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鬼殺隊士は鬼と表裏一体紙一重
時透無一郎さんはどうやら記憶喪失みたいです。
この『記憶喪失』なのですが、鬼になった方も人間だった頃の記憶をなくしているわけじゃないですか。
前から思っていたのですが、鬼殺隊士(特に柱の方々)と鬼の人材たちって表裏一体だよな、と思うのです。
『遊郭編』の最後では、伊黒小芭内さんが宇随さんに対して「たかが上弦の鬼ひとり討った程度でへばってるんじゃないよ」と言っておりましたが、これって鬼舞辻無惨さんが言っていることと同じですしね。
人に絶望した人が鬼となって、鬼に肉親を殺されたりした人が隊士となるのか?
現実の世界でも「人間に絶望した人が法に触れる行い」をしているように感じますからね。
違うのは「鬼を憎む人も鬼となっているきらいがある」というところでしょうか。
産屋敷さんが怪我をして横になっている時透無一郎さんに対して「今はただ生きることだけを考えてください。生きてさえいれば、どうにかなる」と話しかけますが、これはMAJIです。
今現在に絶望を感じていることでも、生きて未来になったら、その絶望した経験が活きる出来事も必要だったと思うこともあります。
なにより、『辛いこと』が原因で死んでしまったら、その『辛いこと』が『辛いこと』として確定してしまいます。
もし『辛いこと』がひっくり返って『必要だったこと』に変わる経験が発生し得たとしても、『辛いこと』が起こっている時に死んでしまったら、その《ひっくり返って変わる経験》が永遠に発生しなくなりますからね。
そんな偉そうなことを言っていますが、わたしは未だ永劫回帰をしても良いと思うまでには至っていません。
ぴ。
遠距離型
これまで登場した鬼の皆様は、中近距離接戰闘型が多かったように思うのですが、上弦の伍である玉壺さんは遠距離系であるように思いました。
殴る、斬る、待ち伏せるなどの攻撃方法があった鬼でしたが、『刀鍛冶の里編』で敵となる玉壺さんの血鬼術は、多勢の分身を作ってそれを遣わせるというものです。
本拠地を構え、そこから派遣するという手法です。
そういった手法なのだろうと思うと、玉壺さんは参謀的な能力に長けた性格なのでは?と思いました。
「刀鍛冶の里を見つけたかも」と言ったのも玉壺さんだったはずですしね。
そんな参謀的な手腕や、その攻撃方法。
分身を作って派遣する、というのは、藝術家としての想いが起因しているのか?とも考えました。
藝術家にとって作品というのは、分身であったり我が子であったりします。
そんな自分の分身が世の中に広まってほしいという願望が、血鬼術として具現化されたのか?と感じたためです。
作品の舞台となっている時代も『大正(玉壺さんが人間自体には何時代だったのかは存じません)という印刷技術も一般化していた頃合い』ですしね。
自身の作品を大量に制作して、それが世間を席巻してほしいというような願望から、あの鯉の容姿をした軍勢だったのか?と考えます。
酔狂な妄想ですね。
しかしなんで鯉なんだろう。
あるいは鮒?
錦鯉なのか金魚がモチーフなのかでも解釈は変わりそう。
でも模様的に錦鯉かな。
そういえば、前回の感想にて上弦の肆である半天狗さんの舌に書かれている字を「仏」だと思ったと書きましたが、どうやら「怯」と書かれていたそうです。
確かに怯えてるわな。
藝術家の本懐
今回の本編終了後小話は、お久しぶりの『中高一貫キメツ学園』でした。
内容は『甘露寺蜜璃さんが卒業生として登場し、絵を描く』というもの。
その場面で『みつりのお手製ぬいぐるみ♡』としてビッグハンドキャットなる存在が登場します。
蜜璃さんが「わたしを幸せにしてくれる殿方は、いつ現れるのかしら(るんるん♪)」とビッグハンドキャットに話しかけます。
すると、ビッグハンドキャットは「あんたなんか誰も好きになったりしないじょ」と辛辣な答えを返します。
色々な理由を挙げたビッグハンドキャットは「だからお前は絵を描け、描くしかないんじょ!」と発破をかけます。
この『お前には絵を描くことしか脳がないのだから、それだけをしろ』というのは、藝術家が持っている感情そのものです。
『お前には絵しかない』というのは、非常に強い(自分に向けた)叱咤激励ではありますが、その実はとても強く大きな失望があります。
だって、正直、この世に絵なんて必要ではない。
もっと第一次産業的な生活に寄り添った職業の方が奨励されますし、有り難がられもします。
藝術が『娯樂』とされるのは、所詮生活の役に立たないからです(わたしの生活には藝術は必須)。
それは、確かに仕方ない部分ですが、藝術家その人には藝術活動しかできない。それをやってないと死ぬんだよ。
でも世間では望まれはしないんだよな。特に村社会的な「各々が役割を持たされている場所」においては。
うう、ジレンマ。
ビッグハンドキャットに辛めの叱咤激励を受け、「みんなを幸せにできるのは、わたしの絵だけ!」と奮起する蜜璃さんですが、これはある種の自己洗脳であり現実逃避でもあります。
なんでわたしはこんなに批評をしているのだ。批評をしたいわけではないんだ。
ビッグハンドキャットが蜜璃さんに対して言った「お前なんて誰も愛さない」という言葉は、おそらく現代の比較的若い世代の多くはみんな抱えている感情でしょう(わたしも思っていたし)。
そんな『自分は誰からも愛されない』という絶望をばねにして「わたしのすべき道はこれ」と思える人、思えるものがある人は、強い。
だって「これさえやっていたら良い」と思うだけで生きていけますからね。
話は獣道に逸れますが、よく『生活保護は必要か否か』という議論がされます。
あくまで「わたしはこう思っている」という立場で書きますが、國家からすればどんな形であれ経済が回れば良いのだと思います。
生活保護で購入した製品や食材がある。のであれば、その製品や食材を運搬した人や作った人がいる。ということは、その人に賃金が支払われているわけで、その賃金で新たな消費行動が発生する。そうやって経済は回るので、生活保護というシステムがなくなると、生活保護で生活していた人だけでなく、生活保護で生活していた人に助けてもらっていた人たちも職にあぶれて、路頭に迷う。すると、経済は縮小。治安も悪化し、國力も低下し、果ては他國からの侵略が行われます。
そういった理由から、生活保護はなくならない。数百人〜数万人の不満よりも、億単位の國民の生活の方が、ひいては國の存続の方が重要だから、です。
そんな推理を、わたしの矮小な脳みそと意識は考えます。
でも村社会では食料が一人分減るので、不要な人間はいない方が良いという考え方になるのか?口減らしというものが起こったりもしていたそうだし。
ということは、『村社会の政治』対『《國家》的思想』の話になるのか??
閑話休題。
『中高一貫キメツ学園』を見たわたしが、何を言いたいのかというと、蜜璃さんが言っていた「自分はこれだけをしていたら良い」というのは(ビッグハンドキャットが言っていた「お前のことを愛するものは誰一人としていないのだから、描け。お前自身の本分を全うしろ」というのは)、『鬼滅の刃』を描かれた吾峠呼世晴さんの"ある意味の本心"なのではないか、と思ったということです。
と、同時に甘露寺蜜璃さんは吾峠さんの分身的な位置でもあるのではないか?と思いました。
そしてまた同時に、甘露寺蜜璃さんの本心でもあるのではないか、と思いました。
自分を愛してくれる人はいないのだから、愛してくれるようになるまで隊士として奮闘する、というような。
なんか凄く暗くなった氣がする。
時透くんありがとうの意味
前回の感想にて『時透無一郎さんに助けられた炭治郎が、「時透君ありがとう」と言うのかな?』と想像したのですが、そんなことはなかったですね。
むしろ会いもしなかった。
じゃあなんでなのよ!小鉄さんを助けたから?
そんな第五話は『赫刀』という題名だそうです。
お愉しみに生きましょう( ¨̮ )
ありがとうございました( ¨̮ )