頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

いつの時代もマジョリティはマイノリティを潰すのか

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

先日、朝井リョウさんの『正欲』についての感想を軽く書きましたが、この度映画が公開されたので鑑賞してきました。

 

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今回は「映画の感想」と「原作を読み終わった感想」を記します。

 

あ、ネタバレしない方が良い作品だと思うので、なるべくネタバレはせずに鑑賞した人や、読後の方にはわかるようにキーワードだけで書いていきます。

 

 

 

映画

まず、映画の感想を失礼いたします。

 

映画版の『正欲』なのですが、原作を読んでいることを前提として作られているように思いました。

 

 

作品には寺井啓喜さん、桐生夏月さん、神戸八重子さん、佐々木佳道さん、諸橋大也さんが主要人物として登場します。

各々が初登場の時は、それぞれの名前がスクリーンに映し出され、そのあとは主人公が切り替わっても名前が映し出されません。

 

ここの演出なのですが、人物紹介の後に場面が変わっても、誰が主人公かわかりにくかったように思います。

語り手の主人公が変わる時は、場面が暗転するとかの編集にした方がよかったのではないのか、、と、素人は思います。

 

 

そして、劇中の場面場面が結構ぶつ切り的に感じたのもあって、上記したようにこの映画は原作を読んでいることが前提に作られているのか?と思ったというわけです。

 

万引きをした主婦の方のお話も『万引きをした主婦』としてしか描かれていなかったし。

 

 

良くも悪くも稲垣吾郎さん

映画版の『正欲』は稲垣吾郎さんと新垣結衣さんが出演しているということで話題となっているらしいですが、この稲垣吾郎さんのキャスティングも良くも悪くも、という感じだったように思います。

 

稲垣吾郎さんが演じた寺井啓喜は、検事という仕事をしておりますが、ここの演技が『検事の演技をしている』ように思えてしまったのも、個人的になんともな、と感じた次第です。

決して『検事という職業に就いている寺井啓喜という個人』の演技ではなかった、とでも言いましょうか。

 

 

あと、原作での寺井啓喜さんはもっと嫌な性格というか、「本当に検事さんってこんな性格なのかも」と思えるような、『法の秩序は私が護るのだ』『自分の考えていることは常に正しい』と信じて疑わない性格をしているような人物造形がされているように思うのですが、その造形も映画版では薄かったように思います。

 

稲垣吾郎さんという俳優のネームバリューと印象を保つために、寺井啓喜の人物像をマイルドにしたのでしょうか。

もう昔所属していた事務所の制約なんてものもないはずだろうと思うのですが、それはわたしが稲垣吾郎さんのファンではない門外漢であるから感じることなのかもしれません。

 

 

でも、『泰希さんに風船を膨らませるよう頼まれたけど全く全然膨らますことができない様』の演技は非常によかったと思います。

寺井啓喜さんのような『自分はなんでも知っていて、なんでもできる』と勘違いしている人が個人的に好きでは無いので、あの場面は非常に滑稽でした。

 

 

あと、息子の泰希さんから動画を見せられている朝食の場面以外、寺井啓喜さんの食べているものはスプーンを用いて食べるものでした。

カレーとオムライス。

上記の料理は、口に運ぶ分をスプーンで切り取る必要がありますが、この演出?《 "この料理" を選んだ理由》って、家族からの『意見』を断絶・一刀両断するという意図もあったりするんでしょうか。

スプーンと食器がぶつかる時の音で《不機嫌を表現》できますしね。まったくしょうもない意思表示だとは思いますけれど。

 

またオムライスが、現代の『ふわとろオムライス』ではなく、昔ながらの『薄玉子に包んだもの』であることも、寺井啓喜という人物が古い価値観にしがみついていることを案に示しているのかもしれません。深読みだと思いますけどね。

 

 

そういえば、稲垣吾郎さんって左利きだったんですね。

左利きならマイノリティ側の氣持ちも少しくらいは知っているんじゃないのかよ。右利きの無自覺なエゴとかも体験しているでしょうに。

もちろん左利き全員が『右利きの無自覺なエゴ』を知っているということでは無いのだろうけど。

 

原作小説において、寺井啓喜さんは "涙" が一つのキーワードになりますが、そのキーワードの代わりに『左利き』を用いて、そのための稲垣吾郎さんを起用したのであれば、感服いたしますね。

 

 

『顔の筋肉が重力に負ける』は《小説でしか成立しない表現》だったのか

この映画に期待した部分の一つとして、原作で描かれていた『顔の筋肉が重力に負ける』という表現をどう映像化するか、がありました。

 

泰希さんの意向を頭ごなしに否定する寺井啓喜さんに対して、「この人には何を言っても無駄だ」と諦める場面に、『顔の筋肉が重力に負ける』という表現が用いられます。

この《『顔の筋肉が重力に負ける』という表現》って映像化した時にどうなるのか、って氣になっていたので、結構樂しみにしていたのですが、なかった。

 

寺井泰希という人物を演じていた子役の方を見た時に「あッ!この人はうまく『顔の筋肉が重力に負ける』演技をしてくれそう!」と思ったのですが、なかった。

 

確かに、落語でいうところの『松の木にお粥ぶっかけたような顔』と同じような《各々の脳内で完成する様》の種別だと思います。『顔の筋肉が重力に負ける顔』って。

 

でも映像化してほしかったよなぁ、とは思います。

 

やっぱり小説でしか表現できない表現方法なのかしら。

 

 

と、思ったのですが、まさかまさかの桐生夏月さんの役を演じる新垣結衣さんが、『顔の筋肉が重力に負けている』表情をしておりました。

 

職場で西山修さんと再会してしまい、中學時代の同級生の結婚式に無理やり誘われる際の表情だったので、泰希さんとはシチュエーションが違うのですが、強引に結婚式に誘われて感情を虚無にしている表情は、なんというか、『顔の筋肉が重力に負ける』の映像化にふさわしいものだったと感じます。

 

あと原作では、西山修さんの体型が『學生時代に部活で身につけた筋肉がそのまま脂肪に変わった体型』と表現されていたのですが、わたしにはいまいち想像ができませんでした。

ですが、今回の映画で西山修さん役の俳優さんの体型を見て大変合点がいきました。

「なるほどな、たしかに」という感慨です。

 

 

あと、初登場時の桐生夏月さんは本当に表情が死んでいて『人生に希望なんて見出せないと思っている人』の顔をしていたのですが、結婚式の場面では『感情の血が通っている顔』をしていたのは、さすが女優さんだな、さすがあれだけCMに出ているだけあるなと思いました。

原作でも「久しぶりによそ行きのメイクと服装をした」的な描かれ方をしていたので、それを大変上手に咀嚼して発露されていたな、と思います。何を偉そうに。

 

なのですが、佐々木佳道さんのお家の窓ガラスを割ったのは、「なんで?」と思いました。

それは個人的なエゴじゃないの?と感じます。

とはいえ、桐生夏月さんの感情を思えば仕方ない部分もあるのか?とは思います。

 

 

美しい場面

この『正欲』という作品は水が重要なキーワードになりますが、この水と触れ合う場面は映像の方がよかった、というか、どうしても文章からの想像では勝てないと思います。

水というのは流動的で、人知の外にあるものです。

ですが、小説から想像するものに関しては、読み手がこれまでの記憶からモンタージュしてイメージするしかありません。

『想像』というもの自体、想像をするということの時点で人知の内にあるものとなってしまうため、水の場面は確実に映像の方がよかったなと思います。

 

登場人物の想いを鑑みた上でも、映像的にも美しい場面ですしね。

 

 

桐生夏月さんの中學時代のある出来事のシーンも美しかったし、あの場で同志を見つけたことで心に光が宿った表情(廊下で見送る場面)、中學時代の桐生夏月さんを演じられてた女優さんの表情もとてもよかったし。

 

授業中での『とある事件で騒ぐ世間』とは居場所無げにしている様子もよかった。

マジョリティの無自覺なエゴって嫌だよな。

 

 

物語の後半にて、桐生夏月さんと佐々木佳道さんとが擬似行為を試みるところも美しい場面だとは思いますが、あの場面は佐々木佳道さんの想いや思考が最重要であると感じるので、どうしても小説の方に軍配が上がってしまうかな。と思います。勝ち負けじゃねえよ。

でも、あの場面での『網を編んでいる感じ』は良いですよね。

 

 

ダンス=擬態

『正欲』という作品の登場人物は、寺井啓喜さん以外が少なからず擬態をして生きております。

 

諸橋大也さんも『擬態をして生きている人』の一人ではありますが、その擬態表現はダンスとなっておりました。

 

ダンスというパフォーマンスは、グループ内でマジョリティ的な行動をしないといけないのだろうと門外漢は感じます。

グループが大所帯になればなるほど、違う動きをしている人が目立ってしまう。

 

だから、マジョリティの中で《マジョリティを演じる》ということの視覺的表現として、ダンスが用いられていたのかな、と思い至りました。

 

 

思えば、諸橋大也さんがダンスを好きだったのかについては不明になりますが、 (『好きなこと』と仮定して)『好きなこと』をしている場所でも、擬態をしないと生活すらままならなくなる場合がある、というのは心労が大きいのでは無いのか。と感じます。

 

 

あと、深読みだとは思いますが、『ダンス=マジョリティのシンボル』として作品に登場させたのだとすれば、諸橋大也さんが所属していたダンスグループの『スペード』という名前も意図的なんだろうな、と思います。

スペードというスートは剣を表しているそうなので、"攻撃" ということなのかな、と思います。

 

 

八重子の扱いが雑

さて、『正欲』は主要人物が複数登場いたしますが、そのうちの一人である神戸八重子さんの映画での扱いが雑じゃない?とは、どうしても思いました。

 

原作小説では、まず寺井啓喜さん、桐生夏月さん、神戸八重子さん三人の個人パートが順番に展開されます。

 

主に神戸八重子さんの物語は、大學の學園祭でダイバーシティフェスを企画、成功させるまでとその後の話になりますが、その中で神戸八重子さんがどうして男性に対して恐怖心を持つに至ったのかも書いております。

 

しかし、映画版は特にそこの理由が明かされないまま、諸橋大也さんとの激しい口論も無いまま、出番が終わります。

 

合宿準備?の講堂での軽い言い合いはありますが、原作ではあの後に神戸八重子さんが諸橋大也さんの家の前に居たことで大口論が発生します。

この口論の部分こそが『神戸八重子という人のお話』を強く光を放つものにしているのに、それをカットしてしまったら、それこそ諸橋大也さんを引き立たせるための一要素でしかないようになってしまいます。

あの大口論があったからこそ、諸橋大也さんの今後にも変化が起きるかもしれないというのに、それを切ってしまうとは。とは思いますが、映画という時間の尺や、主要俳優を稲垣吾郎さんと新垣結衣さんの二本柱で行こうとなった際の都合なんかを考えたら、確かにそもそも物語の全部を映像化するのは無理なのかなー、とも思いました。原作500p近くあるもんなー。

あと、どこを削ってどこを映像化するなどの取捨選択をして組み立て直すのも、原作がある作品を映画化する時の醍醐味でもあると思うし、全部忠実に再現するのならドラマでよくね、ってなるのかもな。

 

とはいえ、この『正欲』を映画一本にまとめるのは無理じゃね、と思いますね。せめて前後編。

 

一消費者が偉そうにのうのうと。

 

 

原作小説のある映画は、原作を読まずに観た方が良いのかも

昨年に公開された『ある男』しかり、今回の『正欲』しかり、原作の持っている力が強いために、映画を観たらあんまりだな、と思うことが多い氣がいたします。

それも「原作を読んでから映画を鑑賞しているため」ということも要因としてあるのでしょう。

どうしても映画って《要約》の作業は入っちゃうし(要約された部分が重要だったりするし)。

 

思えば、『朝が来る』は映画を鑑賞したのちに原作を読みましたが、その時は原作の方が確実に良かった、とは思いませんでしたし。

 

 

小説が好きな人間からすると、映画よりも原作小説の方がよいと思ってしまいます。

それは、小説の方が作者の価値観が反映されているように感じるためで、映画ではその『作者の価値観』がごっそり抜けおちているように思います。

そのため、映画よりも原作小説、と思っていたのですが、その『価値観』というのは映画でも同じでは無いか、と思い出したのが今です。

小説は、文章で自身の価値観を表現するのと同じで、映画監督は映像や音樂で自身の価値観を表現する。

それだけであり、そのことを知らなかっただけなのでしょう。お恥ずかしい限りです。

 

『正欲』は、結構静かな作品というか、BGMというものがほとんど用いられていません。

そういった《静》の要素などから、監督なりの表現がされていたのでしょうね (ポップコーンを漁る音すらも目立ってしまうほど静かで、Mサイズで購入した、いやいやポップコーンを購入したことすら後悔しました。静かな空間と状況で鑑賞したいな、と思ったりします)。

 

 

 

今後だと重松清さんの『木曜日の子ども』なんかも映画化しそうですよね。

 

ところでわたしは、小説でしか実現不可能なトリック?を使った作品が好きみたいです。

伊坂幸太郎さんの『ホワイトラビット』とか、道尾秀介さんの『向日葵の咲かない夏』みたいな類のものです。

 

『木曜日の子ども』は全くの未読なので、どんな作品なのか、樂しみです。

 

そういえば宇野祥平さんが出演されていたんですね。

『罪の声』で初めて存じ上げた俳優さんですが、エンドロールで見るまで氣が付きませんでした。

宇野祥平さんは『演技派』で役を演じきるため、エンドロールを見るまでわからない」と表現されているのを聞いたことがありますが、このことか。と感じ入りました。

 

 

桐生夏月さんが屋上の駐車場を歩いている時、背景に撮影場所であるモールの企業名が入った看板が十秒くらい?映りましたが、さすがだなぁ、と思いました。

 

 

 

小説

さて、ここからは原作小説の感想です。

ここまでで6000字近くも書いてしまいました。

 

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多数派による原罪を告発する作品

まず、この小説を読み終わって思ったのは『「世の中にはいろんな人がいるなぁ」や「考えさせられた」などどいった《クソ凡庸でつまらない言葉》で判断してはいけない』ということです。

 

その理由は、一度読んだ程度で "理解したつもり" になるのでは駄目な、歳を取るたびに読み直してじっくりと身体に染み込ませる必要のある、染み込ませないといけない作品だからだと感じるからです。あと普段からこれくらい考えとけよ。

 

そうでないと、作中に出てきた藤原さんなどの人物や、今いる、そして過去にいた様々な人たちに対しての冒涜になってしまいます。

 

だから、『自分と相手は違う』や『それぞれの正義がある』などの至極当然のこと(『その程度のこと、とっくに知っていろよ』の範疇のこと)を、より心の中へ浸透させるために、歳をとった折々に読む必要なあると思うのです。

 

 

さて、『多数派による原罪を告発する』との題ですが、わたしは作品を読んでいて何度かハッとする(またはぐにゃりと苦笑する)場面がありました。

それが、諸橋大也さんの感じている『"男性の" ホモソーシャルにおける鎖と同調圧力』と佐々木佳道さんが導き出した『多数派特有のアイデンティティ・答え』です。

桐生夏月さんが『大晦日に経験した悲劇』『若いということ』にも告発の要素が含まれておりますが、あれに関しては、(あそこまでひどくはないものの)似たようなものを経験しているので特に驚きはない、「思い出したくなかった同級生の顔をふと思い出した」程度の感慨でした。

 

上記の二つは、人間というものが氣付かないようにしていた、あるいは氣付いたとしても見ないようにしていたことを、告発しているように思います。

『正欲』の特設サイトにて、作家の高橋源一郎さんが「みんなのヒミツ、暴かれた。朝井さん、やっちまったね。どうなっても知らないから」と感想を寄せていますが、この《ヒミツ》こそ上記した罪ことであり、『やっちまった』は原罪の告発であると考えています。

 

 

 

 

桐生夏月さんが「とっておきの秘密を自分で勝手に晒しておいて、それに見合ったものが提示されなかったら怒り狂う」と表現したのと同じようなこと(自分の意見を口にしたあと、「この人はどういう反応をするんだろう」と "氣にしないように氣にしている素振り" をすること。てめえの意見くらいてめえで世話しろ。他人に同意してもらおうとするんじゃねえよ)を、わたしも思っているので、個人的にはその告発もあったのが痛快でした。

 

 

同じ穴の狢ども

ちなみに、わたしはどちらかというと佐々木佳道さんや桐生夏月さんの側に属する人間なので、この作品を読んでいても特に殴られる感覺や鼻を明かされる感覺はなく、「あぁ、そうそう。人間ってそうだよね」と思っておりました。

 

『ジャムパン』のくだりと似たようなことがあっても「どうしてこんなことで楽しめる/騒げるのだ」と思っていましたし、場合によっては愕然とすることもありました(阿保らしすぎて)。

たくさんの異性が載っている雑誌などで、『どれが一番タイプか』などの遊びを興じている様なども、わたしは「その行いは、そこの載っている人に失礼になるかも、とは思ったりしないだろうのか」と不思議を覺え、且つ昏い氣持ちになります。

 

そもそも人間を善いものと思いすぎでしょう。いや、これも見ないようにすることの一つなんだろうな、と感じます。同族ですしね。

 

 

そういったところから、わたしは佐々木佳道さんの側に属するものかな、と思う(「地球へ留學しているような感覺」というのもよく知っているし)のですが、同時に、佐々木佳道さんの働く会社の上司である豊橋さん的な部分も持ち合わせているように思え、また昏いモヤモヤを抱えそうになります。

でも田吉さんのような性格の人は嫌いです。

 

 

とはいっても、わたしはこの作品で主題として登場するような嗜好は持っておらず、言うとしても「アブノーマル止まり」です。

 

そもそも、わたしとしては『異常』や『特殊』という言葉が付いていること自体がよく無いと思っております。

何かを「異常!」と断定してしまうと、その断定されたものではないものは正常となる。無意識で。

作中で描かれていたことかは不明ですが、異常や正常というのは、一人称でしか存在しないはずです。

何故ならば、異常か正常かを判断するのは、自分という個人だから、です。

 

しかし、ある個人が「お前は異常だ!」と断定したことであっても、その『異常!』と断定された要素を持っている人からすると、それは正常でしかないのではないでしょうか。

 

 

この『異常/正常を断定する行い』はいろんな問題に派生します。

 

身近なところでいうと、戰爭なんてその最たるものでしょう。

ある國が「我が國にとって、その行いは異常である!!」と発言した。それに対し「てめえには異常かも知んねえけどこっちとしては正常なんだわ」と反論した。

よって、反発が起きる、ということもあり得ます(あまりに短絡的に表現しましたが)。

 

他のところで言えば、いつぞやに発生した相模原の事件もそう。

「障害をもっているということは、異常だ。だから殺した」という意見は、世間では非道だと批判・糾弾されていますが、やっていることの本質は『異常だから排除する』

ということと同じ。つまり、多数派が少数派に対して行なっていること、潰しているということと同義なのではないでしょうか。

 

そして、その異常か、正常かを判断するのは、社会であったりもしますが、その社会を形作るのは、多数派。つまりマジョリティです。

 

いかがでしょうか、『マジョリティのエゴ』が脳内で顕在化してきましたでしょうか。

 

 

桐生夏月さんが思っていた「これは異常で、どうしてこれは異常じゃないのか」という問いは、わたしも思ったことはありますし。

結局は『 "それら" がマジョリティか否か』でしかないのでしょうけどね。

 

 

まったく阿呆らしいばかりです。

 

 

『多様性』という一神教

わたしは以前に、多様性へ言及を行なっております。

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要約すれば『《多様性》という言葉に一神教的になっている』ということです。

 

そもそも、『多様性を認める』という言葉自体にも不満があります。

その不満とは、諸橋大也さんが言及していた通りの「認めるじゃねえだろ」というところなのですが、《多様性を認める》=《少数派を受け入れる》となりますが、まずなんで受け入れられないといけないの?ということです。

ただ生きているだけなのに、なぜ『認められる必要』があるのか。

 

 

ここの『多様性を認める』という言葉自体にも、多数派によるエゴが隠れております。

「認める」という言葉には、「自分は認める側で間違いがない」という自負が内包されていると思われます。なぜ《認める側》なのかというと、多数派であるからに違いないでしょう。

欺瞞です。クソです。

 

 

この項の題名とした『多様性の一神教性』ですが、これにも二つの意味があります。

一つは、世間様で言われているような、非常に表面的な多様性。

多くの人間が「あーはいはい、多様性ね」と認識している類のものです。

 

そしてもう一つが、『多様性という枠に入れたことで一神教的になるもの』という意味です。

なんか、多様性というと『《性的マイノリティ》という言葉で区分されるもの』というように認識されている方が多くいらっしゃるように感じますが、その実、マイノリティを『《性的マイノリティ》という言葉で区分されるものだけ』だと思っておられる方もかなりたくさんいると感じます。

この作品の感想でも「マイノリティにすら属することができない」と評している方も散見しますが、ほとほと阿保じゃないのかと思います。

 

マイノリティとは、ゲイやアセクシャルなどのラベルが貼られているものだけではない。

その派閥に名前をつけたことで、その存在を認識する、というのはとても一神教的であると感じます。

 

とどのつまり、『多様性を認める』だのという表面だけ、マイノリティというレッテルだけを見て、その本質に目を向けていないだけなのではないでしょうか。

 

てめーが認識していなくても、世界にはいろんな趣味嗜好、存在がいるんだよ。それくらい知ってろ。

 

 

自然で生きる植物などは、多様を具現化している(とわたしは思っている)存在ですが、そんなみなさまに「umm...君は虫に食われているからだめだね!認めない!」などと言ったところで、その植物は存在しているのですよ。

認める・認めないなんて西洋的な思考に脳を支配されるの、そろそろお止しになられたらいかがなのでしょうか。

 

認めるのではなく、知るだけ。知ったものを判断や良い悪いと判定しない、それだけでよいとわたしは思います。

知らねえよ。

 

 

ですが、上記したようなこと・知られることすらも望まない方もいらっしゃるのだろうと思います。

そんな方に対して、「知られるように!」しようとしているわたしもまたエゴの化身であるのでしょうし、醜い人間です。

ひっそりと生きたい方もいる。

知ってほしいと思っている人だけに耳を傾けたので良い。

 

 

わたしは "多様性" というよりも共存、共生をしたいのかもしれないな。

 

 

マイノリティには本当は名前なんてないのかも

ここまで書いてきたことですが、世間がラベリングした『いわゆるマイノリティ』には佐々木佳道さんらは属しません。

 

『正欲』を読んで思ったことの一つで「本当は主義や嗜好に名前なんてないのかも」というのがあります。

"マイノリティに属すことすらできない" という感想も、『マイノリティという名前があること』で生まれたわけですし、マイノリティ自体もいろんな志向した嗜好に名前というラベルをつけたことで生まれた現象です。

ですが、個人個人は一人で生きていて、その個人からすれば、その性格やその嗜好なんてものは『正常』なので、名前をつける必要がない。

 

本当は一人で生きている。

それなら、マイノリティとなる。

マイノリティには、本当は名前なんてないのかもしれません。

 

 

《名前がつく》=《宗教化する可能性が生まれる》ということなのか?とも思ったのですが、またいつか機会があったら書くこともあるでしょう。

 

 

『あるがまま』とかいう体裁のよい盲信語句

この『正欲』では、最後にとある事件が紹介されます。

その事件の下手人となった人は「世の中に恨みがあった」と話しているそうですが、物語を読んでいたらそう思ってしまうのも仕方ないよな、とは、どうしても思ってしまいます。

 

よく「多様性!ダイバーシティな生き方!」などと言われる場合に、『あるがままに生きよう!』という文句がくっついていることがあります。

しかし、"その人" の『あるがまま』を表現しても、嗤われたり、マジョリティ用の言語に捻じ曲げられたりする場合がある。

 

そのわりに「多様性を認められる世界に!あるがままに生きよう!」などと宣伝されてしまうと、それは恨みがましく思ってしまっても仕方がないよな、という感想にはなります。

 

 

悲しい。

いや、わたしは門外漢でしかないので、当事者からすると腑が煮えくり変えるほど憎らしい言葉なのかもしれません。

 

しかし、まだ救いがあるようにも感じます。

それは万引きを行なった主婦の方のお話です。

前述の通り、映画では『ただの万引きをした主婦』としか描かれていませんでしたが、小説では『どうして万引きをするに至ったのか』という理由まで書かれています。

 

なんというか、理由を洗って具に聴いていくしかないんじゃないのかと思います。

たしかに難しい部分もあると思いますけれど。

 

鬼滅の刃』などもそうですが、この数年で『その人はどうしてそうなったのか』をちゃんと描く作品が増えてきたように感じます。

これは、個人的にかなり嬉しい。

 

生来のものであると『理由なきもの』となるので、《理由を洗う》という作業が難しいものになるだろうと感じますが、起きたことの原因が生来のものであることの場合は聴くことができる。

 

非常に病的な社会だと思いますが、具に相手と対話するなどをしていったら、少しくらいは良い方に転がるのではないでしょうか。

自業自得の論理で切り捨てるのは、あまりに異常を排除するマジョリティ社会すぎますしね。

 

 

 

ちなみに、寺井啓喜さんの性格は嫌いですが、検事としての考え方・職業人としての考え方は首肯する部分も多くあります。

とはいえ、法律もマジョリティ向けに作られたものなのですけどね。

 

 

時代という壁に楔を打ち込んで罅を入れるような作品

さぁ、長かった。

これで小説版の感想も最後の項です。

 

個人的にこの『正欲』という作品は「人生ベスト!」というほどの作品では、現時点ではありませんが、映画の『ムーンライト』のようなじんわりと重要な作品とはなるように感じます。

 

この項の題名を『時代という壁に楔を打ち込んで罅を入れるような作品』にした理由ですが、最後の方の場面にて、佐々木佳道さんと桐生夏月さんがNOを提示したからです。

あの意志表示は、時代という連綿と揺蕩うてきた頑強な壁に、鋭い楔を打ち込んで罅を入れたと感じました。

その罅は、多くの読者の意識にも大きく入ったと思います。

 

 

個人的には日常の延長線上の話だなーと思うくらいだったので、別に読む前にも戻れるのですが、『人生において重要な作品となった』などといっている以上、読む前に戻れなくなっているのでしょうね。

 

 

終わりに。〜『考えること』があると、他者に目はいかない〜

なーげえ。

今11,000字です。

 

この感想は映画を観終わってから書いているのですが、上映直後、電車で帰路についている時、映画についての想いを色々と考えておりました。思考は生ものですしね。

 

 

いきなりですが、わたしはのべつまくなし携帯電話を触っている人をよく思っておりません。

彼ら彼女らって自分で考えずに携帯電話に支配されているように思えてしまうからです。

 

いつもなら「いっつも携帯電話ばっかり見て阿保ちゃうか」の一文を脳に浮かべたりしているのですが、『正欲』の映画を観たあとは全然氣にならなかったんですね。

というよりも、どうでもよかった。

 

これはつまり、その時に考えることがあったから、いつも氣になることが氣にならなかった、ということなのでしょう。

ということは、いつもわたしは暇をしているということです。

阿保ちゃうか、と思っている、その人自身も阿保。という好例ですね。

 

 

では、ここまで書いてきたなっげえ感想もここで御開きといたします。

ここまでお読みいただいた方がございましたなら、感謝いたします。

 

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )