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死ぬくらいなら適材適所が良いという話?
この間ふと思ったのですが、『井の中の蛙、大海を知らず』という諺があるじゃないですか。
これって海なんですね。
『井の中の蛙、大海を知らず』という諺は、「狭い世界で生きている者は広い世界というものを知ることがない」というような意味合いをもつ言葉です。
「大海」の部分が「大界」であれば、意味が通る、というか、『広い世界』という意味合いにもなるように思います。
蛙さんって淡水域でしか過ごされている姿を拝見したことがなく、調べてみれば《両生類にとって塩水・海水というものは毒と同等》なのだそうです。
蛙さんたちが海水に浸かってでもしてしまえば、浸透圧の関係で絶命してしまうのだそう。
ということは、蛙さんにとって《文字通りの大海》は『いるべき場所ではない』ということになります。
"適材適所" なんて言葉がありますが、自分と合わない世界へわざわざ飛び出すくらいなら、生きていられる場所にいる方が良いのかもしれません。
とはいえ、『生まれ育った地域から一度も出たことがない』というのは、世間を知らないということにもなり得ると感じるので、「せめて井戸からは出なよ」とは思います。
それと、今、この諺は『井戸の中で居たらばいよいよ出られなくなった』という井伏鱒二さんの著作である『山椒魚』っぽくもあるな、と思いました。
朝井リョウさんの『正欲』という作品
最近、わたしは朝井リョウさんの『正欲』という作品を読んでおります。
作品自体は、わたしの好きなインターネットプログラムで紹介されていたので、単行本の時点で存じておりました。
ですが、読んでは居なかった。
朝井リョウさんと言えば、『桐島、部活やめるってよ』で脚光を浴びた作家さんです(朝井リョウさんについては全く詳しくない。存じている情報はCreepy NutsのDJ松永さんとお友達というくらい)。
朝井リョウさんの作品は『世にも奇妙な君物語』という作品だけ読みました。
『何者』や『何様』、螺旋プロジェクトの『死にがいを求めて生きているの』など、他にも名前くらいは知っているというくらいです。
『何者』は映画化されているくらいなので、売れっ子の作家さんですよね。
わたしがこの朝井リョウさんの作品に触れてこなかった理由ですが、なんというか人(自分)の見たくない部分を抉り出されるそうじゃないですか。
その『見たくない部分』というのが、個人的に【本当に見たくない部分】みたいだったので、敬遠して触れてこなかった、という次第です。
人の悪感情とか日常生活で浴びているのだから、小説でまで経験したくない。という感じですね。
そんな朝井リョウさんの作品である『正欲』を、どうして読もうと思ったのか。
一つは文庫化されたから。一つは映画化されるから、です。
前述の通り、前々から存じていて氣になってはいたので、いつか読もう〜と思っておりました。
そんな折、映画化の情報です。
劇場公開が終わってから読み、「これ映画館で見たかったー!!」と後悔したくないので、文庫化もしたし、いっちょ読んでみよう!と思い立ったのです。
後悔先に立たず、コカイン後払いで買えず、ですよ。
まだまだ序盤の方なので、物語がどう転ぶかもわからず「作品の背景と物語世界の紹介」というような部分だと感じます。
その段階で言えることは、ひねくれてるね〜、です。
多分、作者のことを全然知らない個人の意見でしかないですが、この『ひねくれ』こそが筆者の特性であり味なのでしょう。
なんて言っておりますが、作中にて言及されている『多様性』については、同感とまでは言わないけど、似た思いはあります。
世間様がご用意してくださった『多様性』だけを多様性と認めている感じ、その単一指向の思考感、不快千万氣持ち悪いの一言ですね!
世間様の『多様性』を認める前に、『自分の中にある多面性』を自覺して認めろよ。
とんだ、だった。提婆・達多。
そんな『正欲』の中で、ある人物があるものに対して「とんだ沼だった」と表現する場面があります。
この部分で、わたしは「おや?」と可笑しみを感じたんですね。
だって、沼は飛ばないのです。
いえ、もちろん、我々が知覺できていないだけで沼は飛ぶのかもしれないけど。
飛んだ、沼。
空に沼が飛んでいる様を想像します。
飛んでいる、ということは、動いているのです。
飛んでいると判断するにも、その移動速度が関係すると思います。
びゅん、と空中を移動していた場合、それは「沼が飛んでいる」になると思います。
ですが、ゆっくり移動している場合。
その時には、我々はどう思うのでしょう。
おそらく、『飛んでいる』ではなく『浮かんでいる』と表現するはずです。
実際、写真で『飛んだ沼』の様を納めたとします。
しかし、その作品を見たとて《沼が飛んでいる様子》を見たことのない人には、きっと『空の写真に沼を合成した前衛藝術』としか認識しないでしょう。
では、どうすれば『飛んだ沼』にできるのか。
わたしはこう思うのですが、沼に羽根や翼をつけたらいい。
想像してみてください。
空に浮かんでいる沼に翼がついている様。
その翼が動いている様。
『翼のついた沼が飛んでいる様』を納めた写真。
これらは、きっとどんなにゆっくりの移動でも、『沼が飛んでいる』と万人が認識するでしょう(そのうちの三分の一は脳が理解と処理に追いつけず卒倒するはずです。そんな人を見た際には、そっと介抱してあげてくださいね)。
これで、晴れて『飛んだ、沼』の完成です。
沼に翼が生え、力強く動いている。空を滑空している。
これまでの話からなにがわかるのかというと、《いかに人間が記号的なパーツで物事を判断しているか》です。
「沼単体が空を優雅に泳いでいる状況」でも、愚かな人間はその愚かな脳の所以により『沼が飛んでいる』とは認識できない。はず。
その時に沼に羽根や翼をつけてみる。
すると、たちまち人間は『沼が飛んでいる』と認識をしだす。
これは『記号的な要素』でしか対象を見ていない、つまり、そのものや状態自体を見て判断をしていないということになるのだと感じます。
『《記号的な要素》でしか他人を見ていない』というのは、『正欲』の中で言及されている【多様性】云々の話にも繋がりますよね。
これを書いているわたし自身、奇跡的に繋がって非常に驚いております。
記号的な要素を見ないと、『それ』や『相手』を判断できないというのは、誠ほとほとに愚かで畜生とは言えないでしょうか。
まぁ、人間やこの世界のものはさまざまな要素がモザイク状に集合したものなので、その判断基準というのも、正常と判断すれば正常なのかもしれませんけれど。
そもそもが、人間は多面体なのだから様々な記号の集合である。
なんとも右往左往する主張である。
しかも、よくよく考えてみれば『飛んだ、沼、だった』なのです。
過去形です。
ということは、すべての沼は『飛んだ、沼』だったのかもしれません。
『飛んだ沼』か、そうではないか、については、「沼が飛んだか否か」という沼自身にある記憶を知らないといけないのでしょうが、今の人間愚かな我々には知りえる世界なのでしょうか。
知ったつもりになるもんじゃないですね。
いよいよ難しい話になってきたので、今日はここまで。
おや、、?飛んでいるということは、我々愚かな人間は下から見ることになる。
沼を下から見た時、我々の愚かな脳みそは『それ』を『沼』だと知覚できるのでしょうか。
『あれは沼だ』と知覺するためには、《沼の水面》が下を向いていないといけないのではないか。
ということは、《沼》の《沼たる部分》つまり【泥濘】が重力によって降ってくるはずである。
その場合、我々は空を飛んでいるものが『沼』だと認識して判断することができるのでしょうか。
というよりも、『沼だったもの』と知覺するのか。
そもそも、『《沼》というものの本体』が、どこを指しているのか、どこを指すと規定するのかにもよる。
いよいよこれは難しい問題になってきたぞ…。
愚かな我々人畜生愚かが、何を見てどう判断し、それを『特定のもの』と認識しているのか、という問いになってくる。
全く難解である。
ここまで書いてきましたが、書いてきた本人としても『とんだ沼だった』という言葉一つでこれだけ思考できるなんて思いもよりませんでした。
つまり、「とんだ沼だった」ということですね。
何が言いたかったかというと、『人畜生は全体を見て判断しているようでいて、パーツを見てそのパズルで判断しているのだろう』ということでーす。
ばーい。
比べるものではないと認識しているのですが、どうしても『ある男』と比べてしまう自分がいます。
全く別物なので、比べたり比較したりなんて行為が全くナンセンスなのは、脳で認識しているつもりなのですが、、( ´・◡・`)
ありがとうございました( ´・◡・`)