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今回も『鬼滅の刃 刀鍛冶の里編』の感想回です。
最近『鬼滅の刃』についての記事ばかりなので、通常回?みたいなものを更新しないとな。。
👇第七話の感想・考察👇floodinhead.hatenablog.com
👇『鬼滅の刃』についての記事たち👇
捉え方次第
今回のお話は時透無一郎さんのお話が主の回でした。
病氣によって母を、そしてその病氣を治すための藥草を取りに行ったところで崖から転落して父を、一度に両親を亡くした過去が語られます。
そして、これは本当に存じなかったのですが、時透無一郎さんには『有一郎』というお兄さんがいらっしゃったのですね。
このお兄さんは、無一郎さんと違って冷酷とまで言えるほどの厳しさを持っている人です。
時任家のご両親が亡くなってしまってから、その性格が激しくなったのか、無一郎さんとも反りが合わなくなります。
「『情けは人の為ならず』誰かのために何かしても、碌なことにならない」と有一郎さんが唱えます。
この考えは2010年代中盤くらい?から広まっていた誤用ですね。
利己主義という鬼の思想が蔓延していた頃だったと記憶しているので、さもありなんというか、利己主義を増長させたい者達が誤用を正しいものとしてコマーシャルしていたのかな、なんて、今では思います(『雰囲氣』を「ふいんき」と発音しだしたように)。
その誤用を口にする有一郎さんに対して、正しい意味を伝える無一郎さんでしたが、「人のために死んだ人間の言うことは当てにならない」とあまりに冷酷なことを有一郎さんは言います。
抗議する無一郎さんに対して「俺は事実しか言っていない」と反論します、が、正論って時にはひどく相手を傷つけるものですしね。
あんまり『事実』や『正論』ばかりを盾と矛にするのは、利口ではない。というか、そのうち自身の身を破滅させかねない。
そのあと、有一郎さんは無一郎さんの名前を用いて「無能」や「無意味」などと言います。
これってやっていることは小・中学生のいじめと同じですし、名前という『その人個人に与えられたもの』を莫迦にする行為です。
正直なところ、こういった行いは品がない。
莫迦にされている本人はどうしようもないからです。
また有一郎さんは『意味のあること』に固執する、典型的な現代人の考えを持っているようですが、それを言ってしまえば、相手の名前をあげつらって莫迦にするその行為には意味があるのか?そもそも、そうやって生きているお前自身の命に意味はあるのか?という話になってきます。
全く不毛です。
他にも『意味のあること』だけに固執し、自分自身に対しても「意味のある存在」という認識をしていたとして、ふとした瞬間に「自分は生きる意味のない存在だ」と、それを実感・見せつけられる出来事があったら?
あんまり意味ばっかりを求めるのもほどほどにした方が良いのではないかな、と、個人的には考えます。
なんでも『ある一方から見たら』意味があったりなかったりするもんなのですよ、きっと。
そのあと、有一郎さんが亡くなる時には「無一郎の無は "無限" の無」と言いますし、きっと、生活なんてものは捉えかた次第なんですよ。
しらねえけど。
何においても理由がある
『はじまりの呼吸』の子孫だと知らされた時透兄弟。
無一郎さんは剣士になることに積極的ですが、有一郎さんは消極的なようです。
そんな無一郎さんに対して「どうしてそんなに樂観的でいられるのだ」と有一郎さんが激昂します。
有一郎さんが怒っている理由は、『自分が体を労われと忠告したのにも関わらず、父も母も働いていたこと』などです。
しかも、そのご両親が働いていた理由の大きな一つとして『息子たちを養う』というものがあるでしょう。
そんな、ある意味では「自分のせいで死なせてしまった」という自責の念が有一郎さんにはあったのではないか、と妄想します。
『人の為(自分以外。自分の子どものため)』に体を壊して、死んでしまった。
『人のために行ったことで死んだ』のなら、人のためになんて何もしない方がよい、という思考回路で、《無意味ではなく有意義なこと》=自分のことだけをする、という考え方になったのかな、などとも想像します。
しかし、そう言ったように他人を信用できなくなっている状態であれば、『どうせ利用されるだけ』と思ってしまうのも仕方がないことだよな、とも思います。わたし自身心あたりあるし。
どんな人にも経緯と理由がある。鬼であろうと。
役に立っているかは、後からわかったりもする
夏の夜、時透家に鬼がやってきます。
有一郎さんが咄嗟に無一郎さんを庇って、鬼の攻撃を受ける一瞬は、心にくるものがあります。
時透兄弟に対して、鬼が「お前らみたいな貧乏人は、何の役にも立てない。いてもいなくても変わらないつまらない命だ」と言います。
この発言で無一郎さんは、怒りに自身の箍が外れ、鬼を倒します。
ここで無一郎さんが怒った理由の一つとしてあるのは『何の役にも立てない』という部分だと思います。
時透家のお母さんが病に臥せっている時に、無一郎さんは自分用のお布団をお母さんのお布団に重ねますが、お母さんの口から発せられたのは「寒い」の一言のみです。
『自分が行ったこと』が無駄となった。
結果、看病の甲斐なく亡くなってしまったため、自分は役に立たなかったという自責の念と、罪悪感が深く強く残っていたので、鬼から『お前は役に立てないのだ』と言われたことに対して激昂したのだろうと考えます(あと、誰かのために亡くなったお父さんを冒涜されたと思ったからかも)。
前回、「『無限列車編』の猗窩座さんは実質負け」というようなことを言及いたしました。
無一郎さんは、朝日の陽光で鬼に勝利しますが、夜明けだろうが勝ちは勝ちです。
だって日輪刀持っていないんだし。
過去の記憶を思い出したことで、時透無一郎さんの目に光(星)が戻るのも良いですね。
あと、『小鉄くん』と言っているのもいい。
ありがとう、鉄穴森さん
いつぞやに言及していた場面です。
アニメ版では被写体に対しての角度が少し正面向いているので、やはり原作とは印象が違いますが、それでも右腕の筋肉の隆起など素晴らしく思います。
「ずいぶん感覺が鈍いみたいだね、何百年も生きているからだよ」
時透無一郎さんの切っ先が、自身の肌を斬ったことに氣づかない玉壺さんに対して、時透無一郎さんが「ずいぶん感覺が鈍いみたいだね、何百年も生きているからだよ」と言い放ちます。
この台詞を聞いた時は、HIP HOPやRaegeの界隈でいうGun Fingerを思わずしてしまいました。
最高でしょ。
これっていわゆる『若い世代の声』ってことでしょ。
ブクブクと年を喰った程度で《レベルアップした》などと勘違いして偉ぶっている年長者たち。
感覺が鈍くなったことを強くなったと勘違いして、今現在様々な辛さを抱えている人の言葉や思いを聴きもせず「そのうちに考えているのもばからしくなるよ 笑」と一蹴し一笑に付す者共。
いや、確かに年月が解決することは、ある。それは確かにあると思います。
ですが、その様々な辛苦を真摯に聴くこともせずに「そのうちに〜 笑」などと言ってしまうのは、言って仕舞えるのは、害惡・惡辣でしかないと、一思考動物のわたしは思います。
苦しんでいるのは、『今』なのです。『そのうち』などと言って、手遅れになっては目も当てられない。
そういった醜い大人に対して、俗世間一般で多感な思春期と言われている、14歳という年齢の時透無一郎さんが、何百年も生きている(生きのさばっている)鬼に対して「だせぇよ、あんた」と言ってのけたのは、純粋に格好良いと感じました。
最高。
この回はこの台詞が全部持って行った感がある。
いつの時代も若い世代が、上の世代を打倒して巡っていくものなのだろうな、とは最近よく思うことです。
あ、ちゃんと話を聴いてくれる人がいても、話を聴いてくれた人に感謝はしつつも、その人に頼りきりになってはだめですよ。
自分は自分自身が救わないと💪
次回は『霞柱・時透無一郎』という題名ということですが、引き続き、対玉壺さんの戰いなのでしょうか。
愉しみです♨︎
ありがとうございました。