本日もご訪問ありがとうございます。
たまには『今週のお題』ででも書いてみましょうかね( ¨̮ )
今週のお題「最近読んでるもの」
わたしは本が好きです。
主に小説を好んで読むのですが、今読んでいるのは横溝正史さんの『夜歩く』という作品です。
この前には朝井リョウさんの『正欲』を読みました。
映画が近々公開されるので、その映画を鑑賞した感想とともに小説の感想も書いたりしようかなーなんて、思ったりしていますが、実際にはどうなるでしょうか。
以前、わたしは『本を読む理由』を書きました。
先日、わたし自身について「結構映画に行っていますよね」ととある方に言われました。
日常的すぎて改めて考えてもいなかったので、人から上のことを言われて理由を考えてみたのですが、それって『没頭』を体験するためなんだろうなぁ、という結果に行き着きました。
映画館というのは非日常の場です。
そんな非日常でいて真っ暗な場所で作品と対峙する。
これは没頭体験であると感じます。
テレビやさぶすくでも映画は観れますが、テレビはCMという日常が入ってくる。さぶすくは所詮日常の中での体験です。一時停止もできるし。
となると、非日常を経験できるのは映画館しかない。
音響とかも違うし。
また、さぶすくで観て「これ映画館で観たかったー!!」と思う作品もあったりします。
とりわけ公開当時に作品を認識していたけどスルーしていた作品であれば、ことさらです。後悔は先に立たないわけですし。
そういう理由から映画はなるべく映画館で観たい。
公開当時に氣になったなら、映画館で観ようと心がけています。
『没頭』を体験するために。
もちろん、あんまりだったな、と思う作品とも出会ったりはします。
で、この『没頭』ですが、本を読んでいるときにも体験することができます。
先に引用した記事でも書いておりますが、読書というものは旅行体験です。
筆者の脳内への旅行。
そして、旅行でいて、没頭・没入でもあります。ジャック・インです。
作者の創造した世界への旅行と、没入。
わたしはこの『没頭体験』が好きなのでしょう。
没頭体験が好きで、半ば中毒的でもあるので、本を読む。もちろん愉しいという理由もあります。
没頭体験として、ゲームという手段もありますが、個人的には本と映画の方が合っていて、特に読書で没頭体験をするのが、一番自分と合っているように思います。
わたしの本分である音樂も没頭体験ではありますが、本や映画で得られるものとは毛色が違うように感じます。
『読書は、作者の脳内への旅行。その旅行への没入』というのはこれまで書いてきたことですが、《作者の脳内の繁栄》だからこそ、はっとするような表現が用いられていることがあります。
この記事の最初に、今は横溝正史さんの『夜歩く』という作品を読んでいると書きましたが、その作品内に以下のようなことが記されていました。
文化というものに去勢されている
これはね、見たときは震えましたね。
かっこよすぎるし、ある意味の真理をついているからです。
こういったように、読書は『自分というキャパシティの狭い脳では考えもしなかった言葉』と出会える。
忘れようにも、決して忘れることのできない、強い打撃的衝撃を記された言葉によって受けることもできます。
安部公房さんの『他人の顔』にて書かれていた「光というやつは、自身透明であっても、照らし出す対象物を、ことごとく不透明に変えてしまうものらしいのだ」という言葉もそれです。
わたしはそれを望んでいるから本を読んでいるもかもしれません。
自身がいかに矮小な存在であるかを教えてくれる存在が、わたし自身にとっての本というものなのでしょう。
「自分はなんでも知っている」なんて意識で生きている人はわたしは嫌いですし、「自分は無知だ」と思って、なんでも學ぼうとしている方が、正常であると、わたし個人は感じます。
最後に、わたし個人が読んでよかったと思った本を列挙して終わります。
モダンタイムス - 伊坂幸太郎
ある男 - 平野啓一郎
正欲 - 朝井リョウ
14歳からの哲学 - 池田晶子
JK、インドで常識ぶっ壊される
まーた積ん読増えちゃったよ。
「遅読、読みたい本に伸びる手は早い」ですね。
喫茶店などでひたすら読書をする時間が、結構何よりの幸福に近いのですが、わたしは老眼になっても読書を続けるのだろうな、と思います。
ありがとうございました( ¨̮ )