頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

狡猾

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

 

2023年の3月なんにちかにマスクが任意となったそうですね。

そして、これを書いている2023年5月現在、街行く人、お店、電車に乗る人、それらを見ていても、まだまだマスクをつけている人は多いです。

大前提として、その人個人の好きにすれば良いです。この考えは変わらない。

 

しかし、ふと、思ったことがあるのです。

 

 

任意

もし、以前としてマスクをつけている方が、『「政府がマスクを外して良いですよ」と言っていないからつけているのです』という考えなのであれば、わたしの推察ですが、政府が『もうマスクはつけなくて良いですよ。どうぞ、皆様外してお過ごしください』と発表することは、無いのだろうと思います。

 

その理由ですが、3月のいつだったかにマスクの着用が自由化となった時の、言い回しです。

『任意』、『自由化』

 

はて。マスクの着用は果たして義務だったでしょうか。

わたしには、義務だった記憶はありません。

 

企業、お店等は大衆と世間のご機嫌伺いのために、その場所に訪れる際に強要を敷いてくる場合はありましたが、決して政府が《マスクの着用は國民の義務である》などと触れ込んでいたわけではなかったと記憶しております(人の記憶は曖昧なので、いま、政府が『あの当時は義務化してましたよ』という"証拠"をでっちあげたとしても、大衆は信じるのだろうけど。真理省のおしごと)。

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それに『マスクができない』なんらかの事情があることにすら想像のできない、愚鈍な大衆も増えました。思いやりがない。

(これは完全な愚痴ですが、2020年の夏、車椅子移動であるために電車に乗り込むのを苦難していた方がいらっしゃったのですが、その苦難の真横を、マスクをし、携帯電話にあやされている成人済みのヒトが素通りして電車に乗り込むのを見たことがあります。 自分のことしか考えられないヒトには、ほとほと嫌悪と怒りが湧きますね。まったくヒトというものは)

 

 

狡猾

またそのほかにも『任意』という言葉です。

『任意』という言葉は、〈その人の判断に任せる〉と、そんな意味なのだそうです。

しかし、最初からマスクの着用は任意ではなかったでしょうか?

大衆同士が相互監視をして目くじらを立てている状況(さながら『一九八四年』のようですね)ではあったと記憶しておりますが、着用するかしないかはその人の自由、もとからそうであったはずです。

 

しかし、『任意』という言葉を使うことで、あたかも《マスクの着用は義務であったかのように》演出することができるわけです。

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政府というものは、そう言った意識換えをしてくる卑怯で狡猾な組織だと、わたしは考えております。

 

そして、『任意』という言葉で大衆の認識をすり替えた政府は、未だマスクを外さない國民に対してこう言うのではないでしょうか。

「以前から任意と言っていたはずですよ。でも外さないのは、あなた方のご意思ですよね?」

 

 

忠犬

この日本にいるほとんどの大衆が、わたしには『上手に飼い慣らして躾をした犬(正直ヒトとお犬さん達を一緒にするのはお犬さん達に失礼だと思うのですが)』のように思えます。

その犬に対して「飯行け!」「ハウス!」と命令をしているようにしか思えないのです。

 

だから、「マスクはもう外して良いですよ」という指示があるまで、ほとんどの大衆は律儀に待っている。

改めて、わたしの推察していることを言いますが、政府が『マスクを外して良いですよ』ということは、無いと思います。

首輪を外されても、その場所から逃げ出さず、次の命令があるまで盲目に待ち続ける。

次の命令が「戰爭に行け」だとしても、大衆は律儀に向かうのでしょうかね。

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「罰がなければ、逃げだすたのしさもない」とは、安部公房さんの『砂の女』にて書かれていたことですが、現代の世の流れってそういうことなのですかね。

 

好きに生きてください。

 

 

ありがとうございました。