頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

たぶん人は狼狽えたくない

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

最近、一条次郎さんの『レプリカたちの夜』という作品を読み返しました。  

 

2019年くらいに文庫にて購入し、初読して以来の再読なので、読むのは二度目ということですね。

初めて読んだ時には強い衝撃(困惑?)を覺えたことを記憶しております。

 

 

今回は、そんな再読した際の感想をつらつらと認めます。

 

 

 

レプリカたちの夜

まず「わたしがこの作品をどうして手にして読もうかと思ったか」について記します。

理由は単純で、『その当時の文庫帯に書かれていた伊坂幸太郎さんのコメントに惹かれた』からですね。

 

わたしは伊坂幸太郎さんのファンを十年以上続けており、古今東西の伊坂作品は好きです。

 

 

そんな伊坂さんのコメントがあれば、しかもその内容が「とにかくこの作品を世に出すべきだと思いました。ミステリーかどうか、そんなことはどうでもいいなぁ、と感じるほど僕はこの作品を気に入っています」というようなものだったから、もう、氣にならないわけにはいけません。

 

 

薄く伸びて延びた初読時の記憶をたぐり寄せた感想を、ここに再現するならば、『触れる時期が違っていたら生き方を根幹から変えられていた作品だ』です。

 

 

ジャンル分け不可。というより

この『レプリカたちの夜』という作品はどういった内容の作品なのか、それを説明いたします。

 

様々な動物のレプリカを製造する工場に勤務する主人公は、ある夜、工場を徘徊するシロクマを目撃する。

 

その一件が起きた翌日より、工場長にスパイの捜査を一任され、『従うか、死か』の選択を迫られます。

 

後頭部を殴られたり、自身のドッペルゲンガーを見かけたり、一升瓶に入ったタバスコをもらったりしたのちに、ターンテーブルカッパら一行と洞窟に入っていたら、いつの間にか《ぷりんぷりん温泉》に入っていた。

 

上記が『レプリカたちの夜』の、ざっくりとおおまかで部分的に仔細な内容の概要です。

 

また、この作品は真正面から "理解をしようと" すると、非常に困惑する作品でもあります。

 

 

説明というのは、つけようと思えばつけられます。なんであっても。

説明のつかない事象に、『まったくもって嘘っパチな説明』をこじつけたらよいだけの話でもあるわけですし。

 

また、この世は多面的世界です。

この『レプリカたちの夜』という作品も、多面的な趣をとても豊富に持っております。

 

不条理劇な趣から、ミステリな趣、哲學的趣に、シミュレーション仮説などの量子論的趣。

 

余談ですが、わたしは安部公房さんの作品も好きなのですが、どうやら不条理劇的な趣のある作品が好きみたいですね。

近々、フランツ・カフカ氏の『変身』も読み直してみないとですね。

閑話休題

 

 

小説作品、もとい、人の思念から生まれ出たものを説明するという、まったく野暮なことを行なっておりますが、作中では読者に共有された『前提情報』が容易にひっくり返るという状況が頻発いたします。

 

主人公が認識した物事が、他の登場人物によって覆され、「そんなのドーデモイイヨ」と言われてしまいます。

 

この『前提情報が容易にひっくり返るという状況』を読んでいて、脳裏に浮かんだのは伊坂幸太郎さんの作品『モダンタイムス』にて作中作として登場する『苺畑さようなら』という小説です。

 

もしも一条次郎さんが『苺畑さようなら』を参考にしたのだとすれば、一条次郎さんのファンでもある伊坂幸太郎さんは嬉しい限りだろうな。と思いますが、そんなことは今は関係ありません。

 

 

『レプリカたちの夜』では、主人公と工場長とが何度か会話をします。

85pにて、工場長は以下のようなことを話しております。

 

長い間生活をすると、知らない人に会えなくなる。

 

たとえ初めましての人と出会ったとしても、「今までの人生で会った人と同じタイプだな」と感じるようになってしまう。

 

物理的に知らない人に会えない、のではなく、"心理的に知らない人"に会えなくなるのだ。

 

誰もかれもがどこかでみた誰かにそっくりで、パターンを知ってしまった。知ったつもりになってしまった。

 

子どものころのように驚けなくなって、寂しくもある。

 

自分がそう見ているわけではなく、会う人自らがそのような型にはまった仮面をつけて、典型的な人物像を演じて会いにくる。

 

実に寂しくて退屈なことだ。

 

 

安心したい、固定観念

わたしは『思念から生まれ出た作品には、制作者の意図と想いが充填されている』と考えているので、創作作品を聴いたり・読んだり・観たりした時には、(なるべく、覺えていたら)作者の意図を汲み取ろうと、やってる意味のないことを行います。

 

 

上記を踏まえ、この『レプリカたちの夜』という作品は、先の項にて引用いたしました〈工場長の考え〉がこの作品を表しているのではないかと、わたしは個人的に思っております。

またわたし個人としては、多くの小説作品に触れてきた人ほどこの作品を読んだ時に困惑を感じるのではないかと感じます。

 

そもそも、初めて触れた活字だけで構成された作品が『レプリカたちの夜』だった人なんて、まぁ万に一人もいないでしょう。

一条次郎さんにたどり着くのは、ある程度本に触れてきた人です。きっと。

 

 

そんな《ある程度本に触れてきた方》でも、知らない本を読むときはジャンルというものを氣にします。

好き好んで自分の苦手なジャンルを読みたいとは思いませんものね。

 

『レプリカの夜』は大きいくくりで言えばミステリーですが、先の通り不条理の趣もあればナンセンスな要素もあり、哲學的思考が垣間見える部分もあります。

 

そんなお話を読みながら、《ある程度本に触れてきた方》は「なるほど、この作品はこういったジャンルのものか」と、理解を "したつもり" になりますが、理解したつもりになった時点で、それまでに提示されていた(読者側がかってに思い込んでいた)情報が、覆ることが頻発するので、読み手は作者が用意した困惑の坩堝に落とされるのです。

 

 

工場長の言う『長い間生活をすると、知らない人に会えなくなる。たとえ初めましての人と出会ったとしても、「今までの人生で会った人と同じタイプだな」と感じるようになってしまう』というのは、そのまま『小説を多く触れてきたがために、「過去に触れたどれそれと同じ類だな」と思ってしまう』というのと同じなのではないか?と感じます。

そういった『知ったつもりの錯覺』を打ち壊すための作品として、『レプリカたちの夜』は執筆されたのではないのか、とわたしは思っているのです。

 

 

ですが、固定観念は、観念を固定して落ち着きたいので「目の前にあるものは過去に触れたものと同じだ」と単一視しようとする。

その固定・固着させようとする観念に対して、作品自体が「ざんねーん、違うよー」と翻弄してくる。

そのため、小説作品および観念から生まれた作品に多く触れてきた人(物事を阿保みたいに理解しようとする人)ほど、困惑して、その結果『理解不能だった』『意味不明だ』という凡庸で不感症的感想に落ち着くのですね。

 

 

とはいえ、この『レプリカたちの夜』を「不条理劇」「ミステリ」「哲學的」「量子論的」と判断したわたし自身も《観念を固定したい阿保》の一人で、工場長からすれば【全く寂しくて退屈な人間】と思われるのでしょうね。

 

 

Fox Trick Attack!!

さて、お話は変わり。

わたしは最近伏見稲荷大社に行きました。

 

2023年の頭に初めて参拝した以来の二度目です。

floodinhead.hatenablog.com

 

初めてお参りした時は夜だったので、御朱印も貰えず、その時の再挑戦もかねてお昼すぎに参りました。

 

しっかし人が多いし全然日本語が聞こえない。

時期が時期だったので修學旅行を行う學童のみなさまも沢山いらしたのですが、驚いたのは、今の學童さんたちはノートではなくて、ひとり一台タブレット端末を持っているのですね。

すごい時代である、と、時代と逆行したい人間は思いました。

 

 

無事、鳥居をくぐって直ぐのところにて御朱印を貰うことが出来たので、そのまま帰っても良かったのですが、せっかくなので初回参拝時と同じく稲荷山にも登山をしました。

 

無事山頂に到着し、下山をする際に、ある出来事が起こります。

 

 

ある出来事 ~てめーのキクラゲには烏賊でも詰まってんのかタコ!~

稲荷山は、登山者と下山者が同じ石段を通って登山を行います。

『右側通行絶対!』といった看板があるわけではないですが、登山者参拝者は自ずと片側に寄って通行します。

 

 

無事登頂を終え、わたしが下山していた時のこと。

前方から若いお兄ちゃんたちの団体が石段を登ってきました。

年の頃は二十歳前後の四〜六人組です。

 

わたしと、相手のアラウンド二十歳のご団体、双方とも各信仰方向から見て、石段の右側を通って移動していました。

 

石段の左右端には斜めになった石が埋められているのですが、前方のtwenty years old前後の団体から、お兄ちゃんの一人が外れてその斜めになった石を登りだしました。

つまり、一人だけ左側通行を行なっているということです。

 

「ここめっちゃ登りやすい!」とお仲間内にご報告されているAround 二十歳のお兄ちゃんを前に、「MAJIでやってんのかよ、莫迦じゃねえの」と顔を顰めながらも思うわたし。

 

 

両者がすれ違ったのち、左側通行をしていた二十歳years oldのお兄ちゃんが「舌打ちされたんだけどー」と、再度お仲間内にご報告されている声が後方から聞こえます。

 

 

してねーよ、ばか。

 

 

確かに顔を不快に顰めて『MAJIかこいつ。阿保ちゃう』と目一杯迷惑に思いましたが、舌打ちはしていません。

 

「てめーの木耳には烏賊でも詰まってんのかよ!タコ!」とは、後方へ去るAround HATACHI Years Old前後のお兄ちゃんに対して、どうしても思ってしまいました。

 

ですが、わたしは意識化では「舌打ちはしていない」と思っているだけで、超無意識の内で舌打ちを行なっていたのかもしれないし、『MAJI迷惑』と思っていたのは事実だったのでその意識が透過した結果、二十歳 old前後のお兄ちゃんには舌打ちとして聞こえたのかもしれません。

そのお兄ちゃんがそういった能力を持っていたのかもしれないし。

 

それに、それくらいの歳の頃というのは、他人の迷惑なんて顧みずな独善的自己中心的な時代でもあると思うので、仕方ない部分もあるよな。と思います。

実際、わたし自身も彼と同年代の頃は同じようなものだったし、きっと他の見ず知らずの人にも『MAJIかこいつ。迷惑千万』と思わせてしまっていたのだろうと思いますし。

 

とはいえ、上記出来事の起こった直後にそうやって理性で落ち着かせようとしていたものの、"モヤ" は充満しておりましたけれど。

まだまだわたしも愚かで至らない人間ですね。

 

 

なのですが、そんな "モヤ" がどうでもよくなるようなことが発生します。

 

 

 

蛸!

 

 

すでに攻撃は受けていた…。

この日、伏見稲荷に行きたかった理由の一つに『御朱印が欲しかった』ことがあるとは前述した通りですが、もう一つ、大きな理由があります。

今年の頭に初めて伏見稲荷大社に馳せ参じた際、こんな経験をいたしました。

 

👇

 

稲荷山の麓というような、「ここから登山するのね」と思うようなところに、石造りの鳥居があった。

 

その鳥居の中に、石でできたお狐さんが狛犬さんのように左右へ鎮座されている。

 

鳥居の前でお辞儀をして、鳥居をくぐった時、強い視線を感じました。

 

品定めされているような。

 

お狐さんに「こいつは山に入れて良いやつなのか?」と見定められている、そんな感覺。

 

👆そんな経験👆

その経験を確かに体感し、《『見定められる感覺』は次行ってもあるのか》を確かめたかった、それが伏見稲荷大社にまた行きたいと思っていた、もう一つの大きな理由です。

 

 

『タコ!』の一件が発生したのち、無事下山しました。

 

人が多い。まったく人が多い。

 

しかし、石鳥居と石造りのお狐さんは見ておりません。

 

「あれ?稲荷山の麓、入り口にいらしたはずなんだけれど」と思いながら、境内に設置された地図を見て、記憶にある(というのも、初回参拝時に「いっそ稲荷山登山!」と思った時にも同じ地図を見たから)、そこと思しき場所に向かいます。

結果をいうと、石鳥居もお狐さんもなかったです。

 

この結果をつきつけられたわたしは、そりゃあもう笑えるくらい狼狽えました。いや、全く笑えないのです。

狐に化かされていた、つまり、Fox Trick Attackをされていたのですから。

 

 

何度も、記憶にある『そこと思しき場所』に行きますが、記憶にあるものはありません。

 

人というものは愚かなもので、全く予期や説明不能なことに直面すると、過剰なくらいに狼狽し困惑します。

 

 

「えっ、まじか。まじかよ」などと何度も口にしながら、神社の関係者さんに聞きました。

 

───稲荷山への入り口あたりに、石鳥居があって、その左右にお狐さんがいたと思うんですけど、それってないんですか?何度探してもないんですけど。。

 

その問いに対して、神社関係者の方は「あるはずですけど、老朽化などの理由で、移動したり、一旦外したりすることもあるので、それで見当たらなかったんじゃないでしょうか」と答えます。

 

『そ、そうか。。老朽化で一旦移動ということもあるよね。 、…』と、なんとか納得はできましたが、狼狽と動揺はまだ残っておりました。

 

 

 

聞くところによると、稲荷神社のお狐さんは初めて来る人にはとてもナチュラルに化かしてくるらしいです。

たぶん揶揄ったり、ちょっと悪戯してやろう、くらいの感じなのではないでしょうか。

 

 

今年の頭に書いた伏見稲荷大社の初参拝記録を見直していたら、過去の自分はこんなことを書いておりました。

もう化かされた後だったなんてね。

 

こんな経験をしちゃったもんんで、『タコ!』の一件から生まれた "モヤ" なんて、ほんっっとうーーーにどうでもよくなりました。

 

 

ちなみに、『狐に化かされる』を英訳した場合「be bewitched by a fox / to be deceived by a fox」になるらしいのですが(ネットで調べただけだから正しいかは不明)、個人的に「Fox Trick Attack!」の方が好きなので、そっちにしております。

 

 

きっと人は狼狽して不安になりたくない

前述したFox Trick Attackにより、百点満点狼狽していたわし。

神社関係者の方に聞いたことで、幾分かの落ち着きは取り戻しました。

 

そしてこの時に思いました。

「狼狽すると、不安になる。不安とは、先が見えないことでもあるから、怖い。つまり人は不安になりたくないがために、あらゆる信仰や宗教などに凭れるのだろう」

 

 

ニンニク野郎にはおあつらえ向きなサイレンス宗教的な価値観

さて、ここで『レプリカたちの夜』のお話に戻ります。

 

そうです。この記事は一条次郎さんの『レプリカたちの夜』を題材とした記事なのです。

書いている本人も忘れておりました。

 

 

『レプリカたちの夜』は哲學的な見地からの議論も行われます。

例えば、意識とか。

 

本作品には、うみみず未波と言われる女性が登場します。

このうみみずさんは、『人間と動植物が違うもの、人間は他の生物とは一線を画した知的生命体だ。〈意識は人間にしかなく、よって人間は他の生物よりも優れた生命体なのだ〉と、どうして言い切れるんだよ。』という意見を持っております。

 

そのほかの主要人物に、粒山フサオというハゲが登場いたします。

このハゲは、うみみずさんとは真逆の考えをしている人物で『人間というものは非常に文明的で素晴らしい!まず人間には動物と違って魂がある!』と主張し、うみみずさんとよく仲の良い口論を行なっております。

どれくらい仲が良いかというと、下敷きを使ってハゲの少ない髪の毛をこすって静電氣を起こすくらい。その状況に口論している様を追加していただければ御の字です。

 

ちなみにわたしはもっぱらうみみずさん派の意見なのですが、粒山さんの意見は、一定して科學を基調としているように思われます。

つまり、この現代に巣食う多くほとんどの阿保的人間がサイレンスに信仰している宗教ですね。科學。

 

 

何度となくわたしは『科學で証明されたことによって〈その現象〉や〈その事象〉を信じるのなら、そんなのまんま宗教じゃん。なんでそれも理解できねーの?科學で証明されていないから?莫迦かよ』と主張しております。

この科學というものは《万人が同じ結果になること》を根本の価値観として、意識された信仰体系らしいのですが、どうやらこの科學というものは「世界の全部を理解しちゃおうキャンペーン!」を、数百年とかけて行なっております。

 

このキャンペーンは『世界の全部を理解する』ことを基本的価値観としているので、我々が日々を生活する際に発生した「わからない」に対して寄り添いやすいのでしょう。

 

人は不安になりたくない。

ここでこれが活きてくるんですね。

 

『不安になりたくない』から、なんでも解明してくれる科學を信仰する。

そして、それを信仰とも思っていない。(思えない?)

 

 

"解明した" ものも、『科學という側面から見た一つの結果である』という事実にも目が向かない。脳が及ばない。

本当に、阿保だと思うばかりです。ニンニク野郎ですよ。

 

ですが、科學信者は『宗教は非科學的だ』という理論で一刀両断する。

科學を信じているその意識自体が科學的に証明されていないらしいですが、そちらはどのように説明するのでしょうか。

宗教を信じるのも、科學を信じるのも同じようなものである、とわたしは思います。

仲良くやんなよ。それとも、同族嫌悪かい?

 

 

いつのまにか固定された観念を

前述した、無意識サイレンスな科學信仰というものは『これはこうであろう』という意識の固定を誘発します。

その意識固定が行われると、工場長の言う《心理的に知らない》ものと出会う機会が減ります。

 

どうやら、意識や観念は狼狽えたり不安になることを極端に恐れているようで、不安でいるなら不透明な理論でも安心を求める。

お箸は立っている時よりも横に寝ている方が安定いたしますからね。

 

だからこそなんでもかんでもファイリングとラベリングを行なって、事象を手中に納めたがる西洋思想は都合がいい。

西洋思想と蜜月な関係の科學という思想体系も、不安に寄り添う役割として、大変にちょうど良い。

 

 

意識固定や固定観念というものが、 世間一般で言われる【常識】というものへ変貌するのだと思うのですが、常識で塗れた観念を壊すという意味合いでの、工場長の想いと『レプリカたちの夜』という作品なのだろうと感じます。

 

実際、劇中では前提が覆ることや、主人公や周りの人々を巡って『この世界ってなんなの?』という揺さぶりも発生します。

 

C=22の存在であったり、主人公の分身?ドッペルゲンガーが話した「世界は入れ子構造になっている」という話だったり。

 

 

これらは、読者へ向けて「あなた方が正しいと信じている世界というのは、本当に存在するのですか」と問いかけているとも解釈でき、わたし個人は『あんまり目で見えているものばっかりに騙されきるなよ』『自分で見たり感じたものじゃないのに、無闇に信じるなよ』と言われているのだろうなと、解釈いたします。

 

 

 

これは個人的に思っていることなのですが、何かを調べる時に、一つの観点からしか調べたり情報を集めたりしないというのは、ほとほと愚かで莫迦のすることだと思っております。

というよりも、『片側だけ、自分の信じたものしか認めない』という姿勢でしょうか。

 

「それって、科學的に証明されているんですか?」などという質問が最たるものですが、ここまでわたしが書いてきたことも、所詮は『自分という個人から見て』という片側からの見地なので、所詮は五十歩百歩。団栗の背比べ。同族嫌悪。同じ穴の狢。ですね。

 

 

愚かなものです。自分の意見を声高に主張するという行いは。

 

 

『レプリカたちの夜』にて引用された音樂たち

さて、この『レプリカたちの夜』は音樂への造詣も深く、色々な音樂作品が登場しております。

巻末に参考文献の一覧はありますが、参考音源の一覧はなかったので、ここに書き留めて今回の記事を終わりといたします。

 

 

Don't Worry Baby

Don't Worry Baby

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  • Capitol Records
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PET SOUNDS

PET SOUNDS [12 inch Analog]

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ニーベルングの指環

 

コーヒー・ルンバ

コーヒー・ルンバ

コーヒー・ルンバ

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チャタヌーガ・チュー・チュー

 

Jump!

Jump!

Jump!

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BE MY BABY

BE MY BABY: THE VERY BEST

BE MY BABY: THE VERY BEST

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我々人間から見たら、各々動物さんたちは毛むくじゃらに思えるけど、彼ら彼女らから見れば、我ら人間はほとんどハゲで局所的に毛があって、なかなか滑稽な生物に見えているのかもしれないなぁ。そうは思いませんか?

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )