頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

鬼滅の刃 遊郭編 第十話『絶対諦めない』感想・考察

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回は「鬼滅の刃 遊郭編」の第十話『絶対諦めない』の感想・考察です。

 

👇 第九話の感想👇

floodinhead.hatenablog.com

 

 

解放

建物から炭治郎が落ち、意識を失います。

その時に禰豆子が夢世界に現れ、お説教と檄を炭治郎に飛ばします。

 

最初は人間の時の禰豆子で、風が吹いて髪が解け鬼化した禰豆子になります。

ここで『髪を結っている様』が人の状態を、『髪がおりた様』が鬼状態の表現をしているのが氣になりました。

何か関係あるのかしら?

 

 

ここで禰豆子がしていることは『解放』ですよね。

 

知らないうちに他人から植えつけられた価値観に、『無意識に縛られた自己』を意識化に置く(異常を異常だと知る)ことで植えつけられた価値観や、自己無価値感を払拭しようとしています。

これは魂の解放であるわけですね。

やはり解放。

 

少し具体的な例を挙げると、『SNSで高評価を多く得られなければ意味がない』といったものや『切り取ってSNSに載せられるようなきらびやかな生活をしなければ価値がない』といったものです。

もちろん他にもありますよ( ¨̮ )

 

この『解放』を少年ジャンプという場所で発表したのが素晴らしい。

 

 

ここで禰豆子が言っていましたが「謝っていたら、悪くないことでも悪いことみたいに思えてくる」という言葉。

目から鱗というほどではないですが、ハッとしました。

 

この『悪くないことも悪いと思えてくる』という心理誘導も、姑息に他者から植え付けられた価値観です。

 

 

虚弱さに鎧を武装

禰豆子の檄を受けて炭治郎が目を醒まします。

ここで花街の屋敷群が火事になり、さながら焼け野原になっています。

 

ここで思ったのですが、燃えて隠れる場所がなくなったら鬼としても困るんじゃないの?

 

 

妓夫太郎さんの体が、炎の逆光になり、その体躯がよくわかります。

以前に『妓夫太郎さんは七つの大罪の嫉妬っぽい』と書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

この時に妓夫太郎さんを「痩せぎす」とわたしは形容したのですが、この"瘦せぎす"がポイントなのか、と思いました。

 

体躯は瘦せぎすですが、筋肉はついています。

非常にあべこべですよね。

 

これは『内面が成長しないまま、理屈だけが成長した』ということを表現しているのではないかと感じました。頭でっかちということです。

 

第八話で「鬼はひきこもり」と形容しましたが、その『ひきこもりとしての表現』が、『瘦せぎすな体躯に乗った不自然な筋肉』ということなのだろうと、思いました。

floodinhead.hatenablog.com

 

遊郭編最初の修行パートでは、主人公の三人も『しっかりとした体躯』に筋肉が載っていますし、今回の上司になる宇髄さんも『健康的な筋肉』がついています。

 

一貫して鬼は不健康に描かれているということなのか?

まぁ日光浴びてなかったら不健康にもなりますわね。

 

あと坂本九さんが登場しましたね( ¨̮ )

スキヤキ( ¨̮ )

 

 

運が良かっただけ

炭治郎が『俺が今人間として生きているのは運良かっただけだ。自分も禰豆子と共に鬼になっていた可能性もある』と内省します。

これは、全く、その通りなのです。

 

ここで吾峠さんが言いたいことは犯罪と言われていることをあなたがしていないのは、運が良かっただけで、下手人になった人も運によってそうなったのです。ですから、運が違ったというだけで相手の何もかもを知ったようなことを言うものではありません。その人にはその人の事情というものがあるのです。間違っても暖かく安全なところから知ったようなことを言ってはいけませんよ』ということだろうと思います。

 

この『人には人の事情がある』というのは、遊郭編の第一話で炭治郎が言っていたことですよね。

floodinhead.hatenablog.com

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

怒涛の戰闘パート

善逸かっこよすぎない?

初登場の時はなんともうるさいヘタレキャラだったわけですが、『無限列車編』からどんどんかっこよくなっている。

 

あと伊之助が死んだわけじゃなくて、とりあえず安心しました。

とはいってもかなりの重症だから失血死とかなりそうで、依然として怖い。

 

宇髄さんと妓夫太郎さんの斬り合いシーンは映像だからなせる技ですよね。

 

 

妓夫太郎さんの首を切る時に炭治郎のおでこの痣がはっきりとした"模様"になります。

これを見て思ったのですが、炭治郎自身の寿命を引き換えにして、まさに『死に物狂い』で技を発動させるのだとすると、それは誠になんとも大手を広げて喜べない技だなぁ…と思います。

 

 

すまちゃんが喜びながら雛鶴さんに抱きつくシーンで、すまちゃんがゆるい顔になりますが、この異化効果は本当に良いと思います。緊張しっぱなしは疲れるものね。緩和は必要ですよ。

 

 

首を切った妓夫太郎さんの体が"自爆"さながら爆発しますが、この時の映像は原爆をイメージしているのでしょうか。

火の粉が降っている様は死の灰に思えますし、『焼け野原』でもありますからね。

 

 

電脳空間vs現実の空間

これはあくまで酔狂な仮説シリーズなのですが、鬼は自由に体を再生させることができます。

 

昨今話題のメタヴァース等の電脳空間では、自分の体を自由に変えることができると言われています。

「腕が二本だけだと不便だな」と思えば、三本にでも四本にでもできるらしいです。

また『好きな容姿にできる』ということは、『相手の容姿が氣に入らない』ということも起こり得ます。

この場合は、相手から見える相手自身の容姿はそのままで、自分から見た相手の容姿だけを変えることができるそうです。

 

LINEで相手の名前をこちらで自由に変えられる、みたいな感じだと思ってくだされば問題ないと思われます。

 

 

この『自由に容姿を変えられる電脳空間が鬼側』で『腕がなくなればなくなったままの現実世界が人間側』ということなのか?と思いました。

ここで重要になってくるのが、『無限列車編』で煉獄さんが上弦の参である猗窩座さんに話したことが意味を持ってきますね。

 

もちろん、こんなことを含ませて作者の吾峠さんが書いたわけではないでしょう。

だってこんなことはわたしが勝手に考えていることですからね( ¨̮ )

 

 

表面

第九話で、わたしはルッキズムについてはっきりと皮肉を言いました。

 

正直なところ、容姿やブランド品や財力などの表面だけを見て相手を判断するような、ルッキズムなどの価値観は好きではありません。はっきりと軽蔑しています。

 

ですが、ルッキズムで判断をしている人は、その判断基準が内面でもあるわけです。

 

むしろ「あぁ、ルッキズムか」と思って判断しているわたしの側の方が、『相手の表面だけを見て』判断しているわけです。

 

これは難しくなってきたぞ。

 

 

この氣付きから學ぶべくは、『"自分の価値観をこそが是"とせず、威張らないこと』と『一朝一夕でわかるだなんてそんなはずはない。おこがましいことを自覺しなさい』ということなのでしょう。

申し訳ない、良い経験でした。大変勉強になりました。

 

 

 

第十話のタイトルである『絶対諦めない』というのは非常に良い言葉だと思います。

確かにこの言葉はなんともストロングスタイルたり得る言葉だとは思いますので、氣後れされる方もいらっしゃると思いますが、この言葉が言えるくらいの氣概と精神の健康はあった方が良いと思いますし、どうかあってほしいと思います。

もし言えなくても、どうか精神的な健康は保っていてほしいと存じます。

 

 

さて、次回が最終話ですか…。

心して臨みましょう。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )