本日もご訪問ありがとうございます。
以前、読書は旅行と同じであると説きました。
今回はそんな読書の良さを説きます。
読書は良いぞ。
ちなみにわたしは紙の本至上主義過激派なので、紙の本を読むことに対しての良さと利点を書きます。
電子書籍などは、華氏451度にして燃やしてしまえ、とすら思います。
- 自分の知識外の言い回しと触れることができる
- 数々の作品の元ネタが本由来であることが多いため、より作品を深く愉しむことができる
- 読書は自分が知らない価値観や、情報と出逢うことができる
- 「手元にあると、見返すことができる」
- お次。一番重要なこと。
- 色々な古典と触れることができる
- 女學生さん
自分の知識外の言い回しと触れることができる
〈読書の良さ〉の簡単なところでいうと、自分が知らない言葉や言い回しが知識として身につくことです。
もちろん本を読んでいただけで、この世の言い回しを全て網羅できるわけではありませんが、読むと読まないと、平易で安易なものに塗れて生活するか知らないものと触れる姿勢があるか、でも知識として身につくか否かは大幅に変わってきます。
しかし、難点なのは現代ではスマートフォンやインターネットという安易で平易で安直な娯楽的中毒性宗教を大衆が信奉しているので、読書をする層としない層とであまりに溝が生じてしまい、話が合わないことがある。
そして、読書をする層が圧倒的に少数派なので、話が合わないことが多い、ということです。
数々の作品の元ネタが本由来であることが多いため、より作品を深く愉しむことができる
これは本当に多いです。
往々にして、何か作品を作る人は読書をしているもので、その読んだ作品を元ネタにして自身の作品を創っているため、その作品を愉しむ幅が拡張される、そんな感覺です。
ゲームでいうダウンロードコンテンツみたいな感じですかね?
でも、元ネタは他にも色々な作品の元ネタになっているので、Aという一つの作品を読むことで、Aに影響を受けて派生したフォロワー作品全てをより愉しむことができるので、一石何鳥にもなります。
『コストパフォーマンスが良い』ってやつですね( ¨̮ )
アメリカの作家であるラヴクラフト氏が作り上げた〈クトゥルフ神話〉なんてその典型ではないでしょうか?
半分フィクションであると思われる神話なんて、本当にいろんな作品の元ネタになっていますしね。
ちなみに、わたしは神話なんてものは『ある事実を複数方向から見た際の、解釈のアウトプット』だと思っております。
〈ある出来事〉を集英社が出版するのか、または角川か、はたまた岩波か、理論社なのか、みたいな感じです。
クトゥルフも〈神話〉の括りじゃん。
読書は自分が知らない価値観や、情報と出逢うことができる
わたしの知識や思考、直感なんかは、この読書の積み重ねである場合がほとんどだと思えます。
2020年には『継続可能な戰爭』について記事を書きましたが、それはジョージ・オーウェル著作の『一九八四年』を読んでいたからです。
同じジョージ・オーウェル著作の『動物農場』では、旧ソ連の指導者であるヨシフ・スターリン氏がいかにして独裁者と変わったのかを知ることができました(もちろん脚色している部分はあったでしょうけれどね)。
わたしが長年ファンを興じている伊坂幸太郎さんの『魔王』という作品で、ファシズムという考え方を知ったりもしました。
伊坂幸太郎さんの作品には、いつも多くの知識とインスピレーションを頂いております。
これら読書をした積み重ねがあったことにより、世の中を見た際に表層だけでは知り得ない真意や本質といったようなものを推測することができるのです。
読書という養分たっぷりな土があるから、『あるものに対しての推測』という芽が生えてくるのですね。
もちろん、わたし自身が真意や本質と思い込んでいる可能性は大いにありますよ( ¨̮ )
「手元にあると、見返すことができる」
これは紙の本限定ですね。
『電子書籍でも見返すことはできるから、ばからしい』でしょうか?
しかし、よく考えてください。
電子書籍で出版されていた書籍の内容が、時代的にまずいものとなり、焚書扱いになった場合。
データから消すことなんて簡単です。
完全にダウンロードしてPDFファイルにしたり、内容をプリントアウトしていたなら別ですが(プリントアウトするんなら紙の本を買えよと思う)、大抵の電子書籍はプラットフォームかあり、そのプラットフォーム上で電子書籍を読んだり、管理したりするのではないでしょうか?
そのプラットフォーム上で特定の書籍が焚書扱いとなり、非公開・削除になったら?
その書籍の内容を見返すことは、まず不可能でしょう。
書籍を共有するプラットフォームから消されているのですから。
思えば、いつぞやに自民党の菅義偉さんが所属政党の頭になった際、昔出版した書籍から一部箇所を削除し再出版したことで、問題になりました。
正確には〈問題のように報道されていた〉かも知れませんが、確かにそんなことがありました。
思えば、これは『一九八四年』の作品内で主人公が仕事として行っていた〈情報の書き換え〉と同じですね( ¨̮ )
そういった『内容の書き換え』や『焚書処分』は電子書籍であれば、お茶の子さいさいです。
電子書籍が焚書されたとて、氣付くだろうと思われる方もいらっしゃるでしょう。
ですが、電子書籍の冊数が多い方は、焚書処理されていたとて、その事実は埋もれるでしょうし、久しぶりに読み返そうとしても「あれ?確かに買ったはずだけど」と思うだけですよ。
久しぶりに観返した映画に対して『こんな内容だったっけ』と思うのと同じですね。
そして、内容編集後の同名作を再度購入するのでしょう。
ですが、紙の本である場合は印刷された時点から変わることはありません。
紙は記録媒体だからです。
なので『紙の本を蔵書する』という行為自体に〈内容の書き換え〉を防ぐ効果があるのですね。
とはいえ、【誰か】が実際に蔵書している紙の本を焚書したらばどうしようもありませんが、そんな『華氏451度』みたいなディストピアになったら、諦めはつくかも知れませんね‾\_(ツ)_/‾
お次。一番重要なこと。
読書でしか得られない情報を得ることができる。
先述している『一九八四年』と、『華氏451度』には共通点があります。
両作品をお読みになっていらっしゃる方ならご存知のことだと存じますが、その共通点は『読書(また紙の本の蔵書)を禁止している』こと、です。
『一九八四年』は紙の本の蔵書はおろか、紙に想いや考えを書くことすら禁止されています。
『華氏451度』では、主人公は焚書処理をする職に就いています。
また、両作品とも『主人公が本と出会うことで』人生が変わりはじめます。
『一九八四年』の世界で、どうして本が禁止されているのかは、確かオブライエンというキャラクターが話していたと思うので、氣になられた方は、是非ともお読みください( ˊᵕˋ )
少し前に、小林多喜二さんが執筆された『蟹工船』を読みました。
小林多喜二さんは、まだ共産主義が日本で認められていない時代に共産主義を広めようとした方です。
しかし、その当時の日本國は資本主義を推し進めたかったのか、天皇主義を強固にしたかったのか、小林多喜二さんを國家叛逆の罪に問い、結果、小林多喜二さんは亡くなることとなりました。
えーっと、『共産主義って良いものだよね』と言いたいわけではありませんので、そちらはくれぐれもお間違えのないようにお願いいたします。
共産主義も、資本主義も、等しく良く、等しく悪いもの、万物は吉凶善悪の双方を所持しているものです。
そんな小林多喜二さんの著作に『党生活者』のいう作品があり、それは共産活動をする男がどのように特別高等警察から目をつけられることなく、活動していたのか、の様子が描かれているのですが、その作中に『商売としての戰爭』が書かれていました。
作中では、確か『この間読んだ本には、戰爭をすることで儲けを出している連中がいると書いていた。つまり、戰爭を起こすことで軍需が潤い、それにより色々なものが潤うのだ』と言ったような内容だったのですが、これこそ『一九八四年』と『華氏451度』で、為政者が読書を禁じた理由なのではないかと、その理由を垣間見た瞬間です。
そして、近現代はいかがでしょうか。
冒頭に書いたように、見事に読書をする層は少数派に追いやられています。
とはいえ、上記の『党生活者』でも「基本的に人間は安易だから読書なんてしねえ。だから、商売になってる戰爭なんて氣付きゃしねえ」って書いているので、いつの時代にも読書をちゃんとする層は少数派なのかも知れませんが、昨今では明らかに減っているとは思います。
〈大きな自動共有大衆脳〉と〈手のひらサイズな、安易で安直な宗教的中毒支配の賜物〉の効果でね。
上記のしたような、現代では『読書をしないと得られない情報』が、読書をすることで得ることができるのです。
なぜ読書でないと得られないのか、なぜ一般的なメディアでは得られないのか。
それについては、多くのメディアは大衆に向けた装置であり、その装置は『為政者に都合の良い情報をプロモーションするため』に用意・使用されるから、です。
〈大衆が自らの頭で物事を考えないようにするため。また、『自分は自分の頭でちゃんと物事を考えている』と思わせるため、に読書をさせず、安易なメディアに頼りきりにさせるため〉に読書から遠ざけるように工夫している、なんて大衆が知ったら、まあ不満が爆発するでしょうしね。
と、思ったけど、怒れるだけの氣力は残っているのかしら。現代人さんには?
色々な古典と触れることができる
YES( ˘ω˘ )
本、及び書物というものの中には、何十年・何百年・何千年と読み継がれ残っている作品が多数あります。
これらの作品が、どうして淘汰されることなく『古典』として現代まで残っているのか。
それはやはり、いつの時代にも通用される、共通の『真理と形容されて然るべき要素』が、その作品に含まれているから、なのではないかと思います。
以前、言葉についての記事にて〈淘汰の残酷さ〉を書いたのですが、やはりどんなに一時的に爆発的な売上を築いた作品でも「一年経てば売りに出されて溢れている」なんてことはざらにあり、「五年経てば誰も覺えていない。話に出せば『あぁ、そんなのもあったね』と、そんな返答をされる」なんてこともざらにあります。
そんな淘汰が溢れている世の中で、十年間読み継がれるだけでも凄いことであり、それが古典として現代まで残っているということの、途轍もなさというか、神秘性というか、偉大さ?を触れることができる、筆者その人自身と会話することができる。
それが読書の素晴らしさなのです。
女學生さん
そういえば、再三わたしが嘆いているように電車では、携帯電話という安易な支配に汲汲と支配されている方ばかりで、読書をされている方はそれこそ一割程度です。
そんな中で若い女性(確か女學生さん)が読書をされており、「おや、良いですね」と思い、ちらと何を読んでいるのかを〈盗み〉見たのですが、ジョージ・オーウェルさんの『一九八四年』をお読みになっておりました( ¨̮ )
まだまだ捨てたものじゃない人はいらっしゃるようで安心をいたしました( ˊᵕˋ )
ありがとうございました( ˊᵕˋ )