本日もご訪問ありがとうございます。
以前よりわたしは『便利を盲信する現代人』に対して、「ちょっとどうなの」と苦言を呈してきました。
『便利を盲信する』と認識しているだけあって、わたしは、まず《便利》という価値観に目が向いていた。
むしろ、それだけしか見えていなかったように思います。
〈人は『便利』を求める〉
ですが、もしかしたら、それは大きな勘違いだったかもしれません。
便利・不便利
便利。
それは何か不便な状況があって初めて生まれるものであると考えられます。
再三言及している携帯電話も、「固定電話ではないと、ひとつの場所に留まっていないと電話がかけられない」という不便があったからこそ生まれたものなのでしょう。
以前に書いた『〈交通系ICサービス〉を携帯電話のアプリケーションに組み込む取り組み』も、「いちいち取り出したりするのが面倒」という感情があったから生まれたのでしょう。
前述の通り、少し前までは『人は便利を求める』と思っていました。
ですが、わたしは大きな思い違いをしていたようです。
何が重要なのか。
刺激をするべきなのは、人が思っている『便利への願い』ではなく『不便感情』だということです。
刺激するべき対象
おそらく、不便という感情はもともとはなかったのであろうと思います。
〈便利〉という概念が生まれたことで、〈不便〉という感情が発生した。
今現在では〈不便〉と思えることでも、それが不便ではなかった時代では『こういうもの』や『それが普通』という認識だったでしょう。
《面倒》という感情はあったはずですが、〈不便〉という感情はなかったはずだと思います。
洗濯用洗剤でも今では色々な種類があります。
スプレートリガーで一回分を噴霧するタイプから、液体を自身で軽量するもの、ジェルボールなる一回分の量が小分けされた玉を投入するだけでよいもの。
しかし、その昔は粉の物が主流でしたし、それよりも前は固形石鹸だけだったでしょう。
『粉の洗剤を使うと、固形の石鹸で洗濯をすると、手を洗わないといけないから面倒』そういった感情は確かにあった。
現在の洗濯用洗剤のあり方が、これほど多様化したのも、ひとえに人の〈不便〉という感情を刺激したためなのだろうな、と思います。
そして、この『人が持っている不便感情を刺激する』という方法は、おそらく、万能です。
現に、交通系ICサービスが携帯電話のアプリケーションになっておりますし、『携帯電話』そのもの自体が『人が持っている《不便感情》を刺激するもの』であるからです。
もっと注視して生活していれば、もっと多くの『不便感情を刺激した/するもの』を発見できるのでしょうね。
というより、テレビのCMは基本的に『人が持っている《不便感情》を刺激するような内容』で作られていますからね。
おそらく広告代理店に勤めている方々は、人間が潜在的に持っている感情を理解しているのでしょう。
何を刺激したら効果的なのか。
『人間は怠惰な生き物』とはよく言ったものです。
〈不便〉を懐かしむ時代
これからもどんどん〈不便〉は駆逐されていくのだろうな、とわたしは考えているのですが、先五年もしたら、不便という感情が恋しくなるのだと思いますよ。
少なくとも十年もすれば、不便を懐かしんで恋しく思うようになるでしょう。
2023年現在が、昔にはあった無駄を懐かしんでいるように。
〈便利〉というのは、無駄を排除してシステマチックに、遊びを亡くしていく行いですからね。
ここまで『人を動かすには、便利さをアピールするのではなく、不便さを刺激したらよい』という話をしてきましたが、いかがでしたでしょうか。
わたしとしては、この事実、盲点に氣付いた時は非常に大きな衝撃がありました。
この記事を読まれた人が、わたしと同じだけの衝撃を感じてくださっていれば幸いです。
そういえば、紐を引っ張るだけでみじん切りをしてくれる便利グッズがあるそうなのですが、使うたびに分解して洗わないといけないそうで、刃もむき出しになるため、面倒かつ危ないそうです。
便利を買って、その実、別の不便を買ってんじゃん。
昔話か?ミイラ取りがミイラになるの別解か?
ありがとうございました。