頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇 鑑賞後の感想

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

4/1に『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を観に行きました。

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嘘ではないです。

 

ですので、今回は映画を鑑賞した感想を書き連ねていきます。

 

 

 

 

 

進み出すための破壊

 

物語は「新劇・破」のようにマリの出撃待ちから始まり、ゲンドウ&冬月が差し向けた使徒もどき?を打ち破るシーンへ移行します。

 

戦いの舞台になっているのは花の都パリ。見渡す限り真っ赤に染まった街を、マリのエヴァ使徒もどきが壊して回ります。

エッフェル塔が壊れて、その塔ですらマリが武器にしようとしますが(そういえばその所作も、破でゼルエルにミサイルを持って特攻した零号機のオマージュだった氣がします)、その様を観ていて「庵野さんは『自分でこの世界を壊してやる』とかいう心境だったりするのかしら。それだとちょっとなあ…」なんて推察していました。

 

全部観た後で思い返すと、創造の為の破壊(維持を続けてきた自分、過去を破壊して、新しい自分を創造する。創造するスペースを作るための破壊)だったんだなと解釈しました。

 

 

 

「いい加減卒業しろ」

シーンが変わってシンジ・アスカ・レイの「スタンド・バイ・ミー

どういう流れだったか細かいことは忘れましたが(車に乗るんだったか?)、ある村に行きます。

 

そこでまさかのトウジ登場!

本当にほっとしました。「Q」にあったあんなホラー演出されたら、死んじゃったと思ってしまうじゃないですか。

だから本当によかった。

 

シン・エヴァの物語はQの最後でシンジが引き起こしたニアサードインパクトから14年後の世界だということがわかります。

 

トウジは結婚して子どもを授かっていて、村のみんなからも医者として頼りにされています。

ケンスケも「何でも屋」として人のためになることを行って生活している。

これはあれですね。「自分が思っていた以上に周りの友人が成長し大人になっていてあせるやつ」です。

そこから怒涛のように「大人になる(現実を見る)ちゅうこと」をトウジが嫌味や叱責を一切含むことなくシンジに話します。

 

このシーンで「庵野さんほんまにエヴァを終わらせにきてる」と思いました。

と同時にそういった「大人になる」ことから逃げた人が行き着いた先が、これまでのエヴァシリーズやアニメ文化があると思っているので(偏見)、「いい加減卒業しろよ」と庵野さん本人がファンに語りかけているこの構図は、賛否両論を産むのではないかと思いました。

 

 

 

線路 電線 妊娠

トウジがシンジに話すシーンでは二人が村を長尺で歩きます。

そのシーンで電線や線路のカットが多く差し込まれます。

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その線路や電線の意味を考えてみたとき「知らない人にインフラや愛みたいなものを橋渡しする」ということだと思い至りました。

トウジ(庵野さん)は「人は、生物は、自分より下の世代がこの世界をちゃんと生きていけるために、世界をより良い状態にしてそれを保たねばならない」ということを言いたいのだと思います。

 

シンジが着る服も、トウジがクラスメイトだった当時に着ていた上着ですよね。

「お下がり」も下の世代への橋渡しです。

 

村に帰った際、妊婦さんに話しかけられたトウジは「もうすぐお産やから無理したらあかんで」と妊婦さんへ言います。

トウジ自身にも子どもを授かっており、列車の下をねぐらにしている猫さんも妊娠しています。おたまじゃくしが田んぼを泳ぐシーンも次の世代ということですよね。

綾波は村のおばさま方と田植えをしますが、田植えも子を生かすために育む行為で、田植えをすることによって生態系にも影響が生じます。

 

妊娠していた猫さんはちゃんとお産を終え、母子でスクリーンを横切るシーンが描かれます。

庵野さんは「今なお自分が生きている、生かされているということは、これまで自分がその愛を享受していたようにの世代、孫の世代にも自分の愛を教授していくのが定められているからじゃないか?」と言いたいのだとわたしは感じました。

 

しかし、「エヴァは傷ついた自分に寄り添ってくれる作品だ」と思っている人からすれば、『見たくなかった部分』を強制的に見せられた。しかも好きだった人に。となって荒れたりすんじゃねえかなぁ…。と思ったりします。

 

そういえばミサトさんと加持さんの子ども(加持リョウジくん)がミサトさんに贈る「すいか(Watermelon)」も『次の世代(種)を内包した実(自分)』ですね。

 

 

 

エリザベスカラー

シンジが村へ着いた時にトウジと一緒に現れるゴールデンレトリバー

その子がエリザベスカラーを着けています。

エリザベスカラーは犬猫が怪我をしたり手術をした際に、患部を舐めて治癒の妨げにならないようにする為に装着するものです。

 

シンジが村を去る決断をする時には、ゴールデンのエリザベスカラーは外れています。

これはシンジ自身の心の傷が癒えたということの示唆でしょう。

 

 

 

オトナ帝国 スパイダーバース ミュウツーの逆襲

戦闘などのアクションシーンはあまり興味がないので端折りますね。

あの大軍感に『崖の上のポニョ』を思い出しました。

 

艦隊戦時に並べるゲンドウの御託に対し「エゴかよ!」とピンク髪の女の子(北上ミドリ)が毒づきますね。

わたしは『オトナ帝国』のケンや『スパイダーバース』のキングピン、『ミュウツーの逆襲』のミュウツーを造った科學者を思い出しました。

 

碇ユイという最愛の人を失い、立ち直れなかったゲンドウは人類補完計画というプロジェクトを用いることによってユイと再会しようとする。たとえ世界が崩壊しても。

 

スパイダーバースのキングピンですね〜。

 

ゲンドウと話をしようとシンジは攻撃をしかけますが、太刀打ちできません。

そんなシンジに対し「まだ力でどうにかしようというのか。それだからまだ子どもなんだ。シンジ」と言いますが、これは「投影性同一視」でしょうね。

 

自分と同じ部分が相手にもあるが、それを責めることにより自分は(責めている立場なので)相手よりも優れていると思い込もうとする心理効果。

またその逆もあり、自分と同じ部分を持っている相手を擁護することにより、自分を護ろうとする行動。

 

ゲンドウはシンジに若い頃の自分や、今もある認めたくない部分を見つけてしまうから、シンジを遠ざけていた。シンジから避けていた。

はたしてどちらの方が子どもなのでしょうか。まぁシンジも同じ穴の狢ですし、そんな関係性どこの家庭でも友人関係でもあるんでしょうけどね。

 

「武力じゃだめだ」と氣付いたシンジは、槍を置いてゲンドウと対話することを選びます。

結局話し合いをしない限り解決はありえませんよね。

「話し合いをしても解決しない」可能性はあるにせよ、話し合いをせずに頭ごなしに言い聞かせようとしてもしっかりと相手の心へ透過させることは不可能だと思います。

力任せで言い聞かせようとしても、相手の心は硬化していくだけです。

 

 

ここからゲンドウの回想が始まります。

「親戚同士で集まった時に繰り広げられる、興味もない近況報告を聞かなきゃいけないことの苦痛」とか「他人の声に自分の心を害されたくない。無駄にかき回されたくなかったからイヤホンをつけて外界との関係を断った」であるとか。観ていてわたしも耳が痛かったです(特に後者)。

 

「でもユイという自分の全てを受け入れてくれる人と出会った。その人がいればイヤホンも必要じゃなくなった。しかし、ユイが他界して自分のなかの均衡が崩れ去った。彼女なしでは生きていけなくなっていた。もう一度会いたい。だから人類補完計画を立ちあげた」

 

たぶん「はーーーー自分勝手」と思う人が多いと思うんですが、これまで自分のトラウマや暗部と向き合うことから避けてきたゲンドウがここまで自分の過去と心と正面から向き合ったことが大事なんですよね。

みんな自分が「まだまだ幼くて尻の青い子ども」だなんて自覚したくないですし、それが図星だとより自覚したくないでしょう。臭いものには蓋をしたがるもんです。

 

でも見ないふり知らんぷりをしていても心に受けた傷は治りません。

 

しかし、シンジが父親のことを知ろうとしたことで、ゲンドウ自身が自心のケアを行った。

やっぱり「あの時にこうしてほしかった」や、「あの時自分はこう思ったんだ」などといった自分の感情と向き合うのは大切ですよ。

 

ゲンドウは「親戚の興味のない近況報告を聞くのが嫌。無駄やん」と思っていたが、シンジは(親戚ではないですが)トウジの近況報告やこれまでの生活がどうだったかを聞いています。

父と同じ傷を受け、拗ねてたけど、それを乗り越えたシンジが父の傷を癒す。

 

 

結局のところ毒親問題』ですよね。

 

しかし、この作品はすごいのは「親を絶対の悪。根源の存在と書いていない」ところです。

おそらくこれまでの作品では絶対悪的に描いていたんじゃないでしょうか。「父さんが僕の話を聞いてくれない。だから父さんがみんな悪い」といったように。

 

鬼滅評でも話したように「悪役にも悪役になるプロセスがあった」ことをエヴァでも描いている。

floodinhead.hatenablog.com

 

「Give and Take」という言葉がありますが、最初に『与える(Give)』があり、そのあとに『受け取る(Take)』があります。

「自分の話を聞いてほしいんなら、まず相手の話を聞く姿勢になんなさい」っちゅうことなんですが、親よりある部分で大人になったシンジがゲンドウの話を聞くことにより、ゲンドウのトラウマが癒され囚われ続けていた過去からの責苦から解放されます(電車から降りた)。

 

毒親問題は多分双方が話を聞く姿勢になっていないのが大きいんじゃないかと思っています。

「親があの時にあんなことを言わなければ自分はいま苦しんでいない」と相手のせいにするけど、相手がそんな接し方をした理由は考えたかい?実際に聞いたかい?

その親も過去に似た経験をして、自分と同じように嫌な思いをしたけど、それが強烈に澱として溜まっていて無意識に出てしまった(我々の脳は「あんな人にはなりたくない」 の"なりたくない"は認識できず、"あんな人"しか記憶しないそうです。だから無意識的に自分がなりたくなかったような人間になっていたりする。脳ってアホですね)。とは思い至らないかい?

実際、わたしはそこに思い至っていなかったのでなかなか苦しみました。

 

ゲンドウを癒したシンジは、父が引き起こした事態の責任を取るために身を以て償おうとします。

「これでシンジくんが身代わりになんのかなあ…。ほんまにそんな終わり方なのはちょっとなあ〜…」と思っていたのですが、あと少しのところでユイ(綾波っぽかったけど、わたしにはユイに見えました)がシンジを助け、ゲンドウの罪さえも一身に背負います。

 

もう号泣でした。おそらく嗚咽が出ていたと思います。

子が父を癒し、親の責任を子が引き受け代償となろうとする。それを母が全てを引き受ける。

これによってユイがゲンドウを癒したことにもなります。

 

 

 

過去の上に立っている

槍で13号機を刺す時に過去に登場したエヴァも順番に貫きます。

また、マリが生還した時にも「ありがとう。エヴァ8号機+9号機+10号機+11号機+12号機+8改(うろ覚え)」と言いますよね。

 

シンジがミサトさんに「加持さんの畑で嗅いだ土の匂いがした」とも言います。

 

それは「自分が今生きているのは犠牲があるからだ」と庵野さんが伝えたいのだと思いました。

マリも敵のエヴァを喰わなければやられていましたし、土も色々な植物や虫やバクテリアが死んで生まれたものです。その土があるから、我々が日々食べることができているし、呼吸もできている。

 

生も死も記号化されて久しいですが、死に対して実感が湧きづらいため、自傷行為を行ってしまう人が出てしまったり、「この世は自分が一番だ」なんてバカな勘違いをする輩も生まれる。

生の重さも死の重さも実感していないから無差別殺人も起きる。

 

屠殺映像がスーパーの生肉鮮魚売り場で流れていたら、「食べきれないから捨てる」などといったような命を軽視した行為は絶対にできないと思います。

 

正直過去のエヴァを順番に貫くシーンはくどいなと思いましたが、あれは「必要な」くどさですよね。

 

 

 

小ネタ

ゲンドウが話していた「人類補完計画の概要」はもうまんまVR移住や、内閣府が打ち出している「ムーンショット計画」ですね。

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https://www8.cao.go.jp/cstp/moonshot/index.html

 

L結界外の「首なしエヴァ」は『進撃の巨人』などでも言われているように大型の自然災害のメタファーでしょう。

 

加持リョウジくんが作業していた場所がセフィロトの樹だったり、フィボナッチ数列が多用されていたり、螺旋だったり、六角形だったり、相変わらずスノッブ効かせますね庵野さん。

 

 

 

大団円

すべてにケリがついて、駅のホームにあるベンチに座るシンジ。

そこにマリがやってきますが、そのマリに対しシンジが「行こう!」と言います。

これまで「いじけて立ち止まっていてもなんも変わらんやろ」や「歩け!進め!」と言われ続け、お尻を叩かれ続けていたシンジが自ら人の手を取ります。

よかったです。

 

テレビシリーズの各話タイトルレイアウトが、市川崑監督の『金田一耕助シリーズ』のオマージュなのは有名な話ですが、このシンジが人の手を取るシーンは原作の横溝版『金田一耕助シリーズ』の大団円を思い出しました(市川崑金田一を観たことがない)。

 

 

 

庵野さん、おめでとう

色々な方が指摘されているでしょうが、エヴァに登場する各キャラクターは庵野さん自身のレイヤー的人格(感情)を、一人の個人に独立させたものでしょうね。

 

弱気なメイン感情(シンジ)と、そんな弱気な自分を叱責するサブ感情(アスカ)、虚無なサブ人格(レイ)。

テレビ版が始まるまではその三人だけだったけど、庵野さん自身が成長するに連れて周りに対して飄々と接する術を身につけた。その人格がマリとなって登場した。

『新劇・破』だけの登場ではなく以降の作品にも登場しているのは、マリ自身が庵野さんの心に生まれた処世術だったから、完結まで登場した。

 

そうなると、アスカがシンジに対して言った「そうやって心を閉じて、誰も見ない。こいつの常套手段でしょというのも(耳が痛い)、「どうせやる事なす事裏目に出て、取り返しがつかなくなって、全部自分のせいだからもう何もしたくないってだけでしょ」というのも(耳が痛い)、庵野さんが自身を叱責する心の声なのでしょう。

なので、「いいから、やってから云え」というのも"やる前から自分の都合のいいように妄想して、やらない理由を探すな。文句や愚痴はやってから云え。文句なんてものはやったやつだけが言える特権だ"という事なのではないかなと思います。

 

 

 シンジが「もう誰も来ないでよ!僕なんか放っておいて欲しいのに!」と言いますが、これも「全てを肯定して欲しい」ということの現れでしょう。

エヴァに乗って活躍したけど、存在を肯定してくれない。

それは自分が未熟だからだ。でも未熟だということは肯定してくれない。

ダメな自分は放っておかれるべき存在だ(放っておいて欲しい)。でもみんな放ってくれない(放っておかれるべき存在という自分の望みを肯定してくれない)。

 

「ポジティヴもネガティヴも全部受け止めて肯定してよ!傷つきたいって思ってるんだから遠慮なく傷つけてよ!」となんて思っていたら、そりゃあ「ガキ」とも言われますよね〜。

身に覚えがありまくるし、非常に耳に痛いです。

 

 

シンジが泊まっているケンスケの家へ綾波が訪ねて来てアスカと話すシーンがありますが、レイに対してアスカが言う「ここは私が居るところじゃない。守るところよ」というセリフは、庵野さんが株式会社カラーに対して抱いている(変化した?)想いなのではないかと感じました。

あの村自体が株式会社カラーを示唆していて、村を構成している「顔も知らなかった人同士の寄せ集め」が会社を形作り血を循環させていて、村人(社員)一人々々に各々の家庭が存在している。

それを「自分の居場所」だと思っていたけど、「自分が守らなければいけない場所」だと氣付いた。

 

ラスト前のアスカが自身の過去を振り返るシーンでも、「親もおらず、誰も成果を褒めてくれない。だからエヴァに乗って成果を上げ続けるしかなかった。そうすれば大人は褒めてくれるから」とありますが、あれも庵野さんがアニメ監督として仕事をする時に『視聴率』や『映像ソフトやグッズがいくら売れたか』で評価されるので、それに対してのある種のストイックさがアスカとなって生まれたのではないでしょうか。

おそらく『トップをねらえ!』や『ふしぎの海のナディア』を担当していた当時に、そういった「数字の世界」に苦しんだのでしょう。

 

アスカが自身の感情と向き合った上で、「ホントはただ、頭をを撫でて欲しかっただけなの」と自分の弱い部分を受け入れます。

これは所謂インナーチャイルドを癒したということですね。インナーチャイルドはそれ自体を自覚するのが一番大事ですから。

あのシーンのアスカにカタルシスを感じた人は多いんじゃないでしょうか。

 

戦後の學校教育、バブル後の弱肉強食思想がより顕著になった日本では「勝てばよかろう」が行き過ぎて、個人のトラウマに蓋をして癒さないまま成長した人が多くなり過ぎた。

だから、そのトラウマが原因で、新しいトラウマを別の誰か(自身の子どもなど)に産み付けている現状が多くあると感じています。

実際、ゲンドウのトラウマを癒さなかったからシンジが苦しみました。

 

「この飲用精製水だって誰のおしっこから濾過されたものかわかんないってのに。今現在が綺麗だからってそれで全部解決なわけないでしょ」とピンク髪の北上ミドリは苦言を呈します。

今現在が順風満帆で全く問題が無いように見えていても、実は心に深い傷がつけられた過去があってトラウマに溢れている可能性も大いにあるというわけです。

 

 

そんな散り散りに分裂した自己が、解消してシンジ(庵野さん)という一人の自己の中に治った。

 

会社用の顔と、恋人用の顔と、家族用の顔と、學校用の顔と、友人用の顔。それを使い分けるのが暗黙の了解的に奨励されてきたこれまでの時代、それによって生きにくさを感じていた人は多かったはずです。

人の感情なんて多面的にあるのが普通なはずなのに、ちょっと違う面を見せたら「二面性がある」だなんて避難されかねない時代ですからね。

 

そういう個人の多面性が分裂して生まれた『エヴァンゲリオン』という作品で、作品内のキャラクターが自身を癒し解放し、元ネタとなった庵野さんの元へ戻って一緒になった。

映画を見終わった時に「庵野さんの中で色々な問題に折り合いがついたんだな」と思いました。

お辛い経験を沢山されたと思いますが、ケリがついてよかったですね。とても嬉しいです。おめでとう。

 

劇中で語られる「ファーストインパクト」や「セカンドインパクト」などは、庵野さんが過去に経験した衝撃的なトラウマとかそんな感じかなと邪推しますが、そこまで突っ込むのも野暮ですね。

こんなに長々と書いといて野暮のくそもありゃしませんですが 笑

 

 

 

総評

以上のことを鑑みて、やっぱりわたしとしては「賛否両論ありそうだなぁ…」と思いました。

「諸問題がうまく解決しなかったからエヴァにたどり着いたんだよ!」という方もいらっしゃいますでしょうしね。

 

ですが、わたし個人としては全く無問題です。

むしろすごくいい映画だと思います。

 

というより、庵野さん本人が回復して立ち直ったのにケチなんかつけられるかい!お祝いじゃ!お祭りじゃ!わっしょいわっしょい!という感慨です。

 

しかし、これだけ心のしこりが解消した大団円を見せられたので、「えっ…もしかして引退とかすんの…?」と思ったのですが、2023年に公開される『シン・仮面ライダー』で監督をされるそうなので、一安心でしょうか。

 

 

あ、シンジがカヲルに「涙は自分しか慰めないんだ、だからもう泣くのはやめた」と話しますが、本当に良い台詞だと思いました。

あの言葉だけでこの作品を観る意味はあると思います。

 

庵野さんが立ち直ることができたようで、本当に本当に嬉しく思います。

さようなら、全てのエヴァンゲリオン

 

 

P.S. 新劇版の主題歌が全て宇多田ヒカルさんですが、宇多田ヒカルさんはお母様の藤圭子さんとの繋がりがとても強かった様ですので、それも庵野さんがエヴァの世界観との親和性が高いと考えての起用だったのでしょうかね。

エンドロール中にそんなことを考えていました。

 

 

 

委員長が話していた「人生で今が一番若い時だし。今をしっかり生きたいの」というセリフを入場特典で見て「Reolさんか?」と思いました( ¨̮ )

youtu.be

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )