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鬼滅の刃 刀鍛冶の里編 第六話『柱になるんじゃないのか!』 感想・考察

 

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今回のお話は炭治郎と玄弥との戰いが主のお話でしたね。

 

喜怒哀樂の鬼さんを討った炭治郎たちでしたが、鬼はまだ灰となりません。

その様子を見て、炭治郎は「四体同時に斬ったところで駄目だ、意味がないのだ」と考えます。

そのあとに「五体目が隠れている」と思い至るのですが、今回の鬼である半天狗さんは『五体同時』ではなく、『隠れて逃げ回っている〈怯〉の鬼』を討てば倒せるのでしょうか。

 

 

様子のおかしい玄弥が炭治郎の頸を絞め『上弦の鬼を討つのは俺だ、頭に乗るな』と言います。

のちに玄弥の走馬灯にて明かされますが、玄弥は呼吸の才能がないそうです。

鬼殺隊士には必須とも言える、呼吸ができない自分対して、とても強い劣等感とそれを使いこなしている炭治郎に対しての強い嫉妬を覺えるのでしょう。

なんとも、物悲しいというか、しょんぼりとしてしまう場面です。

 

しかし、「柱になるのは俺だ!」と息巻いた玄弥に対して「そうか!じゃあ全力で応援する!禰豆子と共に援護するから頑張ろう!」と炭治郎が返答するのは、さすが異化効果の作品『鬼滅の刃』という感想です。

 

「お前の魂胆はわかっている。そうやって油断させて(推測:結局自分の手柄にするつもりなんだろう)」と玄弥は言いますが、炭治郎の曇りのない眼に氣圧され、尻窄みとなります。

 

なんでしょう。

現実生活で同じことをされたら、きっと腹が立って仕方がないんだとは思うのですが、たぶん、怒っている人の怒りを鎮めるには炭治郎みたいなやり方が一番良いのでしょうね。

怒っている人の、感情の氣勢を削ぐというか、鎮める。手法として。

もちろんその手法を用いて接する相手の見極めは大事だとは思います。

 

 

〈樂〉の鬼がうちわを使ったことで、温泉の硫黄臭がなくなり、五体目の鬼の匂いが判別できるようになりますが、これって第一話?で炭治郎が言ってたことの伏線なんですね。

「本調子じゃないからか、温泉の硫黄の匂いが強いからか、鼻が利かない」と、確か言っていたでしょう。

 

 

今話唯一、時透無一郎さんと玉壺さんとの戰い(といっても時透無一郎さんが玉壺さんの術にかかっている場面だけど)が映ります。

玉壺さんの技って、壺に描かれた絵や模様によって変わるみたいですね。

ところで、前回のお話で玉壺さんと金魚の関係について言及いたしましたが、玉壺さんは生前自身の壺に金魚を入れて飼っていたのでしょうか。

 

 

禰豆子の爆血により、炭治郎の持つ刀は赫刀となりました。

そのためか、日の呼吸を用いた時に〈刀から炎を出すことができるようになった〉みたいですが、これが『煉獄杏寿郎さんの力を継いだ』様に思えて、感慨深かったです。

 

そういえば今回のお話の冒頭で、喜怒哀樂の鬼たちが「速度は遅いが回復している」と言っておりました。

『戰地で負傷した時は、熱で焼いて止血、傷口を塞ぐ』というライフハック、tips(小技みたいな意味)がありますが、その熱のために回復が遅いんですかね。

 

 

ちっちぇえ〈怯〉の鬼を追う玄弥ですが、不覺をとってしまい絶対絶命な状況に相成ってしまいます。

ここで不死川玄弥さんの回想、走馬灯が開始。

不死川家のお父さんは家庭内暴力、虐待をしていた人だそうですが、そういった所業を行う人というのは、いつの時代もいるのでしょうね。

 

お母さんが帰宅しないことを心配し、不死川家の長男?である不死川実弥(しなずがわさねみ)さんが探しに出ます。

この不死川家のお母さんですが、夜遅くまで仕事をされているんですかね。

「いままでこんな遅くなることはなかったのに」と、玄弥さんの妹?さんも言っております。

 

そんな中、玄関の戸を叩く音が聞こえ、待ちわびた母親の帰りを迎えに向かう不死川家のきょうだいでしたが、悲劇が起きます。

この『鬼滅の刃』という作品は、きょうだいや家族といった関係が重要となっています。

炭治郎は帰宅したら家族が惨殺されており、それは強い悲しみと絶望を覺えただろうと思いますが、家族が惨殺される様を目の前で体験した玄弥さんも、相当な絶望を感じたのだろうな、と思い、暗い想いになります。

 

兄を探し町を歩く玄弥さん。

お兄さんである不死川実弥さんを見つけるも、呆然と立ち尽くしております。

足元には不死川家のお母さんが血塗れで横たわっていました。

お母さんの返り血を浴びたのか、不死川実弥さんも血塗れなのですが、この呆然としている姿から、実弥さん自身も、家族を襲ったのが実の母親だとは思ってもいなかったのでしょう。

実際は鬼化していた(させられていた)とはいえ、その衝撃と取り返しのつかないことをしてしまったという絶望感は、想像を絶するものではないかと思います。

 

そんな呆然とする実弥さんに対して、玄弥さんは「人殺し」と言い放ちます。

状況が状況だし、何が起こったのかもわからないために、混乱して咄嗟に口から出た言葉ではあると思いますが、そりゃあ言った方としても後悔はするよな。

しかもそれの謝罪もできずに死んでしまうなんてのは、本当に死んでも死に切れないと思う。

 

幾度となく言っておりますが、人はいつ死ぬかわかりませんからね。

言いたいこと、言わないといけないことは、言える内に言っておいた方が良いです。本当に。

後悔は先に立ちませんからね。

 

 

不死川実弥さんは声を関智一さんが当てているそうなのですが、すごくいい声だな、と思います。

あと、実弥さん左利き。

 

 

走馬灯が終わり、玄弥の脳内実弥さんが『玄弥さんの能力・才能のなさ』を罵倒しますが、これは玄弥さんが脳内で作り出したものでしょう。

自己否定・自己卑下感情に脳が占領されている時は、どうしたってありもしないことも考えついてしまうものです。

 

脳内が言ってくる暴言は間に受けない方がよいです。

人は被害者として生きている方が樂だからです。

被害者でいるためなら、いくらでも脳は自己卑下をして、自分の精神を痛めつけます。

 

 

そんな無情感に苛まれているところに、炭治郎がやってきて「絶対に諦めるな、次は斬れる」と叱咤激励をします。

えぇ。それが何度やってもできない場合は、絶望感やら『自分は何をやってもだめ』という諦めを覺えたりすることもある、というより、その方が多いでしょう。

そう思うのですが、たぶん、この『次はできるはず』と思って、粛々と、目の前のことに挑み続けるということがなんだかんだで最良なんだろうな、と思います。

そりゃ途方もないけどね、『千里の道も一歩から』、『塵も積もれば山となる』です。

 

ミヒャエル・エンデさんの著作である『モモ』でも、ベッポが言っていましたしね。

 

 

玄弥さんが鬼を討つことを炭治郎に託したのも良かったです。

『今はできないけど、次はできる。必ずする』という、自身の力不足も受け入れていたからです。

月並みですが「自分は弱くない!」と息巻いている人ほど、脆いものです。

『自分の弱い部分』を見つめて、そこを補ったり、「その弱さを強みとするにはどうすれば良いか」を考えることで、精神は成長するものですからね。全く月並みでつまらない感想です。

 

次回、第七話は『極悪人』だそうです。

まぁ、鬼が極悪なんだろうけど、愉しみです( ¨̮ )

 

 

ありがとうございました。