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今回のテーマはタイトルの通り『この人生がコンテンツであった場合』についてです。
以前にも書いたようなネタですが、書きます。
人生、という、コンテンツ
まず、「コンテンツとはなにか」ですが、大まかに言うと〈情報の中身〉とか〈内容〉とか、そんな意味合いらしいです。
『人生がコンテンツとして消費されていること』を描いた作品で有名なのは、映画の『トゥルーマン・ショー』ですね。
以前、上記の映画について少しばかり言及しましたが、大したことは言っておりませんでした。
さて、今回は『みんな、みんなの人生って実はコンテンツとして消費されているんじゃない?』という、そんなお話です。
この話はシミュレーション仮説とも関係がありますね( ¨̮ )
以前に『ある男』という小説について言及しました。
この作中で、確か主人公の城戸だったかと思いますが(確か『〈「ある男」であるXの素性を追うこと〉と、〈小説を読むこと〉は似ていて、他人の人生を側から触れることで、自分の傷を癒している』みたいな部分で)、「この生活もだれかが見ている人がいて、この人生を創作している人さえもいるのかも」みたいなことを話しておりました。
この『実はこの生活を創作して、その創作物を見ている人がいるのかも』という話、仮説?は、伊坂幸太郎さんの著作『ペッパーズ・ゴースト』でも言及されておりました。
たしかネコジゴハンターの二人が話していたと思います。
この『人生が実は創作されたもので、それを樂しんでいるものがいる』という感覺。
これに対し、一蹴して一笑に付す方もいらっしゃるでしょう。
別にそれは構わないし、知らない。どうするかはその人の自由だし。
しかし、いろんな人間たちの半生を描いた作品が我々を娯しませているのは事実です。
太宰治著作の『人間失格』や、夏目漱石著作の『こころ』、サマセット・モーム著作の『月と六ペンス』などなどなどなど。
映画ならば『ショーシャンクの空に』や『ジョーカー』とか、他にもいっぱいあります。
それだけの人生があるということですね。
夢の意識が反映される夢
いきなりわたくし事になってしまい誠に恐縮なのですが、わたしはよく睡眠時に夢を見ます。
「むしろそれは睡眠をしていないんじゃない??」と思われるくらい夢を見ます。
そんな夢の中でも、非常に現実感を伴った夢を見ることがあるのですね。
そんな夢では大抵主人公的な人物がいて、それを背後からというか、側から見ています。
そんなわたしの意識、夢の中の意識が、「こんな時はこうなっているものだよね」とか「ここでこういった行動をとることで、この人物の性格傾向をうまく表現できるな」とか「ここにあるものにこれがあったら物語は面白くなる。そして主人公である人物は知らん間に消えているものだ」などと考えたりします。
すると、その夢の中の世界は、『夢の中の意識が考えたこと』が反映されて展開されるのです。
これは〈夢が、ある空間では現実化している〉という感じなのではないのか、そう思います。
この『夢の中の意識が想ったことが、その夢の中で反映されて展開していく』というのは、まったく創作と同じであると言えますし、夢の中で物語が進んでいく。
これは『胡蝶の夢』と同じなのではないか。
つまり、「自分が見た夢の中でも発生していること」なのだから、この自分の生活も「何かが見ている夢」なのではないのか、ということです。
あり得ない話でないと思います。
むしろ"夢があって"良いのではないでしょうか。
ちなみに、わたしは夢で見た光景が数ヶ月?くらいの時間が経過してから、現実として遭遇することがあります。
別にいらない話ですね( ¨̮ )
👇過去の夢話👇
『夢を見る状態というのは、熟睡できていない状態である』なんていわれたりします。
その通りだと思います( ¨̮ )
わたしは泥になりたい。贅沢を言うなら泥の中のバクテリアになりたい。
ありがとうございました( ¨̮ )