頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

三本立て

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回はここ最近で感じたことの雑記三本立てです。

 

組織人には根本的に向いていない

わたしは労働をしております。

前回、労働の場で感じたことを書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

管理者を見事見送られたわたしですが、最近思うことがありました。

 

わたしは日々業務を効率化したいと(樂をしたい)思っています。

 

そのため「これってこうしたら良いんじゃない?」と思いつくことがよくあります。

その思いついたことは実行しないと氣が済まず、実行(自分の操作内での試運転)した結果『樂できんじゃね?』と思ったので、管理者にプレゼンしました。

しかし、管理者の反応は芳しくない。

 

「ちょっと確認してみますね〜」との返答で、わたしは自席に帰りました。

 

 

この時にわたしは思ったのですが、わたしは、組織人には根本的に向いていない。

 

わたし個人としては『これあった方がよくない?』と思ったので提案を行った次第ですが、その『これあった方がよくない?』が独善的でもあるのだなと感じました。

 

わたしが提案した『これあった方がよくない?』に対して、管理者の立場からすると「別に一般的なこの手法でよくね?」であったり「それを実装したことで混乱が発生したらよくないよね」という考えが強くあったので、反応が芳しくなかった。

 

わたしは自覺なく独善的な部分があるようです。

独善的ということは、ワンマン的に突っ走る可能性が考えられる。

管理者の立場というのは、『《組織人として稼働すること》をより求められる立場』なのではないかと感じるのですが、そんな独善的な人間に組織人の働きができるの?と懸念があり、わたしの管理者希望は見送られたのではないか、と考えた次第です。

 

まぁ、「協調性がねえ」という理由以外に圧倒的で致命的な理由があるのかもしれません。

 

 

と、その組織人への矯正施設として義務教育や學校があると感じています。

わたしには學がないですが、「勉強ができるお莫迦さんも多いからね」と負け惜しみとも取れる思いも持っています。

「勉強= "他者が規定した価値" を有難がって自分で考えていないなら世話ねえな。手前え自身で考えて決定しないと意味ねえぞ。《他人の価値觀》で生活してたら、手前えの人生は手前えじゃなくてもいい」と考えて生きたり生活したり腐ったりしているのですが、上記を考えていて笑いました。

『勉強ができるお莫迦さんは多い』と考えている人間が組織人として生きていけるわけはねーよな。

 

 

ギターって奥が深い

わたしはギターを嗜みます。

 

最近、昔作った曲の再録音をちびちびと行なっております。

ギターソロで満足できるものが録れて嬉しいです✌︎('ω')✌︎

 

そんなギターソロの録音中に氣付いたこと。

普段の練習を行う際、脱力を意識して運指を行なっているのですが、ギターソロを弾いている時に「ぐっ」と力を入れたり、スライドをして特定の場所で止める際に「クッ」と意識して止めたほうが理想の演奏ができたのですね。

 

なので、脱力で運指を行うだけではだめ。必要に応じてコントロールをしないと。ということです。

『適材適所』というやつですね。めちゃくちゃ初歩的な意識です。

 

 

八十八ヶ所巡礼さんの曲で『泥春』というものがあります。


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お三方もちろん樂器がお上手ですが、個人的に注目すべきはベースヴォーカルのマーガレット廣井さんの運指です。

左手で指板(各弦の音程を調節する場所)を押さえるときの動きが滑らかすぎるんですよね。

それはさながら弦を撫でているよう。

 

どういったわけか、樂器は突き詰めると脱力に行き着くみたいです。

弦を押さえる時に不要な力が入っておらず、必要最小の力だけかかかっているので、ネックが動かず、指板上を指が軽やかに踊っているよう、撫でているように見えるのです。

 

さて、わたしは数えるところ十六年以上ギターを嗜んでおりますので、正直脱力してネックを動かさずに運指をすることはできます。

しかし、前述したギターソロでの氣付き以降の今だから思うのですが、つい最近までの自分のギタープレイは過脱力でぽやっとした音像になっていたな、と感じます。

減り張りがなく、つまらない演奏だったのかな、とすら思います。

 

脱力だけではだめ。

時には、自分の理想とする音を奏でたいのであれば、「クッ」と力むことも必要。というわけです。

いやぁ、ギターって奥が深いです。愉しすぎる。

 

弦にピックを当てる場所やピックの角度でも音は変わりますからね。

その機微を自在に操れてこそ、手練れな演奏家ってやつです。

精進します。

 

 

そんなように氣付き、その減り張りを習得するために今日もギターを弾いていました。

Plastic treeさんの『マイム』という曲が好きで、イントロのフレーズを弾いている時に「もっとプレイをタイトにしないと」と思ったのですが、その時にギター講師の方から昔言われた「君は音符を最大限まで感じて次の音に移動するイメージで弾いているかい」という言葉を思い出しました。

 

「つまり、四分音符が二つ並んでいたとしたら、初めの四分音符をちゃんと四分音符分の長さ感じた後に、二つ目の四分音符を弾くように意識をしているか、ということだ」

 

上記をその講師の方に言われた当時は全く腑に落ちていなかったのですが、今日『マイム』のフレーズを弾いている時に、バッッッと去来しました『「「これのことか」」』

音符を適切な長さ意識しているからこそ、脱力も含んだ減り張りのある演奏を行うことができる。全く奥が深い。

 

如何せん腑に落ちるのが遅い氣もしますが、物事には時期時節がありますからね。

 

いやぁ、ギターって奥が深いです。

一生弾くんだろうな。

 


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置き配

ホヤホヤ。

海鞘。

 

本日労働を終え、街を歩く機会があったのですが、その際にデジタルサイネージという電工広告通知装置を見かけました。

機械ではその日に発表された様々な時事が掲示されていました。

 

そんな時事の中で目を引いた一つの記事。

ヤマト運輸が六月より全面的に "置き配" の運用を開始』

 

その記事を見て「あーやっぱそうだよねー」を思ったわたし。

 

 

わたしは置き配は好きではありません。

基本的にインターネットで物品購入をしないのでそんなに配送自体に昵懇な関係ではないのですが、たま〜〜〜にインターネット購入を利用した際は対面での受け取りか宅配ボックスへの入庫をお願いしています。

 

置き配否定派の理由としては、単純に防犯上の理由です。

それと盗難防止。

 

置き配のことを詳しくないので古い情報なのかもしれませんが、一度置き配にて商品が配達された際に配送伝票を見たら名前が普通に明示されておりました。

「おい!!」と思って、それ以来前述の通りなのですが、単純にどこに誰が住んでいるかとか丸わかりじゃないですか…??

それこそ女性は危険じゃねえの?と思います。

 

もちろん、対面で受け取る際に配達員の方に暴行を受ける、という危険を考えたら置き配の方が幾分かはマシなのかもしれませんけどね。

 

いやー、だとしても考え方の古い人間は懸念と懐疑が拭えません。

 

 

しかし、昨今の人類総多忙社会な世であれば『対面で受け取りたくても機会がない』という事情もあるのでしょう。

あと便利とか。

どうやら人は便利よりも不便という感情に動かされるみたいですからね。

floodinhead.hatenablog.com

 

と、上記なことをディジタルサイネージ機会広告時事を見て考えていましたが、ふとある恐ろしい考えがむっくりと顔を上げたので、思わず恐怖しました。

「これでダンボールの中に爆発物とかが入っていても警戒されないよな」

 

はっきりと恐怖しましたが、伊坂的すぎるか、と思って苦笑しました(そもそも伊坂的か?)。

その苦笑は本当に考えを一笑に付すためのものだったのかは自分ではわかりません。

 

いやあ、ネガティヴに考えようと思えばどこまでもネガティヴにできますからね。

わたしはロシアンブルなのかしら。

 

 

ビール ~あとがき~

最近ビールをよく嗜んでいるのですが、ストレスがたまっているんだろうなぁ、と思います。

人間はストレスを感じると苦味を求めるらしいですからね。

 

最近再読した『虐殺器官』では「ドミノ・ピザバドワイザー」がアイコン的に登場するのですが、それに触発されてバドワイザーを飲んでみたら、おいしかったです。

 

初めて缶ビールをコップに移し替えて飲んだのですが、なんか違ってよかったです。

 

それを友人に話すと、『移し替えることで炭酸が抜け、飲みやすくなる』とかなのだそう。

確かに一回で注ぎ切るのではなくて何回かに分けたから、それかもしれません。

 

また今度ドミノ・ピザを食しながらバドワイザーを飲みますね。

 

Alc.はなるべく飲まない方がいい。

 

 

 

今日の雨でほとんどの桜が散るんでしょうね。

春は好きではないけど、桜やお花が綺麗なのでまだ憂鬱になりきらないですね。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )