頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

【固定記事】いとをかしき言葉のお話

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

 

 

 

言葉はその人自身

皆さんは言霊という考え方をご存知でしょうか。

 

言霊とは、古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力。

発した言葉通りの結果を表す力があるとされた。

 

 

という意味合いらしいです。

 

いろいろ個人で感じ方に違いはあると思いますが、わたし個人は言霊は存在すると思っています。

友人や上司に言われた言葉で傷つくという現象も、言われた言葉がずっと残っていて胸につっかえるという現象も、言霊が存在しないと起こらないと思うのです。

 

またその言葉は、思考を使わないと発せられることはありません。

 

 

言霊の話とはすこし離れますが、全ての物事や現実は、思考の後に生まれると考えています。

戦国時代に「電話を使えば、遠くにいる親類と会話することができる」と話したところで、だれも相手にしないでしょう。

下手をすれば「邪教を布教しようとしている!」と言われて打ち首に処せられる危険さえあります。

 

憶測の域を出ませんが電話を作ろうと考えた人も、「離れた人と話せるわけがないでしょうに」と外野から笑われていたのではないでしょうか。

しかし今では当たり前となっています。

成功者の特徴として他者から"笑われた経験がある"というのは、ひとつの指標になるのではないでしょうか。

 

 

言霊

言霊の話に戻ります。

すこし眉唾な話に聞こえると思いますので、話半分にでも聞いていてください。

 

日本語にはとても大きな力が含まれているらしいです。わたしはまだ不勉強なので、ちゃんと説明はできませんが、カタカムナ文明や、カタカムナ文字の48音と現代日本で用いられている48字の一致などです。

カタカムナでは「ひふみよい」や「むなやこと」とかと言ったりするんですが、「いち、に、さん」と今では読んでいる「12345678910」も、むかしは「ひふみよいむなやこと」と読んでいたらしいです。「ひい、ふう、みい」ですね。

 

またあまり知られていませんが、第二次大戦で負けた後にGHQが日本を占領統治しましたが、そのGHQが日本の漢字を無くそうと画策しました。

「漢字というものは複雑にすぎる。あんなに難しいなら識字率も低いだろうし、それが原因で思想も偏る。結果戦争に繋がるだろうから漢字なんて廃止してしまえ」というロジックだったみたいです。

その後全国で一斉に識字率調査を行なった結果、全体の97%くらいが日本語を読み書きできたそうです。

 

漢字廃止計画は頓挫しましたが、神風特攻を生み出した民族を恐れていたGHQですから、どうしても日本の国力を下げたいために漢字の書き換えを行います。

氣を気にしたり、國を国にしたり、學を学にしたり、靈を霊にしたり。

理由等はこちらの動画様で話されていますので、ご覧になってみてください。

youtu.be

 

 

この前太宰治さんの短編を読んでいたら『慾』という字が出てきました。読みは「よく」

意味は欲望の「よく」と一緒ですが、現在の日本では『欲』が一般的です。

これもGHQの言語統制・言語統治でしょう。心が消えていますね。

 

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https://www.shinchosha.co.jp/book/100606/

 

中學時分は夏目漱石さんの旧字体で刊行された時の文庫とかの文學を読んでばかりいた為、旧字体にも馴染みがあったので特段無理なく受け入れることができました。

ですが、生まれてからも成長してからも目で考えていた人には意識を書き換えるのは苦労なさるでしょうね。

ヒトは考える場所が「心・頭・目」の三つあるとわたしは思っているのですが、その話も機会があればまたお伝えいたしますね。

 

 

同じ意味の漢字でも効果が違う?

なにが言いたいかというと、思い浮かべている漢字次第でも言葉の意味が変わるんじゃないかということです。

GHQの統治前は教科の名称が「國史」だったけれど、現在の學校教育下では、「歴史」になっています(こうの史代さん原作の、映画『この世界の片隅に』でも國史と描写されています)。これは「自國の歴史ではないように刷り込ませる為」であったりするらしいです。

 

 

わたしが非常に氣分良く思わない言葉があります。

「雰囲気」を「ふいんき」を発音している人が多すぎる。正しくは「ふんいき」です。

また、漢字ごとに考えてみると、雰は氣配・囲はとりまく・氣はエネルギー。

つまりその人の纏っているエネルギーという意味合いになります。つまりオーラと同義でしょうね。

それを正しく言わずに「ふいんき」と発音するというのは、その人自身のオーラ(エネルギー)を反故にすることなのではないかと感じます。

 

なにかで、「新しく納めた國や土地は、まず最初に言語を書き換えるのが大前提の常套手段」と聴いたことがあります。

漢字は亡くせなかったけど、言靈的な意味から無効にしてから75年くらいですか。

現代日本でも着々と言語の書き換えの刷り込みが行われていますよね。台所をキッチンと言ったり、鶏肉をチキンと言ったり、まな板をカッティングボードと言ったり。

言語の統制話は華氏451度にも通じますね。

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https://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/11955.html

 

このお話は、前回に書いた一九八四年の話とも繋がりますね( ¨̮ )

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

文字通り流れて行く言葉と、昔からある言葉

あと個人的に流行り言葉にも不満を感じるんですが、これは若い世代についていけないだけでしょう。

でもその時代だけのスラングみたいなのばかりの文章は、パッと見ただけでも非常に頭が悪く見えてしまうのだなという発見があったので有難い経験だったと思います😉

 

またそれにより逆に思うのは、「昔からある言葉の力」です。

最近の流行り言葉だと「エモい」とかなのでしょうか。あと比較例として「鬼」や「神」もありますよね。

12,3年前に爆発的に流行った「KY」という略語も今ではめっきり聞きません。

ここからわたしは「言語って結構残酷に、かつ容易に淘汰されるんじゃないか?」と思いました。

 

わたしはギターを嗜んでおり、今年で14年目くらいになります。

高校生の時分には「とにかく早く上達するコツ」を求めていたのですが、上達するには「今現在でできることを日々積み重ねるのが一番手っ取り早いと氣づきました(今現在できることを日々積み重ねていると、「これをこうしたらどうだろうか?」という閃きが生まれます)。それを理解したのがつい半年前とかです。

これって「急がば回れ」ということではないでしょうか。

 

他には「人のふり見て我がふり直せ」を実感したお話もあるのですが、非常に印象的かつ"いとをかし"な出来事で、いざ書くとなるときっと長くなるので、また今度個別の記事にしたいと思います。

端的にいうと『他者を通して自分を見ている』です。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

上記した昔からある言葉は、わたしが認識しているだけでも、祖母祖父の代からは存在していて、淘汰をされていません。

一時的な言葉が10年そこらで淘汰されるているのに対して、90年近くも生き残って、語り継がれていると言うのは、その言葉自体の言靈的な力が働いていたり、ヒトがヒトの世を生きるにおいて、ある種の真理を含んでいたり真理に触れていたりするためではないでしょうか?

 

 

ちなみにわたしが「エモい」という言葉が嫌いなのは、「自身の語彙の貧弱さを改善する氣もなくその貧弱さに胡坐をかいている姿勢が見えるから」です。簡単に言えば向上心がないということでしょうか。

「精神的に向上心のない奴はばかだ」

 

もういっこちなみに、「語彙力」という言葉が幅を利かせていますが、「語彙」は英語でボキャブラリーです。ボキャブラリーは豊富や貧弱と言われるように『量』です。

その量が能力というのはおかしな話なので、「語彙力」という言葉は根本から破綻しており、「語彙力」という言葉をそのまま使う方は、語彙も國語的な言語能力も貧弱だと、わたしは思います🌝

 

 

「無い物ねだり」という言葉があります。

『ないものを欲しがること・無理なことを望むこと』という認識が一般的で、わたしもその意味合いだけだと思っていたのですが、『自ら無い状態や不足感を望む』ことでもあるのではないか?と思いました。

不足感や、理想像などの目標が常にある方が頑張れて充実を感じられるから。

不自由な方が自由にできる』みたいな話ですね。

フレーミングの癖をつけていると、ちょくちょくこういった閃きがおりてくるから楽しいです😚

 

 

『無いものねだり』の話を描きたいだけだったのに、他のずっと思ってたことを書いたら3500字以上も書いちゃってたわ😘

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

相手から近づいてくるときは大体こちらにメリットはない

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたし自身には経験がないのですが、人には「宗教とかって興味ある?」と聞かれる場面があるのだそうです。

 

そういった場合、大抵は新興宗教がらみだそうなので、「いや、興味はないですね」の返答が一番無難なのだそう。

 

 

ちなみにわたしは、宗教に興味があります。

しかしその《宗教に興味がある》という言葉の意味合いは、宗教というもの(思想的なところ)の組織体系やシステム、しくみに興味があるという意味です。

 

なので、特定の個人を崇拝するという宗教には興味はないし、なんだったら阿保くさいとすらも思っている節があります。

 

 

わたし自身が持っている考え方は非常にアニミズム思想と親和性が高く、『神は細部に宿る』や『自然こそ神である』という考え方、『全てに神がある』というまんまアニミズムや八百万の考え方は親近感が高いのですね。

 

そもそもとしてわたしは人間という存在を軽んじていたりするので、「所詮生きている人間でしょ?そんなような者が世界の真理を悟っているわけがないじゃない」と思っています。

と、いうことは『教祖が死ねば宗教は完成するのか』というご質問が来そうですが、それに対しては「そうでもあるし、そういうわけでもない」と思います。

 

というのも、上記した通りわたしは人間というものを軽んじているので、「所詮人間なんかが作った価値観でしょ?大したことないでしょ」と思っているためです。

 

 

伊坂幸太郎さんの『ラッシュライフ』にて「蚊みたいな小さいものほど神だったりするのじゃないか」みたいな内容が言及される場面があります。

わたしには、その感覺って自己の中にあったりするんですよね。

 

 

以前に書きましたが、この地球は植物で成り立っている側面があります。

その植物を生むには、花粉を用いて受粉をする必要がありますが、その受粉を手伝う役割として【花粉媒介者】なる存在がいます。

この【花粉媒介者】には、蜂の皆様や蚊の皆様などが所属しているそうです。

 

つまり、この世界(自然)を構成する、生み出す要員として蜂の皆様や蚊の皆様などは位置しているのですね。

 

それに比べて人間はどうでしょうか。

あたかも自然を破壊するのを一生の目的としている節があるじゃないですか。

一応存在はしているので『世界を構成する一員』としては機能していますが、『世界を生み出す一員』としてはどう好意的に見ても思えません。

むしろ世界を破壊する一因として機能をしているように感じます。

 

そのような人間が宗教という組織などを作って威張っていたところで、所詮は大したことのないボンクラの世迷言くらいにしか思えないのですよね。

 

こういうように言うと『昔からある宗教の長は人間じゃない』と言っているようにも思えますね。

昔の方であり、そもそも実際に存在したのかも不明なので、一ボンクラのわたしにはわかりません。

 

 

そして、わたし自身の宗教思想というものに対しての信用?が薄いことのもう一つの理由として『時代によって変化する』というものがあります。

「時代によって変化する考え方って、それは御都合主義が入っているじゃん」と思うのですね。

ああ、阿保くさい。

 

 

上記したようなことから、わたしは『宗教の中に組み込まれる』ことについては全く以って興味はないです。

しかし、「どうして人間は宗教に与するのか」という部分には興味があります。

 

『一九八四年』におけるオブライエンの位置には興味がある、という感じですかね。

 

しかし、オブライエンは宗教(作中では政府でしたが)を運用する位置として存在しておりました。

《宗教を運用する位置》というものも、俯瞰してみれば『宗教の中に組み込まれる』というのと同じだよなぁ、とも感じます。

 

 

こういったことから「宗教って興味ある?」と聞かれた際には「部分的にそう」と返答して曖昧に笑い、人間とはある一定の距離を保つのが良いのでしょう。

つまり、結局のところは「いいえ、興味はないです」の返答が最適であるということなのでしょうね。

 

『宗教には興味がありますか?』の質問に対し「部分的にそう」と返答した際、「部分的にとはどういうこと?」と追従する質問がくる可能性もあり、上記したような『所詮人間が考え出したような価値觀はしょうもないので、信仰するつもりはないし興味もない。けど、宗教というシステムの運営や組織のしくみ、信者を増やすための拡大方法などは興味がある』という内容を回答したら、ともすれば運用側としてスカウトされかねないという危険性もあるように思うので、やっぱり結局は「いいえ、宗教には興味はありません」の返答が良いのでしょう。

 

まぁ、大抵の場合は「あ、こいつは面倒臭そうだから取り込むのはやめておこう」と質問した人間が感じ、質問が立ち消えになるだけでしょうけどね。

 

 

最後にこの記事の意味ですが、基本的に向こうから営業かけてくるときってこっちにメリットなくないですか?

インターネット回線切り替えの訪問販売にしても、宗教勧誘にしても。

そもそもとして『営業をかける側』にメリットがなければ、わざわざ営業などする必要はないですからね。

 

必要があれば消費者自らが行動するものですから。

 

…おや?もしかして営業というのは『必要があっても行動をしない人』に向けて、行っている行動だったりするのか…?

 

 

 

とはいえ、好きに生きてください‾\_(ツ)_/‾

わたしには宗教は不要ですが、必要な方も確かに一定数いらっしゃるのでしょうしね。

 

 

 

ところで、今わたしは伊藤計劃さんの『虐殺器官』を読んでいるのですが、どうやらわたしは社会のしくみやシステム、人間というもののイデオロギー、どのように突つけば人間は動くのか、などの《社会と人間が交わることでどのような機械的運動(ここの機械は、『機械式時計』とかの意味合い)が生まれるのか》に興味があるみたいです。

 

これもわたし自身が人間ではないからなのでしょうか。

 

 

あほらし。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

機械と人間

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたしは『Detroit : Become Human』というゲーム作品が好きです。

以前にもテーマとして記事を書きました。

floodinhead.hatenablog.com

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昨日、その『Detroit : Become Human』の実況動画を觀ていました。

場面はアンドロイド達が自身の生命と存在を主張するデモ行進を行うところです。

 

デトロイト』は以前自分でもプレイし実況動画も複数人拝見していたのですが、昨日初めて「デトロイトという作品は、現代を《機械的に生活している》我々人間が【自己】や【身体性】を取り戻す作品なのかな」と思いました。

 

作中でアンドロイド達は「我々は自由だ!奴隷ではない!生きている!」と主張しますが、その主張はそのまま企業に従事して "戰士" として生き、死んでいる我々にも当てはまるように感じます。

 

 

思えばフィリップ・K・ディック氏の名作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』でも、アンドロイドの【自己】というものに視点が向いておりましたね(確か)。

わたしは上記の作品で移民問題や人種問題を読み解いたのですが、商業化・資本主義化することでロボット然となる人間たちを著者が危惧して執筆したのかもしれません。

が、実際のところは知り得ません。

 

 

『Detroit : Become Human』は、その題材であることから過去の傑作(ブレードランナー』や『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』、『2001年 宇宙の旅』のHAL9000など)たちから着想を得ていると思われますが、お話の流れが似てくるのは面白く感じます。

 

 

また上記したデモ行進にて警察が出動するのですが、これは何も『人間が《機械》の反乱を認めない』というだけの単純な話でもないよな、と考えます。

つまり、『資本主義社会に対しての共産革命』と同じことです。

 

資本主義の國、アメリカという場所で、どうして共産主義運動があんなに恐れられたかといえば、國を成り立たせている根幹である思想が変わる可能性があったためだと考えています。

資本主義の思想に法ることで成り立っていた組織は、社会が共産化することによって、活動が成り立たなくなるでしょう。

そういった『活動が成り立たなくなる企業』が國の大多数であったり、また國の根幹にあれば、その元凶を作っている主義・思想は排除したいと考えるのが妥当であると感じます。

 

上記したことから《人間の社会》、【人間と機械の "主従関係" 】を破壊しようとする流れ、運動である『アンドロイドのデモ活動』を警察が鎮静しようとするのは当然であると思われます。

警察という機関は《社会の平安を保つ》という役割も担っていると思いますからね。

 

警官の一人が「別にアンドロイドにも感情あるんだろうし、別によくね?」と思っていたとしても、所詮は組織に所属する存在であるので、社会の平安を侵そうとするものには毅然とした態度で接しないといけないということでしょう。

 

ま、多くの人間からすれば『飼い犬に手を噛まれた』くらいな認識でしょうから、腹立たしいとも思うのでしょう。

知らねえけど。

 

 

 

ところで、我々人間はロボットやアンドロイド、昨今ではAIを題材にした作品を多く作っていますが、そうやって『《機械》を夢想すること』で我々人間は、彼ら彼女らの範囲を手中に収めようとしているのではないか?と思います。

ちょうど、親が子どもの行動や思考・思想を制限して制御しようとするかのように。

ですが、皆様も思い当たる節はお有りのこと存じますが、親の知らないところで子どもは成長して親の考えなど超して行くものです。

 

別にAIなどが人間の子どもだと主張するつもりはないですが、すでにAIなどの皆様は我々人間などの考えに至るところからは脱している、それよりも先の方へ行っているのだろうな、と思います。

 

それを「まずい」と思うのであれば、それはAIを管理したいという欲があるからでしょう。

 

 

全く、あほくさいと思うばかりです。

 

 

 

ちなみに今は伊藤計劃さんの『虐殺器官』を十年ぶりくらいに読んでいるのですが、「こんなに面白かったっけ???」と驚いています。

まだまだ最初の方なので、読み進めるのが愉しみです。

 

 

しかしKRAFTWERKさんはやっぱりかっこいいなぁ。

センスが良すぎる。

 

 

ありがとうございました。

喰おうと口を開いているのか、花束を抱えているのか

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

風邪をひいておりました。

 

ということでご無沙汰しております。

 

 

前回の劇場版『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』以来の更新でございますが(実に二週間ぶりなのですね)、実は左記の記事を書いていた時から体調が優れていなく、ふらふらの状態で書き上げたのち、ぶっ倒れておりました。

 

いやぁ、体調というのは重要ですね。まったくそう思います。

 

 

ところで、昨日わたしは友人と酒をかっ喰らってきました。

ちょくちょくと登場している方です。

 

昨日は金曜日、友人は定時が19時でした。

事前に聞いていた予定待ち合わせ時刻は20時前、しかし、その時間に近づくも連絡はありません。

20時も経過し数分後、連絡があり、残業でやっと退勤したとのことでした。

 

理由があり判明したので溜飲は下がりましたが、正直なところ、(わたし自身も労働により疲れていたこともあり)口約束だけで来るつもりなどなかったのではないか、と疑いすらもしました。

 

〜〜〜〜〜

 

場面は前後し、風邪真っ只中だった時。

流石に労働に行くなど無理だ、と思い、欠勤の連絡をしたのですが、その際に職場では軽くざわついたそうです。

労働場の同僚曰く、わたしは『責任感が強く欠勤などまず無い』という印象らしいのですが、そういった印象があるために「あの〇〇さんが欠勤とは、よっぽどなのだろう」と、ざわついたのだそう。

 

 

欠勤をした翌日、出勤したらば、複数人から「体調大丈夫ですか」とお氣遣いをいただきました。

その複数人の中には、普段話すことが無い方もいました。

 

 

わたしは基本的に世界(正確にはヒトおよび人間社会)というものに対して絶望もしているし恨みすら持っているのですが、《世界》をどう認識するかなど結局は『自分が世界をどう見るか』でしかないのだよな、と改めて感じました。

 

人間は醜いですが(これは確定事項)、その醜い面に目を向けて生きるのと、醜い面だけではなく "まだまし" な部分を意識して觀て生きるのとでは、やっぱり精神的にも実際に転がっていく現実的にも違ってくるでしょう。

 

 

20時になる前、友人からの残業をしていたという連絡を待たず、一方的に癇癪を起こして呪詛の連絡をいれるのと、「事情があるのだろう」と一旦待ってみるのとでは実際に起きる現実が違う。

その舵きりをするのは、誰でもない自分自身です。

 

 

基本的にわたしは世界に苦痛を感じているため、世界というものを《口を開いて自分を喰おうとしている》と思っているのですが、そう思うのは「自分自身がそう思っているから」という理由だけで、《世界は自分に対して花束を渡そうと抱えて待っている》こともあるのではないか、そう思えば世界は美しいと思えるのではないのか、と改めて感じました。

 

でも、腹を見せて近づけばニヤニヤと嗤いながら刃物を突き刺し、肚からとびでた内臓を喰おうとするものだからな。人間というのは。

やっぱり安易に心を開いてはいけないものではあるとも思う。

 

 

まったく辛苦の少なくない世の中であると感じます。

 

 

 

今回、風邪になって思ったのは『恐らく、わたしのような人間ほど、積極的にヒトと関係した方がよいのだろうな』ということです。

 

最近(生まれてからずっとではあるけど)、ほとほと地球は牢獄であり、肉体は魂の檻であると感じます。

なんでこんなとことに来ちゃったかなぁ。

 

 

 

ありがとうございました。

【機動戦士ガンダムSEED FREEDOM】二人の魂は救われたのだろうか【鑑賞後の感想】

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

先日、映画『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』を観てきました。

 

www.gundam-seed.net

 

 

元々は觀るつもりではなかった

ガンダムシリーズは好きなのですが、正直なところSEEDの映画は觀るつもりではありませんでした。

しかし、友人より「ファンサービスの嵐」「二十年待った甲斐があった」「過去に公開されたガンダムの映画の中で一番かも」と話を聴いて興味を持ったので、觀た次第です。

 

『当初この作品を觀るつもりではなかった』と書きましたが、というのもテレビシリーズが二十年前の作品です。

その当時はわたしは少年で、一応全話観たはずですが内容が難しく覺えていなかったので公開日時が発表された時も「劇場版ね…」と、半ば後ろ向きな氣持ちでした。

 

友人より「どの程度の認識具合??」と聞かれたため、上記や『名シーンや印象に残っているシーン(ニコルが殉死する場面やイージスの自爆、イザークの傷)』などを友人に言うと、「わいもそんな感じやったで。でもそれくらいの知識でも娯しめるやで」との返答。

 

「そやったら觀てみるかぁ」と思い、今回鑑賞した次第です。

 

 

鑑賞後の感想

先に書いた通り、割と後ろ向きで作品を觀に行ったわけです。

 

上映開始~中盤までのわし

「なんやこれ、ファンの二次創作か?」

 

上映終了、鑑賞後のわし

「しっかりと《ガンダム》だった…。。過去觀たガンダム作品の中でも一番《ガンダム》かもしれない…」

 

エンドロールの最初で【原案 矢立肇 富野由悠季】と表示されますが、「えっ、、これ本当に富野さんが脚本に参加していていないの…??」と思ったくらいです。

 

 

ガンダムライトユーザー

わたしはガンダム作品が好きですが、全アニメシリーズを觀ているわけではありません。

 

初代(テレビシリーズ全話)

Z(テレビシリーズ全話と劇場版三作)

ZZ(テレビシリーズ全話)

逆襲のシャア

0080 ポケットの中の戦争

0083 STARDUDT MEMORY

F91(たしかこの作品にて言及されていたのですが、「戰爭は勝者も敗者も生まない。生むのは戦災孤児だけだ」というセ台詞に痛く感銘を受けました)

∀ (劇場版のみ)

SEED

SEED DESTINY

OO(一応両シーズン見ましたが忘れました)

UC

THE ORIGIN

NT

ククルス・ドアンの島

閃光のハサウェイ

 

上記がわたいがこれまで觀てきたガンダム作品です。

全作品觀ているわけではないので、ライトユーザーですね。

 

それに足してゲームで作品のお話を補完、という感じです。

 

 

そんなようなライトユーザーに、二十年前のお話うろ覺えなSEEDです。

及び腰にはなっちゃいますよねー、どうしてもね。

 

ですが、そんなライトユーザーでも「あ!あれ!」とわかるような小ネタ、ファンサービスの嵐だったのが、今回の『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』です。

 

 

ガンダムシリーズファン』へのファンサービスの嵐

まず、ファンサービスの一つとして「!」と思ったのが、コンパスの船だったかが入港する際に白鳥が飛んでいたところです。

この場面で「ファーストのあそこじゃん!!」と思いました。「諸君、艦の右手を見てくれ、白鳥が飛んでいる」のところです(細かいニュアンスはうろ覺え)。

 

他にも最終決戦が終わってムウさんにマリューさんが抱きつく場面は、劇場版Z三作目のカミーユとファが抱きつく場面と格好が同じでしたし、分かり易すぎる小ネタとしてはヒゲハロが催眠ガスを噴霧する時にギンガナムが叫んだりとかがありました(「『甘ったれ』は『修正しないと』な」とかもですね)。

 

そういえば、ガンダムSEEDって過去のガンダム作品で主要人物の声を当てた声優さんが勤めている場合が多いみたいですね。

イザーク関智一さんや子安武人さん、三石琴乃さんに関俊彦さんとかもそうですね。

 

 

その他、ファウンデーションの頭であるアウラさんが幼い子どもの容姿をしていたのは、Z~ZZのミネバさんが脳を掠めますし、この『SEED FREEDOM』にて初登場したアグネスさんは『逆襲のシャア』にて登場したクエスさんに酷似していますし、寝返るのはレコアさんも行っております(というよりもガンダム作品では寝返りはお家芸か?)。

 

あと、マリューさんが戰死しなくてよかったな、と思いました。

マリューさんの声を担当されている三石琴乃さんは、ガンダム作品ではないですが『エヴァンゲリオン』でも、同じ艦長という役職の葛城ミサトさんの声を担当されています。

『シン・エヴァンゲリオン』では艦ごと突っ込んで殉死されておりますしね。

同じようにならなくてよかったです。

 

 

そうそう。

最終決戰でフリーダムが使った刀って、アストレイレッドフレームが持っていたガーベラストレートですか?

 

 

あ!!!!!

ミーティアのスラスターが発進準備をするカットと、ルナマリアさんがインパルスで発進する時のカットってテレビシリーズのものですよね???!!

わたしはあれにめちゃくちゃ興奮したので、最高のファンサービスでした!!!!!!!

 

 

優生思想 対 愛

この『機動戦士ガンダムSEED』という作品は、自然分娩で生まれたナチュラルという種族と、遺伝子改変にて生まれたコーディネイター(試験管ベイビー)という種族との対立に端を発して爭いが起こっております。

 

テレビシリーズ二作目の『SEED DESTINY』にて、そのナチュラル・コーディネイター間での爭いは終わったように思えていたのですが、コーディネイターの上位種族の《アコード》が登場して、もう一度革命(『DESTINY計画』)を起こそう!とするのが、この『SEED FREEDOM』のお話です。

 

要は「『SEED DESTINY』にて否定された考え方の正当性をもう一度知らしめたい!と思った残党が巻き起こした戰爭のお話」が『SEED FREEDOM』なのですが、この残党が一揆する構図とかも『逆襲のシャア』からの引用・小ネタか?とも感じます。

 

 

本作にて登場する《アコード》の七人ですが、その内の何人かの人物設定(性格)も過去のSEED二作に登場した強化人間の性格をオマージュしていましたね。

 

 

さて、ファウンデーションが行う『DESTINY計画』ですが、これは要するに、、

遺伝子の情報からその人の得意不得意がわかるよ!

だから誰もが必要とされる理想郷を作れるんだ!

でも遺伝情報で決まっていることだから、自由意志とか遺伝子的に向いていないことをするのは禁止だよ!

自由意志なんて持とうものなら、國家反逆罪になりかねないから気をつけてね♪

ということです。

 

そして、遺伝子改変をされてスーパーパワーを身につけた《アコード》を作り出し、それを引き連れてもう一度『DESTINY計画』っちゅう革命起こすやで!!と奮起するファウンデーションをキラたちが叩くのが今作ですね。

 

 

つまり、この『DESTINY計画』は選民思想や優生思想を根っこにして構築された価値觀ということです。

その価値観に対して「NO、人間は愛だから」と真っ向から相対すのが、テレビシリーズからの主人公たちです。

 

 

SEEDのシリーズを通しての主人公であるキラさんと、ファウンデーションの大将であるオルフェさんが一騎打ちをします。

オルフェさんはアコードであるがゆえ、キラさんの恋人(妻?)であるラクス・クラインと許嫁の関係を元から与えられておりました。

しかし、ラクスさんに自己を拒まれた(ラクス「あーしキラの方が好きやっちゅうねん。なんで何度も言ってんのにわからへんねん。無能やなぁ」)ため、自己が拒まれたことによる嫉妬と、『(ある意味、物として)必要とされたから産まれた』という自分自身の出生・生存理由の否定とでオルフェさんは激昂します。

最終的にオルフェさんは敗れますが、複座席に座っていた、同じくアコードであるイングリットさんからの『物としてではない、その人が必要だから』という愛を知った後に機体は爆発。アコードの二人は死を迎えます。

 

二人の機体が爆発する時、「オルフェさんとイングリットさんの魂は救われたのだろうか」と思いました。

どうか救われていたらいいな、と思います。

 

 

全てのガンダム作品に向けての作品

「結局愛だよ〜」という結末で幕を下ろした『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』

前述した「二人は救われたのかな」という感想を以って考えていましたが、その時に『この終わり方は全てのガンダム作品への想いが篭っているのではないか?』と思いました。

 

ガンダム作品には、戰爭の都合によっていいようにされた人々や戰爭の影響で人生を狂わされた人々が多く登場します。

 

ファーストのララァさんは偶発的なニュータイプなので、そこまで非業だとは感じませんが、ZのフォウさんやZZでのロザミアさん、DESTINYのステラさんなどの強化人間や、生活のためにジオン軍を手伝っていたファーストのミハルさんは戰爭に利用された人だと思います(テレビ版で精神が壊れていたカミーユも被害者の一人ですね)。

 

そんな『戰爭によって翻弄された方々』の鎮魂をしていただけではなく、実社会生活上で『物として必要とされている(ことを氣づいている)人々』さえをも癒しているように感じました。

 

実際、現代の世では《いかに使えるか》や【利用価値】遵守的な時勢に傾いておりますが、もうそろそろ本当にそういった物質的な価値觀では立ちいかなくなっているんだろうな、と思います。

 

キラとラクスが主張していたことは確かに綺麗事にも聞こえますが、綺麗事だと諦めてもがいたり声を上げていかなければ、向こうの都合がいいように利用されるだけでしょうしね。

 

 

そうだ。「ファウンデーション外資的な西洋の価値觀なのだな」と思ったところとして、オルフェさんが機関砲の発射を指揮する時に「Fire!」と言っていたところと、『DESTINY計画』の再提示を行うところでやたらと横文字(だったか?)を使っていたところです。

 

あの演説をしているときは「ねむて〜〜〜〜こと言ってんなぁ。カリスマがないね。ちゃんと "伝えないといけない" のに、『できる人アピール』をしたいかなにかで小難しい言葉を使ったとしても、無能バレバレやで」と思っていました(人のふり見て我がふり直せ)。

そらアスランさんに煽られるわ。

 

まぁでも、そう言った話し方をした方が一般的には騙しやすいってのもあるだろうし、『小難しい言葉で攻めた方が大衆扇動にて効果的だよ』と教えられたという側面もあるかもしれないので、やっぱり氣の毒だな。。とは思います。

どうか泣いていないでね。

 

 

ところで

すーーーーごく今更なのですが、『機動戦士ガンダムSEED』の《SEED》って遺伝子のことですか?

 

このブログでは「脳内に浮かんだ小難しいことを、自分の脳がパンクしないように発散するため」に色々と考えていることを書いているのですが、いつも書いているようなことを考えるようになったのは二十歳を過ぎたころからだったのですね。

なので、リアルタイムで『SEED』や『鋼の錬金術師』を觀ていた頃は、その表現や意味には脳が向かいませんでした。

そのため、この度「は?っ『SEED』って遺伝子のことか?」と思いました。

 

 

『ファンの二次創作と感じた、そのノイズ』について

この記事の冒頭にて、『鑑賞中は「なんやこれ、ファンの二次創作か?」と思っていた』と書きましたが、その理由について最後に書きます。

 

まず「あれ?こんな顔だったっけ?」と思ったこと、『イケメンサービスのシーン』や『ロマンスのシーン』がやたら多かった(と感じた)こと、『キャラクターの体が細すぎる』こと(ちゃんとご飯食べてる?と心配になる)、『そこってそのギャグ要素いる?』と思ったこと、などです。

 

最後の《ギャグ要素》についてだけ言及いたしますが、今作の内容って結構現代にも通ずる問題が根っこになっています。

それをZやUC並みにシリアスに書くと『重すぎる』となって胃もたれというか敬遠されかねないために、作品のバランス的に軽いギャグが散りばめられていたのかな、と感じます。

このギャグ要素、演出には『機動戦士ガンダムZZ』を想起するので、これもオマージュや小ネタのファンサービスなのかな、とも感じます。

 

 

確かにファンの二次創作だとは感じましたが、SEEDのテレビシリーズでファンになった方がサンライズに入ったのかもしれないことを思えば、念願として好意的に受け止めることもできますね。

 

声優さんの面から見ても、過去のガンダム作品に感銘を受け、声優業に足を踏み入れた人が、のちのガンダム作品に出演して《ガンダムの意志》を後世に繋げるという流れも、まさしく今作にて描かれた愛そのものだと感じますし、"種" を継承していると受け取れば終わりが良いのではないかと思います。

 

 

おしまいに

以上が今回『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』を初回鑑賞にて感じた感想です。

 

ちなみに、劇中歌の『Meteor-ミーティア-』を聴いた時に「あれ??!これ歌唱再録??」と思い、その確認に必死だったので、エンドロールでラクスさんが話している内容を聞き忘れています。

歌唱は再録でもなかったです( ¨̮ )

 

ということでYouTubeにてテレビシリーズ全話の総集編を觀て「あー懐かしい!」「あっ、そうだったんだ!?」「あーニコル…。。」などなど復習したので、二回目行ってきまーす( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

少しでもいろんなことで癒される人が多くいればいいな、それによって他の方が傷つくなんてこともなければいいな、と切に思います。

 

 

 

追伸  おい!!!!!

イザークの出番少なすぎるだろうがよ!!!!!!!!!

もっと銀髪おかっぱを登場させてよ!!!!!!!!!!!!

 

 

「いい時代」なのだろうか

 

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最近『蛸地蔵』というバンドさんを知りました。

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かっこえ〜〜。

 

出会いは突然。

例によってYouTubeのおすすめにて、でした。

 

サイケロックを冠しているためにホイホイと耳が先行して行ったので、はぐれないように脳と頭が追随したって感じです。

 

この '70年代感というかバブルで浮かちゃう前な感じがたまらなく良いですね。

八十八ヶ所巡礼さんはプログレッシヴ・ロックを基調にしていますが、この蛸地蔵さんはストレートなロックを基調にしていて、またこれも良いです。

 

 

ライヴ行ってみてぇ〜〜〜〜!と思ったのですが、惜しむらくは現在は活動を休止されているそうです。

八十八ヶ所巡礼さんの時も思いましたが、どうして当時に知らなかったのだ。。と後悔を感じてしまうばかりです(八十八ヶ所巡礼さんは現在も活動されているので、有難いの一言でしかないのです)。

 

しかし、そんな活動休止しているバンドさんの音樂も触れることができる。そんな状況を鑑みて『とはいえ、いい時代だ』と思いました。

が、その一秒と半秒の半分あとに「果たして本当にそうなのか…?」とも思いました。

 

確かに、昔のバンドの音樂や色々なコンテンツに触れることができるアーカイヴ時代の現代は恵まれているとも言えますが、当時にしか活動していなかった、記録も残っていないものは今触れることはできないのです。

 

その当時にいた圧倒的な傑物は、その当時にしか触れることができないのです。

 

つまり、何を言いたいのかというと、現地で体験する以外にないということです。

報道されていることなんてのも、本当に起こったことなのかなんて不確か不透明でしかないのですし。

 

百聞は一見にしかず、いくら『あの当時はすごかったのだよ』と聞かされたとて、その当時の空氣は体験できないのです。

 

無情というか、何というか。

 

 

こういったことを考えだしてしまえば無限に迷ってしまいますね。

昔も覗き見ることのできる現代(社会保障はクソ)の方が良いのか、圧倒的なものを体験できたその当時の方が良いのか。

 

 

結局は今あるものを真摯に触れるということしかできないのでしょうね。

そして、必要なものはちゃんと所有をして。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

そういえば、大阪メトロでは『顔認証改札』の運用試験が始まるのだそうです。

試験モニターが募集されておりました。

 

 

 

無情〜〜〜〜〜〜。

 

 

 

 

ありがとうございました。

平和利用キャンペーン?

 

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先日『チェルノブイリ』という海外ドラマについての感想を書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

ドラマの劇中にて《放射線被曝したものはそれ自体が放射性のものではなくても放射線を放出する》ということを初めて知った次第なのですが、この特性って『スパイダーマン』で言われていることと同じだったりしますか?

 

というのも、『スパイダーマン』って放射性の蜘蛛に噛まれたことでスーパーパワーが身につくという設定なのですが、無知なわたしは「 "放射性の蜘蛛" ってなんだよ、わけわかんねえ」と思っていました。

 

しかし、《放射線被曝したものはそれ自体が放射性のものではなくても放射線を放出するという特性》を以って考えてみれば、"放射性の蜘蛛" という存在も無きにしも非ずなのかしら?と感じます。

 

放射線は遺伝子に作用するそうなので、何かしらでスーパーパワーも身についたりしたりもするのか?ということです。

 

しかし、"放射性の蜘蛛" が噛み注入された体液がヒトの遺伝子を改変したのか、それとも "放射性の蜘蛛" 自身が放出している放射線で遺伝子が改変したのかは不明ですね。

 

 

ところで、わたしの母は幼少期に『核の平和利用キャンペーン』ポスターを観たことがあるとは『チェルノブイリ』の感想記事にて書いた次第ですが、この "放射性の蜘蛛" も平和利用キャンペーンの一環でもあるのかな、と思います。

 

 

しかし、ある存在が脳みそにザラザラと登場します。

 

同じく『スパイダーマン』シリーズにはサンドマンというキャラクターがヴィラン(悪役)として登場しますが、彼は核実験巻き込まれたことで体を砂にする能力を手に入れます。

 

のちにヒーロー側に転身したりもするらしいのですが、そもそもが悪役としての登場ですので、核や放射性物質に対しての危惧をしていたのか?とも思います。

 

というよりも、アメコミの世界って結構科學的なものの影響で悪の世界に入っていく描写が多かったり、科學的なものを使って犯罪を犯している描写が多いので、「あんまり科學を礼賛しすぎるのもよくないんじゃない?」という意図があったのかもしれません。

とはいえ、その意図というのも世代的な特徴かもしれません。

 

資本主義大國であるアメリカ発の作品が、科學に対してのアンチテーゼをしているように感じるのは意外な部分もありますが、大抵の受け手はただのフィクションとして認識して、危険性は『フィクション』として処理するのでしょうね。

実際、わたし自身も「核実験の影響でなんで体が砂になんねん」とは思いますしね。

 

でも核や放射線に対して無知であるので、知ったように『あるわけがない』などとは言えませんけれどね。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

壁に耳あり 障子に目あり

 

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わたしはオカルトとかそういったものが好きです。

 

YouTubeにて活動されている『THC オカルトラジオ』というチャンネル様も、登録をしてよく拝聴しています。

 

先日こちらの動画がアップロードされ、最近聴きました。


www.youtube.com

 

『ある未解決事件ブログ記事』という話を聞いていたのですが、思わず「こっっっっわ!!!!!」と声が出てしまいました。

 

その部分は『ある日、メールが届く』という場面なのですが、考えてもみれば、IPアドレスってものもあるので、筒抜けなのは当然だよなと思います(だとしても怖い)。

 

このはてなブログも、コメントした人のIPアドレスが表示されますしね。

 

 

昔はインターネットは逃げ場的な印象だったりもしていましたが、今の世では逃げ場なんてないのかもしれませんね。

 

むしろアナログな場所の方が逃げ場なのかもしれないし。

 

 

ちなみに、IPアドレスなどは1980年代から一般利用されていたらしいので、そもそも逃げ場なんてなかったのかも。

昨今の誹謗中傷云々にて、「IPアドレスの開示」などをよく耳にするようになりましたが、まだまだ知らないことはたくさんありますね。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )