頭の中の洪水

観察と思考と分析の日記ですよってね。たまに思想家が顔出します。よってね。

頼もしいじゃん。ある意味どう生きたって肯定されるんだぜ

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

 

わたしは普段『神』だの『死』だのを言及した記事を書いています。

書いている当人は全く意識しておりませんですが、もしかしたら「宗教くさいなあ」と思われる方もいらっしゃるかも知れません。

 

わたくし当人としては〈哲學〉的な意識で考えているからです。

 

そんなわたしですが、〈哲學〉と正面から相対して物事を考えたことはありませんでした。

 

と、いうことで、今回の内容は「めっちゃ哲學的なことを書いてみよう」の回です。

 

記事の主題は《なぜ生きるのか》と《なぜ生きないといけないのか》です。

 

先日書いた記事で触れていた内容ですね。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

ちなみにこの記事は当ブログで初めての有料記事です。

 

えぇ、そうでしょう。

どこのお馬さんの面の皮も分からない人間の、もしかしたら人間ではないかも知れない思念体の、齢ハーフ還暦超えた程度の若造の考えなどにお金を使うべきではないというお考え。

 

わたしのブログは『あくまでも暇つぶしで消費するものであるから、わざわざ大事なお金を払ってまで読むものではない』という認識の方もいらっしゃるでしょうし、むしろそんな方の方が多いのではないかと感じます。

実際、わたし自身にも同じような姿勢で娯しんでいる娯樂がありますしね。

 

なので、結論だけは書きます。

というよりも《なぜ生きるのか》に対しての答え・結論ではなく、結論の先にある『ならばどのように生きたらいいのか』を書くだけに留めます。

 

しかし結論だけ知っても意味はないです。

〈その結論に至るまでに思考した過程〉の部分が重要ですからね。

『人生は要約できない』と表現されていたのと同じですね。

 

結論だけを受け売りで他人に話したとて『受け売りの話しかできない薄っぺらい人間』と受け取られるだけですしね。

 

さてその【結論】の先、つまり『どのように生きたらいいのか』ですが、それは「ただ思うままに生きたらいい。悩んで、もがいていれば尚良い」です。

いかがでしょうか。

上記を見てご自身なりの考えで結論を導き出すのも良いかも知れませんね。

 

 

「 『思うままに生きろ』ってことは犯罪も許容するのか」というご意見をいただきそうですが、それについては条件付きで『はい・Yes』と返答します。

犯罪については〈そうするしかなかった場合〉や〈行為自体を悔いている〉状況などの場合でのみ、許容するという姿勢です。

 

嬉々として犯罪行為を行なっていたり、人様を騙くらかした内容をさも武勇伝の如く話しているような輩は駄目です。

しかし、そういった輩も結局は反面教師という形で肯定されるのですけどね。

 

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グワーっ!人類総かぐや姫状態ってことすか!!?!ワーッ!!!

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

人間って生き物は感謝という感情があるそうじゃないですか。

それを引き合いに出して「人間は虫けらや畜生と違い素晴らしいのダ!」と殊勝な主張をする勢力もあります。

 

わたしは以前からそういう思い上がりにはひとしお疑問符でした。

輪廻転生があり、人間としての生があるのは非常に貴重。罪惡を為し虫けらに転生してしまうと、再び人間に転生するのは至難の業。

おうこらほんまかコラ蛸コラ。

 

上記の考え方は輪廻転生が下敷きにあるため、仏教のものであり、かの仏陀が説いたとされています。が、愚か者なわたしはいささか眉唾です。

正直なところ、後の世代の辣腕物臭坊主さんが信者を増やすために吹聴した価値觀なのではないかい?と考えてもいます。

 

わたしがそう思う理由。それは虫たちや人間以外の生物こそが地球の歯車を動かしていると感じるからです。

以前にわたしは花粉媒介者の方々についての記事を書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

内容は『花粉媒介者がいなくなれば人類は四年ほどで滅びる。作物が受粉をして実をつけないから』というものです。

 

花粉媒介者とは蜂さんであったりという方々です。

人間という生物は花粉媒介者の恩恵に与っている立場にありますが、それなのに虫けらなどと言ってしまっています。

 

では人間以外の動物はいかがでしょうか。

飯を食って屎をする。

屎には作物を良いものにする作用があるそうです。

 "屎" というよりも【死】には歯車を進める効果があるのですね。

 

「飯を食って屎をする」は我々人間も行うことではありますが、正直それしか地球に対して行えていることはなくないか?と思います。

 

となれば、人間だから・虫だから・動物だからという区分で優劣などつけられるわけがないと感じます。

なぜならば人間ができている循環というものは他の生物もできているから。

 

花粉媒介者の方々は地球の歯車を進める役割を担っているため、頭一つ抜け出ている感はありますが、彼ら彼女らはあくまでも〈仕事〉を行なっているのみです。

日々の仕事が世界に影響を与えて循環の一部になっているということであるだけですので、正直我々人間も含めて大差ないっちゃないと思います。

大差をつけてしまっているのは、我々人間が愚かにも「人間こそ素晴らしい!」と勘違いしてしまい、自らで低きに流れているからではないのか?と感じます。

上善如水?いやあ、思い上がりたいがための詭弁でしょう。

 

ならば世界という動植物すべてに礼節を持って接し、感謝せねばならないのではないか、というアニミズム的な考えに至った次第ですのです。

 

 

さてここで【感謝】という価値觀が登場しました。

【感謝】には『有り難い』という思いが不可欠ですが、ここいらで『かぐや姫』のお話を引き合いに出しちゃいましょう。

 

『かぐや姫』、『竹取翁』とも言われる昔話です。

スタジオジブリにて映画化も行われましたね。

 

わたしは都市伝説というきな臭いエンターテイメントがもう昔から大好きなのですが、その都市伝説界で「かぐや姫は罪人なのではないか」という説が吹聴されています。

 

まあまあ。娯樂として考えてくださいな。

 

映画でも描かれていましたがかぐや姫は絶世の美貌であり、そのため色々な貴族から言い寄られます。

しかしその誰にもピンとこず、最終的にかぐや姫は「あなたは実は月の人なのですよ」と月からの使者にて月へと帰っていきます。

 

日本でもその昔は流刑というものがありましたが、それと似たものではないかと思います。

何かの罪を犯したから地球という感情の星で刑罰を受けていた。

刑期が終了したので、使者がやってきた。というわけです。

 

まあまあ。娯樂的視点として。

 

 

 

【感謝】の話に戻ります。

【感謝】には『有り難い』という思いが不可欠ですが、このような【感謝】という諸々の感情を身に浸みて実感するために地球という場所があるのではないか?と思ったのです。わたしは。

 

また〈ダニング・クルーガー効果〉という心理効果もあるように、「人間こそ素晴らしい!」との考え方も〈ダニング・クルーガー効果〉の一つなのではないか?と考えたりします。他の生命体の有り難みを自覺できていないため、人類という種を上位に置いてしまう。

願いもあると感じますが、小さなお友達たちが「ぼくなんでも知ってるんだよ!」と胸を張りたくなる氣持ちの一つとして「人類は素晴らしい!」という主張があるのではないかと考えたりします。

 

なので人間以外の動植物への有り難みを知る必要がある。

自分ひとり、人間という生命体だけでは、この星を運用できない。そのため世にいらっしゃる全ての生命体へ敬意と礼節を持って対峙する必要がある。

 

陳腐ですがわたしはそう思いますよ。

地球は感情の星という事実も刑罰の一つであるとも思うし。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

つまり人類総かぐや姫状態!

ですが罪人だからって嘆いていたっていけません。なぜならば我々は身を革めるためにこの星にいるのですから。

 

 

とまあトチ狂っている考え方ですので、受け入れるか一蹴するか激しく拒否するかはお任せします。

わたしはわたしの人生を生きます。ほんで刑期をさっさと終わらせます。

 

 

また地球は流刑地という解釈の一方で『感情は宝』という事実もあります。

floodinhead.hatenablog.com

 

これについてはとってもすぴりちゅあるなお話になりますが、感情を感じるために地球へ物見遊山しに来ている一派もいらっしゃるのではないか?と思ったりします。

つまり物好きということです。

 

 

 

この記事の最初に「人間は虫けらや畜生と違い素晴らしいのダ!」という価値觀は仏陀ではなく、後の辣腕生臭坊主が吹聴したのではないか?と書きました。

上記を別の角度から見てみましょう。

 

わたしは上記の価値觀に触れて十年くらい経過しますが、最初に触れた時から疑問符を感じていました。

その結果、今回の記事を書くに至ったわけですが、『いや、そうではないだろ』を引き出し、"その人自身で考えて答えを導くこと" を誘導されていたのかも?と考えたりすれば俄然興味深いです。

 

また不勉強なわたしは仏教にとどまらず世の老舗宗教は「他者にやさしくしましょーね」を本懐に持っていると考えております。

その本懐への第一段階として「人間が一番!」という価値觀を広告したのかしら?とも考えたりします。

 

知りませんけれど。

 

 

わたしはさっさと解脱がしたいのですべてに礼節を持って生きるだけです。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

お好きに生きて( ¨̮ )b

 

 

〈ポケット書評シリーズ〉地球星人 - 村田沙耶香

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は〈ポケット書評シリーズ〉です。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

作品は村田沙耶香さんの『地球星人』

 

 

ネタバレはしまーーーーす。

あとネタバレですが全然ポケットではないでーーーーーす。

 

 

 

 

映像化不可能小説!‪٩( ᐛ )و‬

昨年『コンビニ人間』を読んで以来の村田沙耶香さん作品です。

 

『コンビニ人間』がなかなか凄まじかったので少しばかり及び腰でしたが、以前から氣になっておりました作品ではあったので新潮文庫の夏祭り対象作品ということもあり購入、読。です‪( ¨̮ )‬

 

そういうわけでわたしはこの作品を読んで、全く映像化不可能作品だなと思いました。

伊坂幸太郎さんの『ホワイトラビット』もそうですが、わたしは映像化不可能小説が好きです。

別に映像化した小説が好きではないというのではありません。

というよりも映像化不可能な趣向が凝らされていること、その心意氣が好きなのでしょう。

上記した『ホワイトラビット』はそのまま "映像化不可能な趣向が凝らされている作品" でした。

きっとラジオドラマ化だって無理でしょう。

 

そんな映像化不可能作品好きなわたしですが、この『地球星人』はそんな "趣向が凝らされた作品" ではなく、もはや暴力でしたね‪( ¨̮ )‬

描かれている内容はほとんど暴力的ですが、非常に無味乾燥に描かれていたため湿っぽさは感じなかったのですが、商業的に映像化するのならばエンターテイメントに寄せる必要がある。

冒頭の家庭環境、終盤の共同体へやってくる異物との戰闘。

前者は悲劇として、後者はホラー作品的に描かれるだろうことは必至です。

 

言うならば「十中八九〈地球星人の眼差し〉で制作される」というわけです。

 

地球は感情の星。

感情中毒の地球星人には感情移入が必須です。

そのため地球星人向けに調整された作品は『地球星人』の作品意図と合わないので映像化不可能であろうと思う次第です ( ¨̮ )

 

 

にんげん告発小説の類

村田沙耶香さんの作品は今作で二冊目です。

一冊目の『コンビニ人間』もそうでしたが、今作も《にんげん告発小説》の様相をもっていました。

 

《にんげん告発小説》と聴いて想起するのは、朝井リョウさんの『正欲』です。 

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《にんげん告発小説》と一耳に聞いても、はてなマークが出る人がほとんどでしょうから簡単に説明します。

「見ないふりとか臭いものに蓋するようにしてるけど、にんげんってこういうところあるよね」という、禁忌じみた部分を指摘する、そんな内容の作品です。

 

例えるなら大人は触れない部分を子どもが無邪氣に問いただす、その様を見て「言っちゃった〜」と手のひらでおでこをさするような感情です。

 

同種族を棚に上げてなかよしをするのだけは上手なにんげん様方々。

そういった "いとなみ" に対して「え、なんで?」と正面から問い質していたのが今作の『地球星人』でした。

 

 

今回この《にんげん告発小説》の類を読むにあたって「また触れんでいいところを…」と戰々恐々と思いながらも、〈告発される側ではない自分〉に複雑な感情を覺えるわたしでした( ¨̮ )

 

 

ポハピピンポボピア

「やってくれたな村田沙耶香!!!!!」

 

この作品の主人公は笹本奈月さんです。

物語は小學五年生になった年のお盆から始まります。そういえば朝井リョウさんの『正欲』でも主人公が夏月さんでしたね。

 

祖父母宅へ帰省する際の道中から物語が紡がれますが、この場面で奈月さんは姉の貴世さんのことをうっすらと軽んじています。

いえ、これは軽んじている部類にすら入らない、きょうだい間、姉妹間で必然的に生じる心理動向の類でしょう。

 

そんな奈月さんには秘密があり、それは実は魔法少女だということ。

ポハピピンポボピア星から来たポハピピンポボピア星人のピュート氏から託された使命です。

 

あ、わたしはあくまでも地球星人的な目線でこの記事を書きます。

 

 

ポハピピンポボピア星・魔法少女という要素で姉を侮る少女も少女性を有しているという茶目っ氣と、どこのきょうだい・姉妹にでもある心理動向を表した場面だとわたしは思っています。

 

 

さて、ポハピピンポボピア星人のピュート氏。

これはまあイマジナリーフレンド的な意味合いでしょう。

それというのも、奈月さんが暮らしている環境はかなり過酷なもの。

 

母と姉からは虐待、父は空氣。話なんてろくに聞いてもらえる環境ではない。

となれば、自己を護るためにイマジナリーフレンドを創生するのは当然のことだろうと思います。

 

少し前の記事で書きましたが、以前に『スピリチュアルに傾倒するのは辛いことがあったから。だから可哀想に思っている』というご意見を目にしました。

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ポハピピンポボピア星、ポハピピンポボピア星人のピュート氏に関してはスピリチュアルとは違いますが、自分を護る為、自己防衛の手段としてイマジナリーフレンドを創り出すというのは至極当然というか、生存本能的に正常であろうと思います。特に本来は安心できる場所であるはずの家で安心できなければ。

 

わざわざ他者に同情するふりをしてその実はあげつらい嘲るような行いよりも、自己完結ができるほうが幾分も素敵だとわたしは思います。

 

物語の序盤で「子どもは親に命綱を摑まれているから、親の機嫌を取る必要がある」という発言がありますが、懐かしい感覺でございましたので「そうだったなあ!あったあった、懐かしい!」ときゃっきゃしていましたが、次第にあることに氣付きます。

「…自分がそう考えているということは、そう考えていない人・家庭もあったということ…?」

そんな仮説が頭を持ち上げてこちらを見ていますと、次第に限りなく原色に近いブルーが胸中を占拠します。

 

 

読むのにエネルギーを要するのは、

さて、奈月さんがポハピピンポボピア星人のピュート氏を見出した理由は主に親と姉からの家庭事情ですが、ポハピピンポボピア星という場所に避難した理由がもう一つあります。

忌まわしき塾講師です。

少女に性加害を行った人間なので同情など微塵もありませんし、講師・教師・政治家などの "先生" と呼ばれる人間は性犯罪者予備軍だという偏見を持っていますので(実際に教師と医者・政治家って少女の売春で捕まっているし)、さすがご立派に教師という立場を担っていらっしゃる!と頭が下がる思いですが、性犯罪の予備軍と実行犯は別物です。

 

まあ人間は醜いので、しかも塾講師や教師といった立場が明確にある環境では自分の欲望を相手が望んだことと倒錯する習性がございますから、性犯罪講師然もありなんと思いますが、理性と感情は別。

奈月さんの心を壊した罪は重い。

 

最初に奈月さんが性被害を受けた場面、ちゃんと描写されていたため呆然でした。

その描写と家庭内暴力の描写とが冒頭百ページで展開されていたので、「やってくれたな村田沙耶香!!!!!」と思った次第です。

 

あと今年も夏の百冊に選出されていた道尾秀介さんの『向日葵の咲かない夏』もそうですが、教師は危険な存在だという描写をしている作品をどうして二作品も選出するんだ!

夏休みに穢れをしらない學生さんが読んだらどうする!まだ「教師は尊敬するべき存在です」という幻想を抱かせて置かなければいけない時期ではないのか!などと非常に面倒な感情を持ったりしましたが、『幻想を抱いておく時期』なんていうのは謂わばこちら側のエゴイズムであるし、わたしもそうであったように聡明な子どもは若いうちから親世代や教師というものが如何に空虚で薄っぺらか知っています。

「あ、この人こちらが子どもだからという理由だけで侮っているな」や「こいつ経緯や原因わかってねーけど大人の体裁を保つためにハッタリ言ってるだけだな」なんて、すこし聡明な子どもであれば見抜いています。

しかし指摘しようものなら大人は自らの浅さを暴かれることへの恐怖で癇癪を起こしてしまうので、子どもたちは大人の欺瞞や空虚を見抜いても指摘はしません。

 

それに『幻想を抱いておく時期』なんて各々が適切な時期で勝手に抜けるのですから、こちらが配慮をする必要もない。

しかも人間や大人の醜さを無垢な子どもたちに開け広げるのも大人の責任であるとも思います。

 

 

さてまあこの作品は読むのにエネルギーを要します。

労働の休憩中にカスの塾講師が性加害を行う場面まで読んだのですが、その日の残り労働ではどっと疲れていました。休憩ができていない。

安心する場である家でも安心できない、また性被害の描写まであり非常に読むのがしんどかったのですが、あることを思いました。

きっと、読むのにエネルギーを要するものは、それだけの力動で誰かを癒しているのだろう。ということです。

 

創作というものは基本制作者のセラピー治療的な側面があると考えています。

押見修造さんの作品や太宰治さんの作品がその典型だと思いますが、得てしてそれは他者にも影響する場合があり制作者のセラピーが受け手のセラピーになるということです。

これを共鳴というのかなんなのかは不明ですが、実際にそのようなことはあります。

 

となれば、この作品で過激な描写がされていたのは "それでしか癒されない魂があったから" と考えることができますね。

上記した通り、わたしも長らく忘れていた「子どもは親に命綱を摑まれているから、親の機嫌を取る必要がある」という考えを思い出したわけですしね。忘れたままでよかったのだけど。

 

 

ところで今作の主人公・奈月さんと親戚の由宇さんですが、それぞれの家庭に事情を持っています。

まあ端的に言えば『親が親の役割を放棄している』という "どこにでもある" 事態なのですが、奈月さんも由宇さんもきっとアダルトチルドレンだったのだろうな、というよりも、幼少期から大人になるしか選択肢がなかったのだろうなと思います。

 

一言に親だと言っても親になる資格は不要です。

しかし資格は不要ですが親になる資格がないと感じる親も多くいます。

親というか大人か。自分の機嫌を自分で取れないとか。

精神的に未熟な親を持つ子どもは、その子自身が親になるしかない。となれば、未熟な親は未熟ですので子に甘える。地獄ですね( ¨̮ )

 

そのくせ親は親というプライドと薄っぺらさを所持しているので、自分の未熟さを自覚できないし自覺しようともしない。

わたしも家で安心できなかった人間ですが、そんな人は本を読んだり音樂を聴いたり自分が没頭できるものに逃げるしかないと思います。

しかし、あなたが没頭する世界は同じく没頭するしか選択肢がなかった先人が紡いでいます。なので、少しは心強いのではないでしょうか。

 

 

なんら変わらない。

話はぐっと飛び、物語の終盤部分です。

奈月さんと由宇さん、智臣さんの三匹で秋級に生息します。

 

この場面で三匹は隣家から食料を盗んだりと地球星人視点では褒められない行動をしたり、性犯罪者である塾講師の親と対決したりします。

 

前述の通りわたしは《にんげん告発小説》において告発される立場ではないので、特に何も思いませんでした。

というより、「みんなどの種族もやってることだから目くじら立てるものでもないね」という感慨が近いです。

 

塾講師の親は我が子である性犯罪者を殺されたから怒っています。

これは生物の感情的に真っ当なものでしょう。

その親はポハピピンポボピア星人三匹が暮らす巣へやってきますが、これは三匹からすれば侵略に他なりません。

であるので、死に物狂いで死守しようとするのも、これまた生物の感情的には真っ当なものだと思います。

我々だって外國が攻めてきたら応戰はいたしますし、我が家に知らない人がいきなりやってきて襲ってくれば防衛戰として闘うでしょう。それと一緒ですね。

 

まあそんなこと誰でも考えつくのでわざわざ言語にしないでもよいのですが、地球星人はどうにも自分のいる場所が正しく、もう一方が間違っていると考えがちなようですからね。

 

なので正当防衛です。

 

 

わたしが思わず笑ってしまいそうになったのは、徹底的なまでに〈記号〉として描かれていた部分です。

地球星人には名前を付けたり区別するという習性がありますが、この習性が排除されていたのですね。

人間という生物種であれば単位は人、人間以外の大型生命体であれば体、小型であれば匹、魚類であれば尾などと単位を分け、いささか固有の単位を持っている優位性を誇示しようとするきらいを感じたりしますが、ポハピピンポボピア星人の三匹は地球星人も匹として数え、〈男〉という記号で認識されていました。

わたし個人はこれはとても真摯だなと思います。

 

 

わたしは最近「人間は感謝をするという習性を持ち合わせている。しかしそれは感謝を覺えないといけない立場にあるからではないか?」と思いました。がそれはまた別の機会。

 

 

「墓の土が落ちない」

地球星人の男と女がポハピピンポボピア星人の巣・宇宙船にやってきたのは姉の貴世さんが吹き込んだためと目されています。

 

ではなぜ貴世さんがそのような行動を取ったか、というと、パート先でかなり奔放な性生活を送っていたことが露見したからだそうです。

わたし個人的にはあまりに莫迦らしく、「身から出た錆じゃねーかよ」と思うばかりです。

 

そんな貴世さんは以前、奈月さんに「見初められることがどれだけ素晴らしいことか」と説いていました。

ここでわたしは思ったのですが、お姉さんの貴世さんも地球星人の洗脳に苦慮されていた方だったのではないでしょうか。

性犯罪者の家で奈月さんが被害に遭遇している場を見て羨んでいたと言及されていましたし、もしかしたら貴世さん的には【性対象としての自分】が〈地球星人としての価値〉と認識されていた感があるように思います。

つまり、貴世さんもポハピピンポボピア星人であった可能性がある(もちろん別の星かも)。

 

と、奈月さんを激しく忌避していた存在はもう一人いまして、それは母親です。

この母親はわたしの親戚にもいましたが典型的な『きょうだい間で優劣をつける親』でした。

本来愛すべき親からこのような仕打ちを受けていても、子は親を愛する健氣な生き物ですので親の毒言をそのまま受け入れます。結果、子は親の言いなりになったり、自分を極端に低く見積もったりします。

 

この母親を読み、わたしが想起したのは数ヶ月前に読んだ萩尾望都さんの『イグアナの娘』という作品でした。

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これはあくまでも推論に過ぎませんが、笹本家はポハピピンポボピア星人だったのではないか。これがわたしの考えです。

 

自分の信念に背いて他者を受け入れた人間からすれば、自分の信念を貫いている方は羨ましくて嫉妬に狂いそうになる。

姉の貴世さんは【性対象】として地球星人の役割を得たのに、妹はその役割を遂行しようとしない、妬ましい。

母親は、これまで必死に隠してきた「自分はポハピピンポボピア星人である」ということが次女によって暴かれる可能性がある、恐ろしい。

そういった理由で奈月さんは母親と姉から糾弾されていたのでは?と感じます。

 

しかし、笹本家にはもう一人います。

父親。この父親はほとんど空氣ですね。

一応家長としての役割を保っていますが、専業主婦核家族家庭において家の実権は妻側が持っていて、妻側が責任を取りたくない事象を決定する時だけに駆り出される、そんな、よくある一般的な核家族家庭の一存在です。

わたしはこの父親はポハピピンポボピア星人ではないと考えています。

 

なぜかといえば、秋級の家こそがポハピピンポボピア星人の降り立った場所だから。

 

突拍子もないですね〜。

物語の中盤?で秋級の祖父が亡くなります。

土葬の場面で父親は「夏だからすぐに土が落ちるな」と言及します。

しかし二十年経過しても土は盛り上がったままです。

 

ここで思ったことは祖父もポハピピンポボピア星人だったのではないか?という仮説です。

地球生まれの有機体であればすぐに腐り朽ちるのが普通ですが、ポハピピンポボピア生まれの肉体であるため腐りもせず朽ちなかった。

そのため棺も腐らず二十年も墓の土は盛り上がったままであった。

 

わりと道理は通るのではないでしょうか。

 

 

また「秋級がポハピピンポボピア星人の地球的根源、漂着地であった」と考えれば、母親と姉の貴世さんが秋級を嫌っていた理由も説明がつきます。

母親と姉は地球星人になろうとしていた側ですから、自分の正体を暴かれそうになる場所は避けたい。

物語の冒頭で姉の貴世さんは吐き氣を催していますが、一般的に吐き氣というものは拒絶反応ですしね。知らんけど。

じゃあなぜ主人公の奈月さんは秋級に拒絶感を感じなかったかと言えば、それはもう個体差でしょう。ご都合主義ですね‾\_(ツ)_/‾

 

 

妊娠について

物語の最終盤。母親と姉が秋級にやってきます。

地球星人のオスとメスを食したポハピピンポボピア星人の三匹は仲良く暮らしていましたが、そこに来訪者があったのです。

かつて〈家族〉であった三匹を見て仰天する地球星人の二匹。

同行していた救助隊の地球星人(オス)も言葉に窮しながらも三匹の風体に疑問を投げかけます。

 

「その腹はなんだ…?」

 

「僕たち三匹は妊娠しているのです」

 

この後にポハピピンポボピア星人の三匹は地球星人が暮らしている星へと宇宙船から降りたち、物語は幕を閉じます。

 

 

この妊娠についてですが、まあ腹水でしょうね。と地球星人的な視点では考えます。

腹水とは榮養が偏った時に見られる身体的な変化だそうで、手足は痩せているのにお腹だけはぽっこりと張ってしまうあれのことです。

何十年と報道されるも一向に様子の変わらない(なんでかなあ)、アフリカの子ども達を想起していただければ問題ありません。

 

隣家から食料を盗んでいたり地球星人の肉を食っていたという描写はあったものの、流石に榮養失調にはなると思います。

その結果奈月さん、由宇さん、智臣さんの三匹ともがお腹を張った体躯になった。

とても地球星人には理解・納得しやすい理由ではないでしょうか。

 

流石にオスとメスがいても妊娠するのはメスだと思います。だって肉体は地球の有機物だろうし。

しかしそれも地球星人的な価値觀でしょう。そんな瑣末にこだわるなんて全く莫迦らしいよなあとも思います。

 

 

ちなみにちょろっと見た他人様の感想で「秋級で生活したことで忌んでいた性欲を感じたのは興味深い」というものを見ましたが、奈月さんは性欲を忌んでいたわけではないのではないか?と思っています(智臣さんはその雰囲氣があったけれど)

『繁殖は良い!みんなするべき!』と礼賛しているわりに性欲を包んで見ないように、また "別の表現をしていること" に対して純粋な不思議や疑問を感じていただけだと解釈しています(セックスを「なかよし」と言うの本当に氣持ちが悪かった)。

 

 

『心地よい快感が、ずっと膝の骨を裏側から擽っていた』という表現。

この表現にわたしは強い美しさを感じてとても好きです。

 

そこで思い出したるは少し前に惡魔のSNSで見た『最近の若者はセックスを求めているのではなく、精神的充足を求めている』という考えです。

セックス依存などもありますが、あれはつまり心の渇きを満たしてくれることの手段や媒介としてセックスがあり、セックスそのものをしなくてもいいのなら依存にならないのではないか?と勝手氣儘に考えています。

 

おそらく奈月さんは地球星人の社会で闘っていたのではないか。というよりも闘うしかなかったのではないか。

しかも多くの場合で精神的な揺り籠になるはずの性という場所も、性犯罪者の塾講師に壊されています。

そんな奈月さんが心地よい性欲や恋のような感情を憶えたというのは、それはつまり生物が生物としての安寧や安心を得ることができたからではないのでしょうか。

 

ということは、性欲を『忌避していた』のではなく『感じられる環境ではなかった』ということではないのでしょうか。

逆にいえば、ポハピピンポボピア星人との巣を作ったからこそ、ズタズタに壊され踏みにじられた心が、癒され、生物としての根源を取り戻したのであろうかなと思いますが、考え過ぎでしょうか。

 

 

自己を取り戻すため

この作品は奈月さんが自己を取り戻す軌跡が描かれた作品だと捉えています。

先述の性欲についてもそうです。

 

超個人的な話になり恐縮ですが、わたしも二十代のころにメンタルヘルスにて食事をしてもおいしいを感じられなかった経験があるので、奈月さんが味を感じて耳が聞こえるようになった時は誇張なしで泣きました。

 

性犯罪者の塾講師に壊された口と右耳が奈月さんのものに戻ったのです。

これを泣かないでいられますか。今でも泣きます。

 

本当によかった。

 

 

奈月さんが〈自分〉を自分に "取り戻した" 時、奈月さんは羽化したお蚕さんを想起します。

この『地球星人』は養蚕がモチーフとして描かれますが、読んでいる時は何に対しての表現なのかわかりませんでした。

しかし、今になればわかったような氣がいたします。

 

養蚕はその言葉の通り、お蚕さんを養殖する行為です。

桑の葉をたっぷりと食べさせ、繭になった段階で水に沈めて殺します。そうしてできたものが、絹糸です。まあ常識ですね。

つまり養蚕の行為自体が地球星人的なものであり、謂わば『育ちきる前に死ね』という意味合いであると考えられます。

奈月さんはそれまで地球星人の洗脳を望んでいましたが、ついぞ叶わず(頭が良かったのでしょう)繭になることもできなかった。

 

そんな人が同士と共同体を作って生活したことで、繭を作って、殺されることなく成虫として羽化することができた。

たとえ数日で死んでしまうとしても、自分の翅で飛べる術を手に入れた。

 

 

お蚕さんという喩えはそのまま地球星人と、その洗脳から抜け出して自分を取り戻すこと表していたのだろう、と愚かしくも考えたりします。

 

この作品に触れることで、自己を取り戻す方が少しでも多くいればいいなと思います。

 

 

ポハピピンポボピア

ポハピピンポボピア。

 

何度となく言及される言葉です。

 

 

ポハピピンポボピア。

 

言いにくい、けれどなんだか語感が良い。

 

ポハピピンポボピア。

 

 

わたしはこの作品を『凄まじい作品』『素晴らしい作品』だと思います。

しかし全く万人向けではないのが考え所です。

 

ですが少なくとも読んでよかった作品だと思います。

その理由は、これまで地球星人たちに糾弾されて静かに死んでいった魂たちの鎮魂になるだろうから。

 

そしてわたしは他の方が何を感じたのかが氣になりました。

すると「ポハなんたら星人」と言っていたり、「ポ…星人」と言っていたりする方が結構いる。

 

失礼じゃない?と思いましたが、これこそ作者の村田沙耶香さんが用意した仕掛けかもしれません。

『ポハピピンポボピア』や『ポハピピンポボピア星人』をちゃんと認識しようとしていたか。

ということです。

 

ちゃんと認識して自分の腑に落としこもうとする真摯な方なら『ポハピピンポボピア』を『ポハピピンポボピア』として受け入れようとする。

どこか鼻白んで小ばかにする人はちゃんと覺えようとせず、『ポハピピンポボピア』の部分も流し読みをする。

 

つまり『ポハピピンポボピア』という言葉への向き合い方で読み手の地球星人度合いがわかってしまうということなのかしら、ということです。

 

怖いひとです。村田沙耶香さん。

 

 

あ、妄想でーす。

 

 

最後に

奈月さんが性犯罪者からの性加害を友人に打ち明ける場面があります。

この場面で自分が欲しかった言葉を自覺しますが、奈月さんはその言葉は受け取れませんでした。

 

今もし精神的に疲弊を感じていて、カウンセリングに行っても自分がほしい言葉を受け取れず袋小路になっている方がこの文章を読んでいたとします。

 

その場合は、自分がほしい言葉をあなた様ご自身がかけてあげてください。

何故ならば「そんな言葉をほしいのではない」と思っているということは、『ほしい言葉を知っている』ということであるからです。

 

正直、自分を癒すのは自分しかいません。

わたしはそうやって癒しました。

 

 

とはいえ、どうしても他者から言葉がほしいときもあります。

もちろん百発百中でほしい言葉はもらえませんし、何度挑戦してももらえないこと、何度も挑戦する根氣も必要です。

そんな、生きようともがいている姿は、どうしようもなく美しく思えます。

 

ほどほどに好きに生きてください( ¨̮ )

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 

読まなくていい追記 ~忌まわしき塾講師の背景を想う~

何度も書いている通り塾講師はクソです。

物語の中盤で死ぬことになりますが、まあ因果応報ですよね。同情してもらえるとでも思っていたのか?というのが正直な感情です。

 

本当の意味で奈月さんの心を殺そうとしていたわけですので、奈月さんが取った行動も正当防衛でしかないと思う。

 

なので塾講師には同情をしませんが、同情をせずに切り捨てるのは流石に平等ではないので、塾講師はクソですがその背景を想ったりしました。

まあ情け、意味もない道樂です。

 

 

この性犯罪者は一見容姿が良いと描写されています。

時を騒がす男性アイドルに似ているとも言及されています。

 

わたしは思うのですが、容姿が良い人ほど地球星人からより強い圧力をかけられるのではないでしょうか。

下記記事で書いたようなことです。

floodinhead.hatenablog.com

 

もちろん容姿が良いことで数々の恩恵を得ることがあるのでしょうが、それだけとてつもないストレスや重圧もあるのでしょう。

なので性犯罪者になったのではないか?

また容姿が良いことでなんでも許されていたため、性犯罪も許されると考えていたとか。

考えが甘すぎますけどね。

 

また『先生と言われると性格が歪む仮説』もあります。

教師や医者や政治家など〈先生と言われる立場〉にある人は、性格がひん曲がっていたり幼稚な部分を多く持っていたりする印象があります(あくまでも偏見)。

性格がひん曲がったから性犯罪者が増えたのか、性犯罪者予備軍だから〈先生と言われる立場〉になれるのか。

いえ、理論が破綻していますが、これはあくまでも偏見ですのでどうぞご容赦を。

 

また〈先生と言われる立場〉は、その立場上『正しい行い』を求められます。

『正しい行い』を求められるという重圧で性格や性嗜好が歪(ひず)み、一般的に異常とされている性犯罪や小児性愛趣味に走るのではないか?と考えたりします。

あくまでも憶測、妄想の範疇ですけどね。

 

 

という具合に性犯罪者の塾講師の背景を想像したりしましたが、人の心を壊した人間には同情しません。

当然の報い、因果応報です。

 

くたばれ。

 

〈ポケット書評シリーズ〉苦手な客を味方に変える 営業の極意 トップ営業は「カスハラ客」を狙い撃つ - 斉藤裕亮

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は〈ポケット書評シリーズ〉です。

なんだか今年は〈ポケット書評シリーズ〉の記事が多いですね。なぜだろう?

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

そんな今回題材にして取り上げるは『苦手な客を味方に変える 営業の極意 トップ営業は「カスハラ客」を狙い撃つ 』という書籍です。

 

わたしは営業職でなければ接客業も向いていないと思っておりますが、苦手意識・被害者意識ばかり悲劇のヒロインなんかで生きたくないことと、ただただ苦手意識克服と成長のために、現在は広く見た際の接客業に携わっています。

 

その業務で参考になりそう!と思って手にした。

というのは完全な建前で、実際は本屋さんの入り口で見た書籍の垂れ幕広告に「面白そう!!!」と思っての購入に他なりません。

 

わたしはお客様感情の強い、お客様という立場が無ければ相手にされない、そのくせ態度を改めようともせず権利だけ主張する割に「神様」と喩えられればいとも簡単に煽てられる単純な意識体、つまり『お客様』というものに辟易としていますが、その中でもカスタマーハラスメントを行えちゃう愚か者がとくに滅法靴に入った小石です。

 

そんなにんにく感情な愚か者を味方にできて煩わしい蠅でなくなるのはまさに渡りに船です。

 

 

というわけで喜び勇んで本書を読んで村田沙耶香さんの『地球星人』を読んで今です。

現在はあさのあつこさんの『プレデター』を読んでいます‪( ¨̮ )‬

 

 

さぁて本書を読んで思ったことのなりよりは「説明がわかりやすい」ということでした。

本書の著者さんはリクルート社で二十年営業職に従事されていたそうです。

リクルート社という『誰でも知っている会社』にて営業職を長年されていたからなのか、説明がとにかくわかりやすかったのが印象的でした。

 

またわたしのような着の身着のままで生きている高等遊民の稚魚と違って世のビジネスマン様やさらりまんさん方は日々が忙しくていらっしゃいますから、各項目が数ページで纏められていたのも読みやすかった理由の一つだと思います。

また各項目末尾に『すぐできる実践ポイント』がまとめ的要素で出ていたため、読み返しを行う際にも不要な時間を省けるってわけですね。

たまにはビジネス書を読んでみるのも色々発見があってよいです‪( ¨̮ )‬

 

 

内氣な人ほど営業向き

書籍の中でも言及されておりますが、著者の方は本来研究向きな思慮深い性格なのだそうです。

完璧主義とすら形容されそうなほどでプレゼン資料の完成度を高めるのがお好きなのだそうです。

その完璧主義は他人からの目が元凶なのですが(往々にしてその目の多くがその人自身の妄想)、ちょっと!わたしを見ているようじゃないですか!!

 

わたしも二十代の時は自らが課した強迫觀念じみた完璧主義で苦しんだ思念体の一つですので、第一章のうしろ三つには「ほんませやんな〜」と思っていました。

 

今も曲作り面で納得できない構成や展開には首をひねるなどの完璧主義な部分はありますが、ハーフ還暦ともうハーフ還暦の十分の一歩を超えた今は適度に完璧主義の毒氣も抜けていい感じです( ¨̮ )

 

内氣な人間は少なからず完璧主義にとらわれる時期があるのではないかと考えておりますが、完璧主義もあるべきだったのだなあと今になって思います。

無駄じゃあない。

だってその期間がわざわざあったんですもの。

不要なものは存在し得ませんもの( ¨̮ )

 

わたしはギターを嗜むのでギターの喩えしかできませんが、脱力をするためには力む経験が不可欠なわけですよ。

 

まあ「必要であった」と思うにはその人自身の行動と心構えも必要不可欠なわけですけど。

 

 

そういった思案がちな性格を持った著者でありますが、「営業は話す仕事ではなく、話を聴く仕事である」と言及されています。

その理由は『話を聴ける思慮があるから、相手が何を欲しているかに思案を向けることができる』というもの。

この言説には目から鱗でした。

 

その上で著者は「引っ込み思案で他者の顔色を伺いがちな人ほど営業向きだ」とも言及されておりました。

共に記載されていた『短所なんて見方次第で長所』という意見に同意するとともに、上記の一文を見ることである種心の荷が降りる方もいらっしゃるのではないかな、と思いました。

 

 

自分が忌避している人は他者も忌避している

本書では昨今【カスハラ客】として忌避されている者を味方にしちゃおう!という提案とその方法が書かれています。

その中に『自分が苦手と考えている人間は同じように他の人間からも苦手と思われている。避けられている。だからこそブルーオーシャン』という考え方が載せられており、これまた目から鱗でした。

 

自分が苦手と感じているからといって全員がそうではないものの「自分が苦手と感じているなら同じように苦手と感じている人もいるだろう」という理論であり、だからこそその場に飛び込めば得られるものも大きいという考え。

虎子を得たければ虎穴に入らなければいけないのですよ。というわけですね。

 

虎穴に入って虎子を得るための方法が本書では書かれているのですが、その方法はどうぞご自身でお読みください( ¨̮ )

 

 

営業は変化を売る仕事

二度あることは三度ある。

 

二度も目から鱗が落ちたので三回目も落ちました。第三の目でしょうか。

 

この度わたしが落とした鱗はハードタイプ。

どうして落ちたのかといえば『営業は商品を売るのではない』と言及されていたためです。

では何を売るのか。

 

それは《変化》を売るのだそうですって、ねえ奥さん。

 

「この商品を買ってください。この商品はよいものですよ。ですので商品を買ってください」ではなく「この商品を導入すれば生活にこのような変化がもたらされますよ。魅力的ではないですか?」と売り込むのですね。

〈変化を売る〉なんて視点は全くございませんでしたので「ッハァ〜!」と角膜が思わず剥がれちゃいました。

 

現状わたしは営業職や物販販売の接客業に従事するつもりなんて一切ありませんが、〈変化を売る〉という視点は対面接客などでは特に効果的だろうと感じます。

 

使う予定のない知識ばかりが増えていきますね( ¨̮ )

 

 

ところでこの〈変化を売る〉という商売戰略って世の中の広告でも多用されていましたね。

養老孟司さんが「勉強とは癌宣告だ」と形容したように、知識を得たから世の中の見え方が変わったのです。

floodinhead.hatenablog.com

 

では広告のどこに〈変化を売る〉という視点が含まれているのかといえば、それは『不便感情を煽る』というところです。

floodinhead.hatenablog.com

 

不便を感じて居ますか?このサービスを使えば不便さなんてなくなってしまいますよ。生活への導入、いかがでしょうか?ということです。

刺戟をするべきは不便感情。不便を解消する《変化》を売る。

そのための、演出は、何が何でも?

 

 

人たらしになる方法

『営業の極意』と銘打っているだけあり、この作品は営業成績を上げるための方法が記されています。

 

わたしは営業職ではないので記されている方法がどう異端なのかはわかりません。

 

その上で「その動きができたのは誰もが知ってる大企業だからなんじゃ…?」と思う部分はありつつ、この書籍でわたしが感じたのは『人たらしになる方法の本』だなということです。

 

本書はビジネス書として分類されておりますが、書かれている内容の抽象は自己啓発本的な内容と通底していると感じたのです。

 

 

また意地惡な形容をすると『先方に取り入る方法』が記されている書籍ですが、カスハラという看過できない行いをする者を味方にするのですから、それだけ人がよくないと(良いように見せないと)いけません。

そのためには人懐こく、人たらしになっておいたほうが立ち回りが樂になりますものね。

 

ということで自己啓発本的な側面も見せながらも「人たらしになるための方法」が言及されている書籍だった、というのがわたしの総評です( ¨̮ )

 

別に人たらしになるのが惡いとかじゃないです( ¨̮ )

 

 

おまけ! ~リーダー論と老師~

この書籍では組織のリーダー論も言及されています。

チームリーダーとして、そして組織の長としての考え方が記されていますが、わたしはこの考え方は基本的に大賛成です。

 

曲解かもしれませんが、わたしも「背中を語ること」でしか他者は成長しないし、当人が必要を感じなければいくらこちらが語りかけようとほとんど意味をなさないと考えているからです。

いくら年長者が有り難いお説教を説いたところで欲されていなければ有難迷惑になるという次第です。

もしかしたら "背中で語れないからわざわざお説教を説いて有難がられようとしている" のか?とこれまた意地惡な視点が出てきたりしますが、こんな冷笑じみた指摘は無意味です。

 

 

このリーダー論・マネジメント論の中で老師の考え方が言及されるのですが、今と真逆すぎて苦笑いを隠しきれませんでした。

とはいえ、結局潮の満ち引きや波と同じですから「そういった時節」というだけなのでしょうけれどね( ¨̮ )

 

 

 

【おわりに】の項目で執筆時に著者のご子息が客觀的立場で意見を行なっていたことが言及されていましたが、こういった部分も著者自身のリーダー論・マネジメント論が反映された部分なのかしらと感じます。

その上で?この著者の子育て論とか伺ってみたいなとも思いました。

とさ( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 

〈ポケット書評シリーズ〉についての

 

なんか知らん間に〈ポケット書評シリーズ〉が増えているのでまとめます!٩( ᐛ )و

 

 

 

春にして君を離れ - アガサ・クリスティー

floodinhead.hatenablog.com

 

イグアナの娘 - 萩尾望都

floodinhead.hatenablog.com

 

八つ墓村 - 横溝正史

floodinhead.hatenablog.com

 

モダンタイムス - 伊坂幸太郎

floodinhead.hatenablog.com

 

〈ポケット書評シリーズ・特別編〉四次元ポケット書評 モダンタイムス - 伊坂幸太郎

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は何故か本当にシリーズ化していた〈ポケット書評シリーズ〉の特別編です。

 

題材となる書物は、わたしがファンをしている伊坂幸太郎さんの『モダンタイムス』です。

 

何回ネタにしているんだ。流石に好きすぎるだろ。

などと自意識が過剰になりそうです‪( ´¨̮ )‬

 

 

とはいえ何度も記事のネタにしているのでお話部分にはあまり触れないことでしょう。

では何を書くかをいえば『今回再読してなにをどう感じたか』という部分。

 

つまりほとんど通常回です‪٩( ᐛ )و

 

 

 

上巻‬

案内板を提示すれば、それを有り難たがって進む。

案内板が恣意的であれば尚良し。

 

 

起承 > 転結

物語はシステムエンジニアの渡辺拓海さんが拷問をされそうになっている場面から始まります。

なぜ拷問をされそうになっているのかは実際にお読みいただきたいので言及いたしませんが、その拷問に端を発してか職場の迷惑な先輩が失踪したり主人公自身が物騒な出来事に巻き込まれたりという破茶滅茶珍道中です。道中ではない。

 

ちなみに今回再読したのは『伊坂幸太郎作品発表順に読み返しシリーズ』が理由です。

floodinhead.hatenablog.com

 

今回再読して感じたこと?意外だったこと?は上巻の方が面白かったことです。

一般的に上下巻があれば上巻は起承転結の起と承ですが、その部分が非常に興味深かったというわけですね。

何度も読み返してきた作品であり、これまでなら下巻の方がエンターテイメントとして面白いと感じていましたが、上巻の面白みが下巻を凌駕したのはわたしの考え方が変わったからでしょうか。知りません。

 

わたしは伊坂幸太郎さんのソフトハードファンを行なっておりますが、改めて思ったのは「伊坂さん!あんた本当にエンタメに昇華させるの上手ねぇ〜!」です。

 

 

政治家は仕事を作るのが仕事

作中にて主人公が「政治家は仕事を作るのが仕事だ」と発言いたします。

その発言に直感を受け『複雑化した社会は人口が増えたからではないか?』という仮説を考えました。

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物事はさして変わっていないものの、その物事に関わる人数だけ増えてしまっているため部品としての複雑化が進んでしまった、ということです。

 

作中でも言及されていますが國家は生きながらえるために國民の機嫌を取らねばなりません。

國家にとって國力でもある國民は、謂わば "お客様" でもあるからです。

客足が遠のけば商売ができないのと同じで、國家が存続し続けるためには國民がその國に止まり続ける必要がある。

「國民が國民として居続けてもらうため」に仕事を用意しないといけない、ということの次第です。

 

そのため、システムを切り替えたり仕組み自体を新しいものに挿げ替えたりすることで、新しい利潤や雇用が発生する。

正直もう完成しているものでも、そうやって新サービスや仕組みの複雑化を行うことで國家が存続できるのであれば國家は嬉々としてシステムを更新するでしょう。

 

我々生物は食事を行いますが、それは生き長らえるためです。

生き長らえるために食事を行い、体内の細胞を切り替えて循環させている。

 

別の角度で考えれば、國家も肉体と概念ではなんら変わらないのかもしれません。

 

あなた様の細胞が突然「もうこの肉体うんざりです。別の肉体に亡命します」と集団ストライキを起こされたらたまったものじゃないでしょう?

 

 

繋がった

以前わたしは「広告は花だね」という内容の記事を書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

『広告は目立つように作られている。その結果お金が発生しそのお金は今後の資金になるわけですが、それってお花が目立つ色をしているから受粉され実になって種となる。種は未来で芽吹いたり。。というのと似ていますね。ほとんどおんなじだ』という内容なのですが、広告・広告業者も謂わば國家が生き長らえるための細胞の一つなのではないか?と感じます。

 

過去の思考が未来という今につながりました。

さすがわたしの思考。

 

 

やっぱりか

作中にてとある企業の求人方法が紹介されていました。

 

『自然対数の底eの値の中の最初の連続する10桁の数字.com』

 

というのがその求人広告です。

有名なのでご存知の方も多くいらっしゃることでしょう。

 

floodinhead.hatenablog.com

 

ところでこの『モダンタイムス』という作品は〈検索〉を題材としています。

その作品で上記した求人の広告方法が言及されている。

 

そこでわたくしは「っぴーん」ときました。

わたくしの超高性能思考こんぴうーたが演算を行なったのです。

 

それはほとんど演算というよりも、過去に演算したことの組み合わせでしかありませんでしたが。

 

《ひみつ》として触れ回っているものが世の中に公開されているふしぎ。

 

この『モダンタイムス』という作品。

 

すこし考えて直感を用いたら自ずと答えは思いつきます。

 

想像力を働かせてごらん、絶対。

 

 

下巻

最近の、ともすれば "丸くなった" とも言われかねないハートフル伊坂ではなく物騒直球な作品、それが『モダンタイムス』です。

殺し屋シリーズの『777』が文庫化しましたが、天道虫の七海がどのような物騒を披露してくれるのでしょうか。

 

『グラスホッパー』といい『マリアビートル』といい『AX』といい、〈殺し屋シリーズ〉は傑作揃いですので非常にたのしみです( ¨̮ )

スズメバチって出るのかしら ( ¨̮ )

 

 

 

考えろ。

物語の終盤で主人公らはシステムというものの、あまりのシステマチックさに対し途方に暮れます。

そのあと、五反田正臣さん、主人公の妻・佳代子さんは『できること』を行います。

 

また井坂好太郎は「小説で世界は変えられない」と絶望しながらも【個人】に対して小説を書こうとしました。

 

これらは『たとえちっぽけなことでも目の前にあることは行えばいいじゃない』ということで、安藤潤也氏が言及していた「スカートがめくれていたらベルトでに直してあげたい」「困ってる人がいれば、助けてあげればいいじゃない」という価値觀に共通します。

 

この作品は『魔王』と同じ時間軸にある作品ですが、その『魔王』の主人公であった安藤が「でたらめでもいいから、自分の考えを信じて、対決していけば、そうすりゃ、世界が変わる」と言及していた内容に通ずるとも思います。

 

また「全体を作っているのは一個人」でもあるのですから、大きな全体ではなく【個人】に焦点を当てて行動することで、結果的に全体が変わるということも往々にしてあり得るのではないか?と思います。

 

音樂でもマスに向けて作られているものがあるじゃないですか。

ポップ・ミュージックというものですが、その中でもより大衆に向けて数學的に計算ずくで調整された音樂。

これはわたしの趣味ですが、最初からマスに向けて作られたものって薄いと感じるのですよね。

そりゃあ一般に受ける必要がありますので「みんなが好きな味付け」にしないといけないのは当然なのですが、内容が薄くないか?とは思います。

まあこんなものはわたしの趣味であり、所詮わたしがマス側の思念体ではないということの証明なだけなのですけど。

 

その上で?やっぱり『自分で選択した』と思わせることが重要なのだなあと思う。

 

 

 

『モダンタイムス』は『魔王』の時間軸にある作品だとは前述しました。

そしてこの作品は《システム》に対して言及している作品でもあります。

 

そういったことから、この度再読して「安藤が作品のシステム側になり『考えろ』と語りかけているみたいだなあ」と、わたしは思いました。

 

 

 

これにて今回の〈ポケット書評シリーズ・特別編〉四次元ポケット書評 モダンタイムス - 伊坂幸太郎 は終わりですが、所詮はわたしが考えたことや直感であり事実とは無根ですし、人生は要約できないのと同じで小説はその人自身が読まないと意味がありませんので、是非とも読んでみてください( ¨̮ )

 

 

さあ、勇氣はあるか! まだ見ぬ君にいつか会える日を楽しみにしてる!

 

 

終わりに ~ 『モダンタイムス』を觀て~

この作品は『モダンタイムス』というお名前ですが、元ネタに超有名な作品があります。

そうですチャールズ・チャップリン氏の映画作品です。

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昔の映画ということもありお恥ずかしながら鑑賞したことがございませんでした。

 

今回『モダンタイムス』を読んだということと、酔った勢いで間違って登録してしまったAmazon Primeが今月で満了となるので、この機会にと思って昨日鑑賞しました。

 

作品の感想ですが、コメディの様相はしていましたがほとんど悲劇、ほとんどホラーでした。

「そうはならんやろ」なローストダックの場面や、穴あきチーズの場面などは普通に面白かったですが、割と終始苦笑いでした( ´¨̮ )

 

 

自動化にて。

機械化したことで主人公は精神を壊します。

 

鐡工所で働いていた主人公ですが、休憩中や仕事終わりも業務の動作を行なっていたのはともすれば滑稽ですが、わたしにはとてもじゃないですが笑えませんでした。

わたしも個人時間中に業務のことを考えてしまっていたりするからです。

したくない業務のことを個人的な自由時間でも考えているなんて地獄じゃあないか。

 

わたしは音樂と曲作りと世の中の仕組みめいたものに思考を巡らせたいのだ。

それが職になっていたら自由時間に考えるのでもいいが、したくない業務なのだからいやなのだ。

ハムちゃんなのだ。

じゃんぴょんウサさんずなのだ。

 

 

鐡工所へ自動食事機の営業が来まして、主人公が実験台にさせられます。

その機械は、つまり手を使わなくても食事ができる画期的な機械!ということなのですが、主人公が実験台になっている様子を見ていてそれはもう恐怖でした。

自動化するってことは、それって裏を返すと自分自身が自動化に合わせる必要があるということになるからです。

つまり、自由になったつもりであるが、その実は自由を奪われているということだと感じたからです。

 

ホラーじゃねえか!

 

 

潤滑油

わたしは現在村田沙耶香さんの『地球星人』という小説を読んでいます。

 

「やってくれたなあ村田沙耶香!!!」という氣持ちであり、おそらく〈ポケット書評シリーズ〉になると思いますが、その作中にて主人公が『部品』になれることを夢?みます。

 

その部分を見て『銀河鉄道999』の最終回を思い出しました。

「旅の執着点は部品になること。主人公はその結末に絶望する」というのが作品の結末なのですが、それを思い出しました。

 

 

よく言いますよね、社会の歯車って。社会の歯車になりたくないって。

 

そんな時、わたしはすご〜〜〜〜〜〜〜く厭なことを思ってしまいました。

 

もしかしたら『歯車』ですらないのかもしれません。

 

《歯車》になれたらいいね、という感じです。

 

 

 

《歯車》とは比喩としての表現ですがもちろん。

「《歯車》になれたらいいね」とは現代社会の落伍者側から解釈した願いではありません。

 

そもそも、「社会の歯車」ってのは大衆ではなく企業や組織ではないか?

その企業や組織に従事する我々大衆は「社会の歯車」ですらなく《歯車》を円滑に動かすための潤滑油でしかないのではないか?

 

チャールズ・チャップリン氏の『モダンタイムス』でも「機械の中に主人公が入り込む」という超有名な場面がありますが、この度初めて映画を見たら、主人公は歯車になったりはしませんでした。

"歯車の間を進んで、歯車を整備する場面" として、それがあったのです。

 

歯車ですらない。

 

大衆たる我々は社会の歯車ではなく、潤滑油程度でしかないのかもしれません。

救い?なのは〈部品〉ではあることと、潤滑油がないと歯車が正常に作動しない恐れがある、ということでしょうか。

 

 

本当に厭〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜なことを思いついちゃったものです( ´¨̮ )

 

 

 

ありがとうございました( ´・◡・`)

 

せっかく角川のプランに入会したのだから『独裁者』も觀ないとな( ´・◡・`)

この時勢だしな( ´・◡・`)

 

我・GA・ガイア理論

 

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

山ってあるじゃないですか。

わたしもつい先日登りました。

floodinhead.hatenablog.com

 

八十八ヶ所巡礼というバンドさんがいらっしゃるじゃないですか。

わたしもつい先日LIVEに詣でました。

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昨日八十八ヶ所巡礼さんの音源の演奏動画を見ていたのですが、そのお部屋がなんとも八十八ヶ所巡礼さんを好みそうな人のお部屋でして。

文庫本等々の書物が多くある、という意味合いなのですが、八十八ヶ所巡礼さんの音樂を好む方々って文化的なものに対しての感心や好奇心が強い方々だと個人的に思っています。

 

かく言うわたしも例に漏れません。

わたしが好きな文化物は主に書籍ですが、思えば書籍から得た知識って大小様々わたしの価値觀になっているわけじゃないですか。

もちろん自分の好奇心で集めたものに傷ついたり狂いそうになったこともあります(もう狂ってるかも)。

肉体を持った思念体ですもの‪( ¨̮ )‬

 

そういった大小ですが、仔細様々がわたしの価値觀になってわたしを形作っています。

食べたものでも、わたしは作られています。

 

もちろんその中には、うまい、まずい、苦い、辛い、つらい、やんごとない、やるせな〜いなど様々ございます。

 

過去が自分を作っています。

 

 

その上で思ったことですが、山も様々があって形作られています。

 

あら?

わたしと一緒じゃない?

 

山もわたしも清濁を経た上で形作られています。

 

つまり、わたしは山。

 

自然‪٩( ᐛ )و‬

 

 

‪٩( ᐛ )و‬ 自然‪ ٩( ᐛ )و‬

 

 

とんと忘れていましたが、わたしも自然なのであればこれは大事にしなければいけません。

なんたってアニミズムを行動規範にしておりますから‪( ¨̮ )‬

 

 

先日の記事にて『人生はエンタメだ』というなんとも使い回された比喩をしてしまいました。

しかし、というよりも、《エンタメにする氣概》こそが大事というか『エンタメにする氣概こそがエンタメ』なのではない?と思いました。

それこそ「おもしろいこともなき世をおもしろく」ってやつです‪( ¨̮ )‬

 

金がなく、クレジット決済で毎月前借りして暮らしているのならば現金決済の有り難みを感じるため、と考え、おいしいと感じられないのならおいしいとの感情を有り難がれるための布石と判断する。

 

都合の良い解釈だなあと思いますが、自らが健康に暮らすためには適度な都合の良い解釈は必要です。

もちろん他所様を痛めつけてしまうのならば考えないといけませんし、もしかしたら辛苦な状況も今後の布石として面白がろうとするのは並大抵の胆力ではまかりきれないのかもしれませんけれど。

 

 

閑話休題。

 

自分も山であり自然、という考え方を持った際に思ったことはガイア理論です。

 

【ガイア理論】とは「地球も一つの生命体だよね」という考え方ですが(生命体の細胞が我々動植物という旨)、つまりそれはフラクタルということです。

フラクタルとは簡単に言えばブロッコリーやロマネスコ。

伝わりにくいかもしれない表現をすれば、百を構成している一の中にも百が構成されておりその百の中の一にも百が…という感じの考え方です。

 

わたしは真理とかにはもう興味がなく考えることに興味があるので【ガイア理論】が "正しいか否か" なんてのは至極どうでも良いです。

『 "正しいか否か" を求める心』というのはとどのつまり〈樂をしたいだけ〉の意識だと解釈しているからですね。

樂をしたがると、いずれ足元を掬われると思っております。

まあそこらへんも平衡感覺次第なのでしょうけれどね。

 

そういった【ガイア理論】を狭量で矮小な脳みそに入れて考えてみれば『自分は自然』『俺はガンダムだ』と思うと共に『自然は自分』『ガンダムだも俺』と思うこともできます。

 

そう思えば、見ず知らずの方も自分の化身、生き別れた細胞の一つと考えられ、愛し尊重することはできませんか?

できませんか。。

 

まぁ物事には順序というものがありますもんね…。

 

 

とはいえ。

この度わたしは《自分は自然であり自然も自分》ということに考え至りました。

つぅことは神も仏も全てわたしということで、『一は全、全は一』ということです。

わたしもあなた様もわたし様であなた神仏イェー‪٩( ᐛ )و

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これから暑なっさかりなまつになりますので、どうぞお身体にお氣をつけください‪( ¨̮ )‬

片割れより愛を込めて‪( ¨̮ )‬

 

ありがとうございました‪( ¨̮ )‬