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血縁主義
よく聞く言葉(思想?)ですが、『自分の子どもだけが一番可愛い/大事』というものがあります。
この思想に対して、わたしはあまり好い氣持ちを持っておりません。
自然という場所で生活するコミュニティにおいて、種族の子というのは、そのコミュニティ全体で育まれるものですが、『自分の子どもだけが可愛くて大事』というのは、自然の摂理に反した価値観なのではないか、とすら思います。
『自分の子だけが大事』という意識・思想は、屁理屈なのではないのか。という意見です。
以前に『ある男』という平野啓一郎さんの小説について、感想の記事を書きましたが、主人公の一人である城戸の妻・香織はこの『自分の子どもが一番大事』という思想の、典型的な持ち主でした。
『自分の子ども』という言葉が、どういった対象を指しているかというと、それは〈自分と血縁のある〉ということだと、現時点では考えております。
仮定として、『「自分と血の繋がりがある子どもが一番大切である」という思想を持っている方達』のことを《血縁主義》と呼称しましょう。
では、自分と血が繋がった子だと思って何年も育ててきた子どもが、実は取り違えられていて、ある日突然「あなたと血の繋がっている子どもは、本当はこの子なのですよ」と言われた。
目の前には見たこともない子どもが立っている。
こういった状況でも《血縁主義》の方は初めて会った見たこともない子どもを、愛することができるのでしょうか。
憶測でしかありませんが、おそらくほとんどの方は無理でしょう。
それは『実は血縁のなかった子と過ごした思い出などからくる"情"』が邪魔するからなのではないでしょうか。
はて、《血縁主義》の方は『自分の子どもが一番大事で可愛い』のではないでしょうか。
なのに、"情"が邪魔する。全くあべこべではないでしょうか。
エゴイストたちの脳のかたまり
では、《血縁主義》の方が何を一番に重要視しているのかといえば、それは『自分自身の血』なのではないでしょうか。
『自分と同じ血が流れている子だから、他の子どもたちよりも大事で、可愛い』というわけです。
それが本当なのであれば、《血縁主義》の方が愛しているのは『その子ども個人ではなく、自分自身の血』であるということになります。
これは自己愛なのではないでしょうか。
つまり、エゴということです。
自身のエゴを満たすために、他人を、無垢な子どもたちを利用している。とも捉えることもできます。
実際のところ、わたしは《血族主義》は自己愛に塗れたエゴイストたちなのだろう、と思っております。
《血縁主義》の意識があるから、自然であるべきはずの子どもたちを『自分の所有"物"』と勘違いする。
勘違いした結果、親がしたかったことを子に押し付けたり自分の望みを押し付けたりする。
全く悲劇ですよ。
『あなたのためを思って?』
それは親であるあなたのエゴでしょうに。
エゴイズム発生の理由・変遷・諸悪の根源
この《血族主義》が生まれたのは、人間が狩猟民族から農耕民族へと変化した背景が関係しているのではないか、と考えております。
狩猟民族であった時代は着の身着のままで、その日に取れた食物をコミュニティ内で分け合っていたのだろうと考えています。腐ってしまいますからね。
そんな狩猟民族であった時代は、まったく自然と同調した、自然と同義たる存在としてヒトは存在していたでしょう。
しかし、農耕が始まると、人は『所有』という意識を持ちます。
麦や米、とうもろこしなどといった穀物は保存が効きますからね。
この所有という価値観を人類は持ってしまったが故に、子どもはコミュニティ全体の子ではなく、『個人の子』つまり《血縁》という縛りが発生したのだろうと推察しています。
しかも農耕が主流となると、人間は穀物が多く取れて生活環境が良い土地に定住するようになります。
そうすれば都市化の一途を辿りますし、都市化というのは言い換えれば『「いかに所有をしているか」という価値観』が物差しのひとつになってくる、ということであり、自然という場所が脳みそしかない場所になるということでもあります。
つまり、諸悪の根源は『所有の意識』であり、人間という動物を自然から都市化へと変化させた穀物である、ということです。
ちなみに、『自分と血が繋がった子だと思って何年も育ててきた子どもが、実は取り違えられていて、ある日突然「あなたと血の繋がっている子どもは、本当はこの子なのですよ」と言われた』というのは、クレヨンしんちゃんの映画でも言及されていたことです。
形容した時点で、虚を摑んでいる
こういった問題があるから、『愛』なんて言葉はくだらないのです。
まず感情はグラデーション的でマーブルな感覺なのだから、言語に落とし込んで確定させることなど不可能なはずです。
特定の感情を、言語化し要約したその時点で、その感情の本当に大事な部分は抜け落ちて消えてしまうんですよ。
『モダンタイムス』で井坂が「人生は要約できない」と言っていたようにね。
『ある男』でも「男の経緯が違っていたら、出自や戸籍・人種が聞いていたものと違った場合、その男にかけた、感じた愛情は嘘になるのか。霧散するのか」という問いが出てきます。
これも『"愛"という言葉の曖昧さや、不完全さ』がもたらしている疑問なのではないでしょうか。
というより、愛と形容されているその感情、および総ての感情に対して、大衆がしっかりと自己や対象と向き合って考えていないから、こんなくだらない話が発生するのではないでしょうか。
ヒトは人が勝手に作った価値観で勝手に苦しんで悩むものですが、こればっかりは本当にばからしいと思います。
ヒトというものは、本当に愚かですね。
ありがとうございました。