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毎度おなじみ、アニメ『鬼滅の刃 刀鍛冶の里編』の第五話感想・考察回です。
👇第四話の感想・考察👇
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上弦の伍・玉壺さん
鉄穴森さんが時透無一郎さんのために打った刀、それを受け取ろうと急ぎますが、刀が置かれている小屋を前にして上弦の伍・玉壺さんが立ちはだかります。
たしか以前にもその容姿について言及しましたが、この玉壺さんって、結構その造形が完璧だと思うんですよね。
顔の輪郭は割と男前で筋肉もついているのですが、一目見て『異様』とわかる、その容姿。
目が口に、口が目に。しかも目の一つは第三の目の位置にあり、藝術家としての才はあるのではないかと思います(その才が善い様に発露されているかは別として)。
また『身体は大人のそれ』なのに対して、頭部と身体に付いている腕は『子どもの腕』です。
単純に「異様さを表現するため」に、その容姿に描かれたのだとは思いますが、このあべこべさは『肉体年齢と精神年齢が合っていない』ことの比喩だったりするのか?と感じました。
場面変わって里。
玉壺さんの血鬼術が里を襲い、血鬼術の中でも強そうな個体が里の長を苦しめていますが、この窮地を、甘露寺蜜璃さんが救います。
この〈血鬼術の中でも強そうな個体〉は、背に壺を四つ背負っているのですが、この壺がいくつあるかで個体の強さが変わるみたいですね。
そう考えると、玉壺さんは(自身の名前にも壺という字がついているくらいなので)、『壺』というものに非常に強い愛(ともすれば執着)を持っているのだろうと思います(それこそ第四話の最後にビッグハンドキャットが甘露寺蜜璃さんに対して言っていた「お前を大事に想う人間なんて一人もいないんだから、お前の本分を全うしろ」の《本分》が、人間時代の玉壺さんにとっては壺作りなのだろうな、と推測されます。まぁ、妄想です)。
そういえば『遊郭編』での鬼だった妓夫太郎さんは、"筋肉の付き方がいびつ"でしたが(引きこもりだしね)、喜怒哀樂の鬼は筋肉が健康な付き方をしておりますね。
成長できない鬼
玉壺さんが『初めましてのご挨拶』ということで、自身の〈作品〉を披露します。
『鍜人の断末魔』と題されたその〈作品〉は、里の刀鍛冶を御華のごとく"活けた"ものです。
わたしはこの〈作品〉と、原画展にて初めて対面したのですが、いや、怯えました。
「ヒッ」と。
「や…、、がちやばな人じゃん。。玉壺って人」と、思いました。
やっぱりホラー要素ですね。
でもなんでか惹かれる。どこか人間臭いから?
そんな玉壺さんは〈作品〉の『見どころ』を解説していきます。
まず刀鍛冶で培った"まめのできた手"を指し示し「刀鍛冶特有の分厚いまめだらけの汚い手」と紹介しました。
この時にわたしが思い出しのは、ジブリ作品の『風の谷のナウシカ』です。
『風の中のナウシカ』の作中にて、ナウシカが農民の手を見て「働き者の素敵な手ですね」と言う場面があります。
個人的にはナウシカみたいなことを言ったり感じたいなと思う側なのですが、玉壺さんは(というよりも鬼の皆様は)、しないようです(というより、できない?)。
玉壺さんが「分厚くてまめだらけの汚い手」と紹介したこの場面で、わたしは『あぁ、鬼というものは成長できないのだな』と思いました。以下、理由を説明します。
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人というものは様々な失敗を経て成長なりをするものですが、失敗というものは、傷であったりそれに準じたものも生みます。
つまり、成長には痛みを伴うというわけですね(月並みすぎる)。
その痛みが傷になったり厚い皮膚となったりするわけですが、成長に伴って自然と生まれるものを『汚い』と表現した。
それはつまり成長を否定しているということになります。ということは、自身も成長ができない。
《「新品を新品のままで使い続けたい」という願望を持っているようなもの》というわけです(この願望はわたしにもあったし今もあるのだろうけど)。
『鬼滅の刃 無限列車編』では、煉獄杏寿郎さんが上弦の参・猗窩座さんに対して「人は朽ちるから美しい。腕が無くなっても新しく生えてくることはないが、それこそが尊いことなのだ」と、鬼側の価値観に対して決別の意を示します。
当然のことなのですが、ものは劣化して朽ちます。
それを認められない、受け入れられない、そんな鬼は幼稚だ。ということなのかなー、と、幼稚なわたしは考えた次第です(自分に幼稚な部分がないと相手の幼稚さに目が向かないもんね)。
鏡に映らない?
玉壺さんが新たな血鬼術を繰り出し、蘭鋳?のような金魚が出現します。
この玉壺さんはやたらとお魚さんのモチーフが多いですね。壺と同じくらいの想いがありそうだな、と感じます。
妄想ですが、自身の藝術を粛々と行うも芽がでない、世に認められない人間時代の玉壺さんは、思想とか人への接し方の部分でも大衆と馴染めず敬遠される。そんな玉壺さんの唯一の話し相手が金魚だった、とかですかね。知りませんけど。
蘭鋳が吹き出した針が刺さった時透無一郎さん。
その姿を見て「滑稽な姿だ」と玉壺さんは言いますが、いち視聴者のわしは「いや、あんたも大概滑稽やで」と思います。
まぁ価値観・感性は人それぞれなので否定はしませんが、この時に思ったのは『鬼となったら、自分の姿は鏡に映らないのでは?』ということです。
『幽靈となったら鏡には映らない』なんて言ったりするのですが、その状態です。
自身の姿が鏡に映らないから、容易に相手を滑稽だと嗤える。
つまり鬼は『視野が狭い』または『自身が見えていない』ということ?(ある鬼は自身を省みる場面があるのですが👈原画展知識)
鬼舞辻無惨さんも矛盾したしょうもないことを言っておりますしね。癇癪持ちだし。
偉そうに書いているそういうお前はどうなんだ、という話ではあるけど。
相手に思ったことは自分自身にもあることなのだし。
上記のことも踏まえ、時透無一郎さんに対し『つまらない命』と言った玉壺さんと、過去に退治したと思しき鬼の方は、自身に対しても『つまらない命』だと思っているこということですね。
実際、脳は「口に発したこと」や「考えたこと」を《自分のこと》として認識するそうですしね。
だから、意識では"愚痴や悪口を特定の人に対して言っているつもり"でも、脳はその悪口を"自分に対して言われているもの"として処理する。
使う言葉は考えた方が良いですね、まったく。
そういえば炭治郎も言ってましたね、「人に対してしたことは、巡り巡って自分のために」
どうやら言葉もそうみたいです。
奇人変人の戯言として聞いていただければ。
独立独歩と、託す想い
禰豆子の血鬼術の効果で爆血刀が生じます。
この行為を見ていて思ったのですが、これって『力を寄せ合って一つのもの・ことを成す』ということなのでしょうか。
思い返してみれば、刀を打つという行為も複数人で行いますし、里というコミュニティも人が複数居てこそ成り立つものです。
鬼殺隊士も集まって『鬼舞辻無惨さんを討ちとる』という一つの目標を元に行動し、育み、後世に想いや願いを託しています。
対する鬼は独立独歩的というか、『いかに己が武勲をあげたか』の競争をしているように感じるのですよね。
「営業成績が壁に張り出されている会社」みたいな。
追いつけ追い越せ、追いついたら蹴落とせ。一人勝ちをしろ。のような。
そういえば『氣に入らない者がいるなら、決闘を申し込め』と、『刀鍛冶の里編』第一話では言われていましたね。
炭治郎が〈喜〉の鬼の首を斬る時の、皮膚がたわむ描写、表現は、いいね!と純粋な昂奮を覺えました。
骨の表現がしっかりされていた鬼ですからね。首を斬る際の表現もリアルさがあって良かったです。
言及はしませんでしたが、半天狗さんの首を斬ったあとに分離・再生する際に筋肉や腱や筋が再生していく様があったのは氣分が上がりました。
『鋼の錬金術師』のグリードみたいですね。
もしかしてオマージュ?ホムンクルスは肉体が再生するし。いや、思い違いだろうな。そう思っておこう。
最後に
今回も樂しかったですね!
「正直書くことないかな」って思っていたのですが、杞憂でした!
いやぁ、脳ばっかりで考えていやがります。
もっと心で観たいもんです。
さて、次回第六話は『柱になるんじゃないのか!』だそうです。
困惑。
炭治郎が不死川玄弥に対して言うのか?
あ、甘露寺蜜瑠璃さんの柄にハート形がありますが、『煉獄杏寿郎さんの鍔』みたいに〈向きの妙〉があったりするんですかね。愉しみですね( ¨̮ )
ありがとうございました( ¨̮ )