本日もご訪問ありがとうございます。
わたしは『人と人はわかり合うことなどできない』と思っている者です。
なので、この時点で『人と人は分かり合える』と思っている人とわかり合うことはできないということになります。
なぞなぞ?
というよりも、わたしの感性が世にいる大衆の他人達と一線を画しているため、わたしが発したことは彼ら彼女らには理解し得ないんですね。
そんな半生をこのあいだに迎えた誕生日まで毎日経験してきたため(これからもなのでしょう。もはや日常)、『人と人はわかり合うことなどできない』と思っている次第です。
「理解した」などと思っている人は、勘違いですよ。
そーーーんな生活をしているため、この物質的で下劣な人間社会には辟易ともするし、居場所なんてないのだよなぁ〜〜〜〜、と思って日々を消化するってなわけですね。
そんな奇人の唯一心の休まる一時が、音樂を聴いている時です。
いいですよ、音樂は。
いや、藝術というものは総じて素晴らしいです。
人間生活という産業廃棄物的生活の汚さで生まれた感情の、浄化と昇華の結実で生まれた、美しい玉虫色の清水。
特にわたしが浸水している音樂を聴いているときは、魂をどこかに連れて行ってくれる。
。
しかしですよ。
しかし、はたして、音樂を聴いている時に行っている場所はどこなのだろう。
音樂を録音した場所は、全く三次元的な場所(少なくとも、我々人間が三次元と認識している場所)でしょう。
スタジオと言われるものです。
ですが、音樂を聴いた時に行く場所はそんなところではないです。
なんというか、物質ではないんですよね。
意識が行く場所なので、物質的ではないのは当然です。
はたして自分が行っているのはどこなのだろう。
しかも、絵を観ている時にも『今立っている場所』ではない所に行ったりもします。
藝術がもたらしてくれる、旅行は、どこに行っているのだろう。
はっきりとしているのは、藝術の世界が極樂なのであれば、実生活をしているこの物質的下劣下等最悪至極な人間生活は地獄必至であり、人間生活に極樂はありえないということですね。
こんなことを書いていると、好き勝手に切り抜かれるのでしょうけれど。
極樂はいずこ。
ま、難攻不落の氣分次第なので、なんでも氣の持ちようではありますけれどね。
これからの長い命を過ごすとなると、憂鬱にもなりますよね。
桃がおいしい。
ありがとうございました。