頭の中の洪水

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鬼滅の刃 刀鍛冶の里編 第十話『恋柱・甘露寺蜜璃』 感想・考察

 

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うっせぇわ

前話の次回予告で『次のお話の題名は「恋柱・甘露寺蜜璃」だから、甘露寺蜜璃さんの過去が描かれるのかしら?』と予想しましたが、その通りでしたね。

 

まぁ、あんまり威張るもんじゃないですね。

前回の『時透無一郎さんが題名になっている回』が、無一郎さんの過去を描いでいたので、そりゃそう、という感じです。

えっへん。

 

 

前回、第九話の終わりから第十話が開始です。

 

半天狗さんに『阿婆擦れ』と言われて固まる甘露寺蜜璃さんの反応がいいですね。

意地でも "シリアス一辺倒にはしないぞ " みたいな意志を感じます。

結局シリアスにもなるのだろうから、目一杯異化効果で緊張と緩和を演出しようということですかね。

 

あとこの場面ですが、この画の塗りになんだか既視感を覺えました。

なんというか、『日常』みたいな感じでしょうか。大して『日常』という作品は存じませんけれど(それこそ『焼鯖』のところくらい)。

 

 

甘露寺蜜璃さんが技を繰り出している時、第九話の時と同じようにオープニング曲の弦樂アレンジの劇伴が流れます。

ですが、『猫足恋風』で反撃した後に、劇伴は不穏な調べを奏でます。

「あ、これは甘露寺蜜璃さんが危機に晒されるのかしら」と想起させる演出ですね。

 

 

第九話にて時透無一郎さんが玉壺さんを討った際に、『〈静〉性質を持った攻撃のため、少し物足りなさを感じた』と、そんな感想を書きましたが、時透無一郎さんの時とは相対すように、甘露寺蜜璃さんの戰いは派手なものとなっております。

 

甘露寺蜜璃さんの扱う《恋の呼吸》は、炎の呼吸から派生したそうなので、炎柱・煉獄杏寿郎さんの戰闘とすこし似ているように感じました。

 

 

半天狗さんの放った『狂圧鳴波』で、茫然となった甘露寺蜜璃さんを、半天狗さんが再起不能にしようとしたところで、甘露寺蜜璃さんの回想が始まります。

 

 

梅の花が咲く季節(あの紅さは梅ですよね??桜だともうちょっと淡い色味にするよね??? ちなみに、梅の花言葉は『上品』『忍耐』『忠実』だそう)、当時十七歳であった甘露寺蜜璃さんはお見合いが破断となったそうです。

理由は『髪の毛の色が子どもに遺伝したらよくない』などの、諸々です。

 

今でこそ、そういった価値観などに寛容にはなりましたが、まだまだ家柄とかそういったものの考え方は根深いみたいですし、相手が名家の出であれば世間体を氣にするのも、さもありなん。 というより、最重要事項の一つでしょう。

もし嫁入りした人が原因であらぬ悪評が立って、家業の立ち行かなくなってしまうと笑い事では済まない。

もちろん一方的で、言われた方は堪ったもんじゃないとは思われるでしょうが、歴史だったり、時代ってものはそんなものだったりするのでしょう。

 

破談の出来事から時代は遡り、甘露寺蜜璃さんがまだ幼い時分のお話になります。

この幼い甘露寺蜜璃さんがちょう可愛い。

 

『一歳二ヶ月の時に、漬物石を持ち上げた』という逸話で、甘露寺家のお母さんは初めて腰を抜かしたそうですが、この時、お腹にいた弟さんに影響がなくてよかったと思います。

 

無事弟さんも生まれ、三、四歳くらいの時でしょうか。

よく食べる描写で、掛け蕎麦を少なくとも四杯平らげる場面があります(もしかしたら七杯かも)が、この場面でわたしは『そば清』という落語を思い出しました。

閑話休題

 

お母さんから食後の甘味として桜餅を出されます。

この桜餅ですが、どうやら地域によってその姿形に違いがあるそうですね。

描かれていたのは〈お米の粒が残った桜色のお餅で餡子を包んだおはぎ状のもの〉で、どうやら西日本はこの容姿が一般的なのだそうです。

わたしは四國の出なので、馴染み深い容姿です。

 

腕相撲で力士の方を負かして、力士の方が落ち込む場面は、面白いやら氣の毒やらと複雑な心境です。

 

 

そんな自由奔放な甘露寺蜜璃さんでしたが、月日が経ち成長するにつれて『自分が他の人と違うこと』に目が向いてしまいます。

「お嫁さんになれるのかな」とご両親に相談するも、「ずっと家にいればいい」と、それだけしか言われません。

 

忘れてはいけないのが、今だと女性の立場も正当に戻ってきて(まだまだ男尊女卑的な価値観は残っているし、多分、男性は本当に無意識的に女性を下に見ているきらいがあるのではないかと思っています。しかし、それは女性を恐れているから、畏怖に似た感情があるのでは?と思っていますが、関係のないお話ですね)、「別に結婚しなくても働いたらいいじゃん」というように考えることができますが、大正時代の当時は『女性の生存戦略=嫁入り』であったりしたのだと思います。

また、『嫁入りができないということは、女性としての役割も果たせない』とすら思われる、そんな価値基準の時代ですらあったのではないかと感じます。

 

 

お見合いが破断した日、自身の強みを劣等感と思った(大概の場合において、それは勘違い)甘露寺蜜璃さんは、自身の髪を黒く染める決断をしました。

この場面、自身の髪を染める甘露寺蜜璃さんの目が、自身の髪が黒く染まるのと比例するように暗く光っているのが、なんとも居た堪れない感情になります。

でも、こういう表現を見ると、つくづくと「絵の表現というのは凄いなぁ」と感じます。まさに魔法のようです。

 

食べたい想いを我慢したり、力が弱いふりをしたりと、自身を欺いていると結婚したいと申し出る男性が現れたそうです。

しかし、自身を欺いて摑んだ縁談。

その縁談からお嫁入りをしたところで、先長い人生ずっと自分を欺くのか?と、甘露寺蜜璃さんは立ち止まり、煩悶します。

 

「自分を欺かないと生きていけないなんて、おかしい」

そう強く思う甘露寺蜜璃さん。

 

この時に、わたしは「あ、これってAdoさんの『うっせぇわ』なんだ」と思いました。


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この曲は《優等生として生きてきた方々の本懐と、"優等生" をしいてきた存在に対しての毒》を歌った曲です(少なくともわたしにはそう聴こえました)。

もちろんこの曲が流行っていた時期(2020年くらい)と、『刀鍛冶の里編』が連載されていた時期(2018年くらい)は合致しません。

 

ですが、『うっせぇわ』は優等生を強要させられていた方々の本音が表出化した一つの例です。

つまり昔から『普通や、優等生を強要させられていた人』の心の奥底には、不満と虚無感と諦観と怒りとがあったのだと思われます。

そんな鬱屈した本音を言語化した曲が登場したから、あれだけ流行った。と、脳みその歪曲したわたしは考えています。

 

そして、おそらくどうやら男性よりも女性の方が『普通』や『優等生』を強要されるこの日本(というより、男性が好き勝手やってるのを、女性が尻拭いさせられてるだけなんじゃねえの。と思ったりもしたりしなかったりします)。

甘露寺蜜璃さんみたいな苦しみというか、黙殺された主張を胸に秘めている女性って、思っている以上にたくさんいらっしゃるんだろうな、と感じたりします。

全く無責任なので恐縮であり、非常に独善的な『思いやりと託つけたエゴ』であるため、自分って邪悪だなぁ、と思います。

 

ちなみに、わたしは『うっせぇわ』を実行した側なので、樂曲に対してはあんまり共感ができません。

「嫌ならそう主張すればいいじゃん」と思うためなのですが、これはわたしが言える環境に《たまたま居たから》という『運の話』になるので、あんまり「嫌なら言えばいい、やらなければいい」なんて軽々しく言える話でもないです。

でも、嫌って主張しても良いし、主張したら変わることだってありますよ、案外と。とは申しておきます。

 

 

甘露寺蜜璃さんが戸惑っている時の瞳の揺れと、錦鯉の泳ぐ池の水面の揺蕩いとが同調している場面は、良い表現だなと思います。

 

 

嫉妬は勝手にさせといて、Let's 鍛錬!Let's 求道!

「自分を欺かないと生きていけないなんて、おかしい」と思ったところで、甘露寺蜜璃さんの意識が現実へと戻ります。

炭治郎が「この人さえ生きていたら、勝てる」といっているのを聞き、涙を浮かべる甘露寺蜜璃さんですが、そりゃあ泣くでしょう。

 

だって『自分を欺かないと生きていてはダメだ』と思いかけていたところから、『《自分のあるがまま》で振舞ったら、それを頼りとしてくれる人がいる』ところまで変わったんですから。

そりゃあ自分の思いも報われる。

自分の信じていたことは間違いではなかった、とわかったら、そりゃ泣いちゃいますよ。

 

 

後輩からの想いを受け、甘露寺蜜瑠璃さんは半天狗さんの攻撃を食い止めるわけですが、食い止めたあとの後輩たちの反応が三者三様で面白いですね。

不死川玄弥さんはドン引きで、禰豆子はキラッキラした憧れの目で見て、炭治郎は純粋に「かっこいい!」と尊敬。各々の個性が立っていて良い。

 

あと、甘露寺蜜璃さんはかっこいい。

 

 

CM明けの絵で、甘露寺蜜璃さんと蛇柱・伊黒小芭内さんとが一緒に食事している場面がありますが、この絵で伊黒小芭内さんの白蛇さんが目を丸くして驚いていたので、声をあげて笑ってしまいました。

 

余談というかなんというかですが、『伊黒小芭内(いぐろおばない)』ってなんだか西洋の方のお名前っぽくないですか?

初登場からしばらくの間『おばないいぐろ』だと思っていました。そっちの方が日本人の名前っぽい音ですもんね(っぽい、という感想もいずれは危険になる)。

 

 

さて、CM明けは産屋敷での一幕が描かれます。

「あなたの能力は類い稀なのですよ。それを悪く言う人はみんな、あなたの能力を畏れ羨ましがって嫉妬しているのです」とお館様に言われ、ここでも涙する甘露寺蜜璃さんですが、これも泣いて当然です。

また、この場面でお館様が言っていること、『あなたの能力を悪くいってくる人は、あなたを恐れて嫉妬しているのですよ』ということは、その通り現実ではほとんどの場面で起こりますし、自身が怠けたいがために他者を引きずり降ろそうとする人の方が、現実社会では多いのでしょう。

イソップ童話の『酸っぱい葡萄』です。

 

『自身ができないから、他者を落として自分と同等にしようとする行為』はもちろん邪悪で、それをしたところで「落とそうとした相手は落ちず、自分だけがより下に落ちている」という事実しか起こらないのですが、それこそ嫉妬に狂っている時期は、そういった事実には目が向かないのかもしれません。

他人を下げる方が簡単ですしね。安全圏からものを言えるし(こうやってインターネットで好き勝手いっているわたしも安全圏内にいる一人。邪悪ですね)。

とはいえ、嫉妬をする人というのは、おそらく嫉妬しかできないのだろうから、どうぞご勝手に嫉妬させておけばよいじゃないか、と思うのも実際のところ。

そうやって樂なことをさせている間に、自分は自身の刀を研ぎ続けていたら良い。

Let's 鍛錬。Let's 求道。

 

 

あるがまま~それが酔余の境地~

『鬼殺隊ではみんな自分を認めてくれたお話』と、『鬼を倒して感謝されたお話』、『伊黒小芭内さんが縞々の靴下をくれたお話』という《自分が自分として生活して、その結果で起こったよかったこと》を思い出し、「もう自分を欺いて、自分に嘘をつくのはやめるね」と甘露寺蜜璃さんは決意します。

 

ここでわたしと同じことを思われた方も多いのではないかと思いますが、ディズニー作品の『アナと雪の女王』を想起いたしました。

というよりも正確にはその劇中歌の『ありのままで』です。


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これまでに縁がなくて『アナと雪の女王』は拝見したことがないので、あまり知ったことを言えませんが、作品では《自分を偽っていきていた人が、自身を取り戻す様》が描かれているそうです。

そのお話って、このお話で描かれていた甘露寺蜜璃さんの境遇と同じではないでしょうか?

 

また、この『アナと雪の女王』が日本で公開されたのが2014年(そんなに前だったっけ、と驚きを隠せません)で、『鬼滅の刃』の連載が始まったのが2016年。

と言うことは、『アナと雪の女王』を踏襲している可能性は大いにあります。

 

まぁ、酔狂な人間の妄想ですけどね。

 

酔狂な個人の感想を垂れ流しますが、この『鬼滅の刃』のような救済の作品で、自身を癒すことができる人、できた人がいたのだろうと思うと、本当に嬉しく思います。

ゆったりと自分にあった生活で生きてね。

 

 

また、伊黒小芭内さんとのお食事の場面について。

伊黒小芭内さんから靴下をもらったのは、またお蕎麦屋さんらしく、その場面では幼少期と違い甘露寺蜜璃さんがお箸を持っています。

この際にお箸を持っているのが左手なので(これを書いているわたしも左利きなのですが、左利きの民は同じ左利きの民を見つける能力というかアンテナみたいなのが立っているみたいで、ぴん、ときます。シンパシー! ちなみにわたしはAB型なので、百人に一人の存在です。百人に一人だと結構いるのだろうけど、全然出会ったことがない!)、甘露寺蜜璃さんは左利きだということになるのでしょうが、この左利きというのも、昔の時代は強制的な矯正の対象でした。

 

わたしが子どもだった時代も、まだまだ『左利きは矯正すべし!』という思想を持った勢力の残滓は存在しており(今も残滓の残党はいるのだろうけど)、その矯正理由が、お行儀が悪いとか?って言われましたが、個人の個性を個人的なエゴで強制的に矯正しようとするほうが行儀悪くね?と思います。

 

もはやわたし個人の感想ですが、左利きでよかったとは心の底から感じます。

そりゃ左利きで不便なことはありますが(スープバーのお玉は絶対に許さない呪呪呪呪。あと右利きはナチュラルに左利きの苦悩を軽んじている呪呪呪呪呪呪。左利きの苦悩を知らないからだってことは想像できるので、仕方ないとも思うけど左利きの苦悩を知ろうともしないのは良くないと思う呪)、それよりもそれ以上に肌感覺で『左利きでよかった』と思います。

 

あと、この時に初めて氣づいたのですが、伊黒小芭内さんの目と白蛇さんの目との色って、色の順番は逆ですが信号機のライトと同じになっているんですね。

 

 

嘘をついているのか

場所は変わって炭治郎たち。

半天狗さんの本体が「自分は生まれてから一度も嘘をついていないのに、嘘だと言われる」と嘆きます。

 

この『嘘』に対してですが、今の時点では何も言えないですね。

 

嘘って、その性質上、『本人はそれが真実だと思っているけど、側から見たら嘘である』こともあるし、その逆もある。

かなり曖昧模糊としたものなんですよね。

嘘というのは、主張という思念であり、思念には実体がない。

その実体がないものを、どこからどう見るかで判断や解釈が変わってくる。

うーん、難しいですね。

 

実際、半天狗さんが言っている「自分は生まれてこのかた、嘘は一度も吐いたことがない。善良な弱者だ」という主張すら嘘かもしれないし、半天狗からは真実だけど側から見たら真っ赤な嘘かもしれないのだし。

それに、『《善良な弱者である自分の言うこと》は真実であって当然』という思考の捻れすらも起こっているのでは?とも考えられます。

 

しかし、武士?の方が「大嘘つきめ!」と言っていたように、この現世というものは、" 権力者が主張したことが真実になったりする " という、全くふざけた道理となってしまっているものもあるので、半天狗さんは本当に正直者の『善良な弱者』なのかもしれませんけれどね。

とはいえ、自分のことを弱者だなんて思うなよ。とは思います。

 

でも自身の保身のために弱者のふりをして嘘を吐き続けているのは、腹が立つし反吐も出る。

 

 

次回はついに最終回

長かった、今回は特に長かった…。

6700字以上書いております。

 

そんなこんなですが、次回はついにこの『鬼滅の刃 刀鍛冶の里編』の最終話なのだそうです。

題名は『繋いだ絆 彼は誰時 朝ぼらけ』

 

〈彼は誰時〉は夕暮れの時刻、〈朝ぼらけ〉は朝焼け・夜明けの時刻です。

時刻も違うふたつですが、《繋いだ絆》という言葉がありますので、『夜と朝・昼と夜・明と暗とを繋ぐもの』ということなのかな、と無粋に想像をいたします。

つまり、万物流転。

よかったことは流れるけど、同じように悪かったこともずっとあるわけじゃない。

全部変わっていくから、あんまり悲観しないで。という思いが込められているのかな、とか思います。

 

万物流転を想えている作品は素敵ですね。

万物流転とメメントモリを心に持っている人は素敵です。

 

 

さて、どうやら最終回は75分の拡大版なのだそうですね。

ちょっと!!絶対に書くことが多いじゃん!!!もう!!!うれしい悲鳴!!!

 

お愉しみに( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )