頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

『鬼滅の刃 上弦集結、そして刀鍛冶の里へ』を劇場で観た、その所感

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

2023年2月3日、節分ですね。

 

そんな節分!鬼は外なお日柄に観てきました!

鬼滅の刃 上弦集結、そして刀鍛冶の里へ』です!

 

過去に書いた『鬼滅の刃』についての感想たちです👇

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遊郭編』を改めて観て感じたこと

本映画は、『遊郭編』の第十話と第十一話、そして『刀鍛冶の里編』の第一話を合わせた、上映時間計110分の作品です。

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なので、お話の前半は『遊郭編』のクライマックス部分なのですね。

もちろん、覺えている部分、こんな感じだったっけと思った部分、などあります。

 

ここでは、確かアニメ版で観た時には感じなかった(と思う)けど、時間が経ったことで新たに感じたことなどを書きます。

 

全ては運、そしてそれに嫉妬しているのか

作品は、伊之助が堕姫さんの頸を切ったあと、妓夫太郎さんに心臓を一突きされ、絶対絶命な状況から始まります。

 

その後にいろいろあって、炭治郎が妓夫太郎さんの首を斬ろうとするシーンもありますが、ここで炭治郎は妓夫太郎さんと自身とを重ねます。

「もしも境遇が違っていたら、自分だって鬼になっていた可能性もあるのだ」というところです。

 

そう、運なんですよね。

わたしがこうやって『鬼滅の刃』という作品に触れることができたことや、それによって心を動かすことができる感受性?みたいなものを得ることができたのも、わたしの功績などではないのです。

誠、ありがたい。有ることは難しいですからね。

 

 

やっぱり、この『この世は運が大きな部分を占めていて、今があるのも運が大きく関係しているんだから、思いやりを持たないといけませんよ』というお説法を、少年ジャンプという場で発表しているのは素晴らしすぎると思います。

 

しかし、妓夫太郎さんと堕姫さんのきょうだいは、その『運』が原因として鬼となったわけなので、その運にすら嫌悪と嫉妬をしているのかなぁ。と感じました。

『運だから仕方ないよね』と思うことができると同時に、『運が起因だからこそ許せない』と思ってしまうのは仕方ない部分であるかな、、とも思いますし、運という価値観はそれほど表裏一体な紙一重であり、半ば危険な価値基準である。ということです。

 

なんとも難しいところだよなぁ、と思います。

それであるからこそ、自身の狭い価値観に相手を押し込めて考え判断したりせずに、相手の話を聴く姿勢、徹底的にまで聴いて付き合う姿勢、その想いや氣持ちが大事なのだろうなぁ、と思います。

 

 

また、このシーンで妓夫太郎さんがシルエットになって近づいてくる際に『炎は実写さながらにリアルなCG表現』であるのに、妓夫太郎さんはアニメ表現を用いていることに、強い異化効果と〈アニメ表現の妙〉を感じました。

 

 

『山育ちをなめるな!』

妓夫太郎さんに心臓を突かれた伊之助でしたが、生きておりました。

『身体の柔軟性を活かし、内臓を移動させていたのだ』と伊之助は言います。

 

まぁ、そんなあほな、とも思いますが、人体のことを知らないわたしが変に知った口を聞くのも良くないので、そういうこともあるか、と思います。

 

それよりも、その場面で伊之助は「内臓の位置を動かす位、容易なのだ!山育ちをなめるなよ!」と言います。

ここでうっかり「そりゃあ町育ちと山育ちとでは違うよなぁ」なんて思ってしまいましたが、生まれこそが運によるものであると思うので、短絡的に『山育ちだからどう』なんて意識に押し込めて、知った氣になってはいけないよなぁ。と思いました。

ひとそれぞれに事情ってものがありますからね。

 

以前にも言及しましたが、妓夫太郎さんと堕姫さんのきょうだいが、煉獄の業火に向かって歩いて行くシーンは良いですね。

光があるように思いますし、その先に救いすらあるように感じる。

ふたりの魂が報われるといいな、と思います。

 

 

予兆と波紋と痣

妓夫太郎さんと堕姫さんのきょうだいを討ったことが産屋敷さんの耳に届きます。

この報せを受け、産屋敷さんは「これは予兆だ、この波紋は大きくなり、いつか鬼舞辻無惨を討つことになるだろう」的なことを発言します。

 

ここのカットは、産屋敷さんが喀血した血が伸びていく様と、産屋敷さんの左手が映っています。

『波紋は大きくなり』と『喀血の血が広がる様』とがリンクしているのは言わずもがなですが、産屋敷さんの痣も以前より広がってなかった?

 

この場面で『産屋敷さんと鬼舞辻無惨氏とが血の繋がりがある』ということが明かされますが、『上弦の鬼が討たれた=鬼舞辻無惨氏の終わりも近い』ということであり、『産屋敷さんの痣も広がっている』ことから見ると、鬼舞辻無惨氏が死ぬと産屋敷さんも死んでしまう、みたいなことの示唆だったりするのかしら?

考えすぎだろうけど。

 

 

『刀鍛冶の里編』の第一話を観て感じたこと

猗窩座さんが無限城に呼び出され、『無限城』というものの、「その異様さと禍々しさを表現する映像」から本編がスタートします。

ここの映像を観て思ったことは、「わぁ〜仰々しい、、」でした。あとやっぱりアニメ表現とリアルなCG表現の異化効果。

 

ちなみに『無限列車編』で猗窩座さんが初登場する際、その声を務める声優さんは公開開始まで隠されていたらしいのですね。

いざ公開された後に『「猗窩座」のイントネーションは「石田」ではなく「彰」です』というツイートが流れたのですが、わたしはそのツイートが好きです。

 

閑話休題

 

 

二枚舌

上弦の禄である妓夫太郎さんと堕姫さんが討たれたことで、無限城に上弦の鬼達が集結します。

 

ここで初めて、全ての上弦の鬼がお目見えしたわけですが、上弦の伍である玉壺(ぎょっこ)さんが印象深かったです。

 

この玉壺というキャラクターは『目の場所に口が、口とおでこ(第三の目の場所)の目がある』という、初めて観たらぎょっとする、非常に個性的な容姿をされております。

 

この玉壺さんは「上弦の鬼が討たれたとのことで、猗窩座様、わたしは貴方様が討たれたのではないかと楽しみに、、、心配していたのです」と、そんなことを言います。

ここで『〜討たれたでのはないかと楽しみに』の部分までは〈正面から見て右目の場所にある口〉から、『〜心配していたのです』からは〈正面から見て左目の場所にある口〉から発されます。

 

つまり『二枚舌』ということなのですね。

これはアニメ特有の表現?

 

 

映画の入場特典で、各キャラクターを務めた声優人のコメントが掲載されているのですが、玉壺さんのお声を勤められている鳥海浩輔さんが「玉壺はどこか人間くさい」と形容されております。

 

口が二つある=二枚舌という部分で、本音と建前を使っているけども使い分けが上手でない部分が『人間臭い』ということなのかなと感じました。

 

 

ちなみに、わたしは『鬼滅の刃』という作品を原作は読まず、アニメのみで追っています。

それはアニメ表現から作品を知ったために、アニメで全部見てから原作に触れたい、と考えているため、なのですが、昨年開催されていた原画展には二度参加いたしました。

 

そこで玉壺さんの生前は藝術家だったのだろうと示唆する場面を見ました。

昔も今も藝術はなかなかお金になりませんし、それこそ江戸以前なんて将軍とかの貴族階級のパトロンがいないと藝術活動なんてできたもんじゃなかったそうです。

 

これは『鬼滅の刃』という作品の流れを知らん人間の推測ですが、そんな時代に『パトロンの求めるもの』と『自身が表現したいもの』とに乖離があったか、その板挟みで二枚舌になった。

その乖離とで心が持たなくなったか氣が狂っちゃったかしたのかなぁ、とか、そんな妄想を繰り広げたりしています。

藝術家は幸せになってくれ。

 

原画展で見たのですが、玉壺さんはブリューゲルのタラ夫に擬態?変化?する血鬼術も使っていらっしゃるみたいですしね。

あるいは『南国少年パプワくん』のオマージュかも。

 

 

『変化を嫌う』って、それ『青い彼岸花を見つけること』も変化なんだけど、それわかってる?

上弦の鬼が集結し、いよいよ鬼舞辻無惨氏の登場です。

まぁいつものごとく色々と御託を並べ奉っているわけですが、やっぱりこの人とは相いれないなぁ、と思いました。

「つまんねぇ〜〜やつ」と思いながらポップコーンを咀嚼しておりました。

 

この時に『わたしは変化を嫌う』や『青い彼岸花を探している』など、鬼舞辻無惨という人の考えを垣間見ますが、青い彼岸花は百年以上見つかってないんでしょう?

じゃあ〈青い彼岸花が見つからない状況〉が普通の状況なわけだ。

だとしたら、〈青い彼岸花が見つかる〉ということは《状況の変化》なわけです。

嫌いな変化を自分で求めている、という、その『主張の幼稚さ』というか『都合の良さ』にご自身でご自覺されているのでしょうか。

 

 

「人の心を残しているものから先に死んでいく」

上記と同じシーンにて、鬼舞辻無惨氏は「妓夫太郎さんと堕姫さんのきょうだいは頸を切られることをわかっていた。妓夫太郎さんは人の心を残していたからだ。人の心を残している鬼から先に死んでいく」みたいなことを言います。

 

このセリフを聞いた時に『それまでは忘れてたけど、炭治郎と対峙したことで人の心を思い出したんじゃない?』と思いました。

 

上映後にはこの『人の心を残しているものから先に死んで行く』という言葉を思い返し、「あぁ、確かにその通りかもな。この『人を蹴落としたもの勝ち』みたいな現代では、思い遣りを持っている人の方が先に精神が狂って自死を選択したりするし。黒塗りの政治問題とか。人の心を棄てて鬼のような考え方で跋扈している人間の方が生き活きとしているとように思えるものな」などと考えました。

 

 

猗窩座のヒイロ

猗窩座さんと童磨さんが一触即発になった際に、上弦の壱である黒死牟さんが止めに入り、猗窩座さんに対して「氣に入らないのなら入れ替わりの決闘を申し込めば良い」と言います。

 

「俺の言いたいことが分かるな」と黒死牟さんが猗窩座さんに対して言うのですが、それを聞いた猗窩座さんが「あぁ、分かった。…お前を殺す」と黒死牟さんに対して言います。

ここがどうしてなのかわからないのですが、『童磨さんが好き勝手言っているのを諌める(倒す)ことができるのは上司である黒死牟さんだけだけど、それを実際にそれを行うと部下への攻撃(パワハラ)になる。だから、腹の立つ先輩を黙らしたいならその先輩よりも役職が上の地位に着いて黙らせろ』ということなのでしょうか。

 

そういえばこの場面で黒死牟さんが「部下同士のいざこざは、隷属(違う言葉だったかも)関係の規律に亀裂を生む。だからやめろ」的なことを話すのですが、「は〜〜、なるほど、そういう考えの方なのか。こりゃあ視野の広い良い上司だぞ」と思いました。

 

 

ここで無限城パートは終了。

 

 

水仙の花?

炭治郎と同じ耳飾りをしているお侍さんが登場されます。

以前わたしはこの方のことを「炭治郎の先祖かなんかじゃね」と言及していたのですが、どうやら違うようですね。

詳しいことは知りませんが、原画展知識です。

 

そんなお侍さんが炭治郎のご先祖様らしき方からお食事を差し出されます。

「これ(お茶)を頂いたらわたしはもう発つ。何度も食事を世話になるのはいけない」とそんなことをお侍さんが言いますが、ここでわたしは「好意を断ったら、その人の想いを無下にすることにもなるんだよ?頂けるときは有難く頂いて、『次からは大丈夫です』と断る方が良いと思うな」などと思いました。

 

実際、炭治郎のご先祖様と思しき方は「そんな!あなたは命の恩人なのですから。あなたが助けてくれなければ、わたしも家族もここにいないのですから、食べてください」というようなことを言います。

その思いが通じてか、お侍さんしっかり頂いていて満足( ¨̮ )

 

そんな夢から目覺めた炭治郎。

どうやら二ヶ月間も昏睡状態だったらしく、花瓶のお花を換えていた栗花落カナヲさんは、目醒めたことに驚き花瓶を落として割ってしまいます。

 

この時に(山崎さんが片付けをしている時かも)お花のカットがなかなか長めに映ります。たぶん3~5秒位。

このお花に意味ありそうだな〜と思ったのですが、あまり知らないお花だったので、鑑賞中にはわかりませんでした。

ですが、白と黄色のお花だったので調べてみると水仙っぽい?かもしれません。

 

水仙だとしたら、色や形から判断して『尊敬』や『わたしのもとへ帰って』などの意味あいがあるそうです。あくまで好意的な意味だと、です。

 

 

カナヲさんが割ってしまった花瓶を片付けながら、山崎さんは「もうなんでもやりっぱなしだ。やっぱり小さい子どもの頃から修行なんてさせてるからだよ」と愚痴っておられましたが、わたしにはこれが子役とかそういった児童ビジネスについてだと聞こえました。

閑話休題

 

 

蝶屋敷編で初登場した時と比べて、カナヲちゃんがすごい喋るようになってましたね!

これも炭治郎が「心のままに生きてね!」と言ったからかなぁ。

 

 

伊之助ファミコン

山崎さんの〈秘技・腹式呼吸〉で蝶屋敷に炭治郎の回復が報じられ、炭治郎の病室に蝶屋敷の面々が集結します。

 

この場面で『伊之助が天井に張り付いている』というホラーシーンがありますが、ここでも伊之助は「おれはお前よりも七日も早く目醒めた!」と、またマウンティング(もはや戯れ合いのふっかけ)をします。

が、この時に氣付いたことがあります。

 

伊之助は山育ちです。

伊之助とて生物なので、お母さんがいます。

これまた原画展知識ですが、先の物語で伊之助はお母さんとの記憶を思い出す場面があるそうですね。

 

そんなお母さんの匂いを伊之助からは感じません。

ということは、伊之助は褒められたりすることに飢えているのではないでしょうか。

 

つまり、お母さんなり、保護者に褒められたり認められたりされた経験が少ないから、「ぼくこんなことできるんだよ(あるいはできたんだよ)!すごいでしょ!」と言って、褒められたい。そんな想いがあるのではないか、と感じました。

だから、否定せずに認める"お兄ちゃんでありお母さん的な存在"である炭治郎に、ちょっかいを出す。

 

ファミリーコンプレックスを持っているんじゃないの?と思った、ということですね。

酔狂な妄想です。

 

 

メメント・モリ

刀鍛冶の里に着いた炭治郎は、その町並みを見學?します。

わたしはその時に、『鬼滅の刃』は日本という場所の伝統性を後世に継承させたいのかなぁ、と感じました。

少年ジャンプという《不特定多数の読者》がいる場所で、日本の伝統を宣伝すれば、日本の伝統を継承したいと思う人も出てくるのではないか、その分母を増やそうとしているのではないだろうか、ということです。

いろんな日本人が『日本人』や『日本』ということを捨てているとも取れる時代ですしね。

 

 

そんな炭治郎は恋柱である甘露寺蜜璃さんと合流します。

同じ隊士として、同じ釜の飯を食べたり、炭治郎の同期である不死川玄弥さんの話をしたりした後、甘露寺蜜璃さんの日輪刀の最終調整があるとのことで二人は別れます。

 

ここで甘露寺蜜璃さんが「次にいつ会えるか、生きて会えるかわからないけど、応援してる。上弦の鬼と戰って、生き延びたその経験は十年修行する以上にすごいことだから」というようなことを炭治郎に話します。

この時に、わたしは『メメント・モリだ。ちゃんと死を忘れていない、素敵でいい人だな。確かに人氣があるのも納得だな』と思いました。

基本柱は人間ができている。

 

 

その後くらいにオープニング映像が流れて、第一話の終了、となりました。

こちらも『遊郭編』の最終回感想記事にて書きましたが、オープニングの作品タイトルで炭治郎が左を向いていると生存確定みたいなのですが、今回も生存確定です!

完結している作品で粋がるな!

 

 

 

余談ですが、刀鍛冶の里に行く際に、その秘匿性を保つために炭治郎をリレーしますが、この説明を聞いている時に伊坂幸太郎著作の『モダンタイムス』が思い浮かびました。

『株式会社ゴッシュ』のあれ、ですね。"分担"です。

 

 

肩を担がれて歩く

山崎さんが遊郭編の後日談として「宇髄様はあんなに怪我してたのに自分で歩いてたぞ、、。肩を貸してもらいながらだったけど。自分で歩けるか?普通。引いたわ。他の隠たちも引いてたわ」と回想しますが、これって『宇髄天元さんが他者の手を借りるようになった』ってことじゃないでしょうか。

なんかで『宇髄様はなんでも自分でする。他者を頼らない』みたいな描写ありませんでしたっけ?

 

そんな宇髄天元という人が、他者の手を借りるようになった。

それはある種の成長というか、そんな意味合いの表現として受け取ることができるのではないでしょうか、と思いますが、わたしの思い違い記憶違いかもしれません。

 

 

おわり

なっが。

7200字以上書いておりました。なっが。

まぁ愛について書いておりますものね。長くなるのは必然です。ですが、言葉に頼っているうちはまだまだです。

 

 

 

さて、これにて『鬼滅の刃 上弦集結、そして刀鍛冶の里へ』を初見した所感は終了です。

ここまでお読み頂いた物好きな皆様には、感謝いたします。有難うございます。

 

今回は『鬼滅の刃 刀鍛冶の里編』の一話を観ただけですので、その本編は春、2023年の4月に始まります。

 

愉しみですね。

愉しむためにも、生きましょう( ¨̮ )

 

 

 

わたくしごとになりますが、この記事で総投稿数が300回目となりました。

今までわたしのブログをお読み頂いておられます方々へ、感謝申し上げます。

本当に有難うございます。

 

これからも好き勝手に、日々を生きていて思ったことをつらつらと綴りますので、ご自由にお樂しみいただければ幸いです。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )