頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

誇りを持つと埃が溜まる

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

なんというか、どうやら人間には〈誇り〉という感覺があるらしいです。

 

しかし、わたしはその感覺が好きではありません。

 

なぜかというと、誇りを持つと埃にしかならないと思えるためです。

 

説明いたしますね( ¨̮ )

 

誇りや自信なんでものは持たない方が良い

 

誇り。

 

【誇り】を調べると、『みずからそれを名誉とする感情』と出てきました。

 

例えばわたしはギターを15年ほど弾いていますが、15年も続けていれば、そりゃあある程度は弾けるようになります。

 

もしかしたら潜在意識下では『ギターを弾ける自分』に誇りを持っているのかもしれませんが、顕在意識上では『ギターを弾ける自分』に誇りを持っているようには感じません。そんなものは持ちたくない。

 

『ギターを弾ける自分』が"自分の中に在るだけ"で、ギターが弾ける事は生きることにおいては、ほんの数ミリ程度の揺らぎでしかないように思うからです。

 

 

誇り。

 

言い換えるとそれは『自信』とも表現できると感じます。

 

ちなみにわたしは自信という感覺もあんまりよくわかりません。

 

 

つまりは『誇り』も『自信』も好きではないということなのですが、それにはもちろん理由があります。

 

その理由とは『誇りだの自信だのを持つと、それ自体にあぐらをかいてしまい精進を怠る可能性がある』というものです。

 

『誇り』や『自信』というものは「【特定のなにか】ができる(またはある)から、自分は良いのだ」という感覺だとわたしは考えており、それはつまり『【特定のなにか】が無ければ駄目である』という、下手をすれば生の肯定すらもされないといった、まったく莫迦な事態になりかねない。

そんな愚かなことに発展する可能性もある。

 

生の肯定なんてものは、てめぇが今生きているだけで十分だろうが。とわたくしは考えます。わざわざ自分から辛い方に行こうとしてんじゃねえよ。マゾヒストかよ。

 

 

活動領域が狭まる

また、自信や誇りなどを持ってしまうと、それを保持し続けようとしてしまいます。

 

それはつまり、自らが自らの成長を妨げることにも繋がります。

『音樂はロックこそが至高』や、『ラップはやっぱり英語のもので日本語ラップはそれに劣るよね』であったり、『流行を追わないのはダサい』といった意識たち。

 

音樂は『音樂が音樂として存在していること』が素晴らしいので、ジャンルなんて有って無いようなもので、良いものは良い。

 

ラップは言語の芸術表現であるから、各々の言語で奏でることに意味が発生するので、特定の言語だけに優劣なんてない。

 

流行とは外の場所で生命活動をすることで知ることもある。

もし「今、自殺がイケてる!時代は自殺!」なんてことが流行したら迷わず死ぬのか、もっと自身を大事にしろ。

大体が流行なんてものは、メディアなりが意志と目的を持って作っている扇動用のイミテーション紛い物なんだから、他人に踊らされる必要はない。

 

 

自信や誇りなんてものを持つことで、それ以外の外の価値観に触れることができなく、触れようとしなくなる。

それはつまり自分で自分の成長を妨げ、首を絞めていることにもなり得ると感じます。

 

『自分が不要と思っているものと触れると、思ったよりも多く大きな発見』があります。

 

 

また、この『自信や誇りなんてもの』は『安定』とも言い換えることができるように思います。

安定を選ぶと、その安定を維持しようとします。

 

『安定を維持する』というのは、100使えるはずの脳領域が削れるのです。

「安定の維持を考える」というだけで、身動きが取りにくくなり得る。

『安定と停滞は違う』のかもしれないけど、『安定と停滞はほぼ同義』だと感じます。

 

以前に「人が住まなくなった家は朽ちるのが早い」ということを書きました。

floodinhead.hatenablog.com

「空気が対流せずに滞留するから、湿氣て黴などが発生しやすくなる」ということなのですが、『安定を求める』というのは、その『空氣が対流せずに滞留する』ということと同じように思う。

 

万物流転。

人間の細胞も入れ替わっているのだから、対流して変化するのが自然です。

 

その対流を『自信や誇り、安定』が妨げるのです。わたしはそう思います。

 

 

あんまり言い切るのは良くありませんが、自信や誇りなんてものは持たない方が良い。

 

 

動かないから埃が溜まる

物も置きっぱなしにしていると、埃が溜まります。

誇りなんてものを持ってしまったことで、新しい場所に向かって動こうとしなければ、その人には埃が溜まる。

 

そしてこの『誇り』は持ってしまった時点で『埃』となっている。

 

この『誇り/埃』は「自分の方が年長だから」や、「相手より仕事ができる(あるいはスキルがある)から」や「學歴があるから」など、その他多くです。

自分の外に自身の価値を明け渡してんじゃねえよ。

 

『自分の中で何かを誇った』というその時点で、『誇り/埃』を持っていなかった時に比べて、別の行動への足取り重くなると考えています。

 

その理由は『次の行動、別の行動を行うことによって、自身が誇ってしまったものを揺るがす可能性があるから』です。

だから次への行動を躊躇う、顕在意識では自覺していなくとも。

 

 

ソクラテスさんみたいなもん

ここまで書いてきた意見は、わたしが昔から思っていたものですが、よくよく考えてみれば、ソクラテスさんの主張されていた『無知の知』みたいなもんです。

 

無知の知は「自分は愚かであり、何も知らないのである。と自覺すること」です。

『〈自分は知っている〉と思っていると、新しいことを知ろうとしないから、〈自分は何も知らない〉と思うことで新しいことに積極的に触れることができる』ということなのです。

 

まず、『なんでも知っている』なんてことはありえないし、それは幻想/勘違いです。

 

この世で生きている限り〈全てを識る〉なんてことはできないと考えていますし、もし本当にそんなことができたのならば、それはおそらく死ぬ直前でしょう。

現世で死んだことがないので知りませんけれど。

 

 

『自分は知っている』などと思うから、いろいろなことに齟齬が生まれるのではないか?とすら思っています。

本当は識りもしないのに、知ったふりをしているから『本当のこと』を見ようと(知ろうと)しない。

知ったかぶりで発言をしているから、『本当に知っている人』とに溝が生じ、その溝が発展して齟齬と諸々の悲劇を生む。

 

いや、今わたしが書いているこの記事自体も『識りもしないのに、知ったふりをしている』にあたるのかもしれない。

きっとそうなのでしょう。所詮同じ穴の狢、所詮は意見など同格のものに対してしか持てない。

 

 

まず『知る』とはなにか。『分かる』とはなにか。

わたしは『知る』に関して「その対象に対して、〈それがどうしてそうなったのか、どういう経緯か、それを調べて想像する〉こと」だと、現時点では考えています。

その行為を反復することで、対象のことを『分かる』ことができ、その対象に対して『分からない』ことが生まれ、また『知る』の流れになるのです。

つまりは『"わかる"なんてことはありえない』というなんだろうと思っています。

 

 

閑話休題

 

 

結局は自信とか誇りなんてものを持つからいけない。

この「『自分は知っている』という意識」がどこから来るのかといえば、それは自信からなのではないでしょうか。

『自分は知っているという意識(勘違い)が、自身の自信というものを強固にし、その勘違い/幻想から生まれた自信が、誇りなどという意識を生み出し、その意識自体が埃へと変わっていく。

誇りを持ってしまうと動きが鈍くなって、次第に動けなくなってしまうから。

 

 

上記したようなことから、わたしは『誇りや自信なんてものは持たない方が良い』と思うのです。

 

 

 

流動するものでありたい

ここまで書いたことは、あくまでもわたし一個人の意見であり、見解であり、あくまで現時点での考えです。

 

しかし、いずれは『意見』や『個人の見解』という言葉すらも危険思想的であるとして危険視されるのでしょうね。

昨今では『思想』という言葉がデリケートに扱われだしたように。

 

 

わたしは水とか風のような流動するものになりたい。

 

 

 

ありがとうございました( `◟ 、)