頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

こわい

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

人(というより生物全て)はいつ死ぬかわかりません。

昨日会った人が、一時間前に話した人が、今この時には生きていない、なんてことはいつにおいてもあることです。

 

これは今までもよく当ブログで主張してきたことです。

 

この『メメントモリ』の感覺を常に忘れず生きようとは心に置いていることですが、最近思うことがあります。

 

人はいつ死ぬかわからない。

それは自分もそうだし、友人や家族なども同様である。

友人や親に話したいことや、あの時に言えなかったこと、謝らないといけないことってものもあったりします。

しかし「生物はいつ死ぬかわからない」ということは、話せず仕舞いで相手が死ぬなんてこともあり得るわけです。

 

それが恐い。非常に恐い。

 

話したかったこと、話さなければいけなかったこと、を話せないまま死別する。

とても後悔するのではないか、するであろうから、恐い。

 

別に自分が死んだ場合を考えても、そこまで特段の後悔と恐怖は感じないのですが、相手が死んだ場合の後悔と恐怖は計り知れないほどに大きいです。

それは『言うタイミングがあったけど、自分のさじ加減で言わなかったから』なのでしょう。

自分自身の決定が、先一生の後悔になることが恐ろしいのでしょう。

 

だから『言わなきゃいけないこと』や『謝らないといけないこと』は、積極的に解消しておきたい。

もちろん恥ずかしいなんていった感情は起こりますが、恥ずかしいという一時の感情で先一生の後悔を背負うのは耐えられない。

 

オチはないです。

 

この恐怖はなぜ起こったのだろうか?

地球上においての転生が今世で最後とかだから、カルマを残さないようにしていたりするのでしょうか。

 

 

後悔は恐いので、これからも後悔をしないように解消して、正直に生きます。

 

ブロッコリーが美味しい時期になりました。

塩茹でにしましょう。

 

ありがとうございました。