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言葉はその人自身
皆さんは言霊という考え方をご存知でしょうか。
言霊とは、古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力。
発した言葉通りの結果を表す力があるとされた。
という意味合いらしいです。
いろいろ個人で感じ方に違いはあると思いますが、わたし個人は言霊は存在すると思っています。
友人や上司に言われた言葉で傷つくという現象も、言われた言葉がずっと残っていて胸につっかえるという現象も、言霊が存在しないと起こらないと思うのです。
またその言葉は、思考を使わないと発せられることはありません。
言霊の話とはすこし離れますが、全ての物事や現実は、思考の後に生まれると考えています。
戦国時代に「電話を使えば、遠くにいる親類と会話することができる」と話したところで、だれも相手にしないでしょう。
下手をすれば「邪教を布教しようとしている!」と言われて打ち首に処せられる危険さえあります。
憶測の域を出ませんが電話を作ろうと考えた人も、「離れた人と話せるわけがないでしょうに」と外野から笑われていたのではないでしょうか。
しかし今では当たり前となっています。
成功者の特徴として他者から"笑われた経験がある"というのは、ひとつの指標になるのではないでしょうか。
言霊
言霊の話に戻ります。
すこし眉唾な話に聞こえると思いますので、話半分にでも聞いていてください。
日本語にはとても大きな力が含まれているらしいです。わたしはまだ不勉強なので、ちゃんと説明はできませんが、カタカムナ文明や、カタカムナ文字の48音と現代日本で用いられている48字の一致などです。
カタカムナでは「ひふみよい」や「むなやこと」とかと言ったりするんですが、「いち、に、さん」と今では読んでいる「12345678910」も、むかしは「ひふみよいむなやこと」と読んでいたらしいです。「ひい、ふう、みい」ですね。
またあまり知られていませんが、第二次大戦で負けた後にGHQが日本を占領統治しましたが、そのGHQが日本の漢字を無くそうと画策しました。
「漢字というものは複雑にすぎる。あんなに難しいなら識字率も低いだろうし、それが原因で思想も偏る。結果戦争に繋がるだろうから漢字なんて廃止してしまえ」というロジックだったみたいです。
その後全国で一斉に識字率調査を行なった結果、全体の97%くらいが日本語を読み書きできたそうです。
漢字廃止計画は頓挫しましたが、神風特攻を生み出した民族を恐れていたGHQですから、どうしても日本の国力を下げたいために漢字の書き換えを行います。
氣を気にしたり、國を国にしたり、學を学にしたり、靈を霊にしたり。
理由等はこちらの動画様で話されていますので、ご覧になってみてください。
この前太宰治さんの短編を読んでいたら『慾』という字が出てきました。読みは「よく」
意味は欲望の「よく」と一緒ですが、現在の日本では『欲』が一般的です。
これもGHQの言語統制・言語統治でしょう。心が消えていますね。
中學時分は夏目漱石さんの旧字体で刊行された時の文庫とかの文學を読んでばかりいた為、旧字体にも馴染みがあったので特段無理なく受け入れることができました。
ですが、生まれてからも成長してからも目で考えていた人には意識を書き換えるのは苦労なさるでしょうね。
ヒトは考える場所が「心・頭・目」の三つあるとわたしは思っているのですが、その話も機会があればまたお伝えいたしますね。
同じ意味の漢字でも効果が違う?
なにが言いたいかというと、思い浮かべている漢字次第でも言葉の意味が変わるんじゃないかということです。
GHQの統治前は教科の名称が「國史」だったけれど、現在の學校教育下では、「歴史」になっています(こうの史代さん原作の、映画『この世界の片隅に』でも國史と描写されています)。これは「自國の歴史ではないように刷り込ませる為」であったりするらしいです。
わたしが非常に氣分良く思わない言葉があります。
「雰囲気」を「ふいんき」を発音している人が多すぎる。正しくは「ふんいき」です。
また、漢字ごとに考えてみると、雰は氣配・囲はとりまく・氣はエネルギー。
つまりその人の纏っているエネルギーという意味合いになります。つまりオーラと同義でしょうね。
それを正しく言わずに「ふいんき」と発音するというのは、その人自身のオーラ(エネルギー)を反故にすることなのではないかと感じます。
なにかで、「新しく納めた國や土地は、まず最初に言語を書き換えるのが大前提の常套手段」と聴いたことがあります。
漢字は亡くせなかったけど、言靈的な意味から無効にしてから75年くらいですか。
現代日本でも着々と言語の書き換えの刷り込みが行われていますよね。台所をキッチンと言ったり、鶏肉をチキンと言ったり、まな板をカッティングボードと言ったり。
言語の統制話は華氏451度にも通じますね。
このお話は、前回に書いた一九八四年の話とも繋がりますね( ¨̮ )
文字通り流れて行く言葉と、昔からある言葉
あと個人的に流行り言葉にも不満を感じるんですが、これは若い世代についていけないだけでしょう。
でもその時代だけのスラングみたいなのばかりの文章は、パッと見ただけでも非常に頭が悪く見えてしまうのだなという発見があったので有難い経験だったと思います😉
またそれにより逆に思うのは、「昔からある言葉の力」です。
最近の流行り言葉だと「エモい」とかなのでしょうか。あと比較例として「鬼」や「神」もありますよね。
12,3年前に爆発的に流行った「KY」という略語も今ではめっきり聞きません。
ここからわたしは「言語って結構残酷に、かつ容易に淘汰されるんじゃないか?」と思いました。
わたしはギターを嗜んでおり、今年で14年目くらいになります。
高校生の時分には「とにかく早く上達するコツ」を求めていたのですが、上達するには「今現在でできることを日々積み重ねる」のが一番手っ取り早いと氣づきました(今現在できることを日々積み重ねていると、「これをこうしたらどうだろうか?」という閃きが生まれます)。それを理解したのがつい半年前とかです。
これって「急がば回れ」ということではないでしょうか。
他には「人のふり見て我がふり直せ」を実感したお話もあるのですが、非常に印象的かつ"いとをかし"な出来事で、いざ書くとなるときっと長くなるので、また今度個別の記事にしたいと思います。
端的にいうと『他者を通して自分を見ている』です。
上記した昔からある言葉は、わたしが認識しているだけでも、祖母祖父の代からは存在していて、淘汰をされていません。
一時的な言葉が10年そこらで淘汰されるているのに対して、90年近くも生き残って、語り継がれていると言うのは、その言葉自体の言靈的な力が働いていたり、ヒトがヒトの世を生きるにおいて、ある種の真理を含んでいたり真理に触れていたりするためではないでしょうか?
ちなみにわたしが「エモい」という言葉が嫌いなのは、「自身の語彙の貧弱さを改善する氣もなくその貧弱さに胡坐をかいている姿勢が見えるから」です。簡単に言えば向上心がないということでしょうか。
「精神的に向上心のない奴はばかだ」
もういっこちなみに、「語彙力」という言葉が幅を利かせていますが、「語彙」は英語でボキャブラリーです。ボキャブラリーは豊富や貧弱と言われるように『量』です。
その量が能力というのはおかしな話なので、「語彙力」という言葉は根本から破綻しており、「語彙力」という言葉をそのまま使う方は、語彙も國語的な言語能力も貧弱だと、わたしは思います🌝
「無い物ねだり」という言葉があります。
『ないものを欲しがること・無理なことを望むこと』という認識が一般的で、わたしもその意味合いだけだと思っていたのですが、『自ら無い状態や不足感を望む』ことでもあるのではないか?と思いました。
不足感や、理想像などの目標が常にある方が頑張れて充実を感じられるから。
『不自由な方が自由にできる』みたいな話ですね。
リフレーミングの癖をつけていると、ちょくちょくこういった閃きがおりてくるから楽しいです😚
『無いものねだり』の話を描きたいだけだったのに、他のずっと思ってたことを書いたら3500字以上も書いちゃってたわ😘
ありがとうございました\(´-`)/