本日もご訪問ありがとうございます。
わたしは藝術が好きです。
以前は藝術家についてを言及いたしました。
今回は、実はその藝術家についての言及をした際に書くはずだったものを書きます。
まず、現時点で思っている『藝術とか一体何か』なのですが、それは《脳内にあるイメージを寸分のずれもなく表現すること》だと思っています。
藝術とは、まず想像(imagenation)があって起こるものだと感じています。
この想像を元に表現していく。
脳内で完璧なイメージ・完成形があったとて、いざ出力をしてみたら全く思い通りのものができない。なんてことは、ざらにあります。
これは藝術だけではなく、何においてもそうだろうと思います。
「いざ作ってみたらば、うまくいかない」からこそ、試行錯誤して『自分の脳内にあるイメージ』と『いざ実際に出力したもの』との差、ずれを少しでも少なくしていく。
『思ったもの』を《思い通りとして出力する》というその行為が、「藝術という行為・活動」なのだろう、ということです。
よく踊りや武道を極めている方の所作?活動、その動きを『藝術の域にまで達している』などと形容したりしますが、それは長期の活動・求道により、脳内と表現・出力とのずれが少なくなっているからなのではないか、と考えます。
藝術家諸氏の皆様は、その『想像と現実』とのずれを、たとえ紙一重ですら無くそうと苦心する。
その苦心が命を削るという行為とも等しく、その削った命が、表現された作品に込められる。
命を削った、そのかけらや煌めきが作品に込められ、実際の命へと変わり、きらきらと、あるいはぎらぎらと、色々な色味で輝くから、人々は(少なくともわたしは)藝術に惹かれ、魅せられるのではないかと感じます。
そういった考えなどがあるため、「職業○○」などと言われる、商業に寄った作品は、藝術好きの人間からは好まれない。
魂の洗練を、その魂の欲求を、その生活全てを無下にしているからです。
心の根っこからの欲求を無視して生きていると、そりゃあ虚無になります。
しかし、でも、果たして自身の魂の洗練を行なっているだけでは生きていけないのが現代。この世。
難しいですね。
藝術家の皆様にはどうか懸命に健康で生きてほしいと、説に思います。
そういえば、色々な作品では『作家性』が尊ばれるというか、好まれる、そんな傾向があるように思います。
その理由ですが、それって結局、その作品を作った人の『人となり』を、受け手は感じたいのではないでしょうか。
わたしは大衆向けに作られた作品には全く何も感じないというか、どうしてもどこか「いい子ちゃんのふり」をしているように感じてしまって辟易としてしまいます。
実際、マクロに向けて作られた作品というのは、作者が込めた思いが薄いというか、「誰にでも当てはまるもの」を目指している(ように思える)ため、多くの大衆へ周知はされるが、周知されたうちのほんの数%にしか当てはまらないという実際が起きるのでないのか、と感じています。
超個人的なものを突き詰めていったものほど、実は色々な多くに当てはまったりする。
他には八十八ヶ所巡礼さんの音樂たちは、その《超個人的なもの》の成分が強いように思います。
もちろん、《超個人的なもの》は、大衆への周知はマクロに向けて作られたものではないので、「知る人ぞ知る」や「名前だけちょっと知っているけど、実際に見たり触れたことはない」くらいになる人の方が多くはなるのでしょうけれど。
しかし、わたしは大量生産品されて大量に消費される商品のような、俗なものには魅力は感じないんだよなぁ。
あくまでも個人の意見ですよ。
ま、実際、藝術には『このモチーフで描かれた、その「もの」と「それ」に、いかに作者の想いを込められるか』や、『実際に描きたいものは明確にあるけど、明確にそれを描くと説教臭くなったり無粋だから、メタファーとしてのこれを用いて、寄木細工みたいにする』とか、『Aを表現するためにBを用いて、Aという本来の意図は隠す』とかの内情?など、そういった〈知られるべきでない意図〉と〈知られるべきと知られるべきではないの両方をもった意図〉があったりするのでしょうけれどね。
難しいですね( ¨̮ )
他にも「藝術は観てもらう人がいて完成する」とかのお話もありますが、難しい問題です( ¨̮ )
わたしは、わたし自身が藝術を好きで、その活動を愛していたら良いだけのお話ですし( ¨̮ )
ありがとうございました( ¨̮ )