頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

言葉は看板

 

ご無沙汰しております。

本日も閲覧ありがとうございます。

 

今回は新書的な書き方をしてみました。

「タイトルに結論を書いて、内容でタイトルの意味を説明していく」というやり方です。

お付き合いいただけると幸いです( ¨̮ )

 

 

 

 

 

言葉は看板

 

最近しみじみと「言葉は看板だな」と感じました。

とてもお腹が空いていて、今にも倒れそうだという人がいた場合、レストランを前にしている状況なのにわざわざ車屋さんに行ったりはしないはずです。

 

お腹が空いていて、ファストフードのお店と割烹料理屋さんが目の前にあった場合、ファストフードが大好きな人は割烹料理のお店には入らないはずです。

 

なにが言いたいかというと、人は自分が所属しているグループに帰属するものだということです。

 

本屋さんが好きで喫茶店などでゆっくり本を読むのが好きな人は、パチンコなどの騒々しい場所には行かないでしょうし、クラブが好きな「チャラい」と形容されるような人は茶道や瞑想などの静かな活動はしないはずです。

 

 

先述のご飯屋さんの話でも、ファストフードや割烹料理、イタリアンや中華料理なども看板ありきで「そのお店がどういった料理を提供しているか」を、利用する側のわたしたちは判断します。

 

はじめに看板があった ですね。

 

ご飯屋さんだけでなく、人は様々なお店も看板を見て判断します。

「『〇〇 CLOTHING』と書いてあるからアパレル関係であろう」であるとか、「『〇〇diner』と書いてあるから食事処であろう。しかもアメリカのイメージがある料理がでてくるのであろうな」と判断します。

むしろ、消費者として活動するにおいては看板だけから判断しなければならず、わかりにくい場合は文句すら言いかねない始末です。

 

 

さて、一方人はどうでしょうか?

人は言語というトリックを覚えた結果、感情表現も自分の考えを伝える場合も言語を利用しています。

その言語があるから「その人はどういうことを考えており、基本理念がどこにあるのか。なにを大事にしているのか」をうかがい知ることができます。

 

その「話す言葉に同調して」人は集まります。

前述の話と同じで、本が好きな人には同じく本が好きな人が集まりますし、ギャンブルが好きな人はギャンブル好きが集まりますし、クラブが好きな人は同じような人同士で集まります。

同じコミュニティに属しているから話す言葉も似通ってきます。

 

スラングミームが多くあるコミュニティでは、いかに共通のスラングを多く使うかで、そのコミュニティでうまく立ち回れるかどうかが変わると思っています。

今のスラングでいうと「エモい」や「ぴえん」といったものがそうだと思います。

 

そういった特定の場でしか伝わらない言葉をいかに流暢に使えるかでグループの中での過ごし方が変化する。

 

しかし、そういったスラングや「すぐに略する文化(タピるなど)」に対して強い拒否感を持つわたしとしては、スラングばかりの文章を見ると非常に莫迦っぽく見えてしまいます。口汚く形容すると「知能が低そうな文章だな」と思います。

 

そういう方々とは最初から話が合わないんだろうな、と思ってしまうのでわたしは初めから近づかないのですが、これは言葉が看板になっているということなのではないでしょうか?

 

 

御誂え向きな言葉

 

「言葉は看板」という主張で御誂え向きな言葉があります。

『男性の同性愛者に対して使う"ホモ"という言葉』です。

大前提、認知をしていない人が多いようなのですが、男性の同性愛者へ対して使う「ホモ」というのは蔑称です。

ゲイという推奨されている呼称があります。

 

英語で異性愛は『ヘテロセクシャル(heterosexual)』、同性愛は『ホモセクシャル(homosexual)』というので「ただ同性愛の英語を使ってるだけだっつーの 笑」と詭弁を展開する方も多いかもしれません。

だったらレズビアンの方に対しても"ホモ"と言えよ。

 

レズビアンの方に対してはレズビアンというのに、ゲイの方に対してだけ"ホモ"という言葉を使うのは他意が含まれていると思われても仕方ないのではないでしょうか?

 

 

他にもインターネット(2ch)のスラングが多いですが、『老害』や『アスペ』、『ガイジ』なんてのもあります。

老害』は言い得て妙だなと感じる部分は多いですが、実生活で使うのとは別の話です。

『ガイジ』は「障害児」を揶揄し侮った蔑称です。

この言葉に関しては言語道断で、実生活はおろかネットの世界でも使うべきではないとわたしは強く思います。

あまりに相手や、相手以外の人を軽視しすぎている。

 

「ホモ」や「老害」、「ガイジ」を日常会話で用いている方と先の人生も共にしたいでしょうか?

わたしの場合は絶対に嫌です。

 

 

言葉も積もる

 

 

言葉は看板だと話してきましたが、と同時に「塵も積もれば山となる」的な側面もあるなと感じます。

 

黒人(アフリカンアメリカン)の友人がいたとして、その友人へ「クロンボ」や「ニグロ」という言葉を愛称として使っていた(どちらの呼び方も蔑称ですので絶対に使ってはいけません)。

そんな関係がある程度続いた頃に「ちょっとこの用事済ましといて(ちょっと手が離せないから申し訳ないけどお願いできないかな、という前置きなしで)」と、ふと頼んだことがきっかけで、黒人の友人が「いつもニグロとか言ってくるけど、お前人のこと使用人か奴隷とでも思ってんのか」と激怒されることがあるかもしれません。

 

愛称として言っていた側は愛称のつもりでも、言われている側は必ずしも好意的に取るわけではない、という例えですが、これも言葉が引き起こした結果です。

 

差別意識が含まれた言葉」を日常的に使う人は、人間関係で常に「この人とは関係を考え直した方がいいかもしれないポイント」を自ら貯めていて、それが臨界点に達した人は何も言わずそっと離れていきます

「ちょっと使う言葉を見直した方がいいんじゃないかな」なんて、よっぽどの間柄でない限り相手に提言したりしません。そっと関係を解消するんです。

 

その結果「差別意識が含まれた言葉を多用する人は、差別意識が含まれた言葉を多用する人」と集まることになりますし、「綺麗な言葉遣いを心掛けている人の周りには、綺麗な言葉遣いを心掛けている人」が集まることになります。

 

これは因果応報とも言いますし、類は友を呼ぶとも言うのでしょう。

 

この同じ人が集まるのも、その人が発した言葉が看板となり、その看板を見て同じ看板を持った人が集まったのでしょう。

 

わたしは乱暴な言葉を使う人の近くに居たいとは一切思いません。

 

 

 

話し方と使う言葉

 

 

「この前行った店で接客にきた店員が、ずっとこっちを舐めた態度とってたからマジでムカついた」

 

という文章も、話し方と使う言葉次第で、

 

「この間入ったお店で接客についてくれた店員さんが、終始こちらを侮った態度をしていて本当に不快だった」

 

と言い換えることができます。

 

どちらの方が理性的、理知的に感じますでしょうか。

前者の方が親しみやすくて好きと感じられるのならそれもいいと思います( ¨̮ )

身の振り方はご自身で決定されてください。その人の生ですからね( ¨̮ )

 

 

言葉は自分を創っていますよ( ¨̮ )

話していることはブーメランで、言葉は看板です( ¨̮ )

 

以上、自分への戒めも込めて。

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

 

 

 

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