本日もご訪問ありがとうございます。
今回は「鬼滅の刃 遊郭編」の最終話『何度生まれ変わっても』の感想・考察です。
👇 第十話の感想👇
さて、最終話です。
不死鳥の涙
妓夫太郎さんの体が爆発するシーンから始まりますが、その爆発を禰豆子の血鬼術で鎮め?ます。
毒で死にかけの伊之助を、禰豆子が血鬼術の炎で焼き、毒を浄化します。
これを見て『不死鳥の涙みたいだな』と思ったのですが、そうです。
不死鳥の涙はどんな傷でも癒して治す、という効果があるそうです。
が、これは公式的な伝承でなくハリー・ポッターで生まれた設定らしいです。知らなかった。
また不死鳥は別名で『火の鳥』とも言われますし、不死。
禰豆子は鬼にされているので、不死でもあるわけです。
その「不死の禰豆子が炎を使って浄化」というのは、やっぱり意図がありそう。でも考えすぎだとも思います( ¨̮ )v
しかし禰豆子ちゃんは猫みたいだね。
後出しじゃんけん
後出しじゃんけんみたいになって恐縮ですが、以前見たツイートでこんなものがありました。
これは『無限列車編のTV版』と『遊郭編』のオープニングタイトルなのですが、『無限列車編』で煉獄さんが殉職した結末を知っているので、「お、これは宇髄さん生存フラグかな?」と思いました。
炭治郎と宇髄さんの体の向きが同じだから、という理由です。
確かこれを思ったのが第一話の放送後1,2日とかだったのですが、各回の考察では言及しませんでした。
ですので、結果、宇髄さんは生存してわたしの読みは当たったのですが、後出しじゃんけんみたいでダサいですね( ¨̮ )
とはいえ、生存して大変良かったです。
『無限列車編』で、煉獄さんが上弦の参である猗窩座さんに向かって「確かに人間は老いるし、腕が無くなっても新しく生やすことはできない。でも、それが人間の美しさだ」と言いますが、その言葉を踏襲した結果なのでしょう。
本当に誰も死なず生き残って良かったですし、宇髄さん自身が言っていた『生きてる奴が勝ち』という想いを有言実行しています。
自分でケアをして、背負っていく。
妓夫太郎さんと、その妹・梅ちゃんが言い争いをしています。
ここでちょっと良くないことを梅ちゃんが言ったことで、妓夫太郎さんがかっとしてしまい、本当に良くないことを言いそうになります。
言葉の恐ろしいところは、思ってもいないことを、いとも簡単に口にしてしまえることです。
その『思ってもいないこと』で相手を簡単に傷つけたり、殺したりできることです。
だからこそ、発する言葉には注意をしないといけないのです。
妓夫太郎さんと梅ちゃんの回想があります。
本当にこの回想があって良かった。
『無限列車編』で登場した厭夢さんは「どうして鬼になったのか」が描かれていませんでしたからね。
あれはのちにすぐさま猗窩座さんが登場するという演出上、描くことができなかったのでしょう。
お話が展開するテンポも悪くなりますから仕方なく、です。
そんな妓夫太郎さんの回想ですが、なんとも救われない生い立ちです…。寄る方がなかったんですね。
人間の時の姿をした梅ちゃんを妓夫太郎さんがおんぶして、煉獄の炎へ歩いて行きます。
ここで兄妹の二人共が人間の姿なのではなく、「人間の姿」と「鬼の姿」なのは、人間だった時と鬼になった後の、両方の業や罪を背負うということなのかな、と思いました。
この『兄が妹をおんぶする』という様が"炭治郎と禰豆子"の兄妹と重なるんですよね。そりゃあ泣きますよ。
また『煉獄』というのはカトリックの価値観で、「死者の靈魂が天國へ行く際に通る浄化の炎」という意味らしいです。
つまり妓夫太郎さんと梅ちゃんの兄妹は、天國に行けることが確定しているのです。
良かった。本当に。
もちろん炭治郎が二人に対して言っていたように、人を殺めて食った事実は変わらないけど、その罪を償うために煉獄の炎に焼かれますが、その先には天國が必ず待っている。
妓夫太郎さんが『心残り』を思う場面で、左右に別れた道が現れます。
左手の道が明るく、右手側が暗くなっていました。
このシーンで初めに思ったのが『オープニングで鉄道が左に曲がる映像』です。
『遊郭編』の結末がこうなるとは知らなかったので、「無限列車かな?」と思っていましたが、この描写を示唆していたのでしょう。
無の空間みたいな場所で、人間の姿の梅ちゃんと妓夫太郎さんが話すシーンがあります。
このシーンで妓夫太郎さんは左側に立ち、梅ちゃんは右側に立っています。
ここでは右側が明るく、左側が暗くなっています。先ほどの道の場面とは逆です。
ここで妓夫太郎さんが梅ちゃんに対して「俺はこっち(暗い方)に行くから、お前は反対の方、明るい方へ行け」と言いますが、梅ちゃんが妓夫太郎さんの背に抱きつき「絶対に離れない!何回生まれ変わってもお兄ちゃんの妹になる!絶対に!」と泣きつく、稀代の名シーンがあります。
これで兄妹の心が繋がっていた記憶を妓夫太郎さんが思い出し、妹を背負って歩き出します。
暗いと思っていた道が、実は二人を癒して救う明るい光の道だったのです。
このことに氣付いた時、本当に泣きました。
この『自分で自分自身のえぐれた傷と対峙して、癒す』というのは、正直めちゃくちゃ辛くてしんどいのですが、一番セラピーの効果があります。
この一番良い方法を妓夫太郎さんと梅ちゃんの兄妹は選んだのです。
これまでは鬼になった人に対して「辛かったよね。しんどかったよね」と炭治郎が語りかけて癒していたのですが、今回の兄妹に対しては「仲直りできたかな」とだけ口にします。
つまりは『炭治郎の手を借りずに、自分を癒すことができた』ということなのです。
これも鬼になってしまったそれぞれの人の心自体が、自分で癒せるように成長しているということなのだろうと思います。
本当に上質で良いセラピー作品だと思います。
この作品を読んで、観て、自己の傷を癒す人が一人でも増えてほしいと思います。
きっかけは他者だったとしても、自分自身と向き合って自分一人で治すのが一番です。
ですが、マジでマジでマジでマジでマジでマジでしんどいしきついので、おすすめしますが、おすすめしません。
なので、人の力を借りれるだけ借りてもいいんじゃんね。
結果的には、ちゃんと生きていて、傷を癒せたらいいんだからねー。
まぁ最終的には解決するんだし、今は自分自身を癒すことができるまでの準備期間なんだから、精一杯苦しんだらいいと思います。
どうせ解決するんだし( ¨̮ )
夜を越えて。
『無限列車編』では煉獄さんが殉職したとはいえ、猗窩座さんに炭治郎が殺されなかったのは夜明けがあったからです。
その同じ上弦の鬼(猗窩座さんよりも位の低い鬼ですが)を夜明けを待たず自らの力だけで討てたというのは、煉獄さんの無念や、あの時のかまぼこ隊の悔しさを、越えることができたという表現だと感じました。
これで煉獄さんも思い残すことなく成仏できたのじゃないかしら。
「二組の"四人"」が欠けることなく生存したこと、そして、伊之助が『ちゃんと泣けるようになっていること』が、純粋に嬉しいです。
『刀鍛冶の里編』も愉しみ!\(´-`)/
ありがとうございました\(´-`)/