頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

近親婚と村意識

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

 

遅読、読みたい本に伸びる手は速い。

以前にも書きましたが、現在、わたしは朝井リョウさんの『正欲』という作品を読んでいます。

 

 

現在320pくらいまで読みました。

 

面白いですね。ですが、なかなか疲れる作品だな、とは思います。

 

わたし自身は人間というものに期待をしていないので、疲れ方もほどほどですが、人間賛歌を心情にしている人からするとアレルギー的な拒否感を覺える方もいそうだな、と思います。

偏見ですけどね。

そもそも強い拒否感を覺える可能性があることを題材にした作品でもあるし。

 

なんか、『向日葵の咲かない夏』といい、今年はどうしてか疲れる作品と触れる機会が多いな。なんでだろう。

 

しかし、わたしは遅読なのですが、遅読なのに読みたい本は増えていきます。

とりあえず、横溝正史さんの『夜歩く』と安達裕哉さんの『頭のいい人が話す前に考えていること』という本は新しく購入しました。

 

安達裕哉さんの『頭のいい人が話す前に考えていること』は、下記の記事で知って氣になったので購入した次第です。

diamond.jp

これで未読の積ん読本は十五冊くらいになりました。

幸せですね!( ¨̮ )

 

わたしは主に小説を読むのですが、小説だけだとしても、わたしが一生をかけても世界に生まれた作品を読みきることはないのだろうな、と思うと空恐ろしくなりますね。

 

 

近親婚と村意識

この『正欲』という作品は「寺井啓喜」という男性、「桐生夏月」という女性、「神戸八重子」という女性の三人を主人公として物語が展開します。

 

その三人のうちの桐生夏月さんの話で、『地元の同級生と結婚した人』の話と『正しい命の循環』という形容がされる場面があります。

 

『地元の同級生と結婚』というのは、いわゆるマイルドヤンキーな方々には一般的な価値観、というよりも当然とすら考えられるような価値観なのだろうかな、と考えます。

 

 

夏月さんは、久しぶりに出会った學生時代の同級生から、「また別な同級生が結婚するから首席してくれ、その結婚式の二次会に大同窓会をしよう」と持ちかけられます。

 

聞くと、その結婚する同級生は、現在、夏月さんが學生当時に通っていた中學校の教師を勤めており、その同級生の父親も中学校の教師をしていた。

その同級生の父親が担任であったことから、列席者が中學校の関連者ばかりなのなら結婚式と同窓会を一緒の機会に行おう、と計画した。そんな経緯です。

 

この時に非常にひねくれていて、いやーな関連性がわたしの脳へ去来しました。

 

昔から知っている意識も距離も近しい関係性の者同士で婚姻を行い、子を産み育てる。

もちろん絶対とは言えませんが、その生まれた子がまたその産まれた地で子どもを産む、育む。

そういう関係・循環が同時多発的に群生した場合、『昔からの、先祖の代からの知り合い』という関係意識が生まれる。

その関係と意識は『村意識』と形容されることもありますし、実際にわたしは村意識と同義だろうと感じます。

村意識は往往にして歪なものとなる危険性も孕んでいます。循環の止まった水が濁って淀むように。

そして、わたしはこの "村意識" というものに近親婚と近しいものに感じました。

 

 

近親婚を行うのは、危険と言われています。

「近親婚を行って『血が濃くなる』と形容される現象が発生すると、先天性異常や認知機能に支障が発生する可能性が高くなるから」だそうです。

 

《『村意識』が強くなった結果、風通しの悪い歪なものになる様子》と、《近親婚を繰り返して『血が濃くなる』現象。それによって生まれた弊害》が似ているな、と思ったのです。

 

我ながら嫌なことを思いつくものです。全く。

上記の考えが脳に去来した時、自らの考えながら、思わず苦い液体を分泌する虫が舌状を這っているような感覺になりました。

 

 

「子を産む」「種を後世に残す」という、この生命活動自体は生物の根源であるのですが、それが正常に機能するのも時と場合にもよるよな。と思いました。

外来種が在来種を滅ぼすような構図とも似ている、と一瞬思いましたが、別に似ていないかもしれません。

あと人は増えすぎ。

 

 

嫌なことに氣付いたなぁ、と自分でも思った

この『正欲』を読んでいて、他にも「全く嫌なことに氣付くなぁ、自分」と思ったことがあります。

 

それは『初めて聞いた名前なのに、なんで漢字までわかんの??』です。

 

夏月さんが、前述の同窓会の話を中學校の同級生から聞いた際、〈ベビーカーに乗っている同級生の子どもが泣き出すという状況〉が発生します。

そこで、親である同級生が自身の子の名を呼んであやすのですが、その名前が『漢字表記』なのです。

 

 

基本的に、この『正欲』は主人公が一人称的な主観視点にて物語が展開します。

主観視点だからこそ、この作品が成り立つし、独特な強い光を放つのですが、それならなぜ「名前は〇〇で、漢字は〜…」というやりとりがないのに、その名前の漢字がわかるのか。

もちろん「こんな字を書くのかな」と想像することはあるのでしょうが、とても想像で正解するような漢字ではありません。

 

『この子の漢字は〜…』というやりとりはあったけど、省いているのかもしれません。

ですが、それは作者が樂をしたいからなのでは? 確かにそこまで書いていたら、テンポも悪くなるし、変に現実感が出てきて読みにくいと読者が感じるかもしれない。

 

というよりも、我々は初対面の人や、友人の子どもの漢字までわざわざ聞くか?と自問すれば、しません。つーか『名前がこの音だから、こんな漢字だろうか』なんて、考えません。

つまり、作中で描かれていた様子は『とても普通の風景』ということになります。が、だったら漢字表記なのはおかしくね?とは、やっぱり思います。

うるせ〜読者だわ。やーだやだ。

 

 

いや〜なことに氣がついちゃったな、と思いましたとさ。

 

 

 

そんなことを考えていたら、「文字というものはやっぱり我々を意識の箱に押し込めるものなのだな」と思ってきた。

その文字でできた作品を有難がって面白く、愉しんでいるので、全くお笑いにもなりませんね。あるいは笑えるけれど。

 

 

 

次は安部公房さんの『箱男』と東野圭吾さんの『ある閉ざされた雪の山荘で』を読みたいです。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )