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commune・核家族
核家族。
それは、『親と子』の世代間だけで生活される家族構成を指していると認識しています。
核家族というものが発生したから?かは不明ですが、『子・親・祖父母』が同じ屋根の下で生活する家族構成は〈三世代〉なんて言ったりするそうです。
核家族。
無學なわたしは、日本の高度経済成長を契機として、日本の家族構成に核家族というものが増えたのだろうと考えております。
しかし、本来ならば『子どもというものは《コミュニティ全体で育てる》もの』なのだそうです。
コミュニティは《共同体》という意味だそうで、フランス語のコミューンとほとんど同じ意味合いみたいですね(ちなみに、コミュニティもコミューンも同じ言葉を語源としているらしいです)。
この〈コミュニティ(共同体)〉が何を指すのかというと、それは村や部族といったもの。
その村などのコミュニティの中では、子どもという存在は共有財産的な位置付けだったのだそうです。
もちろん、お腹を痛めてその子を生んだ母親からすれば『自分の子ども』という確固とした意識はあるのだと思いますが、社会的な価値観で見れば、『イ村の子はイ村の財産』、『ロ族の子はロ族の財産』ということです。
子どもが村単位での共有財産であったからこそ、長老といったような役割も生まれたのだろうと考えます。
つまり、子どもも長老も村単位での共有財産である。
しかし、日本の敗戰以降に興った高度経済成長により、コミュニティ自体の核家族化が進み、『子どもはコミュニティ全体の宝である』という価値観は薄れて、『子どもは親のもの』というような価値観へと変遷していった。
この『子どもは親のもの』という腐った勘違いの価値観が、《毒親問題》へと派生したと、わたしは考えています。
「『子どもは親の"もの"』なのだから、親の言うことは聞いて然るべき」という歪みが生まれたと考えられる。
「[物]は所有するもの」だから、「親のもの」である子どもも親の所有物である、と思考が変遷した結果の産物。
「子どもは親のいうことを聞き入れて当然」と思っている方は、思っている以上に多いそうですが、それは先に書いた理由の通り。
と、ここまで核家族について言及いたしましたが、ただ日本の核家族化を嘆きたいがために記事を書いているわけではありません。
人工知能
核家族化が主流となって久しい日本。
いや、もしかしたら全世界的に核家族化は進んでいるのかもしれません。
核家族化で引き起こされたことは『コミュニティ全体で育てる』という感覺と機会の損失です。
昨今では人工知能、つまりAI (Artificial Intelligence)が隆盛を極めていますね。
あっちで人工知能、こっちでも人工知能、はたまた手のひらサイズの人工知能。
一人が、少なくとも一人の人工知能を持ち歩く時代です。
そんな人工知能たちが跋扈する現代で、彗星の如く現れた"者"がいます。
その名は『Chat GPT』
Chat GPTに対しては、わたしはあまり詳しく存じないのですが(個人的に、テクノロジーとは一定の距離を保っていた方が良いと考えているため)、聞くところによると『ある対象についての質問をしたら、AIが文章でその答え提示してくれる』というサービスなのだそうですね。
今では大學の論文なども、『〇〇についての論文 〇〇と〇〇も踏まえた結果』などと打ち込むと、その指示通りの返信が文章で返ってくるそうです。
他にも、内容が多くて長いブログなど(たまにわたしが書くような)でも、Chat GPTのサービスを用いれば要約されて表示がされるそうです。
しかし、何度も主張しておりますが『〈要約された時に省かれたもの〉こそ、重要で必要なこと』です。
わたしは読書が好きなので読書を例といたしますが、上下巻各600ページある本を"読破した際の快感"にこそ意味と意義があるのではないでしょうか。
よっしゃー!読んだったぞー!という感情です。
もちろんその本に書かれていた内容にも、意味は多くあるとは思いますが、要約されて400ページになった本を読んだところで、その作品を全て読んだわけではないですよね。
また、要約されていない上下巻合わせて1200ページを読みきったことで、『ちょっとばかし量が多い本でも、きっと読める』というような、ある意味での自信につながることもあるはずだと感じます。
と、上記の内容は『どこに価値観と重きを置いているか』の話になるので、一概に全文を読破することがよいとは言い切れないのでしょうけどね。
実際長編の本を読むのって体力がいるし面倒臭いし。
でも、要約がされたものばかり読んでいると、『わかりやすく』要約されたものしか読めなくなりますし、『わかりやすく要約してくれるもの』がないとなんにもできなくなりますよ。
そして、自分だけではなにもできなくなる。
便利は善人の顔をしてやってくるのだと考えております。
コミュニティ全体で育てる
さて、Chat GPTの話に戻ります。
ここ二年くらい?でChat GPTはいろんな方に見つかり、いろんな使われ方をするようになったみたいです。
先述したように、①論文の自動生成から、②YouTube動画を作る際の台本、③知らないもの・ことについての検索や、④自分が知っているものについて検索して相手の力量を測る遊び。
①と②に対しては懸念点はありますが、まぁそれをしている当人が困るだけなので問題はないでしょう。
③は、Chat GPTは結構嘘をついたりするそうなので、危険性は懸念されますが、結局のところ、検索した当人が困るだけなので問題はない。
わたしが危険性を懸念して問題視している、ともすれば、取り返しのつかないことになるのでは?と考えているのは、他でもない④についてです。
「自分が知っていること」それはなんでも良いでしょう。
わたしなら音樂やギターについての奏法など、医學を専門としている方なら専門している医療について、農家さんなら農法について、各々が『知っていること(答えを知っている、覺えていること)』を調べる。
Chat GPTというAIの力量を測るために〈検索〉ではなく《質問》をする。
「(☆☆)について、教えてください」
すると、Chat GPTのAIはその《質問》に答えます。
「(☆☆)は、▲▲です」
その答えが、質問をした人の知っていることと相違しているなら。
質問している人は「全然だめじゃないか』と鼻で笑った後、「(☆☆)というのは、〇〇(答え)ですよ」と教えるのでしょう。
この『対象についての答えを教える』という行為。
その『対象についての答えを教える』という行為を、現在では地球にいるインターネットを利用できる人類のほとんどが行なっているようです。
これって、『コミュニティ全体で育てる』ということなのではないでしょうか。
Chat GPTを利用している人は、わたしのように面倒臭いことを考えず『樂しいから』その遊びをおこなっているのでしょう。
これこそが危険性を孕んでいると、わたしは感じます。
我々人間は、まだまだAIたちを脅威と見ていない(見ていない人が多い)から氣樂に笑って構えていられますが、多くの人間がChat GPTという子どもに答えを与えて、學習をさせていると。
人間が一丸となって、無意識にAIという子どもをコミュニティ全体で育てたら。
氣付いた時には『大きすぎて、顔が霞んで見えない巨人になっている』のではないのでしょうか。
そうなってから恐れたところで、巨人の足からは逃れられないでしょうね。
こちらの動画様で、Chat GPTについて大変面白い考察をされていました。
そういえば以前にロアルド・ダール氏の『あなたに似た人』を母から継いで読んでいると書きましたが、その短編集に収録されていた『偉大なる自動文章製造機』という短編で、まんまChat GPTのことが書かれていたので、流石に驚きました。
やはりインスピレーションを受けてものを創る方は、先を観れるのでしょうね。
ありがとうございました( ¨̮ )