頭の中の洪水

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鬼滅の刃 刀鍛冶の里編 第二話『縁壱零式』 感想・考察

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回も、アニメ『鬼滅の刃 刀鍛冶の里編』の感想と考察を行なっていきます!

 

👇第一話の感想・考察👇

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👇『鬼滅の刃』についての記事たち👇

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揉めている場面を炭治郎が見ている場面から、第二話のお話は始まります。

 

時透無一郎さんが小鉄さんを平手打ちしたのを見て、『さすがにあかんでしょ』と思った炭治郎が仲裁のために走り寄ります。

 

「子ども相手に何してんの、やめや」と言いながら走り寄る炭治郎に対し、時透無一郎さんは「声うるさいで。誰なん」と返答します。

ここで『おや?』と思いました。

炭治郎は柱合会議の時に時透無一郎さんと出会っているはずです。

 

しかも、禰豆子が入っている函に対しても「なんだろう、鬼の氣配がする」とも言います。

禰豆子の存在も、同じく柱合会議の時点で知っているはずです。

 

なのに、忘れている。

 

これは、つまり『忘れている』のではなく『憶えていない』ということではないでしょうか。

もう少し詳しく言うと『日々の生活を"記憶しないように"している』ということです。

 

 

『日々の生活を"記憶しないように"している』のは何故なのか、という話に必然的になっていきますが、わたしは時透無一郎さんの過去で何かしらの『とてもとても辛いこと』があったのではないか、と考えます。

その『とてもとても辛いこと』があったために、「記憶というものは、きっとしない方が良いのだな。憶えているから思い出すし、それでまた辛くもなるのだから」と考え、目の前にあることを直視しないようになった、そう考えました。

 

 

また、時透無一郎さんの目を見て、このたびやっと氣付いたのですが、目に星(よく白い丸で表現される、あれ)が無いのですね。

目の星というのは、漫画表現では非常に重要な役割を担っていて、星があると『目に生氣が宿る』のです。

よく〈目に光がなく、死んだような目だった〉などと表現されますが、その光こそが"星"です。

 

第一話にて、『時透無一郎さんの表情は朧氣だ』と言いましたが、それは目に星がない、つまり生氣のない眼差しをしていたから、そう感じたのでしょう。

 

 

事実、OP映像にある回想シーンでは、無一郎少年の目には星があります。

となると、お兄さんが鬼に殺され(時透無一郎さんにお兄さんがいるのは、原画展で知りました)、その『とてもとても辛いこと』に耐えきれず、日々を記憶しないようになった、とかでしょうか。あまりに安直ですね。

 

しかし、OPのサビ前で、時透無一郎さんの朧な目に星が宿る場面が映ります。

ということは、『生きる』ということに対して絶望はしきっていないのかもしれません。

『生というもの』に対して、絶望しきってしまったものが鬼になっているように思いますしね。

 

実際に時透無一郎さんが言っていることは、鬼側の言い分に片足突っ込んでいるように思いますし。

 

 

表裏一体紙一重

「時透無一郎さんが言っていたことは鬼側の言い分と似ている」と書きましたが、下記にて解説いたします。

・『壊れたらまた作ればいい』→『鬼狩りに鬼がやられたんなら、もっと鬼を作りゃあええやん』

 

・『柱の時間と刀鍛冶の時間の価値は全く違う』→似たようなことを鬼舞辻無惨さんが言っていた(確か)

 

・『刀鍛冶は戰えない。刀を作るしか脳がない(そんな者はさっさと従え)』→能力主義(近現代の主流となっている思想。資本主義的な考え)。

『容姿が良いものが善く、不細工は価値がない』という堕姫さんの主張していたルッキズムの思想や、『至強が全てだ』と煉獄杏寿郎さんに説いていた猗窩座さんも、鬼の頭である鬼舞辻無惨さんが絶対能力主義者であるために能力主義の価値観に囚われているのだと感じます。

 

 

「ほら、鍵(を寄越せ)」と手を出す時透無一郎さんに対し、炭治郎が手のひらではたきます。

この場面がコミカルに描かれていましたが、ここで「意外だな」と思いました。

 

時透無一郎さんの主張は、炭治郎の性格的に『ちゃうやろ!』と激昂する内容であったためです。

この場面で『あら、意外』と思ったと同時に、思い出しました。

鬼滅の刃』という作品は異化効果の作品でしたね。

 

思うがまま「ちがうだろー!」と炭治郎が激昂したらば、物語の雰囲氣は暗くなったりぎすぎすしてしまうと思いますが、コミカルな表現にすることで、読者(鑑賞者)の緊張がほぐれます。過緊張は疲れますしね。

実際、物語の中盤~終盤で同じことを鬼側が主張していたら、炭治郎は激昂すると思います。憶測ですけどね。

 

 

炭治郎が時透無一郎さんに対して『あんたの考え方は正しいし間違ってへんねんけど、隊士は刀無いと能無しやん?』と反論します。

これはもう「適材適所」ということで、『配慮と感謝を持て』ということですね。素晴らしい。

 

捕食する側だからって、それが当然だと思ってはいけない。

 

鬼だろうが人間だろうが、食うものあっての自分だろうに。

その『食うもの』があることの有り難みを認識しろよ、『有る』って『難しい』んだぜ、という意味ですね。いやぁ、素晴らしい。

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あと、お金を使っている側か知らないけど、店員さんやサービスを作った人がいないと《それ自体の恩恵》に与れないんだから、『お客様根性』で偉ぶるのはやめろ。というこの意見はわたし個人の意見です。

 

 

そういえば、炭治郎が言った《適材適所》って『遊郭編』の第七話で宇髄天元さんが言っていた〈ここでは足手まといだけど、他の場所では居ていいよ〉と一緒ですね。

以前上司に言われたことを他者に言えてる竈門炭治郎くん( ¨̮ )

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煩悩?

小鉄さんが炭治郎に絡繰人形『縁壱零式』の説明をします。

「人間を凌駕する力を持っていて、百八つの動きができる。戰闘訓練に利用できる」と説明されますが、この時、わたしは「煩悩?」と思いました。

 

『百八つ』と言えば、煩悩ですからね。除夜の鐘が百八回突かれるのも、それが由来です。

 

この時に「煩悩の数なのか」と思ったので、『強くなりたい』という想いも煩悩なのか、と思いました。まぁ、『子煩悩』とも言うくらいですしね。

曲解ですが、『百八通りの戰闘訓練を終えた先には、煩悩を超えた境地がある』ということなのでしょうか。

 

『刀鍛冶の里編』の第一話で、炭治郎の祖先と思しき人に対して長髪のおさむらいさんが「どんな道でも、それを極めた人間は同じところに辿り着く」と言っていましたが、これこそ《煩悩を超えた境地》ということなのではないでしょうか。

これについては後述します。

 

 

記憶の遺伝、血の記憶、細胞の靈魂

絡繰人形・縁壱零式の顔を見て「あの顔、夢で見た!」と炭治郎が思い出します。

それに対して、小鉄さんが「それって"記憶の遺伝"ちゃう??」と話します。

 

『姿や形だけではなく、生き物は記憶も遺伝する』という意味ですが、これって、以前の『遊郭編』でも描かれていました。

堕姫さんの中で鬼舞辻無惨さんの記憶が蘇る場面です。

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鬼舞辻無惨さんは自身の血を分けて部下の鬼を作りますが、その血が記憶している光景ということですね。

 

そんな『血が記憶した光景』が遺伝したということです。

 

 

あと、『前できなかったことが、歳をとったことでできること』はあります。

みなさま経験することだと思いますけどね( ¨̮ )

 

 

惡意

鼻の効く炭治郎ですが、「あんなに厭なことを言っていても時透無一郎さんからは惡意の匂いがしない」と疑問を憶えます。

 

『いや、まぁ、そうだろうなぁ』とは感じますが、うまく言語化できるのでしょうか、わたし。

 

 

簡単に言えばエリート思考かな、と考えます。実際に天才なのでしょうしね。

「自分ができるのだから、それは他の人にもできて当然でしょう。それができないのは、その人の実力不足」と、"本氣で思っている"から嫌味や惡意にすらならない。

まぁ言われた方は堪ったもんじゃないとは思います。

 

あと、先述しましたが、時透無一郎さんには『(無意識的な意識で)目の前のことを憶えないようにしている』感があり、健忘のきらいがあるように憶えるので、それが理由かとも考えられます。

しかもその健忘もほとんど無意識であるため、惡意が籠りようもない。

 

時透無一郎さんの鎹鴉が惡意に満ち満ちているのは、そんな朧氣な時透無一郎さんを護るためでもあるのだろうな、と、酔狂なわたしはそんな憶測を持っています。

『「毀れ易いもの」を護るために、他者を近寄らせない』みたいな。

『攻撃は最大の防御』みたいな。

そんなかーんじ。

 

 

基礎をつけると本当に上達する

縁壱零式と"小鉄さん"に、しごきにしごかれ厳しい訓練をする炭治郎です。

 

この時に小鉄さんに「お前は基礎ができていない。癖でやっているだけ、なんとなく癖でやっているだけだ」と、痛いところを衝かれます。

この駄目出し、MA~JIで痛いところなのですが、(わたしはギターを嗜むのですが)ギターをやっていて思います。

 

基礎をつければ、本当に本当に上達します。

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基礎練習はいいですよ、できなかったことはできるようになるし、できていたことは幅と可動域が生まれる。

 

この基礎練習というものは、言ってしまえば、正しく求道そのものなのですが、この求道こそが前述した『煩悩を超えた先にある境地』に行くための行為なのです。

 

 

『刀鍛冶の里編』の第一話で、「どんな道でも、その道を極めた者は皆同じところに辿り着く」と言われていたのは、そういうことだと、わたしは受け取りました。

 

実際に『特定のものを極めた』超一流と評される人は、同じ『特定のものを極めた』全く異業種の人と、不思議と会話が噛み合うそうです。

 

これこそ「どんな道でも、その道を極めた者は皆同じところに辿り着く」ということではないでしょうか。

 

 

求道はいいよ。

 

 

事実、縁壱零式の腕を落としたくらいで「ふぅ、良い修行だった」と切り上げた時透無一郎さんは、絡繰人形に収められた刀の存在に氣付けなかったわけですからね。

あくまで『縁壱零式に秘められた刀を見つけること』を求道と過程した場合のお話ですけどね。

 

と、考えたら、〈縁壱零式を壊すこと〉=「百八つの煩悩を超えた境地」ということの隠喩なのかしら?

まさかね。

 

 

最後に ~次回もたのしみ~

目の星の話なのですが、今回の『刀鍛冶の里編』で活躍する、もう一人の柱の甘露寺蜜璃さんの目には星があります。

ですが、彼女の目には空元氣と言いますが、無理をしている感じを憶えます。

 

鬼殺隊士はみんなそうだろうけど、彼女はもっと空虚な癒えていない傷みたいなものを感じるんですよね。

 

鬼滅の刃』に登場する人たちで、健康そうな目をしているのって蝶屋敷の神崎アオイさんくらいじゃない?

 

 

次回、第三話は『三百年以上前の刀』だそうです。

たのしみ( ¨̮ )☆

 

 

ありがとうございました。