頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

ザル

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

本日は楽器についてです。

楽器についてですが、その根本はあらゆるスポーツや武道、演芸などにも適応されると思います。

 

 

お出汁

 

わたしはギターを弾きます。

 

最近の目標は『出汁のしっかり利いたお味噌汁』みたいなギターを弾けるようになることです。

 

もしくは『弥勒菩薩のようになる』です。

 

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以前BUCK-TICKさんのLIVEを拝見したことがあるのですが、そのステージでドラムを叩くヤガミトール氏の音にとてもびっくりしました。

 

音に無駄な贅肉がなかったのです。

 

無駄な肉が付いてない上に太鼓の鳴らし方を熟知していて、その太鼓の「一番いい音」を鳴らしていたのです。

 

それは『練習(キャリア)』という"出汁"が利いていたから、ではないでしょうか。

 

その一音を聴いたわたしは立ち尽くして音に集中していました。

 

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生で身に爆音で感じる方が、よりその素晴らしさは感じられると思います。

 

生のLIVEはやっぱりいいですよ。細胞が踊ります。Samba細胞

 

 

生のドラム演奏を聴いて、その上手さにぶったまげたのはD'ERLANGERのTetsuさんとBUCK-TICKのヤガミトールさんのお二人だけです。

Tetsuさんとヤガミさんとは各々違うタイプのドラマーさんですが、その分その人の色が音に出ていますね。

 

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出汁の利いたギターを弾くようになるために

 

『出汁の利いたギターを弾けるようになる』という目標で現在はギターの練習をしています。

 

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(もし動画が消えていればすみません)

 

こちらの動画様を倣って16分の練習を意識的に行っています。

やっぱり楽器演奏の基本はリズムキープの正確さですからね。

 

 

そういった練習をしていると、ある時氣付きました。

 

「あらゆるものにおいて、練習というのは精査する目を養う為のものである」

 

 

などというわたしですが、わたしも長らくの間、(基礎)練習というものが好きではありませんでした。

理由としては「基礎練習はつまらない」といった王道の理由もありますが、一番の理由は「矯正されてみんな同じようなプレイスタイルになるのが怖い(自己の喪失への恐怖)」というものです。

 

特に高校時分は本当にみんな同じようなプレイをしているように見えたんです。

 

ですが、それこそが「精査する目が養われていないから」みんな同じに見えていたのです。

 

 

やっと去年くらいからちゃんとメトロノームを使った練習などを始めました。

そういった練習をしだしてやっとわかったのですが、全然みんな一緒じゃねえ。

 

もちろん似通う部分はありますが、その似通った部分にも『その人らしさ』が光っています。

 

そういった目は練習をしなければ養われなかったでしょう。

 

 

基礎練習を疎かにしていたから「みんな同じようなプレイスタイル」に見えていた。

基礎練習の先の真実を知らなかったから「自己(オリジナリティ)が喪失する」と思っていた。

 

逆でした。

 

練習を重ねるというのは、オリジナリティを磨く行為でした。

 

 

歌舞伎の世界ではとても厳しい「型」というものがあるそうです。

腕の高さや首を傾ける角度、筋肉の使い方まで厳格に決まっているそうです。

その型を習得した上で型にないことをするから『型破り』になる。

型を習得せずに、型にないことをするのは『型無し』にしか過ぎないそうです。

有名な話ですね。

 

お出汁こそがオリジナリティを作る

 

ツルツルのガラスにヤモリや蜘蛛の皆さまがひっついていますが、それは『人間にはツルツルに見えても実際は細かい凹凸があり、その凹凸にヤモリなどの手に生えている微細な毛が引っかかり摩擦でひっついている』のです。

 

二冊の本を1ページずつ交互に重ね合わせたら、摩擦で離れなくなるあの現象と同じです。

 

「ガラスはツルツル」に見えている時は『練習が自己を喪失させる』と思っている時。

「ガラスにも細かい凹凸がある」と知った後が『練習をすれば細部に目がいく』と氣付いた時です。

 

なんか違うような氣がする。言いたいことが上手く説明出来ていない氣がする。

 

 

しかし色々學ばないと何がオリジナルかわからんもんな。

基礎も出来ていない段階で「オリジナリティが喪失するのが怖い」なんて言っていたのは全く面白いものだけど、それくらいあの当時は視野が狭かったんだろう。まぁ納得いく。

 


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ゆらゆら帝国とうバンドの『夜行性の生き物三匹』という曲です。

 

この曲のPVには阿波踊りの踊り子が三人が出演しています。

これはバンドが高円寺とゆかりがあり、高円寺は阿波踊りが有名だからだそうです。

 

一度見ていただければわかるのですが、三者ともとても踊りが上手です。

きっとお三方とも長くの時間を練習に費やして来たのでしょう。

それほどに無駄のない動きをされています。

そして、その三人とも個性が際立っていることも分かります。

 

練習をした結果、各々の個性が際立ったのです。

 

これは「練習を重ねるにしたがって、より自分にあったやり方を研究していくから」だろうと思います。

誰でもわかるでしょうけどね。

 

 

練習というのはザル

以上のことを踏まえ、練習というのは自己を磨く研磨剤であり、自分が纏っている無駄なものを落とすザルであると感じます。

 

川底を掬い、ふるいにかけて残った光る砂金がその人のオリジナリティであり個性です。

 

そして練習というお出汁が利いたお味噌汁はそれだけで一品の料理として成立します。

お湯にお味噌を溶かしたものと、顆粒だしを使ったものと、一からお出汁をとったものとあっても、一口飲めばその違いはわかるでしょう。

 

そのお出汁が利いたお味噌汁に、わたしはなりたい。

 

 

 

「練習って意味があんの?」とどこかで思っている方があるなら「あるぜ!目一杯練習しよう!」と思うけど、それはわたし自身が「『いくら練習しても消え切らない灰汁があるタイプ』だと分かっている」からなのだろうか?

 

あと『楽器は筋肉』と言われている通り、練習って毎日続けなきゃ本当に下手になるし(一日でもサボると下手になる)、結構途方もないから覺悟とかガッツみたいなものも必要になってくるもんなぁ。

 

しかしその側から見れば途方も無い苦行に見えるものさえも楽しんで歩いていける人こそが、大成できるのかもね。大成すればいいわけじゃないし、大成なんて俗だけども。

 

実際練習してる時ってこの世で一番くらいに楽しい時間ですしね。

生の苦しみよりも楽器と向き合っている時間の方が数ミリだけ勝っているいから生きていける。

求道は楽しいぜ。

 

あと、一つのことを極めようと思うと、全く関係ないことの仕組みとか答え?とかがふと知れたりもするのでお得です✌︎

 

 

ちなみに「弥勒菩薩のようになる」というのは『着飾ることなく身一つでも成立する存在になりたい』ということです。

これは現実世界で生きる上での目標でもあります。

あ、でも知識でガチガチに着飾ってるから無理か?

 

 

 

生で観た『形而上 流星』の照明とハコの天井綺麗だったなあ。

 

ありがとうございました( ¨̮ )

 

 

これは努力をしましょうなどと言っているわけではありません。努力とか言っている暇があるのならご自身が必要だと思うことを行ってください。

「努力だ」などと思ってやっているのなら無駄なので即刻やめてください。

 

✌︎よい人生を✌︎