〈アカデミー賞は伊達じゃないね!〉
映画『パラサイト 半地下の家族』を観ました。
すごい映画だなって思います。
↓↓以下、ネタバレです↓↓
Parasite - 寄生生物・寄生虫・居候
最初タイトルを見たときは「金持ち家庭に貧困家庭がパラサイトし、金持ち家庭を食いつぶし、家の長となる物語かなー」と思っていました。
違いました。
物語の発端は半地下住居に住む主人公家庭の青年・ギウが、留学に行く友人・ミニョクの代わりに女子高生・ダヘの家庭教師をお願いされるところから始まります。
「大學も出ていないからと」一度は断るギウですが、ミニョクのお願いを受け入れたギウは妹・ギジョンに手伝ってもらい大學の卒業証書(か入学書)を偽造します。ここからこの映画のトリックは始まっています。
その後、シーンは変わり仕事先の豪邸へ向かうギウ。この豪邸が主人公一家の"宿主"になります。
豪邸の美人奥さんによる家庭教師の授業試験を見事パスしたギウは、ダヘの弟・ダソンの絵を見て、妹のギジョンを上手く宿主家庭の美人奥さんへ紹介します。その時にはギウを信じきっているのでギジョンの存在を疑うことなく快諾します。
同じ要領で奥さんを上手に使い、主人公一家が豪邸へ寄生します。
この寄生先家庭のイケメン旦那がいかにもな上昇志向なんです。
豪邸に住んでおり、ベンツに乗り、IT会社の社長で家政婦さんを雇っている。
この作品においての「パラサイト」は貧困家庭がブルジョワに寄生するものと思っていました。
この作品の寄生関係はとても複雑です。
家政婦のブルジョワ一家への寄生(依存)、ブルジョワ一家の家政婦への寄生、貧困一家のブルジョワ一家個人への寄生、ブルジョワ一家の主人公家庭への寄生。
そして、価値基準の寄生。
美人奥さんの「アメリカ」
イケメン旦那の「資本主義的観念・におい」
ギウの「大学に行っているかどうか」
主人公家庭の「豪邸は良い。半地下はダメ」
これらは全て自分で価値を見つけたもののように思えますが、それは第三者の価値観にすぎません。
この映画は(作中の、そして観客)当事者が寄生する物語ではなく、価値観や価値基準を知らぬ間に産み付けられている・寄生されてしまっている、というメッセージなのだとわたしは受け取りました。
だからこそ、ヨーロッパ的な階級社会の価値観を植えられていないネイティヴアメリカンを、まだ幼く他者からの価値観に染まりきっていないダソンは好んだのではないかと思います。
そして事件の後、ギテクの照明を用いたメッセージをギウが読み取り、返信の手紙を書きます。
そこにいるのは見事成功し例の豪邸を不動産屋から紹介されているギウの姿です。
その姿がBTSや超新星などの韓国の男性アイドルそっくりで重いパンチを食らった気分になりました。
どこまでいっても、世の中の価値基準は誰かの価値基準の手の上なのだと感じたからです。
その手紙では豪邸の地下室に逃げ込んだ主人公家庭の亭主・ギテクとギウが抱き合うシーンがあり、そこで暗転します。
そこで「こんな終わり方かぁ…」と思っていたら、半地下住居でギウが座っておりギテクへの手紙を「わたしが豪邸を手に入れるまで、どうかお元氣で」と書いて締めます。
ギウは半地下住居でまだ暮らしています。それを見て「平民以下はどこまで行っても平民以下なんだから」とでも言われているような感慨を受けました。
そんなラストの作品が『身の丈発言』で物議を醸した國で大いに話題になりヒットしているってのはすごくヘビーでアイロニカルだな、と、わたしは感じました。
もちろん作品自体がめちゃ面白いのもあるんだけどね!
あと最初に半地下家庭の居間のテーブルに乗った便所コオロギをギテクが指で弾き飛ばした直後にギウとギジョンが携帯の電波を得るためにトイレに行ったのはラストの比喩だったのかなとも思いました。
最初の〈アカデミー賞は伊達じゃないね!〉も他者の価値基準ですシニカルアイロニー。
鑑賞二回目の感想