頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

パーソナリティが紡ぎ出す言葉

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

今回はわたしが十年来応援しているMUCCというバンドについてのお話です。

 

 

 

MUCCは、1997年にギターのミヤさんをリーダーに茨城県で結成されたバンドで、2021年現在で結成24年目になります。

 

そのバンド結成時からドラムを担当している(最初はサポートでのちに正式メンバーとなった)SATOちさんが、2021年5月をもってバンド脱退、音楽業界からも引退をされます。

そのSATOちさんとこれまで活動してきた軌跡を納めたアルバム『明星』がこの度発売されました。

 

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SATOちさんが作詞作曲に携わった楽曲のみで構成された全16曲入りのアルバムなのですが、収録曲の歌詞を見ていたら作詞者のパーソナリティが見えてきました。

 

一般的なアルバムの歌詞カードというのは、ホチキス止めされたブックレットタイプが多いのですが、『明星』は一枚の紙を折りたたんだタイプだったんですね。

だから他の曲と見比べたりでき、パーソナリティの発見ができました。

 

それでは、以下『明星』の収録曲の解説です。

 

 

 

逹瑯

MUCCのボーカルを務めており、バンド結成時からのメンバー。

常に飄々としているため、後輩のバンドマンからよく人生相談を受けるらしいです。そのかわり、音楽の相談は一切無いそう。

逹瑯さんの作曲した曲では『溺れる魚』や『勿忘草』なんかが特に好きです。

『スーパーヒーロー』は名曲。

 

昔、子供だった人たちへ

MUCC 昔子供だった人達へ 歌詞 - 歌ネット

君は何を抱え 何を捨てて大人になった?

人並みに挫折もした?人並みっていったいなんだ?

 

転んで膝を擦り剥く事なんてなくなったよね

 

痛みを避ける大人になって

夢は見ずに日々を消化して

 

大人になったことへの寂しさ、「みんなが子どもだった頃は楽しさも抱えきれないくらいいっぱいあって、毎日がキラキラしていたね。苦手だと感じていたことすらも愛おしい記憶だよ」と昔を懐かしむ、どこか清々しささえ感じる、思い出話をしている印象ですね。

 

そんな愛おしい思い出も忘れて大人になっちまった。

うまく生きるために無難な選択をして、痛みも傷も避けて、夢なんてみたら傷つくだけだ。だからもう夢を見るのはやめたんだ。

そんな自分を「あの頃の子どもだった自分」が見たらどう思うだろう。見せられないな。

 

そんな曲だと感じました。

実際わたしも、未来、年を取ったら曲の主人公みたいに、痛みを避けて自分本位になっちまうのかな。と考えると寂しくやるせない氣持ちになります。

 

パノラマ

MUCC パノラマ 歌詞 - 歌ネット

継ぎはぎだらけの道を 走るおんぼろワゴン

 

僕「等」の夢は終わったのかな?

 

空を見てた 雲が流れてった

ゆっくり形を変えながら 千切れながら

 

どこまでも道は続いてく 続いてく

 

夢を追う人(バンドマン)の曲です。

ムックがインディーズ活動していた頃から乗っていた機材車を廃車にする時に作った曲とかじゃなかったっけ?

色んなライブイベントや楽曲制作、プロモーション活動を「継ぎはぎだらけの道」と形容したり、その目の前にある各種活動を一つ一つ行なっていくこと、そのバンドの状態を「走るおんぼろワゴン」と形容しているのも洒落ていて素敵ですよね。

 

雲が流れるにしたがって形が変わるのも、人が生き、生活していく事で「夢の形」や「夢を入れるものの形状が変わること」を表しています。

バンドでも会社でも、人が辞めたりすることはありふれていて、ひとつのものが千切れて、"ひとつのもの"と"ひとつのもの"になることもある。

 

その僕「等」それぞれの夢を叶えるために、パノラマを見るために道を歩きましょう。どこまでも道は続いてくから。

 

 

めちゃくちゃいい歌詞じゃないですか。

沁みまくる。日本酒を飲んだ後のお出汁くらいしみる。

 

高校生の時にこの曲を初めて聴いた時は、特に強い印象を持たなかったんですが27になったらやたらと沁みますね。きっともっと年を取ったら深く感じ入れるんでしょうね、年を取るのが俄然楽しみになってきた。

 

 

 

ミヤ

MUCCを立ち上げたリーダー。ギターを担当しており、音楽と機材にとても造詣が深い。

D'ERLANGERの瀧川一郎さんからは「もはやオタクレベルの機材好き」と言われる。

甘いものが大好きで、自宅にはアイス専用の冷凍庫がある。ハーゲンダッツが特に好き。

ミヤさんが作詞作曲した曲では『脈拍』や『アイアムコンピュータ』、『THE END OF THE WORLD』とかが特に好きです。

 

茜空

MUCC 茜空 歌詞 - 歌ネット

さよなら今日の日 やがて日は落ちる

さよなら悲しみ また 会う日まで

 

強く生きればこそ

何度泣いたっていいんだ 今をかみしめ生きてゆけ

 

ミヤさんは強い人なんでしょうね。「強い人」と相手に思われてもいいという度量があるあたりさえも強い。

 

傷を受けたことも、流した涙さえも、深い悲しみさえも、太陽が昇って沈むのと一緒で流れていく。

泣いてしまうということは強く生きようとしたから。

強く生きるためなら何度泣いてもいい。今ある辛さも苦しさもかみしめて味わって生きていけ。

その経験は声に、歌になって届く。

 

以前何かのインタビュー(アルバム『脈拍』製作時に突然目が見えなくなり倒れたことについてだったっけ?)で、ミヤさんが「辛い経験というのは、それが活きる出来事が未来にあるから身に降りかかる。そう思ってるから色々な経験も受け入れることができる」と仰られていたのですが、『茜空』を製作していた時期にそういった考え方になったのかもしれませんね。

 

夕紅

MUCC 夕紅 歌詞 - 歌ネット

ねえ 僕は君の涙は拭えないけど

今、此処に在ることが 意味だと思うよ

 

これこそミヤさんだと感じました。

パーソナリティの話に通じるので詳しくはあとで書きますが、傷というのはその人本人が癒さないと意味がないんですよね。

 

それをミヤさんは知っている。だから「『僕』は『君』の涙は拭えない」んです。

君の涙を他人が拭ったら君をかりそめの癒しでごまかしてしまうことになる。

でも、君自身が「自分には存在価値がないとか、この世にいる意味がない」と思っているんなら違うと思うよ。此処に在るということ自体が存在価値で、この世にいる意味なんだよ。と語りかけてくれている。最高かよ。

 

それがわかったんなら、君だけの歩幅、笑顔、泣き顔、呼吸で生きていけ。

さあ!時間は止まんねえから皆に続け。君だけの歩みで。

 

 

言葉は心 

これまで逹瑯さんの歌詞と、ミヤさんの歌詞を分析いたしましたが、歌詞を読んでいてやはり性格が出るなと思いました。

 

MUCCの屋台骨・大黒柱』とよく形容されるミヤさんは、正面から相手と対峙して話し合う

「正面向いて話したいんならちゃんと名乗って。人と人は礼儀の上になりたってるから」といった感じ。

脈拍にも「愛が欲しいと嘆くなら 其処に在る 世界 魅せてくれ」と同じようなことを書かれていますからね。

そこの礼儀がちゃんとしていないと座るスペースを空けない印象というのでしょうか。

でも、義理礼節がちゃんと身についている人には居場所を作ってあげる。内に入った人は最後までケツを持って世話する

そんな人なんじゃねえかなと、わたしには見えます。

 

体癖でいうと8種っぽい感じ?『脈拍』のアルバム製作時に倒れたと前述しましたが、その時も「絶対に負けねえ」って心づもりだったらしいですからね。

 

 

 

それに対し逹瑯さんは常に飄々としていて、いたずら好きな永遠の少年みたいな方でお調子者。個人的には真面目くさるのが小っ恥ずかしいから照れ隠しでしているんだろうなと思いますけどね。めちゃくちゃ優しい人ですしね。

 

そんな逹瑯さんは『良くも悪くも当事者意識がない』と、音楽雑誌・音楽と人の樋口さんに言われています。

良い面に出ると「問題を深刻に捉えすぎないから必要最低限のエネルギーを使うだけで良い」とか「そもそも問題として見ないから問題として発生しない」とかになりますが、悪い面に出ると「取り組まなくてはいけないことに無関心」や「当事者意識がないために問題が悪化しやすい」とかになると思います。

体癖はわからんけどちょっと6種っぽい?かなと思いました。

 

 

逹瑯さんとミヤさんの違いはその「当事者意識」なのかなと感じました。

逹瑯さんは当事者意識がない部分が強いため、ミヤさんのように『正面から向き合う』ことはあんまりしない。

ミヤさんは『礼儀がある人にはスペースを作る、その上でその人と話す』ですが、逹瑯さんの場合は『スペースは元から空けておいて出入り自由。でも特に構ったりしないからね、こっちは好きなことやってるから君も好きなことやってて』というスタンスなんじゃないかと思いました。

 

だから、もし悩みを持った人が来ても、その人が直接話そうとしない限り触れない。

「話したくないってことはまだその時期じゃないんでしょ。言いたくなったら自然と言うだろうし、そもそもあんまり興味ない。ミニ四駆セットアップしていよう」というスタンス。

逹瑯さん本人も「ふさぎ込んだり落ち込んだりしても、手を引っ張って外に連れてくんじゃなくて、ドアをパッと開けてあげるだけでいい」と過去のインタビューで話されていましたね。

 

ベースのYUKKEさんだと自分から歩み寄って側でかがんで「どうかした?話聞くよ」と助け舟を出し、ドラムのSATOちさんの場合は(無意識に)甲斐甲斐しく氣配りをして、結果それで相手を癒している。後日あの時のあれに救われたと相手に話されても「え?おれそんなことしたっけ?まぁ元氣出たならよかったっぺ」と言う(イメージです)。

 

 

そのパーソナリティが歌詞に出ていて、ミヤさんは相手に語りかけ勇氣付ける、逹瑯さんは「こんなことありました・こんな風に見えました」を書くだけで、受け取り方は相手に委ねる。

逹瑯さん自身はYUKKEさんや元ギルガメッシュの左迅さんやNoGoDの団長さんをいじくって楽しんでるだけ。

それを見る場所は出入り自由だからで好きに寛いで行ってちょうだい。ということです。

うまく伝わってるかなあ。。

 

 

フライト 

MUCC フライト 歌詞 - 歌ネット

答えなんて無くていいだろ

僕等はこんなにも生きている

 

何も恐れず歩き出そう

永遠と感じる一秒繋いで僕らは笑える

 

そんなパーソナリティ が違うお二人が作詞を共作したフライト。

 

1Aの歌い出しで「大切なものって何だっけ」と問いかけているんですね。自問自答かな。

一度、自分がわからなくなって悩んで、でも君(自分)は「笑いたい」とまた涙流す。

 

自分を見失ってるから、氣持ちを等身大じゃ伝えられる自身が足らない。

伝えるためには強くならないといけないから、手っ取り早くそう思えるために、その願いを叶えるために着飾っちゃって、服を着てるんじゃなくて着られてるみたい。

それじゃまるで753かショーウィンドウのオブジェみたいだよ?

 

本当はもう羽化した蝶なんだけど、悲しみを纏ってるから怖くて飛べない。夢だけを見てる。

夢見てる内は一生叶わないからずっと夢を見れるもんね。

 

そこで、「必死に答えを求めていたけど、別に答えなんてなくていいだろ。だって、今を生きている」ということに氣付く。どうしても分かりやすいから答えを求めるものですよね。はっきりしてるから安心できるし。でも答えなんてそうそう無いし。答えなんて無いって答えでもいいじゃないか、と思い至る。

 

未来も過去も、永遠と感じる一秒の集合でそれを繋いでいる(パノラマの継ぎはぎだらけの道)。

悲しみも喜びも、抱えて飛べるさ。僕等は答えを見つけたから。

 

曲の冒頭でわからなかった「大切なもの」を見つけていく成長譚なんですね。良い曲だ。

 

ミヤさん的な正面から励ます部分もあるし、シニカルではなくアイロニカルに言う逹瑯さん的な部分もある。

「そうそう答えなんて見つかんないよ。『答えなんて無い』って答えでもいいんじゃない?今生きてるだけでいいじゃん」という着地はとてもいいですね。最高ですね。

 

なんというか、MUCCさんの歌詞は高校の時よりもある程度年を取った後の方が深く感じ入るな。そういった経験をしたからですかね。知らねえけど。

 

 

楽曲レビュー

ぬけがら

歌詞は自己嫌悪と自分への懲罰と煩悶、過去への贖罪でしょうか。個人的に難解な歌詞に感じました。

再録したぬけがらのなによりもよかったのが、1番サビで歌メロに上のハモりを重ねていたことです。

あのハモりをファルセットで歌っているので、どこか幻惑的に聴こえる。

 

ぬけがらになって瓦礫の中で埋もれているその状況を受け入れ(争うことを諦め)、美化し肯定することによって、それ以上の苦しみから逃れようとしているようで、よかった。

不幸は抵抗するより受け入れた方が楽ですからね。とても現代的というか、人間的ですね。

クランチっぽいクリーントーンでコードをシロタマ弾きしているのも幻惑感を引き立てていてよかったです。

 

幻惑で瓦礫と泥に飲み込まれて終わっちまうのかな、と思っていましたが、原曲を踏襲したKornライクなジャリジャリしたベース音や、ブレイク~エンディングまでの歌唱が、まるで心の琴線が切れる寸前の断末魔の咆哮ように感じられ、本当に心が死ぬ直前になみだを流しているかのようで、原曲好きな一ファンとしても大満足です。

 

あと、1Aの逹瑯さんの歌い方(艶)がちょっとhydeさんっぽいなと思いました。

 

明星

MUCC 明星 歌詞 - 歌ネット

幼き日々を映す明星が 僕等の未来を照らす

謡え 笑え 

 

SATOちさんがいる4人のMUCCでは最後の発表となる楽曲です。

確か初お披露目は配信ライブの「FROM THE MOTHERSHIP」のラストでしたよね。

「なんか『なごり雪』っぽい曲だなぁ」と第一印象で感じたのを記憶しています。

 

聴くたびに泣きそうになりますね。実際『明星』を通して聴いたときはボロ泣きしましたしね。

 

SATOちさんの脱退発表を見たときは、もちろんとても衝撃が大きかったのですが、どこか「バンドは人の集合なんだから形状は変わるし、SATOちさんの決めたことはファンとして受け入れないと」なんて殊勝で物分かりの良いことを思っていたのですが、現実感がなかっただけなのでしょうね。

実際、『惡』ツアーの最終公演が終わるまで現実感は無く、時間が経って新しいアーティスト写真が公開になり、3人体制のMUCCを見たころからじんわりと「そうか、もうSATOちさんは引退されたんだな」と実感するんでしょうね。

 

SATOちさんの過去のインタビューを読み返したのですが、そういった「SATOちさんがMUCCのメンバーだった証明」を読み返したり再度触れて暖かく温めることによって、SATOちさんの存在がファンの中で生き続けて、SATOちさんのいないMUCCも未来へ進めるのかな、報われる(言葉はおかしいかもしれないけど)のかなと感じました。

それが「愛しき日々を笑えよ」という言葉の意味合いなのかなと思いました。

 

個人的には過去の記憶に生きるってあんまり好きじゃないんですけどね。

 

 

 

「幼き日々を映す明星が 僕らの未来を照らす」というのも、4人で歩いてきた軌跡が明星になって、これからのMUCCを照らしていくということです。泣くに決まってる。

SATOちさんとしては吹っ切れているんでしょう。

「愛しき日々」を愛しいままでいるため。

 

SATOちさん、ありがとうございました。