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以前にも少し書きましたが、2023年4月現在、わたしは伊坂幸太郎さんの『シーソーモンスター』という作品を読んでいます。
伊坂作品と『物騒』は切っても切れないものなのか、今作も物騒な様が描かれます。
ある場面で〈ヤクザ〉の定型というか、『多くの人が〈ヤクザ〉という職業の方々に対して持っている印象を具現化したらこうなるよね』といったような容姿をした人物が、端役ですが登場します。
その場面を読んでいて、「定型的だなぁ、容姿にオリジナリティがないよね」などと思ったりしました(これは伊坂さんの文章・表現への批評ではなく、そういった他者を威嚇して生きている方々に対しての批評です。もっと反感を買いそう)。他にも「見た目だけで粋がってもなぁ。より粋がっているのが際立つだけなのに」などとも思いました。
いやぁ、反感を買うつもりだと思われても仕方のない文章ですね。喧嘩をする氣はありません。
さて、ここで我が母親の推測をひとつ。
銭湯や、温泉場などの大衆浴場では、刺青・タトゥーが身体に彫られられている方お断りとして、入浴が禁じられています。
その理由なのですが、母は『彫り物』=《武装・威嚇》と仮定しました。
お風呂場では全裸になることが当然とされていますが、全裸というのは、そのまま「丸腰」です。
その「丸腰」状態の時に、彫り物という《武装》をした個人がいた場合、フェアじゃない。
丸腰状態の利用者が安心して湯に浸かれない状況になります(お風呂って副交感神経を優位にさせる場所だし)。
本能的に危機感を覺えてしまう。
そういった理由で、大衆浴場では彫り物をされている方をお断りしているのではないか、ということです。
なるほど。
面白い説であり、確かにその可能性はあるように思います。
それを聞いて、わたしは「確かに、彫り物=武装・威嚇であるなら、武装をしている側からしても丸腰の人間は恐怖の対象なのかもしれない。だって、彫り物というのは常時身につけることになる、ということは、彫り物をしている人は『常に武装をしていないと世渡りができない』という、ある種の臆病さを持った精神性を有していると考えることもできる。そんな武装や威嚇をしていないと生活できない人が、丸腰で生きている人を見たらば、『自分にはできないことを何の苦もなく行っている』と畏怖の対象となるのも納得かもしれない。なので、大衆浴場においては互いを畏れている」と考えました(これを母に言ったらば、「確かにあるやもしれんけど、ちょっと奥に踏み込んだ考えだな」という感想が返ってきました)。
ということで、彫り物をしている人に限らず『威嚇をしながら生活している人』は、『威嚇をしないと、自己を保てない』ということになります。
ですが、外面だけ怖くしたとて、それって子ども騙しじゃないの?付け焼き刃じゃないの?とは思います。
外側だけ硬いライチの実ではなく、中身まで固い樫の木とかの方が良いとわたしは感じます。
わたしは「な〜んだ、結局威嚇しているだけじゃん。ぷっぷー」などと、思います。
が、そんな威嚇ばかりをしている人に、わざわざ近づきたいかと問われると、それはNOです。だって面倒そうだし。
しかしです。
そういった常に威嚇をしている側の人たちからすると、人を近寄らせたくないのかもしれません。
であれば、たとえ中身の伴っていない威嚇であったとしても、牽制にはなります。
窮地の状況でもはったりをかますことで、その窮地を脱することもできたりします。
もし『彫り物という威嚇・武装が、他者を身の回りに近寄らせないためにしている手段』なのだとすれば。
だとしたら、我々は十中八九、術中に嵌っているのかもしれませんね。
しかし、「社会的な迫害を無くそう!」と主張している集団と、その迫害をされている集団が、威嚇的容姿に身を包んでいるというのは、甚だ可笑しいとは思います。
そういった容姿にならざるを得なかった背景というものもあるのでしょうけどね。
ま、結局容姿なんてものはその人が所属する集団に帰属するものですよ。
『類は友を呼ぶ』ってやつです。
よだん。
現在『シーソーモンスター』を読み終え、近未来が舞台の『スピンモンスター』という作品を読んでいます。
『シーソーモンスター』を読んでいる時に「宮子の義母・北山セツとお隣さんの古谷さんは伏線だろうなぁ」と思っていたのですが、ただただ仲のいいお隣通しでした。
ありがとうございました( ¨̮ )