ご無沙汰しております。
昨日、『映画 鬼滅の刃 無限列車編』を鑑賞いたしました。
その内容がとてもよかったので、感想と共にわたしの解釈も綴らせていただこうかと思います。
↓↓以下、ネタバレ↓↓
売れた理由
時は大正。炭焼きの家庭に生まれた竈門炭治郎(かまど たんじろう)が、鬼へと変えられてしまった妹の禰豆子(ねずこ)を、元の人間へと戻すために戦うお話です。
昨年あれだけ売れたのでご存知の方も多いとは思います。
わたしは売れるまで不勉強ながら存じ上げませんでしたし、売れているものへの拒否感という醜いものも持っているようですので、全く興味がありませんでした。が、今年の7月くらいに動画ストリーミングサイトにてアニメ全話が配信されていたので、とても軽い気持ちで見たら、とてもよかった。
やはり売れるものにはそれだけのパワーがありますね 笑
売れた要素として、「敵にも目を向けた」というのがやはり大きいと思います。
いままでのジャンプ作品は、悪役は絶対的な悪役で、悪役のまま倒されるという構図でした。
ですが、この鬼滅の刃は「悪役(鬼)が、どうして悪役になってしまったのか」を描いています。
それが、「パワハラやモラハラをしている人にも、それをするに至った過去がある」こと、それをわかってほしい側の氣持ちと合ったのだと考えています。
とはいえ、された側は溜まったものではないと感じるのも想像に難くありません。
昨年公開され、大ヒットになった映画『JOKER』も、悪役はどうして悪役になったのか、が描かれていた作品でした。
そして、主人公がその悪役へ労りや慈しみを持って対峙する。辛かった過去をそのままおざなりにするのではなく、悲しみをちゃんとケアして解放しようとする。
罪を憎んで人を憎まずの姿勢を一貫している。
「辛い当たり方してるのは自分でもわかってるけど、これ以外の接し方がわかんねえんだよ。この接し方しかされてこなかったんだよ」という、無意識にしまいこみ、見ないようにした(見えなくなった)叫びみたいな感情を、フィクションを通して自己ケアする。
その『みんな声あげてないんだから自分も我慢しないと』みたいな押し殺した感情をほぐす、そんな演出をしていたから、現代でヒットしたのだとわたしは思いました。
禰豆子を鬼へと変えた敵の親玉の組織が、非常にワンマンなブラック企業的階級社会。
そんでもって支配の仕方が、恐怖政治的なもの。
ワンマンな環境というのに対して、わたしは、これまでのジャンプ作品を連想したんですよね。ワンピースとかの。
海賊という、一つの船で生きる生活のスタイルであるがゆえに、トップが気に入らないと仲間に加えないというのは、構造状、当然ではあると思うのですが、それってワンマン会社のやり方に他ならないとわたしは感じます。そういったワントップの作品がヒットしていた'00年代、'10年代だったから、堀江貴文さんのような存在が表舞台に見えたのだとも思います。
その、従来のジャンプセオリー、スタイルのようなものを敵の立場に起き、それに対して「いや、やっぱりそれも行きすぎちゃ毒でしょ」と異議を示した。それもジャンプ作品が。
そこにわたしは「ただもんじゃねえな」と思ったのです。
ちなみに、わたしはアニメシリーズと今回の映画を見ただけなので、無限列車編以降のお話は存じません。楽しみですね。
無限列車へ
さて、その無限列車に炭治郎御一行が乗り込むところから劇場版の物語が始まります。
先に乗っていた先輩隊士の炎柱 煉獄杏寿郎(れんごく きょうじゅろう)と合流した後、鬼の罠により深い眠りの世界に落ちてしまいます。
この時に炭治郎は煉獄さんにもたれかかるのですが、これは「柱に寄りかかる」ということを表現しているんですよね。
煉獄さんは弟との稽古、炭治郎は家族との生活、我妻善逸(あがつま ぜんいつ)は禰豆子ちゃんとの逢引、嘴平伊之助(はしびら いのすけ)は自身が隊の長となり洞窟を探検する夢。
正直とても見ていてきつかった。
善逸と伊之助はギャグ要素が強かったけど、煉獄さんと炭治郎は「本当に見たい望み」だったから。
善逸の夢で桃の木が出てきて、まんま桃源郷の意味なんだろうと思うんですが、善逸が兄弟弟子に怒られているシーンも桃が登場します。なにかその後のお話で触れられるのでしょうか?(夢の世界は黄泉の世界と繋がっているってこと?)
鬼が夢を使う理由。
人の見る夢は心の中心にあり、その夢の周りに無意識空間がある。その無意識空間にその人の魂の核があるから、それを壊せば廃人になる。
その役目を鬼がするのではなく(勘づかれる為)、子どもが請け負う。大人ではなく、子どもが。
ここもかなりしんどくて、自分は直接手を下さずに自分より弱い立場(しかも子ども)を使うというのは、非常に現代的だと感じて、本当にしんどかったです。
また、鬼が得意げに言っていた、
「人間は心を原動力にして生きている。だからその心を壊せば廃人と化す。人は脆い(意訳)」
という文句も、過労死などが顕在化してきた現代だからこそだと感じました。
炭治郎の核の破壊を命じられた結核の少年は、無意識空間に足を踏み入れます。
この時にウユニ塩湖だったから「なんでウユニ塩湖???」と思ってしまい、ちょいとしたノイズでした。😉
その空間内で透明な小人と出会い、その子らへ「炭治郎の核はどこ?」と聞いたところ頭上のお日様を指差す。その暖かさを感じ、少年は炭治郎の核を壊すことを諦める。
この一連から、悪意を持って近寄ってきたとしても、「頭から否定するのではなく、まず相手を受け入れましょうね」と言ったようなメッセージを受け取りました。
アニメの時から、炭治郎の耳飾りの柄などから『ヒノカミ』は火ではなく日(陽)だろうな。と思っていましたが、やはり日の神でしょうね。
後述しますが、鬼のトップが炭治郎(その耳飾り)を目の敵のごとく嫌う理由もわかります。
ずっと居たい夢の中の世界と背を向け、自分の首を斬って夢から覚めた炭治郎は、先頭車両にいる鬼と対峙します。
赤信号、みんなで渡れば怖くない
この夢というのは、現実逃避。列車はレール。
「死の列車(現代社会の地獄)に、みんな乗っているけど、共に夢(現実逃避)という、見て見ぬ振りという共通の苦痛を共有すれば辛くないでしょ?」
という意味なのかなぁ、と思ったので、きっついな…とうなだれる感情と「起きて戦え!!」という炭治郎の叫びにも、うなだれました。きつい。
そもそも、鬼殺隊が列車へ乗った目的が「列車に鬼が出る」ということなのですが、夢の中にも鬼が出現します。
これがかなり厄介な部分で、夢の中の鬼を斬ることで『問題が解決した』という気持ちが生まれます。
それにより、本来見なきゃいけない根本の問題に目がいかなくなるという事態が発生する恐れがあります。
凶悪犯を捕まえることが解決に思われるけれど、"どうして凶悪犯になったのか"の原因(生い立ちや組織での役割)を知り、根本の問題を解決しなければ新しい凶悪犯は生まれ続ける。
そういったことを言っているんだろうな、と思いました。思いましたが、問題を解決したと思ったらその奥にもっと根深い問題が隠れてました。それがエンドレスになると考えたら、頭が疲れますし、現実逃避をしたくもなる気持ちも理解できます。
先頭車両の鬼と対峙し、死闘を繰り広げる炭治郎。
その際に鬼が「無惨様(鬼のトップ)がこいつに固執する理由がなんとなくわかった。感情を逆撫でされているような、嫌な気持ちにさせられる(意訳)」と言います。
鬼は太陽が沈んでいる夜の間しか活動ができません。
鬼を退治する方法は、専用の刀で鬼の首を斬るか、日光に当てるかしかありません。
その夜の間に悪事を行うのですが、日の神たる炭治郎(竈門家?)は存在自体が太陽のようなものなので、鬼側からすれば非常に居心地が悪いのではないかと思います。
所詮一消費者の三文推論ですけどね😉
そのあと、夢から覚めた他の隊員と共に鬼の討伐を始めます。そこの描写についてはわたしは門外漢なので感想はありません。とりあえずかっこよかったです。
善逸が覚醒するトリガーが「氣絶」、「無意識状態」なのを忘れていたので、善逸が活躍した時に「やられた!そうだったわ!」と膝を打ちました。
鬼の技で、炭治郎がひどい悪夢を見せられるシーンがあるのですが、彼にも深い罪悪感があるんだなと感じて、とても辛かった。
ですが、その夢を見せてきた鬼に対して激昂した炭治郎が言った台詞がよかった。本当によかった。
車掌に腹を刺され、手負いの状態ながらも伊之助と共闘し鬼の首を討った炭治郎。
首を斬られた鬼が「クソッ!俺が負けた!あいつ(炭治郎)を殺して無惨様へ献上し、より強くなるために血を分けてもらうつもりだったのに!そして上弦(トップ6)の陸へ入れ替わりの決闘を仕掛けるつもりだったのに!!……上弦って百年も顔ぶれが変わっていないんだったか…。それほどまでに上弦は強いのか…!!!」と言いながら灰になるのですが、この構図もブラック企業的だなと思いました。いつだって切られるのは末端。
また、彼の背景が描かれなかったのは残念だなと思いました。
朽ちる肉体の美しさ
炭治郎が煉獄さんに労をねぎらってもらっている時に、上弦の参(もっと強い鬼)が襲来します。
その理由は"煉獄さんの強さが氣に入ったから、不老不死の鬼になって共に武を極めよう"というもの。
それを断った煉獄さんは鬼の首を獲るためにすっごい死闘を繰り広げます(語彙貧弱)。
その戦闘中に鬼が「鬼になれば、傷も潰れた内臓もすぐに治る。死ぬこともないからずっと鍛錬が続けられるんだぞ。どうして人間の体にこだわる?」と煉獄さんに問うのですが、鬼の問いに対し「確かに人は脆く、傷も治るのが時間がかかる。腕も切れたら戻らない。だが、それこそが命の美しさ。尊さだ」と答えます。
このやりとりで、鬼側はネクロフィリア(死生愛)。隊士(人間)はバイオフィリア(生命愛)なのではないかと思いました。
言い方を変えると、鬼は画一性。人間は多様性。
そこからタイトルの東洋思想と西洋思想の話に繋がるのですが、とりあえずリンクの動画をご覧ください。
この話で触れられているように、鬼側の画一性は一神教的な西洋思想(統治、支配)。
人間側の多様性は八百万的な東洋思想(困った時はお互い様)のような感覺なのではないかと思いました。
不老不死の鬼には生き続けるという一つの選択肢しかないのに対し、生老病死の人間には様々な選択肢が存在する。
西洋建築は「石造りで完璧に、完成させる」のに対し、東洋建築は「木造で、かつ、柱の木を一本だけ逆にして、わざと完成をさせない」
東洋建築のわざと完成させない考え方は「完成させてしまうと、あとは朽ちるだけになってしまう」という思想かららしいですね。
古来から自然災害が多かった日本という土地において、朽ちることがありませんように、という願掛けの意図もあったと思います。
生の多様性を死の画一性で支配し(WW2後)、その支配の度が行き過ぎたのが現代。
ということなのではないかと思いました。相当なバイアスがかかっているとも思います。
鬼とのすっごいすっごい死闘を繰り広げたあと、煉獄さんは命を落としてしまうのですが、命(多様性)の尊さを我が身を以て表す(鬼への反抗を示す)ために、鬼にはならず死を選んだのかな、と、今氣付きました。
また、鬼に誘われた際に「君とは価値基準が違う。その考え方には賛同できない」と煉獄さんは発言するのですが、その返答さえも相手を否定しておらず、距離を取っている。
そこにさえも多様性を受け入れているんですよね。相手の鬼は強いか弱いかの二択。
これも、今氣付きました。
生と死のみが伝えられること
結果、日の出に焼かれることを恐れた鬼は逃げます。
逃げる鬼を炭治郎は斬ろうとしますが、煉獄さんはそれを諌め、命長くないと察して炭治郎にお説法を説きます。
そこのお話と演出が本当〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜に素晴らしいほど素晴らしく素晴らしくて。
「胸を張って生きろ
己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと心を燃やせ 歯を食いしばって前を向け
君が足を止めて蹲っても時間の流れは止まってくれない
共に寄り添って悲しんではくれない
俺がここで死ぬことは気にするな
柱ならば、後輩の盾となるのは当然だ
柱ならば誰であっても同じことをする、若い芽は摘ませない
そして今度は君たちが鬼殺隊を支える柱となるのだ
俺は信じる、君たちを信じる」
これを話している煉獄さんの背中を朝日が照らし、後光になっているんですよ。
これから仏様になるという意味合いと、年長者が下の世代へ橋渡しするという意味合いだと思いました。
その煉獄さんに対し、めそめそする炭治郎へ伊之助が、
「死んだ生き物は土に還るだけで、悲しんだって生き返らない。悔しくても、悲しくても、恥ずかしくても、生きていかなければいけない」
と叱咤したのも本当によかったです。山育ちの伊之助が言ったのが、より沁みました。
煉獄さんがこと切れる間際に、黄泉の国にいる母親に認められるのですが、その後に煉獄さんが笑顔で旅立つのが、悲しいけど、暖かい。本当に素晴らしいシーンでした。
本来あるべき姿の儒教だと感じました。上記した大正という時代背景なのも大きいのでしょうね。
またアニメを見ている時から思っていたのですが、やっぱり、女性作家さんの描く家族への愛は、男性作家さんが描く愛の形とは違ったものを感じますね。
男性性の愛は『縄』や『綱』状なのに対し、女性性の愛は『布』であったり『織物』状の印象。だから、鬼滅にしてもハガレンの荒川さんにしても、包み込むようなイメージが浮かぶのですかね。
あと、個人的に「あーやっぱり」と思ったのは、
炭治郎が伊之助へ「(車掌が炭治郎を刺したことで)俺が死ねばあの人が人殺しになってしまう」と言ったのちに、煉獄さんから「君が死ぬと俺が負けたことになってしまう」と言われていて、「やーっぱり自分が言ったことは自分へ返ってくるんだなー」と思いました。余談ですけどね😘
👇二回目👇
👇鬼滅の刃 考察👇
ありがとうございました\(´-`)/