頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

【固定記事】いとをかしき言葉のお話

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

 

 

 

言葉はその人自身

皆さんは言霊という考え方をご存知でしょうか。

 

言霊とは、古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力。

発した言葉通りの結果を表す力があるとされた。

 

 

という意味合いらしいです。

 

いろいろ個人で感じ方に違いはあると思いますが、わたし個人は言霊は存在すると思っています。

友人や上司に言われた言葉で傷つくという現象も、言われた言葉がずっと残っていて胸につっかえるという現象も、言霊が存在しないと起こらないと思うのです。

 

またその言葉は、思考を使わないと発せられることはありません。

 

 

言霊の話とはすこし離れますが、全ての物事や現実は、思考の後に生まれると考えています。

戦国時代に「電話を使えば、遠くにいる親類と会話することができる」と話したところで、だれも相手にしないでしょう。

下手をすれば「邪教を布教しようとしている!」と言われて打ち首に処せられる危険さえあります。

 

憶測の域を出ませんが電話を作ろうと考えた人も、「離れた人と話せるわけがないでしょうに」と外野から笑われていたのではないでしょうか。

しかし今では当たり前となっています。

成功者の特徴として他者から"笑われた経験がある"というのは、ひとつの指標になるのではないでしょうか。

 

 

言霊

言霊の話に戻ります。

すこし眉唾な話に聞こえると思いますので、話半分にでも聞いていてください。

 

日本語にはとても大きな力が含まれているらしいです。わたしはまだ不勉強なので、ちゃんと説明はできませんが、カタカムナ文明や、カタカムナ文字の48音と現代日本で用いられている48字の一致などです。

カタカムナでは「ひふみよい」や「むなやこと」とかと言ったりするんですが、「いち、に、さん」と今では読んでいる「12345678910」も、むかしは「ひふみよいむなやこと」と読んでいたらしいです。「ひい、ふう、みい」ですね。

 

またあまり知られていませんが、第二次大戦で負けた後にGHQが日本を占領統治しましたが、そのGHQが日本の漢字を無くそうと画策しました。

「漢字というものは複雑にすぎる。あんなに難しいなら識字率も低いだろうし、それが原因で思想も偏る。結果戦争に繋がるだろうから漢字なんて廃止してしまえ」というロジックだったみたいです。

その後全国で一斉に識字率調査を行なった結果、全体の97%くらいが日本語を読み書きできたそうです。

 

漢字廃止計画は頓挫しましたが、神風特攻を生み出した民族を恐れていたGHQですから、どうしても日本の国力を下げたいために漢字の書き換えを行います。

氣を気にしたり、國を国にしたり、學を学にしたり、靈を霊にしたり。

理由等はこちらの動画様で話されていますので、ご覧になってみてください。

youtu.be

 

 

この前太宰治さんの短編を読んでいたら『慾』という字が出てきました。読みは「よく」

意味は欲望の「よく」と一緒ですが、現在の日本では『欲』が一般的です。

これもGHQの言語統制・言語統治でしょう。心が消えていますね。

 

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https://www.shinchosha.co.jp/book/100606/

 

中學時分は夏目漱石さんの旧字体で刊行された時の文庫とかの文學を読んでばかりいた為、旧字体にも馴染みがあったので特段無理なく受け入れることができました。

ですが、生まれてからも成長してからも目で考えていた人には意識を書き換えるのは苦労なさるでしょうね。

ヒトは考える場所が「心・頭・目」の三つあるとわたしは思っているのですが、その話も機会があればまたお伝えいたしますね。

 

 

同じ意味の漢字でも効果が違う?

なにが言いたいかというと、思い浮かべている漢字次第でも言葉の意味が変わるんじゃないかということです。

GHQの統治前は教科の名称が「國史」だったけれど、現在の學校教育下では、「歴史」になっています(こうの史代さん原作の、映画『この世界の片隅に』でも國史と描写されています)。これは「自國の歴史ではないように刷り込ませる為」であったりするらしいです。

 

 

わたしが非常に氣分良く思わない言葉があります。

「雰囲気」を「ふいんき」を発音している人が多すぎる。正しくは「ふんいき」です。

また、漢字ごとに考えてみると、雰は氣配・囲はとりまく・氣はエネルギー。

つまりその人の纏っているエネルギーという意味合いになります。つまりオーラと同義でしょうね。

それを正しく言わずに「ふいんき」と発音するというのは、その人自身のオーラ(エネルギー)を反故にすることなのではないかと感じます。

 

なにかで、「新しく納めた國や土地は、まず最初に言語を書き換えるのが大前提の常套手段」と聴いたことがあります。

漢字は亡くせなかったけど、言靈的な意味から無効にしてから75年くらいですか。

現代日本でも着々と言語の書き換えの刷り込みが行われていますよね。台所をキッチンと言ったり、鶏肉をチキンと言ったり、まな板をカッティングボードと言ったり。

言語の統制話は華氏451度にも通じますね。

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https://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/11955.html

 

このお話は、前回に書いた一九八四年の話とも繋がりますね( ¨̮ )

 

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文字通り流れて行く言葉と、昔からある言葉

あと個人的に流行り言葉にも不満を感じるんですが、これは若い世代についていけないだけでしょう。

でもその時代だけのスラングみたいなのばかりの文章は、パッと見ただけでも非常に頭が悪く見えてしまうのだなという発見があったので有難い経験だったと思います😉

 

またそれにより逆に思うのは、「昔からある言葉の力」です。

最近の流行り言葉だと「エモい」とかなのでしょうか。あと比較例として「鬼」や「神」もありますよね。

12,3年前に爆発的に流行った「KY」という略語も今ではめっきり聞きません。

ここからわたしは「言語って結構残酷に、かつ容易に淘汰されるんじゃないか?」と思いました。

 

わたしはギターを嗜んでおり、今年で14年目くらいになります。

高校生の時分には「とにかく早く上達するコツ」を求めていたのですが、上達するには「今現在でできることを日々積み重ねるのが一番手っ取り早いと氣づきました(今現在できることを日々積み重ねていると、「これをこうしたらどうだろうか?」という閃きが生まれます)。それを理解したのがつい半年前とかです。

これって「急がば回れ」ということではないでしょうか。

 

他には「人のふり見て我がふり直せ」を実感したお話もあるのですが、非常に印象的かつ"いとをかし"な出来事で、いざ書くとなるときっと長くなるので、また今度個別の記事にしたいと思います。

端的にいうと『他者を通して自分を見ている』です。

 

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上記した昔からある言葉は、わたしが認識しているだけでも、祖母祖父の代からは存在していて、淘汰をされていません。

一時的な言葉が10年そこらで淘汰されるているのに対して、90年近くも生き残って、語り継がれていると言うのは、その言葉自体の言靈的な力が働いていたり、ヒトがヒトの世を生きるにおいて、ある種の真理を含んでいたり真理に触れていたりするためではないでしょうか?

 

 

ちなみにわたしが「エモい」という言葉が嫌いなのは、「自身の語彙の貧弱さを改善する氣もなくその貧弱さに胡坐をかいている姿勢が見えるから」です。簡単に言えば向上心がないということでしょうか。

「精神的に向上心のない奴はばかだ」

 

もういっこちなみに、「語彙力」という言葉が幅を利かせていますが、「語彙」は英語でボキャブラリーです。ボキャブラリーは豊富や貧弱と言われるように『量』です。

その量が能力というのはおかしな話なので、「語彙力」という言葉は根本から破綻しており、「語彙力」という言葉をそのまま使う方は、語彙も國語的な言語能力も貧弱だと、わたしは思います🌝

 

 

「無い物ねだり」という言葉があります。

『ないものを欲しがること・無理なことを望むこと』という認識が一般的で、わたしもその意味合いだけだと思っていたのですが、『自ら無い状態や不足感を望む』ことでもあるのではないか?と思いました。

不足感や、理想像などの目標が常にある方が頑張れて充実を感じられるから。

不自由な方が自由にできる』みたいな話ですね。

フレーミングの癖をつけていると、ちょくちょくこういった閃きがおりてくるから楽しいです😚

 

 

『無いものねだり』の話を描きたいだけだったのに、他のずっと思ってたことを書いたら3500字以上も書いちゃってたわ😘

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

鬼滅の刃 柱稽古編 第六話『鬼殺隊最強』 感想・考察

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回も『鬼滅の刃 柱稽古編』の感想会です。

 

これまでの鬼滅の刃についてのもの

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結構理にかなってる

「最も重要なのは中心。足腰である。強靭な足腰は、正確な攻撃と防御に繋がる」と、岩柱の悲鳴嶼行冥さんは言います。

その修行として、滝行・三本の丸太担ぎ・大岩転がしが言い渡されます。

 

この持論と修行の内容ですが、結構的を射ていると感じました。

 

劇中でも炭治郎くんが言っておりましたが、上空から落ちる水は重く、それを受け止めてまで立っているには体の軸がまっすぐと立っていなければいけない。

丸太を担ぎ上げるには丸太の中心を担がないといけないし、体の軸がぶれていると釣り合いが崩れてそもそも担ぎ上げることができない。

大岩を動かすのには、それこそ体の軸をまっすぐにして効果的に力を加えないといけない。

これら全ては足腰もとい、身体の中心がしっかりと確立されていないと行うことができないのですよね。

 

なので、修行内容を聞いて「結構理にかなってるな。というよりも一番重要なことだよな」と思いました。

 

ただ、「この三つのみの簡単なもの」という言葉は聞き捨てならなかったです。

簡単??

 

 

伊之助くんが川魚の骨を「歯ごたえがあってうまい」と言っている時の隊士の顔がドン引きしきっていてすごく面白いですね。

 

 

あと悲鳴嶼行冥さんが大岩を動かしてるの見て「丁度通ってるなあ!」じゃないんだよ 笑

 

 

 

共有

鬼舞辻無惨さんが新しく上弦入りした?らしい鳴女さんという部下に指示を出します。

昔は琵琶女だと思っていたのですが、命名されたのでしょうか?

 

それか役職がつくと名前もついてくるみたいな運用だったりするのかしら?

 

ところでこの鳴女さんは参謀的な位置付けにて活動をされています。

「このあたり頼んます」と鬼舞辻無惨さんが言うと、その近辺にいる血鬼術の小間使いが視界を獲得します。

小間使いの視界は長である鬼舞辻無惨さんとも共有されているようですが、ということはやっぱり珠世さんと胡蝶しのぶさんが組んだら視界も共有されて位置が特定されちゃうんじゃないのか?と思いました。

でも蝶屋敷は藤の花があるから大丈夫なんですかね。

でもでも藤の花があるとしたら鬼の珠世さんは蝶屋敷に入れないのではないのか??

 

鬼舞辻無惨さんは太陽を克服した禰豆子さんを欲しているわけですが、当の禰豆子さんは眠っているから場所が特定できないとかなのですかね。

禰豆子さんが起きている場面が第一話にありましたが、あの場面は日中であったため鬼舞辻無惨さんは感知できていないということでもあるのでしょうか。

ということは、鬼は日光を直接浴びるだけでなく紫外線云々を見ることもできないということ?

いや、でも鬼舞辻無惨さんの回想で日中の屋外を見てはいたので、そういうことでもないのかも。

 

 

焦燥感

最後の難敵、大岩動かしで炭治郎くんは大苦戰をします。

『できへんもんはしゃーないんやし、まぁぼちぼちやってったらええんちゃう?』とわたしとしては思っていたのですが、炭治郎くんが「鬼だっていつまで大人しくしてるかわからない」と言っていたのを聞いたら、そりゃあ焦燥感を覺えるのも仕方ないよな、と思い直しました。

炭治郎くんの性格上、自分が稽古を早々に満了していればと思うように感じますしね。

 

 

そんな悩んでいる炭治郎くんの元へ不死川家の弟・玄弥さんが声をかけます。

初対面の時はかなりピリピリつんつんしていましたが、だいぶと炭治郎くんに心を開いているご様子です。

前回の不死川邸での一件にて「玄弥がいなかったら上弦には勝てなかった!」と庇ったのが影響しているのでしょうか。

そりゃああんな風に言われたら嬉しいよねえ。

てかもともと兄弟での接触禁止されてたのかよ。

 

 

『反復動作』の重要性を炭治郎くんに教える玄弥さんですが、これってスポーツとかでよく言われるルーティンとゾーンについてのことですよね。

実際他の分野でも『自分の最大限の能力を引き出すための準備運動』をあらかじめ決めて行なっている方は多いそうです。

 

 

ところで玄弥さんの声いいですね!

おそらく伝わらないと思いますが、ベースの低音弦みたいなゴリっとした感じがとても好みです。

 

 

夜明け

玄弥さんより伝えられた反復動作を用いて、夜明け前から修行に励む炭治郎くん。

 

ところであの大きさの岩って人一人で動かせるんですかね?あの半分でも数百キロはあるでしょ。

 

 

反復動作のこつを摑んだ炭治郎くんは大岩を動かすことに成功します。

この場面は夜明けと同時に起こるのですが、『動かなかったものが動いた』ということの《夜明け》と、丸太担ぎに成功した際に「次は大岩か…」と見た岩が月と重なって変わるという演出がされていたことで、大岩=月と言い換えることができ、『月が動くとは、つまり夜明け』という表現にもなり【夜明け】は鬼に勝つことの隠喩にもなるという、二つの意図がかかったなんとも粋な演出がされておりました。

 

こういう演出がされているので作品というのは好きなんですよね。

 

 

悲鳴嶼行冥さんというよりも杉田智和さん

エンディング終わり、悲鳴嶼行冥さんが登場します。が、「南無…。猫かわいい…」の部分は悲鳴嶼行冥さんというよりも声を当てていらっしゃる杉田智和さんの方が強く出ていたように思います。

 

あれは杉田さんです。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 


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鬼滅の刃 柱稽古編 第五話『鬼を喰ってまで』 感想・考察

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

鬼滅の刃 柱稽古編』の第五話「鬼を喰ってまで」の感想回です。

 

 

これまでの『鬼滅の刃』についてのもの

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幸せぱんけぇき

前回の終わりにあった炭治郎くんが甘露寺蜜璃さんのご自宅へ訪問する場面より開始です。

養蜂を行なっているとのことでみつばちさんが飛んでいますが、みつばちさんはCGなのですね。

 

「スイーツ〜♪ パン〜♪ パンケーキ〜♪」と浮き浮きしていらっしゃる甘露寺蜜璃さんの右手が、肘の関節無視みたいな曲線で可愛い美しいです。

 

 

次の場面でバターと巣蜜がたっぷり乗った三段パンケーキが登場します。

これはさすがにあまりに美味しそうすぎますね。あとあまりに幸せを具現化しているというか。

アニメーションの美味しそうな食べ物の代名詞で『ジブリ飯』なんてものがありますが、鬼滅の刃に登場する食べ物もわりと引けを取らず美味しそうだと感じます。

 

初めての味でメロメロになる炭治郎くんですが、「あぁ〜〜!炭治郎くんが西洋にかぶれちゃう!」などと要らぬ心配をしたりしました。

 

 

 

余談ですが、わたしも触発されてホットケーキが食べたくなったので、数年ぶりに自分で焼きました。

お箸で食べたのでほっとけぇきです。

 

小麦のものはあまりよくないのですけどね、たまに食べる分にはやはり美味しいです。

 

 

飴と鞭

「食べたら稽古!」ということで、エアロビクス衣装に着替え柔軟のお稽古です。

 

甘露寺蜜璃さんの鎹鴉さんが蓄音機のそばで番をしていますが、なんという可愛い。

電氣にて駆動するものではない、いわゆるな蓄音機であるためぜんまいを巻く必要がありますが、それさえも行なっているのだからまた可愛いです。

 

 

「そんなんじゃダメだよ♡」と甘露寺蜜璃さん自らが隊士の柔軟を行います。

この場面で炭治郎くんが「柔軟というよりも力技!」とドン引きしますが、意外でしたね。

いつもなら「すごい!さすが柱だ!」とでも感嘆すると思うのですが、そうではなかった。

憶測ですが、これって稽古をつけてくれる甘露寺蜜璃さんがナチュラルに狂っているから、ツッコミ役としてですよね。

本来なら善逸くんが常識人的な立ち回り(読者の代弁)をしていますが、その役回りをする人が不在であるので、炭治郎くんが常識人の立ち回りを行った。

 

炭治郎くんが「柔軟は地獄〜!!!!」と言いますが、案外体が堅いのかもしれませんね。でも堅そうだと思ったら確かに堅そうに思う。

 

 

嫉妬(かわいい)

甘露寺蜜璃さんの稽古を終え、次は伊黒小芭内さんの稽古場に到着の炭治郎くん。

「竈門炭治郎、俺はお前を待っていた」と出会い頭で伊黒さんは愛の告白(嫉妬)をかまします。

 

嫉妬の理由は伊黒小芭内さんが甘露寺蜜璃さんのことを恋慕っているからなのですが、この嫉妬が側から見るものとしては可愛くて仕方がないですね。

でも実際にされたらめちゃ面倒くさいタイプだとは思います。

 

再三申しておりますが、わたしは『鬼滅の刃』をアニメだけで追っている人間です。

しかし、原画展には行ってパンフレットも購入しています。

上記した炭治郎くんを向かい入れる場面で、伊黒小芭内さんと甘露寺蜜璃さんとは文通を行っていることが文章にて説明されますが、アニメ版では文通の様が描かれておりましたね。

 

甘露寺蜜璃さんからのお手紙が到着したことを聞いた伊黒小芭内さん。

すごい速度で手紙の元へ移動します。

「稽古後に炭治郎くんとお茶したよ☆」というなんてことない報告を読んでいる時の、心中穏やかではない感じがにじみ出ている伊黒小芭内さんがとても可愛いですね。とても可愛いです。

 

 

「お前の稽古はこれだ」と言い処刑場かと見紛う稽古場を紹介する伊黒小芭内さん。

『"は" ?』と思ったのですが、おそらく伊黒小芭内さん特性の炭治郎くん専用道場ですよね。

相当炭治郎くんに対して嫉妬をしていると思われ、それだけ甘露寺蜜璃さんへの恋慕が深いのだなぁと感じて微笑ましいです。

 

とはいえ、稽古の内容は理にかなったものというか、実利につながるものだと感じるので、さすが柱とも思います。

 

 

炭治郎くんが伊黒小芭内さんの羽織を斬ったことで伊黒稽古は終了しました。

羽織を斬った際の伊黒小芭内さんの表情が「よくも斬りやがって…」と「もっと稽古をしてやりたかったのに…」の感情がないまぜになっているように思えて面白いですね。

 

 

あれ?鬼滅の刃ってホラー作品だったの?

不死川実弥さんの稽古場へ向かう炭治郎くん。

「稽古場はどこかなー」なんて歩いていると、空から善逸くんが落ちてきました(空から人が落ちるのなんてラピュタか春くらいだぞ)。

 

ちょっと。この演出ホラー映画で見たことありますよ。

鬼滅の刃』ってホラー作品だったの?

ちゃんとびっくりしたので本当にやめてほしい…。

 

 

「俺はお前を認めてない」と威嚇する不死川実弥さん。

その発言に対し「わいも自分のこと認めてないからおあいこやな!」と炭治郎くんが発言します。

前にあったことがあったことであるとはいえ、怖いものなしかよ。すげーな。

 

「わいも認めてないで!」と言った後の炭治郎くんの顔が良いですね。

 

 

『ボコボコのゲロまみれ』状態になり、心が折れそうな炭治郎くんが宿舎を歩いていると、不死川玄弥さんの声が聞こえます。

 

内容は実兄である不死川実弥さんと話がしたいというもの。

「俺には弟はいない」と言い放つ兄・実弥さんですが、ここの場面はちょっと悲しいがすぎますね…。

流石に何か事情があっての発言だとは思うのですけどね。

 

ところで兄弟で向かい合う場面、ちゃんと兄弟の表情というか、弟の玄弥さんが「弟の顔をしている」のが印象的です。

髪型の妙もあるのでしょうが、おでこの広い童顔に描かれているために《兄と弟》という印象の棲み分けができているように感じます。

 

 

もめてる人間は散らすといい

度が過ぎた兄弟喧嘩に仲裁した結果、しっかりと喧嘩になる炭治郎くんと不死川実弥さんです。

炭治郎くんってわりとみんなから好かれそうな印象だったのですが、ここまではっきりと犬猿の仲みたいな描かれ方をしているのって、それはそれで印象的ですね。

 

炭治郎くんから不死川玄弥さんを任された善逸くん。

『もめてる人間は散らすといい』という、どの世界でも有用な発言をします。

しかし不死川実弥さんのことを「完全に異常者じゃねえか!」と言ってしまったために不死川玄弥さんに殴られます。

 

いいですよね。

あんなことを言われてもなお「俺の兄貴を侮辱するな!」と言えるのは並大抵ではないです。

 

 

不死川実弥さんと大喧嘩をした結果、炭治郎くんは風柱との稽古が中止になった上で接近禁止の令すら言い渡されました。

 

中止になったため、次の柱である岩柱・悲鳴嶼行冥さんの稽古場(というよりも修行…)に到着したところで、第五話終了です。

 

 

次回第六話は『鬼殺隊最強』とのことで、最後の柱となるのでしょうか?

となると、『鬼滅の刃 柱稽古編』は全七話とかになるのでしょうか。

 

愉しめればいいや。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

超長期計画の侵略

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

わたしはよく日本語についての記事を書いています。

 

特に、GHQによって改変された日本語についてのものが多いです(言語だけではなくGHQによる日本への侵略についても)。

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メディア等により日本語が英語の言葉に言い換えられている現状も非常に嘆かわしく思っているわけなのですが、今回はこれについての内容です。

 

さて『日本語でも表現する単語があるのにわざわざ英語に置き換わっている言葉』なのですが、今回は箇条書き的に一覧へしてみようかしら、と思いました。

 

ここ最近で言い変わっている言葉たちの一例

 

油→オイル

鶏肉→チキン

ご飯→ライス

お塩→ソルト

タレ→ソース

石鹸→ソープ

胡椒→ペッパー

台所→キッチン

お出汁→スープ

玉ねぎ→オニオン

主流→スタンダード

にんにく→ガーリック

扇風機→サーキュレーター

 

 

圧倒的に食への言葉

 

 

一応言っておきますが、別に英語に対して嫌悪をしているわけではありません。

『元々の言葉のまま舶来したもの』についてはそのままで良いと思います。

 

《元々の言葉のまま舶来したもの》とは「グラタン」や「インターネット」、「コンピューター」や「メディア」などです。

 

舶来した文化の言葉であれば問題はないのです。

 

 

はて、この時にふと思いました。

「初めましての文化だからこそ受け入れているのではないか?」

「もしかして、ここにカラクリと思惑が隠れているのではないのか?」

 

先にあげた「グラタン」や「コンピューター」といったものは、もともと日本という場所にない文化です。

そのため、舶来の言葉であっても受け入れているわけです。

 

 

ここで鳥類の「刷り込み」の話をしましょう。

鳥類は卵から孵ったのち、最初に見た動くものを親だと認識するそうです。

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では、初めて触れた言葉が英語の言葉だったら?

 

日本で生活しているけど鶏肉のことを『チキン』と呼称する家庭で育った場合、その方は「鶏肉」ではなく「チキン」という呼び方の方が主流になります。

日本語にある言葉をわざわざ英語に置き換えて発言する家庭は、他の言葉も英語にして発言している可能性が高いので、その家庭の子どもたちは英語の言葉に多く触れます。

そして、そういった家庭が増えると、将来的には「お出汁」や「胡椒」などの日本語は《時代遅れ》のものとなるのかもしれません。

これにて【侵略】と〈漂白〉が完了、というわけでしょうか。

 

 

この侵略計画は自身の計画が大失敗に終わったGHQにとっては悲願なのかもしれません。

自由民主党における憲法改変のような。

「劣等民族である日本人などに我々の計画を反故とされた恨み、イエローモンキーの分際で白人様に逆らった、この屈辱。必ず侵略をする」という執念なのかもしれません。

 

 

あくまでも一人の頭のおかしな人間の妄想とでも思っておいてください。

ですが、このままだと妄想と一笑に付すこともできないと思いますけれど。

 

 

 

本を読もう!

 

 

ありがとうございました。

 

価値基準が変わる ~書いていることばかりが全てではない~

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

わたくし事で恐縮なのですが、わたしは六月に誕生日があります。

つまり歳を一つ食うわけです。老化するわけですね。

 

今年で成るわたし自身の詳しい年齢など今回の記事には関係しないので、書くつもりはありません。

十代、廿代、30代、四〇代、はたまた米寿になるのかもしれません。どうでもいいですよ。

 

わたし自身、年齢については興味がないという氣持ちが強いのですが、この十数年や数十年を生きていて、考え方?に変化が出てきているように感じます。

 

それは「自分の年齢がぱっと思い出せない」です。

 

 

昔はわりと「えーと、いくつです」と答えられていたのですが、今では「えーーーと、いくつだっけ?…あ、いくつです」といったように返答に時間を要するようになりました。

この理由を考えてみたのですが、人生や生活というものに対しての価値基準や重要とするものが変わったからなのではないか、というのが現時点での結論としての一つです。

 

 

その【価値基準】がなんなのだ、という話になるのですが、それは『自分・相手の年齢がいくつなのか』です。

 

わたしは以前より「自分より年食ってるからって大したことない奴は大したことないよな」と思っておりました(自身の好き嫌いで態度を変える者はいるし、後輩やそんな程度の理由で挨拶をしないなど)。

そんな『以前』から『現在』へ至るにつれ、上記の考え方が強固になり、わたしの対人関係やわたし自身の人生への価値基準が【その人自身の脳みそでちゃんと考えられているか】に変わっていきました。

 

その変遷があったことで《年齢》という要素が重要ではなくなってきたのですね。

 

 

もちろん年の功はありますが、儒教の腐ったような『無条件に年長者は敬う』なんてことはしなくて良いというか、その儒教の腐ったような価値觀があるからこそ、ただのうのうと生きて年を食っただけのボンクラが偉ぶっているのだとも感じます(多数の年長者が話していることは、ある種の真実があるはずなので耳を傾ける必要はあると思います)。

誕生日ごとに「レベルアップした!」と嘯いている方がいらっしゃいますが、その程度で人間として成長しているのならば、世界はもっと良いものになっているはずでしょう(あと年に一回しかレベルアップできないって、それは成長速度が遅いのでないのか、とも感じます)。

 

結局自分自身を肯定できるものがないから『年齢』という即物的なものに縋るのではないのか、と思いますが、その苦言は今回のお話とは関係しないのでほどほどに。

 

 

しかし思い出してみれば、わたし自身も年齢に拘っているときはありました。

特に小・中學生時分はそうでした。

 

ですが、それっておそらく『自分自身の誇れるもの』みたいなのが年齢しかなかったからだろうと感じます。

武器が一つだけしかなかったら、一本槍を過剰に大切にするのは納得です。

幼稚・稚拙とは思いますが、その幼稚さも時代によっては必要なことだと思いますので、ご愛嬌というところでしょうね。

 

しかし、わたしも少なからず年を食ったことで武器になるものを得ました。

このブログで書いているようなことや、様々なものに対しての考えというような視点です。

わたし自身の本質は『世界に対しての洞察である』と腑に持っているため(しかし、自信などを持つと怠慢に繋がるので、自負は持たない、あるい程々に抑えていないといけません)、年齢という要素に意味というか重要性がなくなったのでしょう。

ところで、わたしのプロフィール?をひっさしぶりに見返したのですが、一行紹介の欄にて『思想家があなたに話します』と書いていて、自分で書いたことながら「まったく大きなことを書いたものだなぁ」と苦笑してしまいました。

はたして有言実行はできておりますでしょうか。

 

 

他にも自分の年齢が咄嗟に出て来ない理由を考えたりもしました。

昔は環境的に「いまいくつ?」と質問をされていたけど、今現在自分自身がいる環境が「いまいくつ?」の質問をされる環境ではない、ということもわたし自身が年齢を忘れる理由になっているのだとも思います。

 

 

他の理由としては、単純に自分自身の現実を見たくないだとか。

「うわ、自分もうこんな歳かよ」と思いたくないとか。

深層意識ではそういう理由もあるでしょう。

思い出してみれば、その昔わたしの母へ年齢を聞いたときも「忘れた」と言っていましたが、それも現実を見たくない理由があったのかもしれません。

どうでもいいですよ。

 

 

ところで、わたしは昔からわりと早く年を取りたかった人間です。

その理由としては、『明らかに自分が正しいことを言っている』のに【年齢が幼い】程度のことで相手にされなかったからです。

ある程度年を食ったら発言も聴いてもらえる機会が増えますからね。

 

年長かどうか程度の薄っぺらい理由で『手前自身で物事の本質を考えもせず《自分で考えていると思わされていること》で考えたつもりになっている』人間が偉ぶっているのって我慢ならないですからね。

自分よりも若い方の質問や発言・言動が、自分の知らなかったことへのきっかけになることも往往にしてあるだろうのに。

 

ま、《明らかに自分の主張は正しい》と思っているあたりから、まだまだ幼いということの証明になるのですけどね。

 

 

 

そういった年齢についての記事でした。

『年齢は重要ではない』と考えているということは、『いつ死のうが大した変わりはない』ということにもなるのか?

いや、それとはまた話がべつかしら。

 

 

 

ありがとうございました。

どうぞお好きに生きてください。

 

鬼滅の刃 柱稽古編 第四話『笑顔になれる』 感想・考察

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

アニメ『鬼滅の刃 柱稽古編』の第四話感想です。

 

👇過去に書いた『鬼滅の刃』の記事👇

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

産屋敷さんは親というより祖父

いつの間にか時透宅お抱えの研ぎ師となっていた鉄穴森さん。

 

刀鍛冶の里にて研ぎの技術に感銘を受けた無一郎さんが用命したのだと思いますが、かなり信頼をしている様子です。

 

 

炭治郎くんに刀を持たせて、その刃に紙飛行機を投げるという場面がありますが、そういった行動からも鉄穴森さんの技術を買っているのが伺い知れます(しかし無一郎さんのコントロールが良すぎるほどに良い)。

 

ところで大正時代に『紙飛行機』ってあったのでしょうか。

いえ、そのもの自体はあったのだと思いますが「飛行機」という言葉があったのか否か、という疑問です。

「飛行機」はどうしても昭和以降のものだと感じますしね。

 

しかし刀鍛冶の里にて記憶を取り戻す前は「研ぎ師は刀を研ぐことしか脳がないのだから」と発言していた無一郎さんがここまでになるというのは成長なのか不明ですが、なんとも嬉しくはあります。

 

 

鉄穴森さんが時透宅に常駐している理由を炭治郎くんが聴くと、無一郎さんは「『来たる戰いに向け、いつも刀を最高の状態にしておきたい』そう申し出たら親方様から僕の思うようにしたら良いと。そして、刀を研ぐための部屋まで作ってくださった。いつも僕たちのことを一番に氣にかけてくださる」と返答します。

 

ここで思ったのですが、産屋敷さんは隊士達のことを我が子として発言しておりましたが、接し方としては祖父祖母の役回りなんですね。

昔聞いたところによると、子どもに対して厳しい立ち回りをするのはその子の親の役目であって、祖父母は全てを肯定する役回りとして機能するものなのだそうです(もちろん例外はあるでしょう)。

 

「こう言ったことがしたいんだ」という隊士の発言に対して「好きなようにやったらいい」という返答をした産屋敷さんは正に親というよりも祖父母的だな、と思います。

また無一郎さんが「ご自身のお身体にこそ氣を遣っていただきたいのに」と発言しますが、それも『死が近づいているからこそ悔いを残したくない』という想いで隊士たちの好きなようにさせているのではないのか、と思われます。

 

 

柱は男神の元に集う

日中の稽古が終わり、談笑と水浴びをしている炭治郎くん。

そこで門から外出する無一郎さんを見かけます。

 

時は夕暮れ。

他の隊士は「夕飯でも食べているんじゃないか」と推察をします。

 

 

町を走る時透無一郎さん。

それを静かに見つめる眼。

オープニングにて《肆》の眼が禰豆子さんを見つめていますが、新しく上弦の肆に就任した鬼の方でしょうか。

以前に鬼舞辻無惨さんより「琵琶女」と呼称されていた女性でしょうか。

 

鬼としての活動は超参謀的な立ち位置ですが、琵琶という部分からも無限城の血鬼術とも関係あるのかしら?

 

 

夕方に家を出て無一郎さんが向かった先は神社でした。

そこでは風柱の不死川実弥さんと蛇柱の伊黒小芭内さんが決闘を行なっております。

とは言っても木刀です(木刀でも呼吸の術って出せるんだと思いました)。

 

前回で言っていた『決闘』ってこういうことだったんですね。

炭治郎くんらの隊士から見たら稽古でも、柱からすれば稽古にならないから柱同士で実戰方式の決闘をして互いに稽古をつける、とこういうことです。

 

 

『敬意を評して』とのことで風柱・蛇柱 対 霞柱という構図で稽古が開始されますが、「…敬意?」と思いました。

しかし戰う男には戰う男の価値觀があるのでしょう。

 

「二人なんてずるなぁ 笑」と無一郎さんは嘆きますが本心では全く思っておらず、むしろうずうずとしているようなのが伝わってきます(強キャラの立ち回りじゃねえか)。

 

ところで時透無一郎さんの戰い方?ですが、めちゃくちゃかっこいいですね。

わたしは基本的に闘いの描写とかは興味がないのですが、そんなわたしでもかっこいいと感じます。

あと霞の呼吸を元にした立ち回りに面食らっている不死川さんと伊黒さんを見て「無一郎さんの方が上手なのか?」と思ったのですが、単純に柱は他の柱の技を見たことがないだけかもしれませんね。

 

 

空が白みだす頃、柱同士の稽古は幕引きとなります。

あ〜あ〜もう境内がぐちゃぐちゃじゃねえか。

神主さんが大変だし、そもそも祀っている神様が黙っちゃいないんじゃないのか。

もしかして鬼殺隊が持っている神社とかだったりするんですかね?

 

 

炭治郎をどう料理するかに浮き浮きしている不死川実弥さんを前に「樂しそうだなぁ、頑張れ。炭治郎」と無一郎さんが発言する場面、カットとしては夜が開け出した空を背負った神社の御社が映ります。

柱同士が稽古していた神社ですが、男神を祀っている神社だったのですね。

 

素盞嗚尊のような猛々しい男神もいらっしゃるので、柱同士の打ち合いも「元氣でよろしい!」と氣分をよくするのでしょうか。

 

神社を去る前にちゃんと元の状態に戻している柱たちを想像したら可愛らしいな、と思いました。

 

 

隊服

他の隊士と炭治郎くんとで無一郎さんの目の輝きが違います。

こりゃ相当に一般隊士への稽古が愉しくないんでしょうね。。

 

 

炭治郎くんが「紙飛行機の飛ばし合い競争をしよう!」と提案します。

炭治郎くんが『いいこと思いついた!』と思うことって大抵突拍子がないですよね…。。お蕎麦の大食い対決とか…。。。

 

炭治郎くんの提案に乗った無一郎さんは隊士たちとともに庭へ出、紙飛行機に興じます。

この場面で「ほえー」と思ったのですが、各話の主軸となる柱と主人公の炭治郎くん、その他一般隊士とで隊服の色が違っているのですね。

単純に階級ごとに色が違っているだけだとは思いますが、適切に目立たせるための表現として柱は黒目、炭治郎くんは臙脂の混ざった小豆色、一般隊士は焦げ茶色に塗り分けているのはアニメ的表現というか、お見事と感じたというか、そんな感じです。

 

 

イカラ…。

お次の柱は恋柱の甘露寺蜜璃さんですが、養蜂をされているとのこと。

みつばちさんたちって可愛いですよね〜〜。そして、自然の循環にあるもの擁することができるなんて、とても豊かだと思います。

 

炭治郎くんが養蜂に触れると甘露寺さんは「バター♪ パンケーキ♪」と浮き浮きしますが、ハイカラですね…。

バターあたりは明治期に舶来したはずですが、山育ちの炭治郎くんからしたら知らなくでも仕方ないと感じます。

 

バターとはちみつたっぷりのパンケーキが食べたくなってきちまったな。。

 

 

さて、次回第五話は『鬼を喰ってまで』とのことですが、玄弥くん登場するんですかね??

 

 

フェイクノンフィクション    フェイクノンフィクション?

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

人とはデータなのか。

最近フィリップ・K・ディックさんの『流れよ我が涙、と警官は言った』という作品を読みました。

 

この作品はジェイスン・タヴァナーという超売れっ子人氣芸能人が一夜にして "存在しない人" になってしまう、という作品です(出生記録などのあらゆる情報が消えてしまう)。

 

主人公のジェイスンさんは毎週火曜日の夜九時からの一時間、冠番組を持っており、その放送時間内は三千人の視聴者がいるそうです。

 

「毎回九時きっかりに番組が始まる」と言及されているのですが、我々が過ごしていると思っているこの世界でも同様のことは行われています。

 

 

脳、オンの広告効果

テレビプログラムやラジオプログラムは時間割が組まれておりますよね。

 

何時から何時の間はどの番組が放送されるか。

時間割にて規定されている時間きっかりに番組が始まる。

 

これって広告の効果を高めることに寄与しているのではないか?と、今回感じた次第です。

 

民放放送のテレビ・ラジオ番組は企業のスポンサーが制作費を提供しているそうです。

その代価としてCMという形で放送しているのですね。

 

テレビ・ラジオなどの番組はその番組を欲する複数人がいるはずです。

いるからこそ番組として放送されているはずです。

 

番組を欲している人がいる。ということは、番組の開始を待っているということですよね。

好きな番組であるから、放送の開始を今か今かと待っている。

そんな状態の時、脳はオンの状態であると思われます。

 

オンの状態でCMを見聞きすると、どうなるか。

これはわたしの憶測ではありますが、放映された広告の内容がより意識に刷り込まれやすくなるのではないかと考えます。

 

世の広告は『対象の商品やサービスを消費者が購入・利用するように誘導すること』を目的としておりますが、その《誘導》の一手法として「無意識的に意識付ける」というものがあります。

 

どうすれば意識づけに効果的なのかという話で、以前にも言及しておりますが〈何度も何度も触れさせる〉だけで良いです。

これは『単純接触効果』という人間心理で「多く触れるものほど親近感を感じる」というものです。

floodinhead.hatenablog.com

 

M印のファストフードなどアメリカ由来の企業はこの心理を用いた広告をしておりますね。

 

 

単純接触効果は数ですが、今回お話しているのは意識をしている場合はどうなのかという話です。

 

単純接触効果は、言ってしまえば『無意識状態で仕掛けるもの』ですからね。

 

しかしテレビなどのプログラムで時間きっかりに始まると、その番組が始まるのを心待ちにしている《オンになった脳》に広告の内容が入ってくる。

それによって、より意識にその商品が刷り込まれて商品の購買が上がる。というようなこともあり得るんじゃないのか、と感じます。

 

まぁわたし広告代理店の者じゃないので実際のところはしらね〜〜〜んですけど。

 

 

上記したようなことを考えずに消費に勤しんで車輪を回している方が、確実に人生は樂しいと思うし。

《支配は『支配されていると氣づいていない状態』が最も幸せ》なのでしょうしね。

 

 

フェイクノンフィクション?

ところで今は『近畿地方のある場所について』という背筋さんの執筆した書籍を読んでいます。

 

現在、三分の一まで読みました。

 

面白いですね!

小説ではなく、ある事件についての調査やルポルタージュを読んでいる・見聞きしている感覺です。

ホラー作品ではありますがミステリーの要素もあり、実話怪談を聴いている時のような「えっ?」みたいな箇所もあって、その上下左右に揺り動かされているような感覺が心地良いです。結構不氣味ですし。

 

しかし創作物には書かれている『本作品は実在する組織・団体とは一切関係ございません』の一文がどこをみてもない(見落としているのか…?)。

わたしはあくまでも創作物として読んでいるのですが、著者の意図としては実話怪談的な立ち位置で娯しんでほしいのでしょうか。

 

 

映像作品ではフェイクドキュメンタリー(ドキュメンタリーっぽく製作したフィクション作品)というものがあります。

第9地区』などが有名ですね。

第9地区 (字幕版)

第9地区 (字幕版)

  • シャルト・コプリー
Amazon

 

〈フェイクドキュメンタリー〉は映像作品に対してつけられるもののように感じますので、書籍の場合は『ノンフィクション的に作ったもの』だから《フェイクノンフィクション》とかでしょうか。

フェイクノンフィクション?

 

なんだその入れ子構造みたいな表現は。

 

 

ところでどうやら『近畿地方のある場所について』は売れているみたいです。

読んでみると思うのですが、非常に映像映えしそうなので映画化もありそうだなと感じます。

雨穴さんの『変な家』的な感じですね。

 

これからどういった展開になるのか、とても愉しみです。

 

 

ところでわたしは宗教や組織が絡んでいると思われる怪談が好きなのですが、実際の組織が絡んでいるからなのか、なかなか耳にする機会がありません。

『宗教や組織が絡んでいると思われる怪談』を当事者として体験する機会がないのは万々歳です。

 

そういえば昔ASUKAさんが「自分は組織に狙われている」と話されておりました。

世間的には『何をトチ狂ったことを』といった反応をしていて、わたし自身も少しばかりそういうように思っていたのですが、今考え直してみるとありえない話でもないのかも、と感じますね。

知らんけど。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

共感できない

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は以前に書いた内容の続きとなります。

floodinhead.hatenablog.com

 


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以前の記事にて『共感にしか興味がない』というか『共感しか必要としていないのではないか』というような帰結に内容を落としました。

 

そして数日経ち、つい本日お昼ご飯を作っている時にあるお話を思い出しました。

 

 

島田秀平さんという芸人さんがいらっしゃいます。

今は占いや怪談などでお忙しくされていますが、その昔はお仕事がうまく行っていなかったそうです。

お仕事で悩んでいた際、事務所の先輩であるバナナマンの設楽統さんに相談をしたらしいのですね。

相談した後、話を聞いていた設楽さんは「やっとそこに氣付いたか。ずっと言いたかったんだよ」と口を開いたそうです。

設楽さんの言葉を聞いた島田さんは「前々から思っていたのなら言ってくださいよ〜!なんで言ってくれなかったんですか」と意見をしたらしいのですが、その意見に対して「相手が困っていない状態で指摘しても、その内容は響かないどころか反感を買うことにもなる。相手が困っていない状況で助言をするのは、助言をする側の自己満足でしかない。だから、相手の改善点を見つけても、その人自身が改善を必要とする状況になるまで待つしかないんだよ」と設楽さんが返答したのだそう。

 

以前の記事で書いたことは、つまり上記したことだったのではないでしょうか。

 

相手が求めていない状況で情報を提示していた。

相手は別に求めていないので、反応も薄くなる。

ごく自然なことです。

 

つまり『自己満足が受け入れられなかったから癇癪を起こしていた』ということだったというわけですが、幼稚ですね。

わたし自身としても困っていないことの改善方法を言われたところで薄い反応をしそうだし。

 

やはり人間は便利よりも不便感情に動かされるということだな。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

とはいえ、共感だけをするための活動というのは全くクソであるとは今も思います。

 

「共感するだけ」と「改善法を欲する」の関係って『これはこういうもの』と思って(思い込んで)いるか否かというのでも変わったりするのだろうか、と感じます。

 

『これはこういうもの』とある種の諦めがある状態では共感をするだけ、という行動・運動になり、前述の諦め感情はなく改善法を欲している状態では共感以外であったり共感の先にあるものを求める行動・運動になる。

 

面倒くせえ。

 

というよりも『現状を変えたくない(怠惰でいたい)がために「これはこういうものだ」と思っている』のではないのか、とすら思います。

やっぱりクソです。

 

「樂をするために初期投資的に面倒なことをすることも必要じゃん」と思っているわたしとしてはやっぱりクソじゃねえか、と思うのですが、これも個人個人の性格や価値觀の違いなのですかね。

〈怠惰を貪って不平不満や愚痴を言う〉というのも、性格・個々の価値觀か。

 

なんともなぁ。

 

 

ジョージ・オーウェル氏の著作にて『動物農場』というものがあります。

 

その作品にてベンジャミンという雄ロバが登場いたしますが、なんというかわたし自身ベンジャミン的になっていっているように感じます。

疑問や危機感を持っているけど、諦観をして発言をしないという感じ。

 

ところで『動物農場』って改めて思い直してみたらなかなかに重たい鬱作品ですね。

 

 

浮き世が地獄〜

 

 

 

そういえば話は変わりますが、この世で「大人」と呼称されている者たちも所詮は子どもの延長だな、と感じますね。

わたしは子どもという存在に対して『最近知った言葉を多用する』という特徴があるように感じているのですが、それは何も子どもという世代に限ったものではなく《大人》と呼称されている世代の人間もそうだと思います。

 

共感性羞恥』やら『SDGs』やら『多様性』やらの言葉が最近では典型ではないかなと考えます。

 

そんな者が年齢程度で優位に立っていると思い込んでいる様は、なんとも滑稽というか、アホらしい次第であるなと感じます。

しかし、自己満足が思ったように受け入れられないと癇癪を起こしていたこともあるし、『自分自身にある欠点でないと相手の中に同じ要素を見出さない』という不思議な法則もあるとおり、わたし自身もアホらしくて滑稽な次第であるのでしょう。

floodinhead.hatenablog.com

 

 

精進ですね。

 

 

 

赤ウインナー。

 

 

 

地球面倒くせえよ。

 

 

 

ありがとうございました。