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ずーっと前のことなのですが、電車に乗り込む時に以下のようなことがありました。
電車が駅に到着するのを待っていた時、わたしは列の先頭あたりにいて、後続には数人の人間が存在しておりました。
いざ電車が到着し、乗車するタイミング。
わたしは『乗客が降車してしまってから乗車する』という暗黙のマナーを重んじているので、降車する者たちが降車するのを待ちます。
ですが、暗黙のマナーを軽んじて無視をするものがいるのも、勿論。
日本は『公共交通機関では降りる人が完全に降りきってから乗車しないと、死刑です』などという法律はありません。
降車する者を待たず乗車する輩も多くおります。
その時も、降りる人を待たずに乗車する輩が多かったです。
今回書いている出来事にて乗車した駅は主要なターミナル駅だったので、降りる人も多ければ、乗る人も多いです。
降りる人が多い、ということは座席が空く確率も高くなる。
降車する人を待たずに、我先と乗車し、その不届き者によって座席が占領されました。
この時に、わたしははっきりと怒りを感じました。
その時感じた怒りの内訳は、以下でしょう。
・自分は暗黙のマナーを守っているのに、守っていない輩がいるという事実
・降車する人に迷惑
・自分も座りたかったけど不届き者の影響で座れなかった
大部分の理由は三つめです。
以前に「日本人は電車を待っているときは整列しているが、いざ電車が来たら無法とばかりに、我先に座席の奪い合いをする」と、海外の方が評しているのを見たことがあるのですが、まさにそれと同じ状況ですね
電車というものは昇降口が複数設けられており、その昇降口の場所でも『座席に座れるかの確率』は変化いたします。
ちなみに『昇降口の場所選びによって座れなかった』の場合は、別に問題ではないです。
そんなの運でもあるのだろうし、自分が選択を間違っただけなのでしょうからね。
それよりも【ちゃんと他の人間が《暗黙のマナー》を守っていたら座ることができた】ことに、怒りを覺えたのです。
書いている自分でもつまらん人間だと思いますが、怒りを感じるのは仕方ない。
そんなイライラしている状況の中で思いました。
「自分は我慢しているのに、他の者がその『我慢をしていることをしている』という状況」が怒りを感じさせるのであろう。
事実、わたし自身も『降車する人を待たずに我先に乗り込んで座席を占領する』という行動を、取ることはできます。
ですが、そんな愚かな狼藉をするのって、人間くらいじゃないですか。
なので、わたしはそういった、"人間"では、存在したくないのです。
じゃあ我慢する。
とはいえ、塵も積もれば山となる。
微量でもストレスではあるんでしょう。
それでですよ、「自分は我慢しているのに、他の者がその『我慢をしていることを行なっている』という状況」が、怒りという感情を生み出すのであろうと、怒りの源泉のひとつとしてあるのだろう、と感じました。
実際、現代の人間たちが『ヤバいやつ』と評している方々は、思うままに自身を生きている方のように思います。
つまり妬みなんね。
阿保クサ。
あと「ヤバい」しか言えねーのか語彙を増やせニンニク野郎もっと本を読め。
ご機嫌な服を着て街を歩いている方に対しても、奇異の目を向けている。
まったく、嫌になっちゃいますね、人間。
それもこれも『自分よりも、特定の個人の方が自由に生きているように見える』という妬みから来ているのではないか、と思います。
他者を下げるんではなく、自分自身をどうにか住み良い環境にする心がけをしなさいな、と思ったりしますが、人間は樂をしたい怠惰で愚かな生き物。
『他者を下げて「自分の方が上、優れている」と思い込める、樂して錯覺できる』なら、いくらでも他者を下げます。
嫌になっちゃいますよねー。
ま、例にもれずわたしもその愚か者の一因なのですけど。ここまで書いてきた内容が証拠ですね。
そして、根本的に『感謝というもの』が足りていないんじゃないの?とも思います。
これは、「感謝されること」でもあるし「感謝すること」でもあります。
なんだか、最近見知ったのですが、 "感謝されたい" から、行き過ぎた行動にも繋がってしまう。
これは由々しき問題ですよ。
しかし、世界が殺伐としたままである方が諸々操作しやすいので、『感謝しましょう』と大々的に説かれることは、万にひとつもないのでしょう。
悲しいですね。
そんな状況に対し、愚かものの若造が言えるとしたら、『与えよ。されば与えられん』ですかね。
別に特定の宗教を熱心に信仰しているわけではなく、わたし自身は八百万思想、アニミズム思想で生きておりますが、これまでの短くも長くもない生において、上記した言葉は、一種の真理は突いていると感じますよ。
とかく、何に対しても感謝はしておいた方が良い。
わたしはこれからもしますが、他の方がするか、に関してはどうでも良いです。
『その人自身』が必要と思わない限りは、無駄になるし、時期ではないからです。
とはいえ《心の底から湧き出た感謝の感情》が世界に満ちれば、変わるだろうなぁと思いますよ。
しかし、わたしも余裕がなくなって来ているな。まずいぜ。
負感情って体が疲れるから嫌なんですよね。
素敵で素晴らしい藝術と自然に囲まれて生きたいです。
ありがとうございました。