頭の中の洪水

思想家があなたに話します。

【固定記事】いとをかしき言葉のお話

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

皆さんは言霊という考え方をご存知でしょうか。

 

言霊とは、古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力。

発した言葉通りの結果を表す力があるとされた。

 

 

という意味合いらしいです。

 

いろいろ個人で感じ方に違いはあると思いますが、わたし個人は言霊は存在すると思っています。

友人や上司に言われた言葉で傷つくという現象も、言われた言葉がずっと残っていて胸につっかえるという現象も、言霊が存在しないと起こらないと思うのです。

 

またその言葉は、思考を使わないと発せられることはありません。

 

 

言霊の話とはすこし離れますが、全ての物事や現実は、思考の後に生まれると考えています。

戦国時代に「電話を使えば、遠くにいる親類と会話することができる」と話したところで、だれも相手にしないでしょう。

下手をすれば「邪教を布教しようとしている!」と言われて打ち首に処せられる危険さえあります。

 

憶測の域を出ませんが電話を作ろうと考えた人も、「離れた人と話せるわけがないでしょうに」と外野から笑われていたのではないでしょうか。

しかし今では当たり前となっています。

成功者の特徴として他者から"笑われた経験がある"というのは、ひとつの指標になるのではないでしょうか。

 

 

言霊の話に戻ります。

すこし眉唾な話に聞こえると思いますので、話半分にでも聞いていてください。

 

日本語にはとても大きな力が含まれているらしいです。わたしはまだ不勉強なので、ちゃんと説明はできませんが、カタカムナ文明や、カタカムナ文字の48音と現代日本で用いられている48字の一致などです。

カタカムナでは「ひふみよい」や「むなやこと」とかと言ったりするんですが、「いち、に、さん」と今では読んでいる「12345678910」も、むかしは「ひふみよいむなやこと」と読んでいたらしいです。「ひい、ふう、みい」ですね。

 

またあまり知られていませんが、第二次大戦で負けた後にGHQが日本を占領統治しましたが、そのGHQが日本の漢字を無くそうと画策しました。

「漢字というものは複雑にすぎる。あんなに難しいなら識字率も低いだろうし、それが原因で思想も偏る。結果戦争に繋がるだろうから漢字なんて廃止してしまえ」というロジックだったみたいです。

その後全国で一斉に識字率調査を行なった結果、全体の97%くらいが日本語を読み書きできたそうです。

 

漢字廃止計画は頓挫しましたが、神風特攻を生み出した民族を恐れていたGHQですから、どうしても日本の国力を下げたいために漢字の書き換えを行います。

氣を気にしたり、國を国にしたり、學を学にしたり、靈を霊にしたり。

理由等はこちらの動画様で話されていますので、ご覧になってみてください。

youtu.be

 

 

この前太宰治さんの短編を読んでいたら『慾』という字が出てきました。読みは「よく」

意味は欲望の「よく」と一緒ですが、現在の日本では『欲』が一般的ですが、これもGHQの言語統制・言語統治でしょう。心が消えていますね。

 

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https://www.shinchosha.co.jp/book/100606/

 

中學時分は夏目漱石さんの旧字体で刊行された時の文庫とかの文學を読んでばかりいた為、旧字体にも馴染みがあったので特段無理なく受け入れることができました。

ですが、生まれてからも成長してからも目で考えていた人には意識を書き換えるのは苦労なさるでしょうね。

ヒトは考える場所が「心・頭・目」の三つあるとわたしは思っているのですが、その話も機会があればまたお伝えいたしますね。

 

なにが言いたいかというと、思い浮かべている漢字次第でも言葉の意味が変わるんじゃないかということです。

GHQの統治前は教科の名称が「國史」だったけれど、現在の學校教育下では、「歴史」になっています(こうの史代さん原作の、映画『この世界の片隅に』でもその様が描写されていますね)。これは「自国の歴史ではなく刷り込ませる為」であったりするらしいです。

 

 

わたしが非常に氣分良く思わない言葉があります。

「雰囲気」を「ふいんき」を発音している人が多すぎる。正しくは「ふんいき」です。

また、漢字ごとに考えてみると、雰は氣配・囲はとりまく・氣はエネルギー。

つまりその人の纏っているエネルギーという意味合いになります。つまりオーラと同義でしょうね。

それを正しく言わずに「ふいんき」と発音するというのは、その人自身のオーラ(エネルギー)を反故にすることなのではないかと感じます。

 

なにかで、「新しく納めた國や土地は、まず最初に言語を書き換えるのが大前提の常套手段」と聴いたことがあります。

漢字は亡くせなかったけど、言靈的な意味から無効にしてから75年くらいですか。

現代日本でも着々と言語の書き換えの刷り込みが行われていますよね。台所をキッチンと言ったり、鶏肉をチキンと言ったり、まな板をカッティングボードと言ったり。

言語の統制話は華氏451度にも通じますね。

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https://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/11955.html

 

このお話は、前回に書いた一九八四年の話とも繋がりますね( ¨̮ )

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

あと個人的に流行り言葉にも不満を感じるんですが、これは若い世代についていけないだけでしょう 笑

でもその時代だけのスラングみたいなのばかりの文章は、パッと見ただけでも非常に頭が悪く見えてしまうのだなという発見があったので有難い経験だったと思います😉

 

またそれにより逆に思うのは、「昔からある言葉の力」です。

最近の流行り言葉だと「エモい」とかなのでしょうか。あと比較例として「鬼」や「神」もありますよね。

12,3年前に爆発的に流行った「KY」という略語も今ではめっきり聞きません。

ここからわたしは「言語って結構残酷に、かつ容易に淘汰されるんじゃないか?」と思いました。

 

わたしはギターを嗜んでおり、今年で14年目くらいになります。

高校生の時分には「とにかく早く上達するコツ」を求めていたのですが、上達するには「今現在でできることを日々積み重ねるのが一番手っ取り早いと氣づきました(今現在できることを日々積み重ねていると、「これをこうしたらどうだろうか?」という閃きが生まれます)。それを理解したのがつい半年前とかです。

これって「急がば回れ」ということではないでしょうか。

 

他には「人のふり見て我がふり直せ」を実感したお話もあるのですが、非常に印象的かつ"いとをかし"な出来事で、いざ書くとなるときっと長くなるので、また今度個別の記事にしたいと思います。

端的にいうと『他者を通して自分を見ている』です。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

上記した昔からある言葉は、わたしが認識しているだけでも、祖母祖父の代からは存在していて、淘汰をされていません。

一時的な言葉が10年そこらで淘汰されるているのに対して、90年近くも生き残って、語り継がれていると言うのは、その言葉自体の言靈的な力が働いていたり、ヒトがヒトの世を生きるにおいて、ある種の真理を含んでいたり真理に触れていたりするためではないでしょうか?

 

 

ちなみにわたしが「エモい」という言葉が嫌いなのは、「自身の語彙の貧弱さを改善する氣もなくその貧弱さに胡坐をかいている姿勢が見えるから」です。簡単に言えば向上心がないということでしょうか。

「精神的に向上心のない奴はばかだ」

 

もういっこちなみに、「語彙力」という言葉が幅を利かせていますが、「語彙」は英語でボキャブラリーです。ボキャブラリーは豊富や貧弱と言われるように『量』です。

その量が能力というのはおかしな話なので、「語彙力」というのは破綻しており、「語彙力」という言葉をそのまま使う方は、語彙も国語的な言語能力も貧弱だと、わたしは思います🌝

 

 

「無い物ねだり」という言葉があります。

『ないものを欲しがること・無理なことを望むこと』という認識が一般的で、わたしもその意味合いだけだと思っていたのですが、『自ら無い状態や不足感を望む』ことでもあるのではないか?と思いました。

不足感や、理想像などの目標が常にある方が頑張れて充実を感じられるから。

不自由な方が自由にできる』みたいな話ですね。

フレーミングの癖をつけていると、ちょくちょくこういった閃きがおりてくるから楽しいです😚

 

 

『無いものねだり』の話を描きたいだけだったのに、他のずっと思ってたことを書いたら3500字以上も書いちゃってたわ😘

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

想像力は経験の差か?

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

最近、辻村深月さんの『朝が来る』を読みました。

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https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167991333

 

 2020年の年末にこちらの記事で書いた、映画『朝が来る』の原作小説です。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

 

読後の感想

この作品は女性にしか書けない作品だ、というのが作品を読んだ感想です。

日々の生活で引き起こされる様々な感情が交差する表現や、また子どもの頃のキラキラした思い出が、成長するに従ってひび割れ、色褪せ、幻滅していく過程の表現も非常に鮮明かつリアルで、自身の過去が思い出されるようでした。

 

 

「自分のものではない字」に自身の生活を狂わされたひかりが、むかし朝斗くんに向けて書いた手紙の「自分の字」を見て心が揺れるという対比(トリック)は、小説ならではの表現だと感じ、さすがだなと思いました。

 

対比という部分では「広島の寮で見た空と雲の景色」と、物語最後の「雨上がりに夕日が雲の切れ間から漏れている景色」とが、ついになっているように感じ印象的でした。

 

 

映画だと、やはり映像化されている分わかりやすくなっている部分はありますが、登場しているキャラクターがどういった心情かどうかは、ナレーションやモノローグが無い限り鑑賞者が憶測をするしかありませんので、原作小説を読んで新たに発見することができました。

あと、単純に映画の尺的にカットをせざるを得なかった箇所や、尺の都合で原作とは違った演出になったりも致しますので、映画だけではなく原作を読んでよかったと思いました。

 

「女性にしか書けない」その理由

「この作品は女性にしか書けない」と先述しましたが、その理由は二つあります。

 

一つは「子どもは結構周りのことをよく見ている」ということです。

物語は「佐都子・清和が朝斗と生活している今の生活(一幕目)」と、「夫婦が朝斗を養子として迎え入れるまでの過去の生活(二幕目)」と、「朝斗を出産したひかりの幼少期から21歳までの暮らし(三幕目)」の大きく分けて三幕構成となっているのですが、一幕目と三幕目の最後に朝斗くん目線のセクションが設けられているんですね。

 

朝斗くんは幼稚園の年長さん(6歳)の設定なのですが、その未就学の子どもでも周りのこと(特に場の空気感や親が出す緊張など)をよく見ていると丁寧に描かれています。

これは河瀬直美さんが監督をとった映画版でも同じように描かれており、作者の辻村深月さんと河瀬直美さん御二方ともお子様がいらっしゃるからではないかと思っています。

 

これは女性という性が「自身のお腹を痛めて子を授かり、出産した」という出来事を経験して生まれた、母性からくる結果なのではないかと思うのです(無配慮無自覺な母性信仰と取られたくないですが)。

その結果としての、『子どもも大人(親)の伺い知らないところで、色々と観察して氣を使っている』という表現だったのではないかと思います。

 

 

男というものの絶望的な想像力の無さ

そして二つ目の理由ですが、それは「男というものの、"絶望的な想像力の無さ"を徹底的に描いている」という部分です。読んでいて素晴らしいと思いました。

 

  • 清和が佐都子に対して発した「(子どもが)いたらいいなとは思うじゃない」という発言や、クリニック内にある検査用の精液を採取する為の部屋に対しての「ショックだった」という清和の感想。
  • 佐都子が同期の伊藤に特別養子縁組の相談をした時の『血』の話や「どうしようもない親」といった発言のひとつひとつ。
  • ひかりを妊娠させた巧の中絶へ対しての認識など(巧に関しては中学生という設定でしたので、若さの面を強調したのかも知れませんが、だとしても認識の低さがひどい)。

 

 

「子どもがいたらいいな」程度の認識で子どもがいる生活を選んだ結果、生活を圧迫する上に自分の思い通りにならず、良いとは思えなかった。その場合は責任を全て子どもに押し付けるのでしょうか?

「いたらいいな」で迎えた子どもがいじめ被害に見舞われたり、加害者側になり被害者を自死へ追い込んだ場合はどうするのでしょうか。「うちの子に限ってそんなことは起こり得ない」と考えているのならば、それこそ本当に想像力が無い

男は「いたらいいな」と思うだけですが、実際にお腹を痛めたり体調やメンタルが崩れたりするのは女性の方です。

 

清和の発した『ショックだった』に関しては作中でも言及されており、「男性の具体的な想像力の欠如が、不妊治療における男女の意識の差のようなものをそのまま表している氣がする」と書かれています。

 

 

伊藤の『血』の話については、「親が見ていない時に子どもが親を観察してそれを真似ている」だけじゃないのかと思います。

あるある話としてポピュラーなのは「寝姿が一緒」とかでしょうか。

その事象についても「親がとても氣持ち良さげに寝ているから、無意識的にその時の寝姿を真似ていた」と想像ができます。

その程度の想像もせずに『血』と言い切ってしまうのはどうにも利口だとは思えない。

あと、身体情報も遺伝するんだから寝姿が似るのは当然でもあるんじゃねえの?

 

実際に『血』の問題としか言えない出来事等もあるのでしょうが、その理由を想像したり考えたりもせずに『血』だけを理由に思考を放棄すんなよ。と思う次第です。

 

大体が『血が繋がっている』から支配的になり、「自分の経験は我が子にも(無条件で)通用するだろう」と妄執に似たアホみたいな勘違いをするんじゃないのか。それが理由で『毒親問題』や親子の齟齬や不仲が起きるんじゃないのか。

そんな勘違いする前に目の前の子を独立した個人だと認めろよ

 

「どうしようもない親」と思うのなら、反面教師にできるチャンスですね。「すばらしい親」になるためがんばれー。

 

 

巧は中絶に対してこう言っています。

「中絶って、女の方が体の痛みはあるかもしんないけど、それがない分、精神的な苦痛は男の方がもっとだよな。オレ、何度も自分のこと人間失格だって思った」

 

ふざけんな、の一言ですね。

中絶が引き起こす苦痛は、女性には身体的なものと精神的なものがあるため、苦痛が分散すると思っている(わざとそう書いている部分はあるのでしょう)。

身体的苦痛がない分、精神的な苦痛は男性の方が女性よりも上だと思っている。

「何度も自分のことを人間失格だと思った」→この後に及んで自己保身か?

 

 

そんなことばっかり言ってるから「男はいつまでたっても子ども」だとか「女性の方が精神的に自立してる」と言われるんだよ。

『出産時の痛みを男性が経験したら、その痛みでショック死する』と言われているほど男ってものは体たらくのしょうもない生物なんだから、いい加減男ってものは立場をわきまえろよ。と、男のわたしは思います。

まず前提に、生物ってのは女性(メス)から生まれるんだから、そのことに対して尊敬と感謝を思い出せよ。

 

人間の男性を形作る染色体が欠損して長く経つという話もあります。

女性はXX、男性はXYです。

片方のX染色体が傷ついたとしても、女性の場合は両方ともがX染色体なので補い合うことができます。

ですが、男性を形作るY染色体が傷ついたとしても、もう一方はX染色体なのでY染色体は欠損したままになり、それが遺伝し遺伝してY染色体はどんどんとボロボロになっていきます。

 

あと、精子から卵子を作ることはできませんが、女性の卵子から精子を作ることはもうできるらしいですね。

それを忘れて(知らない?)、腕っ節が立つ程度の能力で偉そうにしているのは非常に愚かかつ滑稽に見えます。

 

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そういえばこちらで書いた「グレタ・トゥンベリさんについて話す40代のサラリーマン」の方も男性でしたね。

 

 

と、ここまでフィクションに対して色々怒ってきました。

あくまでフィクションですので大袈裟に描いているのでしょうが、実際に存在している男ってのは想像力に乏しい方々が多いです。

 

想像力がちゃんと備わっているのなら、アダルトビデオなどの商業化されたファンタジーなコンテンツで描かれていることが、どうして現実にも適応されると思っちゃうんでしょうか。

 

 

 

こちらの記事でも書きましたが、「フィクション」には「フィクションとなるために元になった現実」が存在するので、世に多く存在する『想像力のない男』と一緒にならないように氣をつけるしかないですね。

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ま、他の男性のことを「想像力がない」と切り捨ててるのも、わたし自身の想像力がないゆえなのでしょうけどね( ¨̮ )

ちゃんと相手のことを思いやることのできる男性もいらっしゃいますし、そこらへんはグラデーションですよね。この世は二元論ではありませんのでそう簡単に二分はできません。

 

 

本題

さて、タイトルについての話です。

ちょっとこちらの動画をご覧ください(~4:30)。

youtu.be

 

ありましたね。

2020年の10月か11月くらいでしたでしょうか。子会社であるYouTubeも使えなくなりました。

 

わたしが話したいのは、スマートハウスについてです。IoTとかもそうですよね。

 

 

Googleがサーバー落ちしたから、ネットで管理していた家の暖房や給湯、鍵の開け閉めができなくなった。ということなのですが、その程度のこと、ちょっと考えたらわかるもんじゃないの?

鍵をネット管理に明け渡しているということは、ハッキングもできて入りたい放題になるということです。想像つかないのでしょうか?

 

 似たようなことを以前にも書きましたね。

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最近盛り上がりを見せている電子マネーに関してもそうです。

あのサービスのメリットは「現金を携帯しないため盗難の心配がない」や、「面倒な小銭の管理をしなくて済む」や、「飲み会などの清算時に起きる"大きいお札しかなかった時の面倒事"が発生しない」などでしょう。

 

ここで想像力を働かせてみましょう。

youtu.be

 

電子決済は今や多くの場所でできるようですが、思い出してください。日本は自然災害の多い場所です。

 

大型の地震が起きて、電子決済を管理しているシステムが壊れ、復旧の目処が立たなくなった場合はどうしましょう。

システムが壊れなかったとしても、各商店へ繋いでいる回線が損傷して電子決済が不可能になった場合はどうしましょう。

もし電子決済を運用するために必要な電力が、致命的な停電(自然災害やEMP)により供給不可能になった場合はどうしましょう。

 

「その時はその時で考える」のかもしれませんが、こういった『可能性』の話は常日頃から念頭に置いておくのは大事なのではないでしょうか。

 

 

それで、そういったことに意識がいかないのは単純に知らないからなのではないか。知らないから、想像できないのではないか。と思いました。

 

 

 

Imagine all the people

わたしは10歳の時に交通事故で車に撥ねられたことがあります。

膝の下を少し縫った程度で骨折などはしなかったのですが、その事故によるトラウマ?により、今でも車に乗っている時にトラックなどの背の高い車が近づいてくる状況に、とても強い恐怖心を抱きます。

アクセルをいきなり踏んだ時の急な発進に対しても、動悸が起きます。

 

あと0歳の時からアトピー性皮膚炎を患っているのですが、アトピーを口実にマクドナルドのアルバイトに採用されなかった経験もありますし、アトピーを理由に仕事の首を切られたこともあります。

 

 

交通事故のトラウマ(と仮定します)があるため、免許証を取得していないのですが、「免許証を持っていない=人間的に欠陥がある」とお考えになる方から見ればわたしは落伍者に見えるでしょう。

 

アトピーのやっかいさを知らない人からすると「とは言ってもかゆいだけでしょ?」と言われてしまいます。

常に痒さを感じている身からすると、一番拷問に最適なのは痒みだと思いますよ。

痛みは慣れるなんて言いますが、痒みは一向に慣れません。ひどい時は痒みで動けなくなることもありますからね。

 

それもこれも結局、その経験を体験したことがないから侮っていられるのではないかと思います。

いや、本人からすればその反応が適切だと思っているから侮っているとも思わないのかも?

 

 

とはいえ、相手を「理解しよう」だなんて思ってはいけませんよ。

以前「理解したい」と言われたことがありますが、それならばこれまでの生活でわたしが感じてきた苦しみ悲しみを全て追体験する覺悟が本当にあるのか?と問いたいです。

 

上記したアトピーで首を切られた経験も、心配している振りして揶揄される経験も、痒くてほとんど寝られず毎日寝不足で生活しメンタルが崩れていく経験も、全て背負って経験する覺悟が、本当にあるのか?と(わたしは0か100で考えてしまう癖があるので)思います。

私怨ですけどね( ¨̮ )

 

そういった経験があるため、ジョーカーのアーサーや鬼滅の鬼に対しても人ごとと思えないのでしょう。

 

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人ごとにして切り離して切り捨てて考えた方が、生活は絶対的に楽です。

 

 

『理解』はできないけど、『知ること』と『知ろうとすること』はできます。

「そうか、こういう経験や受難があったからそう考えるんだね」や、「何かきっかけがあったから、ああいった口振りや性格なのだろう」と考えることはできます。そんなに難しいことかい?

 

わたしも、駅で車椅子でないのにエレベーターを使っている方に対して「階段使えよ」と思いますが、そのあとに「膝の調子があまりよくないのだろう」や「呼吸が乱れたらよくない病氣などがあるのかも知れない」と思います。

 

長々と書いてきましたが、わたしが言いたいことは「想像力と思いやりを持ってください。自分が持っていると思っている以上に持ってください」ということです。

 

 

わたし個人の考えなのですが、相手を理解できると本気で思っているから、話が合わなかった時に相手を非情かのように批難するんじゃないでしょうか。

まず大前提他人なんだから理解なんてできるかよ、目を覺ませ。

 

 

一応再度言ってきますが、男だけが想像力がないわけではなく、女性にも想像力が無い方もいらっしゃいます。ですが、男性はもっぱら想像力が絶望的に無い方が多いということです。

 

 

これからは心の時代ですよ。

 

ありがとうございました( ¨̮ )

1と3、2と4

 

本日も閲覧ありがとうございます( ¨̮ )

 

なんかこれまでの記事的に、映画とかのカルチャーレビューブログみたいになっておりますが、今回はわたしの本分である音楽のお話をさせていただきます。

 

 

最近、マキシマム ザ ホルモンさんの『ぶっ生き返す』という曲を練習しているのですが、その時にふと思ったことがあります。

 

ホルモンのヘドバンは1拍目と3拍目にアクセントを置いている。

 

 

 

 

リズム

 

多くのポップミュージック、ロックミュージックは4/4の拍子で作られています。

3/4拍子や4/5拍子などの変拍子もあり、3/4拍子はワルツと言われたりします。

 

 

音符には種類があって、

 

白丸だけのものは全音

白丸に棒が立ったのが2分音符

黒丸に棒が立ったのが4分音符

4分音符に旗が一つ付いたのが8分音符です。

 

旗が二つになると16分音符、三つになると32分音符です。

 

全音符の半分が2分音符

2分音符の半分が4分音符

4分音符の半分が8分音符

8分音符の半分が16分音符

16分音符の半分が32分音符

 

というわけです。

 

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音楽には小節というサイズがあり、4/4拍子の曲では1小節の中に4分音符が入ります。

ですので3/4の曲は1小節のサイズが4分音符三つ分です。

 

4/4拍子の曲で拍(リズム)を取ろうとした場合、「イチ、ニ、サン、シ」と取ります。

 

そのリズムを取った時のアクセントの付け方が、ホルモンさんは日本的な「1拍目と3拍目にアクセントをつける」やり方だったんですね。

 

 

前述した『ぶっ生き返す』は公式が公開しているMVがないので別の曲ですが、ご覧いただきたいです。

 

youtu.be

 

ギターリフ(曲中で繰り返されるフレーズのこと。リフレインの意)の後にドラムのフレーズがあり、バンドの全楽器がオールインします。

その時に「イチ、ニ、サン、シ」というリズムの1拍目と3拍目に体を折りたたんでヘッドバンキングをしていますよね。

 

ドラムでいうと、足で踏む一番低い音を出すバスドラム(「ドッ」とか「ドン」とかという音で形容されます)が1拍目。

スネアドラムと言われる音の高い太鼓(「タン」というように形容されます)が3拍目。

 

イチ、ニ、サン、ヨン

ドッ ・ タン ・

 

といった感じでアクセントを1・3で取っています(伝わってるかなぁ)。

『恋のメガラバ』や『What's up, people?!』などの昔の曲でも1・3で取っていました。

 

そんなことを考えていた中、この曲が面白いなと思ったのですが、曲始まりのリフでは2・4で掛け声(アクセント)が入っていたのに、バンドがオールインしたら1・3に変わっていました。

「目!」で一度2・4の流れを打ち消しているのですが、いざ注目して見ると面白い発見があるものですね。

youtu.be

『"え・い・り・あ・ん"』といい、久しぶりに聴くとやっぱりホルモンさんもかっこいいですね。

 

 

ところで、どうしてそんなことに目(耳)が向いたかというと、2・4でアクセントをつける文化の中で生活してきたからです。

 

わたしが長い間ファンとして応援しているMUCCというバンドがあるのですが、そのバンドは折りたたみ(体全体を使ってするヘッドバンキング)を2拍目と4拍目にするのです。

 

youtu.be

 

正直なところ『蘭鋳』のBメロや『茫然自失』の方が2・4にアクセントを置いてるのがわかりやすいのですが、公式の動画では無いのでお手数ですがご自身で探していただけると幸いです。

『空と糸』の00:25~がかろうじてわかるかなと思います。

youtu.be

 

 

 

表拍と裏拍

日本は1拍目と3拍目で拍を打つ、表拍の文化だとよく言われます。

ご老人が民謡や演歌を聴いている時にする手拍子は、1拍目で手を打ち、2拍目ではもみ手を。それが3拍目と4拍目でも、次の小節でも同じことが繰り返されます。

 

イチ、ニ、サン、ヨン

  👏   ・ 👏   ・

 

日本が表拍の文化になったのは、生活する多くが農民で1拍目に鍬を振り下ろし、2拍目に鍬を手前に引く(表拍である1拍目にアクセントを置く)運動が盛んだったため、表拍の文化になったのではないかと、以前、和楽器バンドの和太鼓担当の方が仰っていました。

 

実際、騎馬民族が主流だった朝鮮半島の方ではシャッフルっぽい跳ねたリズムの音楽が民族音楽として存在しているそうです。

 

 

一方、英語圏(特にアメリカ)の音楽は裏拍が意識された曲が多いです。

ご覧になったことも多いのではないかと思いますが、アメリカの方が手拍子をする時には2拍目と4拍目に手を叩いています。

 

イチ、ニ、サン、ヨン

   ・ 👏  ・   👏

 

Stevie Wonder氏の『Superstition』という曲が裏拍を意識しやすいと思います。

youtu.be

 

Kendrick Lamar氏の『King Kunta』という曲も裏拍が強調されていますね。

 

youtu.be

 

裏拍がうまく理解できなくても、裏拍がしっかりと感じられる曲は首が自然に動いて踊りたくなります。

≒かも知れませんが、これをグルーヴと言います。端的に言えば「ノリ」です。

 

最近の日本のバンドでも、Robert Glasper氏などのアシッドジャズをルーツにしたKing Gnuさんがバケモンみたいなグルーヴ感を持っていますよね。

Suchmosさんもナイスグルーヴ。

 

 

話が脱線しましたが、アクセントを日本的な1・3に置くホルモンと、歌舞伎を根っこにした(と思っています)ヴィジュアル系の畑から生まれたMUCCが、共に20年戦士で今でも活動しているというのは面白いな、という話です。

なんの話だ( ¨̮ )

 

ホルモンは色々な世界から旨味を引き出した結果。

ヴィジュアル系とかパンクスとかのジャンルも精神やファッションですし、歌舞伎も大事な部分は心意氣だから双方を見てどうか、なんて話すのもナンセンスなんですけどね( ¨̮ )

 

どの音楽も等しく素晴らしいものです( ¨̮ )

ちょっとよした方がいいと思うのは「このジャンルは良くて、あのジャンルはダメ」みたいなフォロワーの一方的な線引きですね( ¨̮ )

 

St. Vincentも良いし、Ailiph Doepaも良いし、KRAFTWERKも良いし、John Coltraneも良いし、たまも良いってわけです。

 

 

最後に、個人的に好きな音源を貼っておきます。

youtu.be

 

youtu.be

 

ありがとうございました( ¨̮ )

シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇 鑑賞後の感想

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

4/1に『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を観に行きました。

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嘘ではないです。

 

ですので、今回は映画を鑑賞した感想を書き連ねていきます。

 

 

 

 

 

進み出すための破壊

 

物語は「新劇・破」のようにマリの出撃待ちから始まり、ゲンドウ&冬月が差し向けた使徒もどき?を打ち破るシーンへ移行します。

 

戦いの舞台になっているのは花の都パリ。見渡す限り真っ赤に染まった街を、マリのエヴァ使徒もどきが壊して回ります。

エッフェル塔が壊れて、その塔ですらマリが武器にしようとしますが(そういえばその所作も、破でゼルエルにミサイルを持って特攻した零号機のオマージュだった氣がします)、その様を観ていて「庵野さんは『自分でこの世界を壊してやる』とかいう心境だったりするのかしら。それだとちょっとなあ…」なんて推察していました。

 

全部観た後で思い返すと、創造の為の破壊(維持を続けてきた自分、過去を破壊して、新しい自分を創造する。創造するスペースを作るための破壊)だったんだなと解釈しました。

 

 

 

「いい加減卒業しろ」

シーンが変わってシンジ・アスカ・レイの「スタンド・バイ・ミー

どういう流れだったか細かいことは忘れましたが(車に乗るんだったか?)、ある村に行きます。

 

そこでまさかのトウジ登場!

本当にほっとしました。「Q」にあったあんなホラー演出されたら、死んじゃったと思ってしまうじゃないですか。

だから本当によかった。

 

シン・エヴァの物語はQの最後でシンジが引き起こしたニアサードインパクトから14年後の世界だということがわかります。

 

トウジは結婚して子どもを授かっていて、村のみんなからも医者として頼りにされています。

ケンスケも「何でも屋」として人のためになることを行って生活している。

これはあれですね。「自分が思っていた以上に周りの友人が成長し大人になっていてあせるやつ」です。

そこから怒涛のように「大人になる(現実を見る)ちゅうこと」をトウジが嫌味や叱責を一切含むことなくシンジに話します。

 

このシーンで「庵野さんほんまにエヴァを終わらせにきてる」と思いました。

と同時にそういった「大人になる」ことから逃げた人が行き着いた先が、これまでのエヴァシリーズやアニメ文化があると思っているので(偏見)、「いい加減卒業しろよ」と庵野さん本人がファンに語りかけているこの構図は、賛否両論を産むのではないかと思いました。

 

 

 

線路 電線 妊娠

トウジがシンジに話すシーンでは二人が村を長尺で歩きます。

そのシーンで電線や線路のカットが多く差し込まれます。

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その線路や電線の意味を考えてみたとき「知らない人にインフラや愛みたいなものを橋渡しする」ということだと思い至りました。

トウジ(庵野さん)は「人は、生物は、自分より下の世代がこの世界をちゃんと生きていけるために、世界をより良い状態にしてそれを保たねばならない」ということを言いたいのだと思います。

 

シンジが着る服も、トウジがクラスメイトだった当時に着ていた上着ですよね。

「お下がり」も下の世代への橋渡しです。

 

村に帰った際、妊婦さんに話しかけられたトウジは「もうすぐお産やから無理したらあかんで」と妊婦さんへ言います。

トウジ自身にも子どもを授かっており、列車の下をねぐらにしている猫さんも妊娠しています。おたまじゃくしが田んぼを泳ぐシーンも次の世代ということですよね。

綾波は村のおばさま方と田植えをしますが、田植えも子を生かすために育む行為で、田植えをすることによって生態系にも影響が生じます。

 

妊娠していた猫さんはちゃんとお産を終え、母子でスクリーンを横切るシーンが描かれます。

庵野さんは「今なお自分が生きている、生かされているということは、これまで自分がその愛を享受していたようにの世代、孫の世代にも自分の愛を教授していくのが定められているからじゃないか?」と言いたいのだとわたしは感じました。

 

しかし、「エヴァは傷ついた自分に寄り添ってくれる作品だ」と思っている人からすれば、『見たくなかった部分』を強制的に見せられた。しかも好きだった人に。となって荒れたりすんじゃねえかなぁ…。と思ったりします。

 

そういえばミサトさんと加持さんの子ども(加持リョウジくん)がミサトさんに贈る「すいか(Watermelon)」も『次の世代(種)を内包した実(自分)』ですね。

 

 

 

エリザベスカラー

シンジが村へ着いた時にトウジと一緒に現れるゴールデンレトリバー

その子がエリザベスカラーを着けています。

エリザベスカラーは犬猫が怪我をしたり手術をした際に、患部を舐めて治癒の妨げにならないようにする為に装着するものです。

 

シンジが村を去る決断をする時には、ゴールデンのエリザベスカラーは外れています。

これはシンジ自身の心の傷が癒えたということの示唆でしょう。

 

 

 

オトナ帝国 スパイダーバース ミュウツーの逆襲

戦闘などのアクションシーンはあまり興味がないので端折りますね。

あの大軍感に『崖の上のポニョ』を思い出しました。

 

艦隊戦時に並べるゲンドウの御託に対し「エゴかよ!」とピンク髪の女の子(北上ミドリ)が毒づきますね。

わたしは『オトナ帝国』のケンや『スパイダーバース』のキングピン、『ミュウツーの逆襲』のミュウツーを造った科學者を思い出しました。

 

碇ユイという最愛の人を失い、立ち直れなかったゲンドウは人類補完計画というプロジェクトを用いることによってユイと再会しようとする。たとえ世界が崩壊しても。

 

スパイダーバースのキングピンですね〜。

 

ゲンドウと話をしようとシンジは攻撃をしかけますが、太刀打ちできません。

そんなシンジに対し「まだ力でどうにかしようというのか。それだからまだ子どもなんだ。シンジ」と言いますが、これは「投影性同一視」でしょうね。

 

自分と同じ部分が相手にもあるが、それを責めることにより自分は(責めている立場なので)相手よりも優れていると思い込もうとする心理効果。

またその逆もあり、自分と同じ部分を持っている相手を擁護することにより、自分を護ろうとする行動。

 

ゲンドウはシンジに若い頃の自分や、今もある認めたくない部分を見つけてしまうから、シンジを遠ざけていた。シンジから避けていた。

はたしてどちらの方が子どもなのでしょうか。まぁシンジも同じ穴の狢ですし、そんな関係性どこの家庭でも友人関係でもあるんでしょうけどね。

 

「武力じゃだめだ」と氣付いたシンジは、槍を置いてゲンドウと対話することを選びます。

結局話し合いをしない限り解決はありえませんよね。

「話し合いをしても解決しない」可能性はあるにせよ、話し合いをせずに頭ごなしに言い聞かせようとしてもしっかりと相手の心へ透過させることは不可能だと思います。

力任せで言い聞かせようとしても、相手の心は硬化していくだけです。

 

 

ここからゲンドウの回想が始まります。

「親戚同士で集まった時に繰り広げられる、興味もない近況報告を聞かなきゃいけないことの苦痛」とか「他人の声に自分の心を害されたくない。無駄にかき回されたくなかったからイヤホンをつけて外界との関係を断った」であるとか。観ていてわたしも耳が痛かったです(特に後者)。

 

「でもユイという自分の全てを受け入れてくれる人と出会った。その人がいればイヤホンも必要じゃなくなった。しかし、ユイが他界して自分のなかの均衡が崩れ去った。彼女なしでは生きていけなくなっていた。もう一度会いたい。だから人類補完計画を立ちあげた」

 

たぶん「はーーーー自分勝手」と思う人が多いと思うんですが、これまで自分のトラウマや暗部と向き合うことから避けてきたゲンドウがここまで自分の過去と心と正面から向き合ったことが大事なんですよね。

みんな自分が「まだまだ幼くて尻の青い子ども」だなんて自覚したくないですし、それが図星だとより自覚したくないでしょう。臭いものには蓋をしたがるもんです。

 

でも見ないふり知らんぷりをしていても心に受けた傷は治りません。

 

しかし、シンジが父親のことを知ろうとしたことで、ゲンドウ自身が自心のケアを行った。

やっぱり「あの時にこうしてほしかった」や、「あの時自分はこう思ったんだ」などといった自分の感情と向き合うのは大切ですよ。

 

ゲンドウは「親戚の興味のない近況報告を聞くのが嫌。無駄やん」と思っていたが、シンジは(親戚ではないですが)トウジの近況報告やこれまでの生活がどうだったかを聞いています。

父と同じ傷を受け、拗ねてたけど、それを乗り越えたシンジが父の傷を癒す。

 

結局のところ毒親問題』ですよね。

 

しかし、この作品はすごいのは「親を絶対の悪。根源の存在と書いていない」ところです。

おそらくこれまでの作品では絶対悪的に描いていたんじゃないでしょうか。「父さんが僕の話を聞いてくれない。だから父さんがみんな悪い」といったように。

 

鬼滅評でも話したように「悪役にも悪役になるプロセスがあった」ことをエヴァでも描いている。

floodinhead.hatenablog.com

 

「Give and Take」という言葉がありますが、最初に『与える(Give)』があり、そのあとに『受け取る(Take)』があります。

「自分の話を聞いてほしいんなら、まず相手の話を聞く姿勢になんなさい」っちゅうことなんですが、親よりある部分で大人になったシンジがゲンドウの話を聞くことにより、ゲンドウのトラウマが癒され囚われ続けていた過去からの責苦から解放されます(電車から降りた)。

 

毒親問題は多分双方が話を聞く姿勢になっていないのが大きいんじゃないかと思っています。

「親があの時にあんなことを言わなければ自分はいま苦しんでいない」と相手のせいにするけど、相手がそんな接し方をした理由は考えたかい?実際に聞いたかい?

その親も過去に似た経験をして、自分と同じように嫌な思いをしたけど、それが強烈に澱として溜まっていて無意識に出てしまった(我々の脳は「あんな人にはなりたくない」 の"なりたくない"は認識できず、"あんな人"しか記憶しないそうです。だから無意識的に自分がなりたくなかったような人間になっていたりする。脳ってアホですね)。とは思い至らないかい?

実際、わたしはそこに思い至っていなかったのでなかなか苦しみました。

 

ゲンドウを癒したシンジは、父が引き起こした事態の責任を取るために身を以て償おうとします。

「これでシンジくんが身代わりになんのかなあ…。ほんまにそんな終わり方なのはちょっとなあ〜…」と思っていたのですが、あと少しのところでユイ(綾波っぽかったけど、わたしにはユイに見えました)がシンジを助け、ゲンドウの罪さえも一身に背負います。

 

もう号泣でした。おそらく嗚咽が出ていたと思います。

子が父を癒し、親の責任を子が引き受け代償となろうとする。それを母が全てを引き受ける。

これによってユイがゲンドウを癒したことにもなります。

 

 

 

過去の上に立っている

槍で13号機を刺す時に過去に登場したエヴァも順番に貫きます。

また、マリが生還した時にも「ありがとう。エヴァ8号機+9号機+10号機+11号機+12号機+8改(うろ覚え)」と言いますよね。

 

シンジがミサトさんに「加持さんの畑で嗅いだ土の匂いがした」とも言います。

 

それは「自分が今生きているのは犠牲があるからだ」と庵野さんが伝えたいのだと思いました。

マリも敵のエヴァを喰わなければやられていましたし、土も色々な植物や虫やバクテリアが死んで生まれたものです。その土があるから、我々が日々食べることができているし、呼吸もできている。

 

生も死も記号化されて久しいですが、死に対して実感が湧きづらいため、自傷行為を行ってしまう人が出てしまったり、「この世は自分が一番だ」なんてバカな勘違いをする輩も生まれる。

生の重さも死の重さも実感していないから無差別殺人も起きる。

 

屠殺映像がスーパーの生肉鮮魚売り場で流れていたら、「食べきれないから捨てる」などといったような命を軽視した行為は絶対にできないと思います。

 

正直過去のエヴァを順番に貫くシーンはくどいなと思いましたが、あれは必要なくどさですよね。

 

 

 

小ネタ

ゲンドウが話していた「人類補完計画の概要」はもうまんまVR移住や、内閣府が打ち出している「ムーンショット計画」ですね。

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https://www8.cao.go.jp/cstp/moonshot/index.html

 

L結界外の「首なしエヴァ」は『進撃の巨人』などでも言われているように大型の自然災害のメタファーでしょう。

 

加持リョウジくんが作業していた場所がセフィロトの樹だったり、フィボナッチ数列が多用されていたり、螺旋だったり、六角形だったり、相変わらずスノッブ効かせますね庵野さん。

 

 

 

大団円

すべてにケリがついて、駅のホームにあるベンチに座るシンジ。

そこにマリがやってきますが、そのマリに対しシンジが「行こう!」と言います。

これまで「いじけて立ち止まっていてもなんも変わらんやろ」や「歩け!進め!」と言われ続け、お尻を叩かれ続けていたシンジが自ら人の手を取ります。

よかったです。

 

テレビシリーズの各話タイトルレイアウトが、市川崑監督の『金田一耕助シリーズ』のオマージュなのは有名な話ですが、このシンジが人の手を取るシーンは原作の横溝版『金田一耕助シリーズ』の大団円を思い出しました(市川崑金田一を観たことがない)。

 

 

 

庵野さん、おめでとう

色々な方が指摘されているでしょうが、エヴァに登場する各キャラクターは庵野さん自身のレイヤー的人格(感情)を、一人の個人に独立させたものでしょうね。

 

弱気なメイン感情(シンジ)と、そんな弱気な自分を叱責するサブ感情(アスカ)、虚無なサブ人格(レイ)。

テレビ版が始まるまではその三人だけだったけど、庵野さん自身が成長するに連れて周りに対して飄々と接する術を身につけた。その人格がマリとなって登場した。

『新劇・破』だけの登場ではなく以降の作品にも登場しているのは、マリ自身が庵野さんの心に生まれた処世術だったから、完結まで登場した。

 

そうなると、アスカがシンジに対して言った「そうやって心を閉じて、誰も見ない。こいつの常套手段でしょ」というのも(耳が痛い)、「どうせやる事なす事裏目に出て、取り返しがつかなくなって、全部自分のせいだからもう何もしたくないってだけでしょ」というのも(耳が痛い)、庵野さんが自身を叱責する心の声なのでしょう。

なので、「いいから、やってから云え」というのも"やる前から自分の都合のいいように妄想して、やらない理由を探すな。文句や愚痴はやってから云え。文句なんてものはやったやつだけが言える特権だ"という事なのではないかなと思います。

 

 

 シンジが「もう誰も来ないでよ!僕なんか放っておいて欲しいのに!」と言いますが、これも「全てを肯定して欲しい」ということの現れでしょう。

エヴァに乗って活躍したけど、存在を肯定してくれない。

それは自分が未熟だからだ。でも未熟だということは肯定してくれない。

ダメな自分は放っておかれるべき存在だ(放っておいて欲しい)。でもみんな放ってくれない(放っておかれるべき存在という自分の望みを肯定してくれない)。

 

「ポジティヴもネガティヴも全部受け止めて肯定してよ!傷つきたいって思ってるんだから遠慮なく傷つけてよ!」となんて思っていたら、そりゃあ「ガキ」とも言われますよね〜。

身に覚えがありまくるし、非常に耳に痛いです。

 

 

シンジが泊まっているケンスケの家へ綾波が訪ねて来てアスカと話すシーンがありますが、レイに対してアスカが言う「ここは私が居るところじゃない。守るところよ」というセリフは、庵野さんが株式会社カラーに対して抱いている(変化した?)想いなのではないかと感じました。

あの村自体が株式会社カラーを示唆していて、村を構成している「顔も知らなかった人同士の寄せ集め」が会社を形作り血を循環させていて、村人(社員)一人々々に各々の家庭が存在している。

それを「自分の居場所」だと思っていたけど、「自分が守らなければいけない場所」だと氣付いた。

 

ラスト前のアスカが自身の過去を振り返るシーンでも、「親もおらず、誰も成果を褒めてくれない。だからエヴァに乗って成果を上げ続けるしかなかった。そうすれば大人は褒めてくれるから」とありますが、あれも庵野さんがアニメ監督として仕事をする時に『視聴率』や『映像ソフトやグッズがいくら売れたか』で評価されるので、それに対してのある種のストイックさがアスカとなって生まれたのではないでしょうか。

おそらく『トップをねらえ!』や『ふしぎの海のナディア』を担当していた当時に、そういった「数字の世界」に苦しんだのでしょう。

 

アスカが自身の感情と向き合った上で、「ホントはただ、頭をを撫でて欲しかっただけなの」と自分の弱い部分を受け入れます。

これは所謂インナーチャイルドを癒したということですね。インナーチャイルドはそれ自体を自覚するのが一番大事ですから。

あのシーンのアスカにカタルシスを感じた人は多いんじゃないでしょうか。

 

戦後の學校教育、バブル後の弱肉強食思想がより顕著になった日本では「勝てばよかろう」が行き過ぎて、個人のトラウマに蓋をして癒さないまま成長した人が多くなり過ぎた。

だから、そのトラウマが原因で、新しいトラウマを別の誰か(自身の子どもなど)に産み付けている現状が多くあると感じています。

実際、ゲンドウのトラウマを癒さなかったからシンジが苦しみました。

 

「この飲用精製水だって誰のおしっこから濾過されたものかわかんないってのに。今現在が綺麗だからってそれで全部解決なわけないでしょ」とピンク髪の北上ミドリは苦言を呈します。

今現在が順風満帆で全く問題が無いように見えていても、実は心に深い傷がつけられた過去があってトラウマに溢れている可能性も大いにあるというわけです。

 

 

そんな散り散りに分裂した自己が、解消してシンジ(庵野さん)という一人の自己の中に治った。

 

会社用の顔と、恋人用の顔と、家族用の顔と、學校用の顔と、友人用の顔。それを使い分けるのが暗黙の了解的に奨励されてきたこれまでの時代、それによって生きにくさを感じていた人は多かったはずです。

人の感情なんて多面的にあるのが普通なはずなのに、ちょっと違う面を見せたら「二面性がある」だなんて避難されかねない時代ですからね。

 

そういう個人の多面性が分裂して生まれた『エヴァンゲリオン』という作品で、作品内のキャラクターが自身を癒し解放し、元ネタとなった庵野さんの元へ戻って一緒になった。

映画を見終わった時に「庵野さんの中で色々な問題に折り合いがついたんだな」と思いました。

お辛い経験を沢山されたと思いますが、ケリがついてよかったですね。とても嬉しいです。おめでとう。

 

劇中で語られる「ファーストインパクト」や「セカンドインパクト」などは、庵野さんが過去に経験した衝撃的なトラウマとかそんな感じかなと邪推しますが、そこまで突っ込むのも野暮ですね。

こんなに長々と書いといて野暮のくそもありゃしませんですが 笑

 

 

 

総評

以上のことを鑑みて、やっぱりわたしとしては「賛否両論ありそうだなぁ…」と思いました。

「諸問題がうまく解決しなかったからエヴァにたどり着いたんだよ!」という方もいらっしゃいますでしょうしね。

 

ですが、わたし個人としては全く無問題です。

むしろすごくいい映画だと思います。

 

というより、庵野さん本人が回復して立ち直ったのにケチなんかつけられるかい!お祝いじゃ!お祭りじゃ!わっしょいわっしょい!という感慨です。

 

しかし、これだけ心のしこりが解消した大団円を見せられたので、「えっ…もしかして引退とかすんの…?」と思ったのですが、2023年に公開される『シン・仮面ライダー』で監督をされるそうなので、一安心でしょうか。

 

 

あ、シンジがカヲルに「涙は自分しか慰めないんだ、だからもう泣くのはやめた」と話しますが、本当に良い台詞だと思いました。

あの言葉だけでこの作品を観る意味はあると思います。

 

庵野さんが立ち直ることができたようで、本当に本当に嬉しく思います。

さようなら、全てのエヴァンゲリオン

 

 

P.S. 新劇版の主題歌が全て宇多田ヒカルさんですが、宇多田ヒカルさんはお母様の藤圭子さんとの繋がりがとても強かった様ですので、それも庵野さんがエヴァの世界観との親和性が高いと考えての起用だったのでしょうかね。

エンドロール中にそんなことを考えていました。

 

 

 

委員長が話していた「人生で今が一番若い時だし。今をしっかり生きたいの」というセリフを入場特典で見て「Reolさんか?」と思いました( ¨̮ )

youtu.be

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

言葉は看板

 

ご無沙汰しております。

本日も閲覧ありがとうございます。

 

今回は新書的な書き方をしてみました。

「タイトルに結論を書いて、内容でタイトルの意味を説明していく」というやり方です。

お付き合いいただけると幸いです( ¨̮ )

 

 

 

 

 

言葉は看板

 

最近しみじみと「言葉は看板だな」と感じました。

とてもお腹が空いていて、今にも倒れそうだという人がいた場合、レストランを前にしている状況なのにわざわざ車屋さんに行ったりはしないはずです。

 

お腹が空いていて、ファストフードのお店と割烹料理屋さんが目の前にあった場合、ファストフードが大好きな人は割烹料理のお店には入らないはずです。

 

なにが言いたいかというと、人は自分が所属しているグループに帰属するものだということです。

 

本屋さんが好きで喫茶店などでゆっくり本を読むのが好きな人は、パチンコなどの騒々しい場所には行かないでしょうし、クラブが好きな「チャラい」と形容されるような人は茶道や瞑想などの静かな活動はしないはずです。

 

 

先述のご飯屋さんの話でも、ファストフードや割烹料理、イタリアンや中華料理なども看板ありきで「そのお店がどういった料理を提供しているか」を、利用する側のわたしたちは判断します。

 

はじめに看板があった ですね。

 

ご飯屋さんだけでなく、人は様々なお店も看板を見て判断します。

「『〇〇 CLOTHING』と書いてあるからアパレル関係であろう」であるとか、「『〇〇diner』と書いてあるから食事処であろう。しかもアメリカのイメージがある料理がでてくるのであろうな」と判断します。

むしろ、消費者として活動するにおいては看板だけから判断しなければならず、わかりにくい場合は文句すら言いかねない始末です。

 

 

さて、一方人はどうでしょうか?

人は言語というトリックを覚えた結果、感情表現も自分の考えを伝える場合も言語を利用しています。

その言語があるから「その人はどういうことを考えており、基本理念がどこにあるのか。なにを大事にしているのか」をうかがい知ることができます。

 

その「話す言葉に同調して」人は集まります。

前述の話と同じで、本が好きな人には同じく本が好きな人が集まりますし、ギャンブルが好きな人はギャンブル好きが集まりますし、クラブが好きな人は同じような人同士で集まります。

同じコミュニティに属しているから話す言葉も似通ってきます。

 

スラングミームが多くあるコミュニティでは、いかに共通のスラングを多く使うかで、そのコミュニティでうまく立ち回れるかどうかが変わると思っています。

今のスラングでいうと「エモい」や「ぴえん」といったものがそうだと思います。

 

そういった特定の場でしか伝わらない言葉をいかに流暢に使えるかでグループの中での過ごし方が変化する。

 

しかし、そういったスラングや「すぐに略する文化(タピるなど)」に対して強い拒否感を持つわたしとしては、スラングばかりの文章を見ると非常に莫迦っぽく見えてしまいます。口汚く形容すると「知能が低そうな文章だな」と思います。

 

そういう方々とは最初から話が合わないんだろうな、と思ってしまうのでわたしは初めから近づかないのですが、これは言葉が看板になっているということなのではないでしょうか?

 

 

御誂え向きな言葉

 

「言葉は看板」という主張で御誂え向きな言葉があります。

『男性の同性愛者に対して使う"ホモ"という言葉』です。

大前提、認知をしていない人が多いようなのですが、男性の同性愛者へ対して使う「ホモ」というのは蔑称です。

ゲイという推奨されている呼称があります。

 

英語で異性愛は『ヘテロセクシャル(heterosexual)』、同性愛は『ホモセクシャル(homosexual)』というので「ただ同性愛の英語を使ってるだけだっつーの 笑」と詭弁を展開する方も多いかもしれません。

だったらレズビアンの方に対しても"ホモ"と言えよ。

 

レズビアンの方に対してはレズビアンというのに、ゲイの方に対してだけ"ホモ"という言葉を使うのは他意が含まれていると思われても仕方ないのではないでしょうか?

 

 

他にもインターネット(2ch)のスラングが多いですが、『老害』や『アスペ』、『ガイジ』なんてのもあります。

老害』は言い得て妙だなと感じる部分は多いですが、実生活で使うのとは別の話です。

『ガイジ』は「障害児」を揶揄し侮った蔑称です。

この言葉に関しては言語道断で、実生活はおろかネットの世界でも使うべきではないとわたしは強く思います。

あまりに相手や、相手以外の人を軽視しすぎている。

 

「ホモ」や「老害」、「ガイジ」を日常会話で用いている方と先の人生も共にしたいでしょうか?

わたしの場合は絶対に嫌です。

 

 

言葉も積もる

 

 

言葉は看板だと話してきましたが、と同時に「塵も積もれば山となる」的な側面もあるなと感じます。

 

黒人(アフリカンアメリカン)の友人がいたとして、その友人へ「クロンボ」や「ニグロ」という言葉を愛称として使っていた(どちらの呼び方も蔑称ですので絶対に使ってはいけません)。

そんな関係がある程度続いた頃に「ちょっとこの用事済ましといて(ちょっと手が離せないから申し訳ないけどお願いできないかな、という前置きなしで)」と、ふと頼んだことがきっかけで、黒人の友人が「いつもニグロとか言ってくるけど、お前人のこと使用人か奴隷とでも思ってんのか」と激怒されることがあるかもしれません。

 

愛称として言っていた側は愛称のつもりでも、言われている側は必ずしも好意的に取るわけではない、という例えですが、これも言葉が引き起こした結果です。

 

差別意識が含まれた言葉」を日常的に使う人は、人間関係で常に「この人とは関係を考え直した方がいいかもしれないポイント」を自ら貯めていて、それが臨界点に達した人は何も言わずそっと離れていきます

「ちょっと使う言葉を見直した方がいいんじゃないかな」なんて、よっぽどの間柄でない限り相手に提言したりしません。そっと関係を解消するんです。

 

その結果「差別意識が含まれた言葉を多用する人は、差別意識が含まれた言葉を多用する人」と集まることになりますし、「綺麗な言葉遣いを心掛けている人の周りには、綺麗な言葉遣いを心掛けている人」が集まることになります。

 

これは因果応報とも言いますし、類は友を呼ぶとも言うのでしょう。

 

この同じ人が集まるのも、その人が発した言葉が看板となり、その看板を見て同じ看板を持った人が集まったのでしょう。

 

わたしは乱暴な言葉を使う人の近くに居たいとは一切思いません。

 

 

 

話し方と使う言葉

 

 

「この前行った店で接客にきた店員が、ずっとこっちを舐めた態度とってたからマジでムカついた」

 

という文章も、話し方と使う言葉次第で、

 

「この間入ったお店で接客についてくれた店員さんが、終始こちらを侮った態度をしていて本当に不快だった」

 

と言い換えることができます。

 

どちらの方が理性的、理知的に感じますでしょうか。

前者の方が親しみやすくて好きと感じられるのならそれもいいと思います( ¨̮ )

身の振り方はご自身で決定されてください。その人の生ですからね( ¨̮ )

 

 

言葉は自分を創っていますよ( ¨̮ )

話していることはブーメランで、言葉は看板です( ¨̮ )

 

以上、自分への戒めも込めて。

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

 

 

 

youtu.be

名作たる所以

 

youtu.be

 

ご無沙汰しております。

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

近況

最近、鬼滅の刃を描いた吾峠呼世晴さんの短編集を購入しました。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

こちらの過去記事にて『吾峠さんの絵は繊細憂いがとても含まれている(優しい絵)』と評しました。

 

 そして今回短編を読んだのですが(鬼滅本編は未読)、『過狩り狩り』のタイトル明け一コマ目からびっくりするほど絵が上手い引き込まれる上手い

「おにぎりを差し出す老人の手」というコマなのですが、老人のしわがれ具合やごはん粒のふっくら具合など、とても無駄がない。のに、情報量が多くて隙がない。

 

なんというか、「ふらっと立っているだけに見えるのに、攻め込む隙が全くない武術の達人」みたいな感じです。本当に絵が上手い画集買おう。

 

そして全体的連載される前だからか話にも絵にもパワフルさやエネルギッシュな勢いみたいなものも感じます。

 

他のジャンプ作品はほとんど知らないのですが、吾峠さんの作品は「自分が知らない他人にも、ちゃんとその人の人生や生活がある」のをしっかり描いているように思いますね。

わたしの知っているジャンプ作品が偏っているので分析が間違っていることはあると思いますが、他のJ作品は「独善的」で自分を中心に世界が回っていると思いすぎている描き方をしているように感じます。

 

吾峠さんの作品は、「知らない人・町ですれ違った人にもちゃんと生活がある」ということを描いていて、その知らない人と自分が交わった時に新しいお話が紡がれていくという一期一会を描いている作家さんなのかなと感じました。

 

それと全編通して、とっても優しいですよね。

慈愛アガペーに溢れている。

『肋骨さん』とかすごく良い話です。大好き。

 

この日本にも「自分の損得ではなく、他者のことを想えるちゃんとした人間」が増えてほしいと切に思います。

 

あと思ったのですが、吾峠さんの絵はちゃんと体の肉を描いていますね。

吾峠さんしかり、『とんがり帽子のアトリエ』の白浜鴎さんしかり、『ブルーピリオド』の山口つばささんしかり、わたしは「ちゃんと体の肉を描いている絵」が好きなのかもしれません。

三者とも女性作家さん。男性作家さんは「骨と腱」を描きがちな氣がします。

 

あと吾峠さんは江戸川乱歩さん好きそうですね。

 

 

さて本題です。

最近わたしは『はてしない物語』を読みました。

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https://www.iwanami.co.jp/book/b254872.html

 

物語終盤の話ですのでネタバレ注意です

 

 

 

 

 

コレアンダーさんが主人公の少年にたいして、

絶対にファンタージエンにいけない人間もいる。

いけるけど、そのまま行ったっきりになる人もいる。

ファンタージエンに行ってまた戻ってくる人もいる。

そしてそういう人が両方の世界を健やかにするんだ。

 

ほんとうの物語は、みんなそれぞれはてしない物語なんだ。

ファンタージエン(魔法の国)への入り口はいくらでもあるんだよ。

そういう魔法の本は、もっともっとある。

それに氣づかない人が多いんだ。

つまり、そういう本を手にして読む人しだいなんだ。

 

それに、ファンタージエンにいってもどってくるのは、本だけじゃなくて、もっとほかのことでもできるんだ。

きみは、これからも何人もの人に、ファンタージエンへの道を教えてくれるような氣がするな。そうすればその人たちが、おれたちに生命の水を持ってきてくれるんだ。

 と話します。

 

 

この「ファンタージエンへの入り口がいくらでもある」というのは、おもしろく見ようっとすれば、おもしさが拓けるという「面白いこともなき世を面白く」の精神ですし、「ファンタージエンに行ってもどってくるのは、本だけじゃなく色んなことでもできる」というのは「自身の創造性を自分で狭めるな」という意味、ファンタージエンに行って戻ってきた人が、両方の世界を健やかにする」ファンタージエンに行った他の人たちが、おれたちに生命の水を持ってきてくれる」というのは、一度でもなにかに没頭した経験がある人にはその没頭を下の世代へ繋げてほしいという著者の願いを感じました。

ゲーム好きな人がゲームクリエイターとなって、新しいゲームを作り若い世代を楽しませてほしいといったような感じですね。

 

あと『モモ』の時にも触れられていた「具体性の高い"用途が決まっている"創造性を必要としない遊びばかりをしていると、抽象性の高い物事への対応力が失われ、具体性の奴隷になる危険がある」という著者エンデ氏の主張も『はてしない物語』の中に感じました。

わたし自身も、具体性の奴隷となることに対しては大変危惧を感じています。

事実、その具体性の奴隷になってから久しいと思います。

 

 

マトリックス

 

マトリックスという映画があります。

内容は

主人公のネオはコンピュータープログラマーだったけど、その世界は仮想現実で、本当はAI(機械)に人間がカプセルの中で栽培されていて人間の精神だけを仮想現実内で生かしていた。それをエネルギー源にAIは生活していた。

とまあざっくり説明するとこういった感じです。

 

「人間の精神をエネルギー源にしていた」のメカニズム?は、怒りや悲しみ、喜びといった感情は時としてとてつもないパワーを産みます。

 

「むかしバカにしてきたやつらを見返すために大成してやる」というのもエネルギーです。

「自分が悲しい経験を多くしてきたから、他の人には同じ経験をしてほしくない」というのも「好きな人(守るべき存在)がいるから過酷な仕事も頑張れる」というのもエネルギーです。

 

 聞くところによると、あらゆる感情の中で怒りから発生した原動力(エネルギー)が一番強いそうですね。

 

これを見ると感情がエネルギーとなっていることがわかりますね。

なので人間の精神を仮想現実の世界で生かし、それをエネルギー源にするということの説明はつくと思います。

 

スピリチュアルなお話になりますが、地球外の場所には感情という概念が無いそうです。

外から来たと言われている仏陀氏がアルカイックスマイル(無表情に見えるけど、笑っているようにも見える表情。モナリザの表情なども)をしているのは、感情という概念がないためだそうです。

 

そのため、シリウスであったりアルクトゥルスといった外の星の意識体は、未だ感情という原始概念が残っている地球へアトラクション感覚で転生するらしいです。

まぁカバラのセフィロトでもマルクト(地球)は物質世界とされていて、低次元すぎてセフィロトから切り離された場所らしいですし。うろ覺えですけどね( ¨̮ )

  

 

 

ちなみにマトリックスの元ネタはニューロマンサーで、ネットの空間に意識を潜らせることを「マトリックス」と言っています。ニューロマンサーは一回だけ読みましたが、何度も読まないと一切理解できない作品なので、もし読もうと思われた方は覺悟してくださいね( ¨̮ )

 

 

物語内のある生物がこう言います。

「世界中の物語は、とどのつまり、アルファベット二十六文字でできている。一時一時は同じで組み合わせだけが変わるんだ」

 

これを読んだ時に思いました。

これってPC上で行うプログラミングと同じで、これは現実ともリンクしているのではないか?

 

アルファベット二十六文字を情報(DNA)と過程して、テーブルや椅子に使われている木材も「欅」や「オーク」のような『名前という識別番号が付いた情報』の集合体。

コップも、電子機器も、水も、肉体などの有機物も、情報の集合体。

万物は素粒子の集合体だと言われていたりもします。一切皆空の世界ですね。

 

つまりなにが言いたいかというと、超ざっくりとした意訳ですが「この世界はマトリックスの世界」ということです。

『シミュレーション仮説』や『水槽の脳』ってことですね。

 

 

以前ある人が「小説も読んだら作品の世界へトリップできるから、ある意味VR空間じゃないか」と話しており、その視点にわたしは「なるほど」と思いました。

 

夏目漱石氏の作品が、やたらとその頃に流行った食べ物や場所が子細に書かれていたり風景描写が細かいのは、その当時は今のように自由な行き来ができず、また旅行自体がかなりの贅沢だったから、旅行に行けない人が特定の場所に行ったと想像できるようにという紀行文の意味合いがあったそうです。

 

 

この世は情報に溢れています。髪の毛一本ですら遺伝情報の塊です。

情報の塊である肉体が思考という情報の攪拌を行い、情報の塊であるPCというデバイスを使って他の情報の塊へ、個人の知見としてアクセスを試みている。

これはこの『現実』だと言われている空間が、一般的にはPC内だけだと規定されているヴァーチャル空間内であるとは言えないでしょうか?

 

脳というのは、電氣信号を送受信するコンピュータみたいなものだとの見識もありますしね。

 

 

とすればどうなるか。

AIである我ら生物が思考すれば、その思考が現実化する道が開くのではないか?

 

 

映画『トゥルーマン・ショー』のように我ら愚かな人間が行う日々の生活が、娯楽として消費されているかもしれませんね。

 

現代で「神」と呼ばれている存在が、それぞれ水槽に個人的な宇宙を作っていて、その宇宙の中でわたし達が生きているのかもしれませんね。

 

その「神」たちが飼っている宇宙の一つ一つがパラレルワールドとして相互に干渉しあっているのかもしれませんね。

 

 

今氣付いたんですけど、ネオは本職がプログラマーだったから自身のプログラムを書き換えることができて、マトリックス外に出ることができたんですかね。 

 

 

 

星新一さんのショートショート

 

星新一さんのショートショート作品で「理由はわからないけど、ロケットを作り続けるロボット」の話があります。

 

「理由はまったくわからないが、おれたちはロケットを作らなければいけないと思っている。まるでそれが本能として定められているかのように」と作品内のロボットは語る。

そしてロケットは完成し、本能が望むまま、とある惑星に向けて飛び立つ。

ロケットは着陸の衝撃で大破し、登場していたロボットもボロボロになりながら辺りを見回すと、綺麗な服を来た人間が声をあげた。

「さぁ帰ってきた帰ってきた!一番最初に帰ってきたのはM123Δのロケット!配当は50倍!」

 

 

ロボットが感じていた本能はプログラムされたもので、賭博という娯楽として消費される物でしかなかったのです。

 

わたしのような奇態な人間が世の真理みたいなものに興味があるのも、プログラムされたものかもしれませんし、三大欲求のような「本能」も、それをしている時の脳の活動を研究するために「神」とよばれる存在が、地球の生物に組み込んだプログラムかもしれません( ¨̮ )

 

 

言靈の話の時に「昔からある言葉が現在でも使われるのは、その言葉がある種の真理に触れている為ではないか」書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

ずっと名作と言われている小説や映画も、その「ある種の真理に触れているため」人々の心を動かす力を持っているのだと思います。

 

そんなこと言っても、學ぼうと思えばなにからでも學ぶことはできますけどね。

湯氣が立つマグカップを見て、湯氣の昇り方から螺旋と回転の不思議に氣がつくこともありますからね。

勉強=學校・一方的に教えてもらうもの と考えていては一生學ぶことはできませんよ、というお話ですね。

 

 

わたしの話は真に受けないが吉かもしれませんね( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

勉強は癌宣告だ

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

最近養老孟司さんの『バカの壁』を読みました。

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https://www.shinchosha.co.jp/book/610003/

 

平成で一番売れた新書らしいのですが、読んでみればさすがという感想でした。

 

その作中にて養老さんが「勉強をする意味・"知る"ということの意味」を『癌宣告』と形容していたので、それをタイトルに使用させていただきました。

 

 

☝︎本題☝︎

 

最近『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展』へ行ってきました。

作品紹介 - 【公式】ロンドン・ナショナル・ギャラリー展

(未来になってリンクが切れていたらすみません)

 

 

その時に展示作品を見た感想や考察を今回記そうと思います。

 

そんな考察もブルーピリオドからの受け売りの面がとても強いです。ブルーピリオド読んでなかったら油絵や絵画の楽しみ方も知らなかったでしょうね。損をしていたと思います。

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https://afternoon.kodansha.co.jp/c/blueperiod.html

☝︎1話が読めるので読んでみてくださいね☝︎

 

そんなブルーピリオドを読んでいたので絵画の構図に目が行って、それを描いた画家の意図を鑑みることができました。ブルーピリオドさまさま。

知るということは癌宣告です。

 

まず西洋絵画の構図には、大きく見て○□△XSという5つの幾何学形態で分類できるそうです(受け売り)。

とりあえずそれだけ頭に置いておいてください。

 

 

※ あくまでわたしの主観で、独特な考察です

 

 

サンドロ・ボッティチェリ「聖ゼノビウス伝より初期の四場面」

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この作品は「『キリスト教に入るから結婚できなくなることを許嫁に告げ(左側)、宗教の世界に入っていく様(右側)』という場面を描いている」と展示場の解説には書いていました。

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構図のお話です。構図の解説は完全に手描きなので見にくかったらすみません。

 

構図で見れば□の構図ですね。

左から右へ時間が流れているわけですが、開けている屋外(自由な身)から左側の屋内に入ることで宗教というもの狭苦しさ、そして右半分の建物も3本の柱によって分割されています。その均一な分割が宗教に所属するにおいての戒律や規則の厳しさを表現しているのだと思いました。

 

ジョヴァンニ・ジローラモ・サヴォルト「マグダラのマリア

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すごかった。

思わず唖然呆然として立ち止まってしまいました。とても引き込まれる絵でした。

目を惹く絵なんだけど、なににそんなに惹かれるのかがわからない。不思議な絵。

絵に吸い込まれるが、吸い込みきらない。とても静かな優しさが滲んでいた作品でした。以前、弥勒菩薩に会いに京都の広隆寺へ行ったことがあるのですが、そこにいらした弥勒さんと似た雰囲氣を感じました。

なんでだろう?中央のマリアと背景とのトーンの明暗か?

 

正直画像なんかではこの「マグダラのマリア」の良さは3割も伝わりません。

本物はもっと暗いですしね。暗いからこそ作品が持っている深い静かな優しさや、滋味のようなもの、369的な空氣を感じるんですね。あとマリアが着ている銀マントの質感が凄かった、本物の布なんじゃねえかって思うくらいリアルでした。

なんでポストカードで売られてないんだよ!

絵に恋するってこういう感覚なのでしょうか。

なんでポストカードになってないんだよ!

 

カナレット「ヴェネツィア:大運河のレガッタ

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Xの構図で描くかれていて、線遠近法(受け売り)が用いられているので奥の方にも目が行く。視線誘導が知らないうちに発動しています。多数の船が浮かぶ運河にも△の構図が用いられていますね。
この場合は△構図の中にXの線遠近法が用いられていると評する方があっているのか?

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また、上の画像のように斜めに明暗を分けることで、表現をメリハリのついたインパクトのあるものにしている。

 

フランチェスコ・グアルディ「ヴェネツィアサン・マルコ広場

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これもXの構図なのですが、Xの線が交差する中央の部分を抜くことで、中央に目を向けるようにしている。形容するならば、漫画表現の集中線みたいな感じじゃないでしょうか。

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あと、「ヴェネツィアサン・マルコ広場(1760年頃)」は「ヴェネツィア:大運河のレガッタ(1735年頃)」よりも後の時代に描かれています。

カナレットが描いた作品へに対して、似た構図で描くというグアルディのリスペクトみたいなものが垣間見えてなんか良いですね。

 

エル・グレコ「神殿から商人を追い払うキリスト」

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一目で「良い絵だなぁ」と思いました。

中央にいるイエスが着ているビロードっぽい服の艶と、紫色という色の持つや神秘性や神聖さがキリストという人物の特別性や神々しさを表現していると感じました。

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構図は□ですね。

左に商人、右に修道士?がいますが、左右で人の服の光り方が違っていたんですよね。どうしてああいう芸当ができるんだろうか。すごいなぁ。西洋絵画についても勉強したい限りですね。

中央にイエスがいるわけですが、イエス自身がイスカリオテのユダに売られたから商人を追い払っているのでしょうか?

 

アンリ・ファンタン=ラトゥール「ばらの籠」

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最高!瑞々しい!生き生きとしている!

香りはほのかに、主張は控えているが、しかししっかりと上品に香り鼻をくすぐってくるかのような美しさがありました。

なんでポストカードで売られてないんだよ!

 

ポール・ゴーギャン「花瓶の花」

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サマセット・モーム著の『月と六ペンス』に登場する画家・ストリックランドのモデルと言われているゴーギャンですね。

 

展示の解説には「夢と現の境目が曖昧で全て夢なんじゃないかと思わされる」と描かれていましたが(うろ覚えのためニュアンス)、わたしには、この作品はゴーギャン自身の生への執着に見えました。

ゴーギャン1903年没で、この作品が1896年の作品です。

暖色の花は生を、寒色の花は死を、花瓶は自身の肉体を。そう表現しているように見えました。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ「ひまわり(4作目)」

 

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 ゴッホは芸術家の共同体を作りたかったみたいですね。それに賛同したのがゴーギャンゴッホは好きですが、わたしはその歴史は存じませんでした。星月夜が好きです。

 

今回日本に来ていたのが、ゴッホが7枚描いた内の4作目だそうで、日本初公開だったようです。

ゴッホのひまわりは実は7作品あるって知ってる? | MUTERIUM

 

その共同体としてのひまわりなんでしょうね。

展示されていた解説には「ゴッホ自身が氣に入った3作目・4作目をゴーギャンへ送った」と書かれていました。

しかしその後に例の「耳切り事件」があったため、ゴーギャンとの親交も断たれた。その事件は5作目を描く直前に起こったそうです。

 

ゴッホが描いた「ひまわり」の作品群を見ると、同じ絵を新しく描き直しているのが分かります。

ここから、ゴッホ自身が共同体に対して相当な憧れがあったんだろうなと思いました。

共同体を夢見た1作目と2作目。

ゴーギャンから前向きな反応があったことにより、氣分が上向いていた3作目と4作目。

画家たちの共同体という夢が文字通り"幻想"となってしまった後の5,6,7作目。

4,5,6作目が同じ作品の描き直しだというのが、ゴッホ自身の後悔の表れを物語っています。7作目も3作目の描き直しですしね。

「芸術家たちの共同体をつくるという憧れ」を抱いていた頃を思い出すための逃避行為としても、「共同体を作れなかった。その結果を招いたのは自分である」という後悔から来る自傷行為としても、わたしには見えます。

「ひまわり」は絵が泣いているように見えました。

 

「ひまわり」を何度も描く、という行為は『重力ピエロ』で春がノートに何度も同じことを描いていたのと同じ意味合いに思います。一種の祈り(安らかな方ではなく苦しい方の祈り)みたいな意味ですね。

 
ゴッホについて

 

2020年にゴッホ展へ行った時に感じたのですが、ゴッホという人はおそらく「絵を描いている時だけは生の苦しみから解放されていた人」なのだろうと思います。

絵を描いていない98%の日常は地獄の責め苦に苛まれているが、2%の芸術活動中だけは生きているように思える。

おそらく意識のどこかが人ならざる域まで触れている人なのでしょう。

ある種、神の域まで到達していた人。だから他の人とは上手く付き合うことができないし、結果孤立する。

ゴッホが生きていた頃は、今みたいにイヤホンで人の話し声を遮ったりできませんから、その声を聴きたくないために耳を切ったんじゃないかなと思います。

彼の絵は見ていると悲しくなります。

 

「絵という世界の中にだけ救いを見出していた人」

 

彼が自死を選んでから120年が経っていますが、どうか成仏して安らかに過ごしていてほしい。

意訳っぽい解釈かもしれませんが、太宰治氏と似た人なんじゃないかなと思います。

 

彼やゴッホ展についてもまた記事を書きますね。

 

 

 

以上!ロンドン・ナショナル・ギャラリー展の感想でした!

 

ここまで読まれた方にはお分かりでしょうが、わたしは美術史や作品の経緯なんてものは全然知りません。芸術の上澄みだけ掬ったような人間です。なので、全く的外れなことを考察していても許してね😘

 

実際、芸術は確かに好きですが、元来わたしは音楽畑の人間なので画家の名前なども一般的に有名な方しか存じませんでした。ゴッホフェルメールピカソミュシャ、モネなどなど。でも、それって勉強して楽しむ伸びしろがあるってことじゃんね。

積極的に癌宣告していくぞー。

 

 

 

最後に

 

絵画は実物を見ないといけないと思います。

実物には念というか、作家のパワーが宿っているように思います。

画像や印刷と実物では色の見え方が全く違いますし、いざ目の前に対峙した時に圧倒されたりしますよ。

芸術は是非実物と相対して、目の前の作品と、そしてその作品を見た時の自分と、会話をしてみてください♪

 

 

 

著作権を侵害している場合はお伝えください。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

相手を通して自分を見る。

 

本日も閲覧いただきありがとうございます。

 

今回は以前に書いたこちらの記事で、「また別の機会に書く」と話していたことを記そうと思います。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

以下、このエピソードはわたしが体験したノンフィクションですが、実在する人物・団体等とは一切関係ありません。

 

 

 

以前、わたしは『こうもり』という先輩バンドのローディー(手伝い)をしておりました。

わたしはその当時、こうもりでボーカルを務めていた言さんと仲良くさせていただいていました。

その言さんがわたしのバンドを見にきてくれたことがあり、バンドの演奏後に言さんが、わたしのバンドで当時ボーカルを務めていた真さんに対して「彼は20人そこそこの動員(固定のお客さん)で満足するタイプだと思う。君の足を引っ張ると思う」と評しました。

 

それから半年ほど時間は経ち、とある幸運でわたしはメジャーバンドの方と一緒にお酒を飲ませていただく機会がありました。

こうもりでベースを弾く曙さんと、『エドヴァルド』というメジャーバンドのベーシスト UKさん(一番先輩)が仲良しで、お二人でよくお酒を飲んでいたんですね。

その酒席に同席させていただいたのですが、そのUKさんが曙さんのバンドメンバー、言さんの話をしました。

「彼(言さん)はダメだ。彼は仲良し数人とおべべを着て、週一回のスナックでカラオケを歌って満足するタイプだ。それに付き合わされてるから君(曙さん)や他のメンバーは足を引っ張られて迷惑を被っている。実際にそうだろ?

 

わたしはUKさんと曙さんの話を聞くだけの借りて来た猫状態だったのですが、このUKさんの言葉には「おや?」と思いました。

 

言さんが真さんにした評価と、UKさんが言さんにした評価が一緒だったのです。

 

その先輩二人の会話(説教?)を、借りて来た猫の状態で聞いていて「非常におもしろいな」と感じました。

 

この体験がきっかけで「相手(他者)に対して感じたことは、自分もまた別の誰かから同じことを思われている相手に感じたことは、自分もその要素があるから『この人にはこういうところがあるなぁ』と思うのではないか」と感じました。

これは「しっかりと言語化し、説明することができる」場合に適用されると感じており、「なんかわからないけどモヤモヤする」というものは直感由来だと思います。

 

言語化できることに適用される」と上記しているので、安部公房の著書『他人の顔』を評した際に書いた"自身が所属するコミュニティを、わざと閉鎖的な空間にして、その上、対外の人を敵視して敵対関係をわざわざ作る"というのも、ブーメランだということになりますね。自覚があります。

わたしの場合は所属できるコミュニティがないので、"対外に無数に存在するコミュニティに対して敵視している"の方が正しい表現です。

 

 

自分が優柔不断をコンプレックスに思っていて、それを友人に相談してもいまいち理解されない。

「ゆっくり選ぶことができていいじゃない」と言われる始末。

これは相談した相手に優柔不断の要素がないから、理解されない。

 

「だれそれが口を開けば愚痴と他人の悪口ばっかりで本当にいやだ」と、その場にいない人の話を友人からされた時に、「いや…同じことあんたもよくしてんじゃん…」となった経験がある方も多いのではないかと思いますが、それもその人が同じ要素を持っていたから目についてしまうのだと思われます。

 

なので、他者を見て「この人は場を仕切りたいのかなぁ…。でもなんか空回りしてる感じがあるな」とかなんとか思った時は、「これは自分が氣付いていないだけで、同じ要素を持っているんだろうな。第三者から同じことを思われているんだろうな」と自己を省みるようにしています。

 

トランプさんに対しての「自己顕示欲が強い」も、山田玲司さんに対しての「偏見やバイアスが強い」も、わたしの中に同じ傾向があるのです。実際、その自覚はあります。

 

 

 

これを昔からある言葉にすると『人のふり見て我がふり直せ』になると思います。

 

 

以上に挙げたものはネガティヴ寄りのお話ですが、これはポジティヴにも通用すると思っています。

 

「この人の笑顔は素敵だな。癒されるな」であるとか、「この人は本当に聞き上手だな。なんでも話せてしまう」と思った場合、それはまた別の第三者からの自分への印象と言えるのではないでしょうか?わたしはそう思っています。

 

それまで何も思わなかったけど、ふとした時に「この人は誰に対しても、いつも礼儀正しいな」と思ったなら、その瞬間に『"相手に対していつも礼儀正しく接することができる"ようになれる可能性が自分の中に生まれたのだとわたしは思っています。

 

それでこれはわたしの経験則なのですが、相手の良い部分を積極的に見ようとしていると、その良い部分を見る力が育っている感じがします。

わたしはそれまで"減点法"的な見方ばかりしていたので、無意識にも相手の「ここはどうなのかな」みたいな部分を見つけてしまいます。そんな時は「いや、そうやって偉そうなことを言っている自分はいったいどうだ?」と内省しています。

 

あとわざわざ相手のよくない部分を見続けるってエネルギー使うし、氣が滅入るんですよね。

それなら良いところを探しながら接する方が、ご機嫌でハッピーに過ごせますし、新しい指針を得ることができます。

 

よく引き寄せの法則だとか言いますよね。別の言い方をすればカラーバス効果ですね。

 

 

「こいつはなにも良いところがねえな!」と思ってしまう方もたまにいらっしゃいますが、そんな場合は反面教師にする材料や経験を得たと考え、将来自分がそうならないように備えるようにしています。

あと、鬼滅の刃において炭次郎が鬼に対してしたように、『この人がどうしてこうなったのか』というヒストリーを、憶測でしかありませんが鑑みるようにしています。理由を知ったら案外怒りも軽くなるものですよ。

 

なんだかすごく自己啓発チックになったな。

 

 

ただ、これは結構諸刃の剣で、「相手に思ったことが自分にも内在している」ということは徹底的な自己内省にも繋がります。

自ら過去の傷をほじくって、えぐり返すということにもなりかねず、忘れていた過去のトラウマがフラッシュバックするという甚大な精神的ダメージも受けかねませんので、覚悟が必要です。

 

 

 

話を戻します。

これもわたしの経験則ですが、接する相手の良いところを積極的に見ようとしていると、案外「自分はすでにいろいろ持っていたのだな」と思ったりします。

 

これは『足るを知る』と言われることですね。

人というものは『自分は全てを持っている』ということを知るために生まれるのではないかと思っています。

 

これは以前わたしが描いた『karma』という作品です。

 

わたしは大前提として輪廻転成の概念を採用しているのですが、完全な存在だった状態から地球に生まれる時に、色々な要素が飛び散った状態で肉体を得る。

その地球で輪廻転成を繰り返すことで、飛び散った本来持っていた要素を拾って自分の身にしていく。

その必要な一過程として、『足るを知る』は重要だなと思うのです。

 

不足感っていうものは見つけようと思えばいくらでも出てきますし、お金もかかります。不足感を煽っているのはテレビ等のマスメディアです

先述のカラーバス効果と似たものだと思いますが、充足感も見つけようとすれば(それがどれだけ些細なものでも)どんどん出てきますよ。

道に咲くお花が綺麗だと嬉しくなったりするのですが、それは「視覚があること」と「外に出て歩くこと」と「健康」があるから、綺麗だと「思うこと」ができて、「嬉しくなること」ができる。

メメントモリにも書きましたが、『有り難い』のです。

floodinhead.hatenablog.com

 

実際「失って初めて重要さに氣付く」と言われるほど人間ってのはアホなので、実感は薄いと思います。10年前の自分に話してもピンと来ないんじゃないでしょうか。

 

EXITの兼近さんも「無いを探すのではなく、あるに目を向けたら氣持ちも上向きになった」と仰られてれていました。

youtu.be

 

 

氣をつけないとなと思うのは、わたしの経験上 「人が得意げに話すこと(いわゆる自分語りというやつ?)は、すでにみんな理解済み」なことが多かった(難易度7に挑んでいる人の前で、難易度3の成功体験を自慢げに喋っている感じ)ので、こうやって書いたことも、同じ二の舞かもということ。

また、将来的にそういった印象を持たれるのではないかという懸念です。杞憂になればいいんですけど。

曰く、

「得てして人は、自分の得た物を、自分だけが得た物と思い込むというわけですよ 」

 

                   魔王 - 伊坂幸太郎 (152ページ)

ですからね。 

 

驕らずが吉。礼儀正しく、誇示せず、にこやかに過ごしたいですね。

 

 

 

今ふと思ったのですが、「売春」って言葉はどうして売る側の視点なんでしょう。別に「買春」でもよくないか?

「売春」の表記だと、買う側が透明化されて売る側だけが矢面に立つ構成になっていないか?

 

と思ったのですが、「買春」という言葉もあるそうです。

『"買う側にも責任があるでしょ"という問い』の姿勢から生まれた言葉みたいですね。

調べてよかった\(´-`)/

無知ほど声が大きい\(´-`)/

 

 

ありがとうございました\(´-`)/