

氣を気にしたり、國を国にしたり、學を学にしたり、靈を霊にしたり。

理由等はこちらの動画様で話されていますので、ご覧になってみてください。

youtu.be

 

 

この前太宰治さんの短編を読んでいたら『慾』という字が出てきました。読みは「よく」

意味は欲望の「よく」と一緒ですが、現在の日本では『欲』が一般的ですが、これもGHQの言語統制・言語統治でしょう。心が消えていますね。

 

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https://www.shinchosha.co.jp/book/100606/

 

中學時分は夏目漱石さんの旧字体で刊行された時の文庫とかの文學を読んでばかりいた為、旧字体にも馴染みがあったので特段無理なく受け入れることができました。

ですが、生まれてからも成長してからも目で考えていた人には意識を書き換えるのは苦労なさるでしょうね。

ヒトは考える場所が「心・頭・目」の三つあるとわたしは思っているのですが、その話も機会があればまたお伝えいたしますね。

 

なにが言いたいかというと、思い浮かべている漢字次第でも言葉の意味が変わるんじゃないかということです。

GHQの統治前は教科の名称が「國史」だったけれど、現在の學校教育下では、「歴史」になっています(こうの史代さん原作の、映画『この世界の片隅に』でもその様が描写されていますね)。これは「自国の歴史ではなく刷り込ませる為」であったりするらしいです。

 

 

わたしが非常に氣分良く思わない言葉があります。

「雰囲気」を「ふいんき」を発音している人が多すぎる。正しくは「ふんいき」です。

また、漢字ごとに考えてみると、雰は氣配・囲はとりまく・氣はエネルギー。

つまりその人の纏っているエネルギーという意味合いになります。つまりオーラと同義でしょうね。

それを正しく言わずに「ふいんき」と発音するというのは、その人自身のオーラ(エネルギー)を反故にすることなのではないかと感じます。

 

なにかで、「新しく納めた國や土地は、まず最初に言語を書き換えるのが大前提の常套手段」と聴いたことがあります。

漢字は亡くせなかったけど、言靈的な意味から無効にしてから75年くらいですか。

現代日本でも着々と言語の書き換えの刷り込みが行われていますよね。台所をキッチンと言ったり、鶏肉をチキンと言ったり、まな板をカッティングボードと言ったり。

言語の統制話は華氏451度にも通じますね。

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https://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/11955.html

 

このお話は、前回に書いた一九八四年の話とも繋がりますね( ¨̮ )

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

あと個人的に流行り言葉にも不満を感じるんですが、これは若い世代についていけないだけでしょう 笑

でもその時代だけのスラングみたいなのばかりの文章は、パッと見ただけでも非常に頭が悪く見えてしまうのだなという発見があったので有難い経験だったと思います😉

 

またそれにより逆に思うのは、「昔からある言葉の力」です。

最近の流行り言葉だと「エモい」とかなのでしょうか。あと比較例として「鬼」や「神」もありますよね。

12,3年前に爆発的に流行った「KY」という略語も今ではめっきり聞きません。

ここからわたしは「言語って結構残酷に、かつ容易に淘汰されるんじゃないか?」と思いました。

 

わたしはギターを嗜んでおり、今年で14年目くらいになります。

高校生の時分には「とにかく早く上達するコツ」を求めていたのですが、上達するには「今現在でできることを日々積み重ねるのが一番手っ取り早いと氣づきました(今現在できることを日々積み重ねていると、「これをこうしたらどうだろうか?」という閃きが生まれます)。それを理解したのがつい半年前とかです。

これって「急がば回れ」ということではないでしょうか。

 

他には「人のふり見て我がふり直せ」を実感したお話もあるのですが、非常に印象的かつ"いとをかし"な出来事で、いざ書くとなるときっと長くなるので、また今度個別の記事にしたいと思います。

端的にいうと『他者を通して自分を見ている』です。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

上記した昔からある言葉は、わたしが認識しているだけでも、祖母祖父の代からは存在していて、淘汰をされていません。

一時的な言葉が10年そこらで淘汰されるているのに対して、90年近くも生き残って、語り継がれていると言うのは、その言葉自体の言靈的な力が働いていたり、ヒトがヒトの世を生きるにおいて、ある種の真理を含んでいたり真理に触れていたりするためではないでしょうか?

 

 

ちなみにわたしが「エモい」という言葉が嫌いなのは、「自身の語彙の貧弱さを改善する氣もなくその貧弱さに胡坐をかいている姿勢が見えるから」です。簡単に言えば向上心がないということでしょうか。

「精神的に向上心のない奴はばかだ」

 

もういっこちなみに、「語彙力」という言葉が幅を利かせていますが、「語彙」は英語でボキャブラリーです。ボキャブラリーは豊富や貧弱と言われるように『量』です。

その量が能力というのはおかしな話なので、「語彙力」というのは破綻しており、「語彙力」という言葉をそのまま使う方は、語彙も国語的な言語能力も貧弱だと、わたしは思います🌝

 

 

「無い物ねだり」という言葉があります。

『ないものを欲しがること・無理なことを望むこと』という認識が一般的で、わたしもその意味合いだけだと思っていたのですが、『自ら無い状態や不足感を望む』ことでもあるのではないか?と思いました。

不足感や、理想像などの目標が常にある方が頑張れて充実を感じられるから。

不自由な方が自由にできる』みたいな話ですね。

フレーミングの癖をつけていると、ちょくちょくこういった閃きがおりてくるから楽しいです😚

 

 

『無いものねだり』の話を描きたいだけだったのに、他のずっと思ってたことを書いたら3500字以上も書いちゃってたわ😘

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

一も全もわたし。それでいて、あなた。

 

みなさま本日も閲覧ありがとうございます。

ご無沙汰しております。

 

最近は24時間ずっと17日間ぶっ通しで八十八ヶ所巡礼さんのアルバムを聴いていました 。

嘘ですが、音源はずっと聴いております。

 

 

 

 

今回は『一は全、全は一』についてのお話です。

 

『一は全、全は一』を最初に知ったのは『鋼の錬金術師』という漫画です。

その考え方に触れた当時は小學生の中學年か高學年くらいでしたので、もちろん言葉の意味なんてわかりませんでした。

 

今では言葉の意味を説明できるようになりましたが、その説明も369の法則が頭に入っていなければ理解は難しいと思いますので、参考動画を貼っておきます。

 

youtu.be

youtu.be

 

 

369

  

369の法則では、3は創造(Generator)、6は維持(Operator)、9は破壊(Destroyer)とされています。

ヒンドゥー教の3神であるブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ。

 

ブラフマーは創造を、ヴィシュヌは維持を、シヴァは破壊を司っている神とされています。


ここで創造、維持、破壊の英単語の頭文字を見てみましょう。

Generator

Operator

Destroyer

 

GOD(神)の文字が出てきました。

実際のところ、創造・維持・破壊の頭文字を抜き出して神(GOD)という言葉が作られたという説があるそうです。

 

Wiki情報ですが、シヴァは破壊と共に創造も司るそうです。

「在る」ということは「無い」ということと同じ。「無い」ということは「在る」ことでもある。納得ですね。

 

 

さて、この価値観考え方を一番身近な自己の身体へ当てはめてみましょう。

手始めに爪。爪は伸びたら切ります。これは破壊の行為です。

しかし切ろうにも切れない爪があります。これは維持の行為です。

そして、爪の根元は新たに爪を生み出します。これは創造、そして維持の行為です。

 

爪自体が皮膚の不要となった部分であるという説もあります。

不要になった皮膚が爪になる(破壊)、それにより新しい皮膚が作られる(創造)、行なっている行為それ自体が身体を保つために必要な行為である(維持)。

 

或いは髪の毛。

ヒトの髪の毛は一日にだいたい百本程度抜けているそうです(破壊)。

しかしそれは不要になったから抜けたのであって、頭皮にはまだ髪の毛は繁茂している(維持)。

そして毛根の中には新しく毛髪が作られ、今か今かと登場を待っている(創造)。

 

369の組織として、身体は機能している。それは一つも無駄がないほど。

 

 

地球という位置のわたし

 

規模を大きくしましょう。

地球に生まれたわたしたちは、自身を「個人」だと思っています。

しかし、わたしたちが日々口にしている様々な食べ物は地球が生んだものです。

それを食べ、生を続けている。

そして食べた以上は排泄をします。排泄したものが肥料になったり濾過され飲み水になったりします。

 

日々を送っている「自分」が地球に作られていて、自分が「地球を作っている」

その円環の中にいます。

神としての地球。それに作られ、それを作っている自分という存在。

 

地球が存在している宇宙や、太陽系、銀河も地球が存在しているから存在していて、太陽系や銀河が存在しているから、地球が存在している。

 

それはつまり、神とでもいうような存在がいたから世界が作られ、自分も作られた。

その世界を絶えず耕している自分がいるから世界が続いている。

つまり、『世界は自分であり、神は自分であり、神は世界である』ということです。

 

これが「一(自分)も全(世界)もわたし」というブログタイトルの意味です。

 

 

しかし、これは決して「つまりこの世界で一番偉いのは自分で、自分だけが素晴らしいのだ」と言っているわけではありません。

自分が地球を作っているのと同じように、あなたも地球を作っていて耕している。

 

 

これはブッダが言ったとされる「天上天下唯我独尊」と同じ意味合いだと思っています。

しかし決して知恵の足らない人が発している意味合いではありません。

本来の意味合いでの話です。

 

天上天下唯我独尊は「この自分というのは、天の上にも天の下にも、同じ存在は一人としていない尊い存在である。と同時に、目の前のあなたや道を行くあの人も、同じくとても尊い存在なのだから、尊重し合って生きましょう」というのが本来の意味です。

 

決して「自分だけが偉くて他人は取るに足らない存在だ」などという意味ではありません。 

 

というより、自然とされるものをつぶさに観察していれば、そんな大層なことはとてもじゃないが言えないと思います。

 

 

ちょっと「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の感覚と近い氣がしますね。

 

大氣があって、植物がなって、水があるから我々は地球に存在することができる。

その「当たり前」が理解できていれば威張ることなどできないはずだと思います。

ですが、あまりに「当たり前すぎて」氣がつかないというのも致しかたないのかなとも思いますけどね。

 

 

ちなみにこの「地球が我々を生かしてくれていて、地球を食べ、地球へ還元している」という考え方は『ガイア理論』というそうですね。

アニミズムとも親和性が良さそうです。

 

ガイア理論の意味とは 生きている地球からの大切なメッセージ | ELEMINIST(エレミニスト)

 

 

 

お楽しみいただけたなら幸いです。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

八十八ヶ所巡礼

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

今回はわたしの本分たる音楽のお話です。 

音楽への愛を垂れ流す記事です。6000字近くあります。

 

 

 

これまでちょくちょく動画を貼っていた八十八ヶ所巡礼というバンドの音源を、最近購入いたしました。

88kasyo.com

 

 

 

 

出会い

 

2015年か2016年の時に『仏滅トリシュナー』を聴いたことがあったので、バンド自体は存じておりましたが、初聴時はクセが強くて受け付けられなかったんです。

 

「えっ…リズム隊エグいくらい上手いやん…音の粒立ちとキープ力やば…」という印象はかなり強かったですが、あまりにクセが強くて受け付けられませんでした。今思うと聴いていた音楽が狭かったから受け入れられなかったんでしょうんでしょうね。

そのころはまだKRAFTWERKも、Yesも、Rage Against The Machineも知らなかったですからね。

 


www.youtube.com

 

それから数年経ち、今年。

久しぶりにあの変態的なプレイが聴きたいと思い、見てみるとあら不思議。

 

 

とんでもなくかっこいい

 

 

 すぐさま別の『攻撃的国民的音楽』を聴きました。

 

youtu.be

 

 

はぁ〜〜〜〜かっこいい

 

 

かっこよすぎて戸惑いました。

 

しかし難点なのは、「このバンドが大衆受けする時代じゃねえ」ってことなんですよね。

いや、なんでも大衆受けしなくちゃいけないわけじゃないってことは重々承知しているのですが、このバンドが主張していることが必要な人は現代日本てもたっくさんいるので、ぜひとも多くの人に認知してほしいんですよ。

 

しかしPVが奇抜。

「最近このバンドが好きなんだ」とこの曲を見せようものなら、ゆっくりと距離を取られかねない始末。

 

 

でもね、わたし思うんです。

音楽の嗜好(趣味というものの構造自体)っていうのはその人の心を写しているものだから、他者の好きなものに対して「えぇ〜そんなのが好きなの?」と発言するというのは、その人自身を否定していることになりかねない。

 

大体が社交の場で発露できない感情を、音楽を聴くことで昇華させて正常を保っているのに(ブルースやジャズの誕生理由が感情の発露)、それを否定し「みんなが好きなものを好きと言いなさい。フリでもいいからそうしなさい」というのは、その人に不親切。というか、精神的な殺人と同じことだと感じるのです。

 

そういった平均主義といったものも、戰後教育の結果なのかと思ってしまいます。

みんな一緒で五教科を満遍なく平らに均しましょう。

 

それでいいのか?

ちなみにわたしはその学校という機関にどうにもならない息苦しさを感じていたクチです。

だからこそ思い悩みながらも、あの場所で上手く立ち回っていた方にはある意味の尊敬を感じます。わたしには無理だったからね。

 

 

ここ十数年で利己主義がどんどん大きくなって、鬼化した社会

人身事故にイラつく人々。飛び降りをするかも知れない人にカメラを向ける人。飛び降りをしようとしている人に対して「かまってちゃんかよ」と冷たい言葉で刺す人。

 

そんな不寛容な人ばかりになった現代が幸せな時代だといえるのでしょうか?

 

一度たりとも身を投げた人の境遇を想ったのでしょうか。

自分だけじゃなく、子の世代・孫の世代その先の世代へ世界を繋いでいかねばいけないのではないでしょうか。

 

わたしもまた別の他者から見れば鬼に見えるのかも、と煩悶するけど、その煩悶すら感じないように心の感度を下げ生きている人々。

そのままじゃ知らないうちに死んじまうぞ。取り返しがつかなくなるよ。

 

 

八十八ヶ所巡礼のベースボーカルを勤めていらっしゃるマーガレット廣井さんも同じく生きにくさを感じていた一人じゃないかと思います。

書かれた歌詞を読めばわかりますね。とても暖かい人なのでしょう。やはり言葉は心。

というより、メンバーのお三方ともいい人そうな雰囲氣が出ていますものね。

 

 

今回購入したのは、『攻撃的国民的音楽』と『凍狂』という二枚のアルバムです。

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http://88kasyo.shop-pro.jp/?pid=103290848

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http://88kasyo.shop-pro.jp/?pid=136090290

 

攻撃的国民的音楽

 

初めに『攻撃的国民的音楽』の方から聴いたのですが、非常に困惑致しました。

「もしかしたらとんでもねえ世界に入ってきちまったかもしれん…」と思いました。

その困惑はYesの『Fragile』というアルバムを聴き終わった時と同じレベルの動揺と困惑でした。分かりにくいですかね。

しかしですね、『攻撃的国民的音楽』のラストサビで、

 

しゃっくりと後悔の中で その胸の太陽を燃やせ

百粒の混沌の中で 乱れ咲く煩悩を殺せ

百粒の混沌の中で 寝惚けてる本能を起こせ

 

と歌っており「お?」と思いました。

バンド、曲、アルバムのエネルギー値が高かったから、それを受け止めきれず(真正面から受け止めて?)困惑したのか?と思います。

 

 

『エイトビイトな人々』

 

それでMAJI最高なのが、アルバムのラストを務める『エイトビイトな人々』という曲で

す。

 

消息わかってんだろう?

故にベソかいてんだろう?

何処に向かってんだろう?

頭の逝き先を教えてくれ

 

これが歌い出しなのですが、ドキッとしました。

「やりたいことはわかってんでしょ?でもできてない(やれない)からベソかいてんでしょ?」と言われている様に感じて。

「やりたいことはあるけど、それをやらない理由。頭で考えているその理由を教えてくれ」と言われているような感じがして、どこかむずむずと居心地が悪かった。

でもそれはまだ自分が逃げていたいと思っているからなのでしょう。

 

この曲はA→A→B→A→B→サビ→C→Aという構成になっているのですが、サビの歌詞が、

 

どうにもならない孤独があるさ

どうにもできない地獄があるんだ

どうにも鳴らない響きもあるさ

どこにも逝けないことが怖くもあるさ

 

となっており、サビ終わりまでどこか暗さや寂しさを感じます。

どこにも逝けないことが怖くもあるという感覚も非常によくわかる。

 

でもね、その後のCメロでこう来るんです。

 

ふにゃふにゃにされた人々

くしゃくしゃになったエイトビイトを

へとへとに慣れた人々

あやふやになったエイトビイトを

でたらめに慣れた人々

がらくたになったエイトビイトを

うやむやにされた人々

ギラギラ光ったエイトビイトを

 

さ が そ う ぜ

さ が そ う ぜ

 

 

 良いですよね。MAJI最高ですよね。

「探せ」って言って突き放しているのではなく、「探そうぜ」と言っている。

 

「俺たちもエイトビイトを探すから一緒に探そうぜ」

 

「本当は大事なのに蔑ろにされちまったものを探そうぜ」と呼びかけている。

 

とても心強いです。

 

 

『他者は蹴落とし這い上がれ。蹴落とされた奴はそいつが力不足だったからだ。自業自得だ』という自己責任論に支配されきった現代社に対して、カウンターを取っており、時に神、時に友、時に師の視点で寄り添ってくれる。

 

自己責任論の考え方はある程度は必要だとは思うけど、三者わざわざ言うのは違うと感じます。

自己責任論は自分で折り合いをつけたり、なんとか溜飲を下げたりする時に用いるものだと、わたしは考えています。

 

蹴落とした人間が偉いわけでも、蹴落とされた人間が駄目なわけでもない。

というか、二元論的や原理主義的に世界は割り切れないでしょうに。

 

氣 づ こ う ぜ

 

 

 

凍狂

現時点での最新アルバムです。

 

アルバムの開幕を飾る『虚夢虚夢』も素晴らしいのですが、二曲目の『金土日』がなんともいいんです。


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(Bメロ)

やってる意味のない事が大切 僕なりにがんばってる

やってる意味のない事が退屈 訳など探さないで

やってる意味のない事が大切 僕なりにがんばってる

やってる意味のない事が退屈 訳など探すな

 

(サビ)

今は訳など探すな 今は訳など探すな

今は訳など探すな 今は訳など探すな

 

現代社会はコストパフォーマンスやら目先の"意味"に躍起になりすぎでしょう。

「やる意味」を重要視しすぎて盲目になってるじゃないか。お笑いか?

 

やってる意味がないと"今"思うことってのは、後々になってめちゃくちゃ意味を持ってきたりするものなんですよ。まぁご経験がお有りのこととは思いますけれどね。

 

しかし意味ばかり求めて、意味のない(ように思える)ことを楽しめなくなっていては、そりゃあ世の中に虚無(ニヒル)は蔓延しますよ。

インターネットの炎上騒ぎや芸能ゴシップなんてのも、大衆の虚無の発露なんじゃないかと思います。わたしはそんなことどうだっていいです。

 

虚夢虚夢してると仏は狂い出しますし、虚夢は奈落すら奪います。

数週間前に虚無に見舞われたのですが、あれはなにもかもが褪せて見えるので辛いですよ。虚夢はあかん。

 

 

凍狂


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良いですね。とってもピュアで不器用なラブソングだなと感じました。

恋愛の意味にもなりますし、もっと違う意味合いにも取れます。

いろんな意味合いに取れる曲というのは素晴らしい。

 

YouTube上でPVを見ているときはあえて歌詞は見なかったのですが、やはり歌詞を追いながら曲を聴くのは良い。言葉は心そのものですからね。

 

凍狂の登場人物には、そしてこの曲にシンパシーを感じる方には笑い転げて、笑い滅びるような、ご自身なりの最高な人生を送ってほしいです。どうかお幸せに。

 

 

紫光


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しょうもない君の正体は 溢れ出る夢の紙芝居さ

鮮明になった昔々 大勢で泣いた物語さ

『なんか悲しい…』そんな気持ち

そんなところだけ先祖返りで

その真っ赤な目で 恍惚の目で 後悔の海を航海し続けるさ

 

という歌い出しなのですが、またまたどきりとしました。

「わしか…?」と思いました。

 

純粋に夢を夢として見ていた頃が日々を重ねるに連れて鮮明になっていき、その夢は実体になっていない紙芝居。その紙芝居の夢送りが自分の正体で、その過去に見ていた夢物語を思い出し、今までの何人もの自分が泣いた。

 

いや辛すぎません??

心当たりありまくりなんですけど。

 

 

泣き腫らして真っ赤になった目で、でも夢は捨てられない恍惚とした目で、自分が選んだ道をゆっくりと後悔してこれからも生きていくさ。

 

共感しかねぇ。

 

Bメロでは、

その眼を消しとばしたら 喜びは単純さ

世の眼が馬鹿になったね わたし紫の光になる

 

と続きます。

この眼ってのは人間的な視点のことじゃないかと思います。

実際に物質的な眼って意味合いでもあると思います。

 

なんでもかんでも意味を求めるという"眼"がなくなれば日々を終えて迎えられるだけで喜びとなる。

未来や過去という"眼"があるから苦悩したり、未来に対して不安を感じたりする。

だから「常識」といった名前などの"眼"が消えれば、喜びは単純なものになる。

 

それに氣付かず、見えていない世の眼は馬鹿になった。

実際覺えている限りでも、ここ十年で世の中は馬鹿になったと思います。

 

『わたし紫の光になる』というのは、はっきりとはわかりませんが「地上からではなく神の視点になって、白か黒かの二元論的じゃない赤と青が混ざった多様性の光を使って世の中を照らす役割になるわ」ということでしょうか?

マーガレット廣井さん歌詞の解釈難しいです。でもその難しさが楽しいですし、正解を求めている内はわたしもまだまだです。

 

でも、この暗いような、でも幻想的で泣きたくなるような曲の雰囲氣に救われるんだよな。

数週間前の虚無を感じていたころにはお世話になりました。

この曲を聴いていると夜の鬱屈が散るというか、どうしようも言い切れない感情と共にでも生きれるんじゃないかと思うんです。

暗い。まぁ泣きもする。でも飯は食らう。

 

生きていくために逃避することも必要だろ。

 

 

怪感旅行〈Bonus track〉

マーガレット廣井さんが飲みにいく曲です。

結構楽しげな真面目にふざけた曲なのですが、サビがなんとも良いんですよ。

 

狂の怪感と 罰当たりな幻夢と虚しさ

表裏一体の 狂おしくも幽雅な浮世さ

妙と尋常の 狭間で浅ましく身悶えて

今日の極楽と 明日の地獄を愛でましょう

 

MAJI最高じゃないですか?

 

『本当に馬鹿らしいけど愛おしい現世で、変と普通の紙一重に身悶えながらも、今日の極楽と明日の地獄を愛しましょう』なんて素晴らしいじゃないですか。

 

この世のアホらしさすら愛して生きていきましょうよ、というのはとても力強く優しい。

苦悩という煩悩はそうそう簡単には消えないから、それを抱えて踊りましょうよ。

暖かい人ですね。

 

そして「世知辛い…」と歌いながら曲は終わりに向かっていくのですが、その後に「最高!」というシャウトが入ります。

それが『世知辛さすら楽しんでいる感』があってとても好きなのです。

 

 

まとめ

 

二枚を聴き終わって思ったのは「知ってよかった」でした。

『攻撃的国民的音楽』を再生した時は本当に「やべえ世界に足を踏み入れたやもしれん…」と思いましたけれどね 笑

 

でも二枚を聴いた後に思ったのは「知ってよかった。この音楽があるなら生きていけるかもしれない」です。いや、勘違いなんですけどね。

その勘違いができたことと、勘違いさせてくれる存在がいてくれた。出会ってくれたことが嬉しいんです。

 

高校時代に出会っていれば確実に人生が変わっていたと思えるものと、28になっても出会えるというのはとても恵まれているし有難いことです。

本当に嬉しい。

つーか高校時代じゃくなくても何度だって人生は変えられんじゃね?「高校時代に出会っていれば」とか言ってんのは自分で行動範囲を狭めているんじゃねえか?

 

 

 

 

完全に狂ったあっち側と、まともそうな顔してバッチバチに狂いまくってるこっち側との紙一重を、朦朧としながらもしっかり意識保って綱渡りできそうな感覺を見出させてくれる。

音楽に生きていてよかった。

 

 

\(´-`)/

 

 

 

2021年8月18日 NEW ALBUM『幻魔大祭』発売!

そんな八十八ヶ所巡礼さんの新譜が今年2021年8月18日に発表されます!めでたい!買います!

  

 

 

 

音楽for ever\(´-`)/

 

ありがとうございました\(´-`)/

 

 

 


www.youtube.com

 

 

最高!

 

たぶん追記します。

 

 

産業革命して人っつーのは夜を克服したと思っているのかもしれねーけど、ビカビカ光るだけで夜を見つめようとしないんなら、それは克服とは随分遠いものなんじゃねえのか。

 

夜が怖いから対峙しなくていいように昼間みたいに明るくして影を隅に追いやってるだけなんじゃねえのか。

 

影っつーもんは消そうと強い光を当てたら当てただけ濃い影ができるんだぜ。

 

現代に比べたら、やることがないから夜空を見て英雄や物の形に当てはめていた産業革命以前の夜と共生していた頃の方がよっぽど夜を克服していたのかも知れねーな。

 

だいたい「克服」つって夜を恐れている時点で、人間は『時』とか『大きな流れ』ってものに太刀打ちできてねーじゃんね。

 

結局ここに着地するけど、人間はやっぱり退化してるんだろうな。

 

同じまとめ方しかできねーってのも、わたしの力量不足っちゅう理由ですね。

 

 

追記するんかなあこれ。

自死を選んではいけない理由、人を殺めてはいけない理由

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

今回は死についてお話をしたいと考えております。

「死」と一言に言っても、哲学的な意味合いでの死ではなく、もっと無味乾燥な物質としての死についてです。

 

今回もお樂しみいただければ幸いのことと存じます。

 

 

 

 

死とはなんなのか

 

今回は死についてのお話です。

「死」というテーマはわたしの得意テーマでもあります。

 

いや、特段得意という訳でもないのですが、日々の生活で生老病死を考えるにおいて、基本的に『死』についてよく考えることが多いので、結果的に死についての造詣が深くなったということです。

次点で『生』のことを考え、『老い』と『病』については興味がないのでほとんど考えておりません。

 

いつか生老病死についての記事も書いてみたいですね( ¨̮ )

 

 

つーかもっと大衆は生老病死について考えろよ。向き合えよ。

避けられねえからって怯えて見ないふりしてんじゃねーぞ。

恐いんならその恐さと上手く付き合っていくため真正面から向き合って直視しろよ。

 

 

 

失礼しました。

 

しかし、『死について』 を一番よく考えているということは、わたしは死を一番恐れているということになるのか?

自覺している内だと「生」の方が恐いんだけどな。

 

無意識的に「死を恐れすぎないように」脳がしてるのだろうか?

 

 

 

この記事においての「死」は、『観念的な死』や『社会的な死』ではなく、あくまで『物理的な死』について論じます。

つまり、心臓が止まって、個人が独立した生命活動を行えなくなった状態ということです。

それを念頭に置いた上でお読みくださいね。

 

 

 

人を殺めてはいけない理由、自死してはいけない理由

 

人を殺めてはいけない理由。

それはずばり、残された人が悲しむからです。

 

 

 

 

 

えぇ。この記事をご覧になっていらっしゃる方々は、そんな感情論は求めていないのは存じています。

むしろそんな"綺麗事"まがいの理由なんてうんざりでしょう。えぇ、えぇ。

「それ以外」を求めてインターネットを海遊されているのでしょうしね。えぇ。

 

しかし、この答えも案外遠からずなんですよ。

 

 

その理由をご説明していきますね( ¨̮ )

 

 

 

人を殺めてはいけない理由

 

人を殺めてはいけない理由。

どうして殺人がいけないかというと、人が一人死んだだけで多大の経済的損害が生まれるからです。

 

コカコーラを例に挙げましょう。

「コカコーラの原液シロップのレシピは、ごく少数の人間しか知らない」という噂があります(あくまで噂だそうです)。

仮にその数名を三人と仮定しましょう。

その内の一人が通り魔によって殺害された。たまたま同じタイミングで自然災害が起き別の一人が亡くなった。たまたま同じタイミングで最後の一人が乗っている飛行機が墜落して最後の一人も亡くなってしまった。

そうなればコカコーラの製造は中止せざるを得なくなります。

 

実際のところ金庫にレシピが保管されていたりするのでしょうが、その金庫を開ける(パスワードを知っている)人間が死んでしまったら、開けられなくなるか、開けるまでに原液の製造はストップされます。

 

仮にコカコーラの製造が永遠に中止されたとしたら、コカコーラ社では従事している多くの職員の首を切ることにも繋がりますし、そうなれば膨大な数の人間が路頭に迷うこととなります。

 

またコカコーラは1886年に発売されて以来、実に140年近くも消費者に愛され続けています。

詳しい内訳は存じませんが、いまだにコカ・コーラ社の全体シェアの半分はコカコーラが持っているのではないでしょうか。

コカコーラ単体のシェアが全体売上の半分を占めていると仮定しても、コカコーラが製造中止になれば単純計算で売上の半分が消える訳です。

また「コカコーラがあるから株を保有している」という株主の方もいらっしゃると思うので、コカコーラが製造中止になればその資産家や投資家の方は株を手放します。その結果株価は下がりますし、その株価動向を見て株を手放す人も出てくるでしょう。

 

あと単純に、人が一人死ぬことで「徴収できるはずだった税金」が泡となって無に帰します。

国家が困るんです。

 

 

 

自死してはいけない理由 

 

「人を殺めてはいけない理由」を上に書きましたが、今度は「自死をしてはいけない理由」です。

大まかには『国家が困るから』ってことなんですが、それまでのプロセスが違っています。

自死を選んではいけない理由の方が、"残された人が悲しむから"と強く関係してくる氣がします。

 

 

自死がいけないのは、その人が生きていたら動くはずだったお金が無くなるからです。

まぁほとんど「殺人がいけない理由」と同じですね。

 

人が一人自死を選択したとします。

その自死で諸々含め500万円のお金が動いたと仮定します。

500万円がその時動いたとて、その人が生きていれば(生活習慣にもよりますが)五、六年でペイできるのではないでしょうか?

もしその人がまだまだ若く、この先何十年も生きるはずだったと見立てられる場合、未来で使われるはずだった多くのお金は、無いものになってしまいます。

多くの損害が生まれるのです。

 

 

いじめ被害により自死を選んだ人が居て、その親御さんがその方をとても愛していたとします。

その方の自死により、それまでは溌剌と元氣だった人が鬱々と落ち込むばかりになった場合。

その親御さんは旅行が趣味で年に一回は必ず海外旅行に行っていたが、我が子の自死により旅行になんていける精神状態でなく、二度と旅行に行くことはなくなった。となった場合の社会的な経済損失は甚大なものになるはずです。

 

子どもの成長を見守ること、お世話をすることが生きがいだった場合、後追いでその親御さんも自死を選択をしないとも限りません。

その場合は経済損失が一人から二人、三人へと増えていきます。

 

 

論点を変えて考えましょう。

「来週の土曜日、午後三時にあなたは死ぬことになります。この事実は変わることなく、逃れることもできないので、その未来を受け入れた上で残りの人生をお過ごし下さい」と言われた場合、言われた本人はどうするでしょうか?

「最後の数日だから貯金を使い切ろう」と思い立って、豪華な食事や生きたかった場所に行ったりはされるでしょうが、新車を購入したり新しい服を購入したりはしないのではないでしょうか?

 

「どうせ死ぬなら」という理由で強姦をしでかす人や、無差別殺人に走る人もいるのではないでしょうか?

そうなった場合の経済的損失はどれほどのものになるのでしょうか?

もちろん、怪我や重症により医療機関は少なからず潤うでしょうが、医療機関が一番儲かるのは「生きている状態でいろんな病氣に罹って病院に掛かる」という状態です。

"人が死ぬ"というのは多大な損失を生むのです。

 

 

バカの壁』や『死の壁』を執筆された解剖学の養老孟司さんは「百円で購入したカッターナイフで命を奪うこともできる。でも、同じ百円で命を生き返らせることができますか?」と仰られていました。

そういうことです。

 

 

 

「人は一人で生きていけない」の真意

 

よく「人は一人では生きていけない」と言います。

そりゃそうですし、「自分はこれまで一人で生きてきたんだ」と粋がっている人もわたしは好きではありません。

(ですが、わたしは他人様から「この人は『これまでの人生なんでも自分の力で生きてきた』とか思ってそう」と思われていそうだなとは感じます)

 

上記したように、人が死ねば経済の活動率が低下します。

それは、人が生きていくということは互いに干渉しあっているからです。

 

生物は生きるために物を食らいます。

その"物"を買うために、陳列した人もいれば、それを運搬した人も、それを製造した人もいます。

生物が食らうものはほとんどが土に還る有機物ですが、多くの有機物を作るために必要となる土自身も、過去の長い歴史生命活動が無ければ存在しない訳です。

 

つまり「これまで自分は自分一人の力で生きてきた」とのたまっている方はそういった過去の生命活動さえも自分一人で担ってきたと言っているのです。

創造神かなにかでしょうか?

まぁそういった方は『他人の手を借りることなく自分で稼いできた。それを見てほしい認めてほしい』という氣持ちの現れで主張されているのでしょうから、そういった方と知り合った時は、にこにこしながらそっと去りましょう。

 

 

『蜜蜂が死滅したら人類は四年で滅ぶ』と言われます。

何も知らない状態でその話を聞いても『荒唐無稽な』と思われるかも知れません。

実際わたしも初めて聞いた時は「そんなまさか」と思いました。

ですが理由を聞けば一笑に付すことはできません。

蜜蜂がいなくなったら人類が滅ぶ、その理由は「蜜蜂が花粉媒介者(ポリネーター)として重要な仕事を行なっているから」です。

 

多くの植物は他家受粉のシステムを用いており、誰かが受粉を手伝わないと実が生ることはありません。

一部の穀物や植物は自家受粉をしたりもするそうですが、自家受粉では少ない量しか実に生らないそうです。

そんな他家受粉に多大な協力をしてくれているのが蜜蜂の皆様だということです。全く蜜蜂様様です。

 

このお話だけでも「人間が一人では生きていけない理由」として十分ですよね。

風で受粉する風媒があるだろうと反論されるなら、その風をあんたが生み出してんのか?とお聞きしたいですね( ¨̮ )

 

www.greenpeace.org

 

 

まぁ人類なんて地球に必要ではないのでさっさと滅びたらいいじゃないと思うんですけどね。

みつばちは可愛いから滅びてほしくないし、陸上で生活している生物全体の生命が危険に曝されるので、みつばちは居なくならないでほしいです。

人間は早く滅びてほしいですね。

 

は可愛いですよ。

 

 

 

バタフライ効果というトリガー 歯車という社会

 

バタフライ効果という考え方があります。

『ブラジルで一匹の蝶が羽ばたいたその影響で、テキサスに竜巻が起こるか?』という氣象學者さんの公演タイトルが由来だそうです。

概要でいうならば「少しの力でも時間の経過で大きな結果が得られ得ること」みたいな感じですかね。

最初は小さい雪玉だったのに、転がるに連れて巨大な雪玉に変わったり、角度を五度上げただけで坂の傾斜が大きく変わるのと似たところではないでしょうか。

 

馴染み深い言葉で例えれば『風が吹けば桶屋が儲かる

 

互いが知らないうちに細かく、緻密に相互干渉し合っているということ。

自分がアイスクリームをひとつ買っただけで、保護動物の殺処分が回避される可能性も存在するということです。

 

youtu.be

 

 

いまだに生活保護の是非や死刑の是非を議論していらっしゃる方がいますが、それらが必要な理由は、生活保護を支給することによって広く、多くの経済効果が生まれるからです。

 

死刑囚とは言え、すぐに死刑になるわけではないので国家としては生かしておかねばなりません。つまり食が必要となる。

刑務所で提供される食事は調理された状態で配膳されるので、スーパーに並べる用の"綺麗な野菜"じゃなくでも良い。

形が悪かったりで規格外とされ、本来なら買い手のつかない野菜も刑務所が買うことによって経済の流れが生まれる。

 

生活保護においても、十万円の支給を渋るより、支給したことによって生まれ伝播する衣食住や娯楽の経済効果の方が国家としては有難い。

 

 

地下水がなくなれば地盤沈下するのと同じで、どんなに小さな歯車(国民)でも破損すれば国という機械は動作エラーを起こします。

部品は替えのものを確保していくのが鉄則ですが、替えすらも破損していたり、別の場所で同時多発的に歯車の破損が発生すれば機械は読んで字のごとく"壊れ"ます。

 

 

我々が「国」という共同組織の元に生まれた以上、個人の勝手で歯車の役を降りたり壊したりしては国家が黙っていないわけです。

つまり、逆を返せば経済を循環させることさえできていれば国民などは必要ないということだと思います。

 

 

 

結局なんであかんねや

 

長々と国家が困るやら書いてきましたが、結局の理由は、生産性が下がるから

これです。

 

人が一人死ねばそれによって得られるはずだった経済が滞る。

死が多く発生し、国として疲弊した状態の時に他国に攻め入られた場合、その国は存続することが危うくなる。(反政府ゲリラが無差別テロを起こすのも同じ理由ではないでしょうか)

そうならないために、そうしないために国家としては『人を殺めたら罪に問われますよ』と法律を組み上げ、厳罰を課しているわけです。

 

国を人体、国民を血液と例えましょう。

血液は身体中へ栄養や酸素を送る役目を担っています。

怪我などで血液が体外へ出ることがありますが、少量の場合は新しい血液を生成することができます。

ですが、平均体重の成人の概算で、血液総量の1/2、およそ1.5リットルの血液が出血すれば失血死で命を落とすそうです。

 

毎日様々な活動をしている国民一人一人、その総数が半分になれば国が国としてこれまでのように存続して行くことができなくなり、国としては死んでしまう。結果、隣国などに吸収されてしまう危険も生まれてしまう。

その血液たる國民を守るために活動しているのが、自律神経であったり自己免疫やナチュラルキラー細胞といった役割の国家なのです。

 

 

 

最後に

 

いつものように長々と書いてきました。

ここまで読んでいただき感謝いたします。6000字は書く方も疲れますが、読む方もお疲れになることと存じます。

 

さて、お氣付きの方もいらっしゃるかも知れませんが、この記事のテーマは伊坂幸太郎著の『マリアビートル』から着想を得たものです。

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promo.kadokawa.co.jp

 

この作品は前作の『グラスホッパー』の続きとなっており、殺し屋が語り手を担っております。(続き物にはなっていますが、各作品独立しておりますので『マリアビートル』からでも面白く読むことができます)

 

その語り手の内の一人、王子という中学生の少年が「なぜ人を殺してはいけないのか」と大人に問うていきます。

その問いに対して『グラスホッパー』で語り手の一人だった鈴木が答えたことを元にしてこの記事を書いています。

正直「人を殺したら国家が困る」というのはまんま引用を致しました。

 

ですが、その「国家が困る」という理由から、『経済的損失が生まれる』や『生産性が下がる』という結論を導き出したのは、推察を広げた結果です

 

つってもわたしなんかが思い至ることなんて他の方も考えつくと思いますので、偉そうな言い振りなんてできませんけどね( ¨̮ )

それこそ「自分は一人で生きてきたんだ」と息巻いて話す方と一緒です。

 

だいたい結論に見えるものなんてのは『結論だと思っているだけの表面的なものだろうしな。

 

 

どうか一笑に付していただければ( ¨̮ )

 

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

言語なんかじゃ意味は究明できねえんだよ

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

今週のお題「575」

 

 

言葉など

 

用いたところで

 

意味はなし

 

 

 

 

地球っていう物質世界に生きている以上、言語を使わなきゃ伝わんねえんだけど、言語なんて物質的表現に頼ってるうちはなんにも解るわけないし知り得るわけねえんだよな。

 

でも言語を使わなきゃ自分の意見も相手の(見える範囲の)真意も共有できないんだよ。

 

言語を発明したのは人間の進化の一歩として多大なものがあるとは思うけど、言語によって自己(それぞれの存在)に枷をかけ檻に押し込めているんだろう。

 

言語以前に『歌』があったそうなので、音楽的な交流や音楽的な意識交換は、言語というある種の"枷"の先にある表現方法なのではないかと思う。

 

もちろん肉体言語やジェスチャー、表情といった言語以外の表現でも、その枷の先にある可能性だとは言えるだろう。

 

つっても物質を揺らしている時点で人間が人間以上の概念になることはできないんだろうけどね。

 

人は神になれない。

 

つーか神なんて人が勝手に作ったものですから。

 

人間が「神」と呼称している存在がいても、その存在からすれば「え?わしらそんなだっせえ名前じゃねえんだけど」と思うだけだろう。

 

むしろ人間なんてものには無関心だろうな。

 

「雑草」と呼んでいる植物にも名前があるけど、それを知らない無知が自己正当化のために『雑草』と呼んでいるだけなのと同じだし、まずただ存在している"事象"に対して名前をつけて「管理した」と息巻いているのもエゴイスティックであるとしか言えない。

 

書いていたら「無知のまま粋がることが人間が人間たる姿」なのではないかと思えてきた。

 

まず『人間たる姿』ってなんだよ。それも個人が勝手に規定したものだろうに。

 

煩悶して生きていくしかないんだろうな。

 

 

日々を煩悶していく生活の休憩に、良い音楽は必要なんですよ。

 

 

youtu.be

 

 

ありがとうございました。

セックス

 

「どうする?」

 

「どうするってなにが?」

 

「だからどうする?」

 

「だからどうするってなにが」

 

「セックス」

 

「はぁ?」

 

「セックスのことだよ」

 

「なに言ってんの。今したじゃない」

 

「今は過去について話しているんじゃない。これからについて話しているんだ」

 

「身勝手なのね。勝手に入ってきておいて」

 

「仕方ないじゃん。本能なんだから」

 

「あ、本能を理由にしたら許されるとでも思ってる?言っとくけど本心から受け入れたわけじゃないからね」

 

「そんなこと言われてもほとんど遺伝子レベルの本能だからなぁ」

 

「ごめん、なに言ってるかわからない」

 

「とにかく、そう簡単に自分で制御できるものじゃないんだよ」

 

「わかったわかった。わかったからもう黙って」

 

「一旦落ち着こう。最初に戻るけど、どうする?」

 

「セックス?」

 

「うん」

 

「もう変わらないんだもんね。わかった」

 

「どうする?」

 

「女の子にする」

単純接触効果

 

「夢に知らない女性が出てきた」

 

「はぁ」同僚のKが返事をする。

 

 今は昼休憩中だったので、Kは口に含んだからあげを咀嚼しながら怪訝そうな顔でこちらを見てきた。

 

「そんなことはよくあるだろうが。なんだ?容姿が好みだったのか?」

 

「そういうわけではないけど、やたらと美人だったな。なにかのタレントみたいだった」

 

「あぁ、それはあれだろ。夢に出てきた知らない女性と偶然ばったり出会って、そのまま恋に落ちちゃうやつだ」にやつきながらKが言う。口の端に米粒が付いているのが見えた。

 

 そんな簡単なものじゃないだろ、とわたしは口にしたが、Kはもうそんな話題には興味をなくしたのか目の前の食事に夢中になっていた。

 

「そんなことより午後一の営業の準備は済んでるのかよ。メシから帰ってきた課長にゆっくりしてる所でも見られたらまた怒鳴られるぞ。あの人せっかちなんだから」Kは最後のからあげを箸で突き刺して口に運び、箸でわたしを指した。

 

 いちいち行儀が悪いと思った。

 

 Kに促されたわけでもないが、時計を見れば確かに課長が帰ってくる時間はもうすぐと迫っていた。

 

 いつも課長は昼食を外へ食べに出ているが、帰ってくる時間はなぜか毎回同じだった。

 

 今朝見た夢のことを考えるのはほどほどにして、わたしは午後の業務の流れを考えた。

 

 Kがげっぷをする音が聞こえた。

 

 

 

 

 

 わたしは街を歩いていた。次のアポまで時間がある。適当なカフェにでも入って資料の作成をしようと思っていた。

 

 広めに作られた歩道には色々な人がいた。

 

 ポケットティッシュを配っている女性。路上で冊子を売っている男性。わたしと同じく外回りをしていると思しき会社員。ベビーカーを押している母親。

 

「育児には色々な荷物が必要で、かつ、抱っこもしなければいけないから、世のお母さん方はリュック以外の選択肢がなくなるのか」とわたしは思った。『大変だな』とも思ったが、それは当事者ではないからこそ感じる身勝手なお節介だと感じ、自らを諌めた。

 

「新発売!疲れた身体に栄養!もう一息の作業に糖分!」

 

 頭上から声が聞こえた。見上げると頭上に立っているホログラム広告の女性が新発売のチョコレートバーをプロモーションしていた。

 

「あ」声が出た。

 

 どこか見覚えがあると思ったら、今朝夢で見た昼休憩中にKに話した女性だったのだ。夢で見た女性がホログラム広告でプロモーションをしていた。

 

「正夢ってやつか?それともシンクロニシティってやつか?」わたしは思ったが、すぐに打ち消す。知らないうちにメディアや広告に出ていた彼女を見ていたのだろう。

 

 夢というのは、人が起きている間に取り入れた情報を整理している時に見るものらしい。また夢自体には時間軸はなく、起きた時に人が勝手にストーリー性をこじつけるものでもあるらしい。

 

「最近出てきた子かな」近くを歩く学生らしき二人がホログラムの女性を見ながら話している。

 

 

 

 

 

 地下鉄の階段を上がった人々が各々の家へと帰っていく。この光景を側から見ればさながら『ところてん突き』みたいなのだろうといつも思う。違うのは最初は塊かどうかだろう。

 

 わたしもところてんの一つを自覚しながら家路を歩く。

 

 今日の夕食を購入するためにコンビニエンスストアへ入った。来店を迎える店員の声が聞こえる。

 

「今日Kが食べていたのはこれか」陳列された弁当を見て思った。大きめの唐揚げが五個も入っている。

 

 弁当に手を伸ばそうとした時にKのげっぷが聞こえた気がした。

 

 伸ばしかけていた手を引っ込め、弁当コーナーを後にした。夕食はインスタント食にしよう。

 

「お願いします」インスタント麺とスナック菓子、缶ビールを入れた籠をレジ台に置く。店員が無言で会計を始めた。

 

 財布を取り出そうとした時にあるものが目に付いた。

 

 昼間に街で見た新発売のチョコレートバーがレジの横に陳列されていた。見れば、ミルク・ナッツ・キャラメルの三種類のフレーバーがあるらしい。「ビターはないんだ」と思った。

 

 なんとなくミルクを手に取り眺める。

 

「これもお願いします」レジにチョコレートバーを置く。

 

 店員が手を止めてこちらを伺う。やはり新商品ということで売れているのだろうか。

 

 会計を済ませ商品を受け取った。チョコレートバーはどんな味なのだろう。

 

 

 

 

 

「おはようございます」

 

「おはよう。しかしいつまで挨拶は『おはようございます』固定なんだろうな」

 

「まだ言ってるんですか。いったい何回目ですか」

 

「だってあと数分で日付が変わるんだぜ。『おはよう』の時間じゃねえだろ」

 

「みんなそんなこと考えず便宜でやってるんですから。先輩みたいなテツガクはほとんどの人は興味ないんですよ」

 

「そうなのかぁ。納得いかないな」

 

「だいたい人によって起きた時間が『おはよう』ですからね。それよりも今日も昨日と同じですか」

 

「あぁ。昨日はロ区だったから今日はハ区だな」

 

「そういえば今日来る前にコンビニに寄ったんですけど、今日発売だったんですね。案件のチョコレートバー」

 

「そうか。どうだ?売れてたか?」

 

「減ってはいたんで売れてるんじゃないですか?俺たちのおかげですね」

 

「まぁ、かもな。しかし人間なんて単純なものだな。夢で見たものを買っちまうんだから」

 

「いまだに半信半疑な部分はありますけどね。電磁波で人々の夢に特定のものを投影して、潜在意識に植え付けるって。しかも商品そのものじゃなくて広告モデルのタレントでしょ」

 

「でも実際に効果は出てる」

 

「そう。だから不思議なんですよ。まぁ結構昔からあった手法らしいですね。テレビとかいう昔の広告装置で、サブリミナル効果を狙ったやつとか」

 

「あぁ、あれだろ。鳥の名前を冠したカルト宗教」

 

 「そうです。結局人間は成長しないってことですかね」

 

 「なんだっていいよ。今はこれが仕事で、それで食ってる」

 

「なんですか急に。アイヒマンですか?」

 

「時間だ。いいから仕事をしろ」