ご無沙汰しております。
最近、映画『桐島、部活やめるってよ』を観ました。
一度だけ以前に観たことはあるのですが、その時はよくわからず「ふーん」くらいな印象だったのでした。ですが、今回鑑賞したことで作品の印象ががらりと変わりました。
大傑作でしたね。
物語のざっくりとした内容・あらすじは、バレーボール部のキャプテンである桐島が部活を辞めたことをきっかけに、同級生の生活に些細ながら変化が生じていく群像劇。というものです。
毎度の事ながら、ネタバレを含みますので作品の鑑賞後にご覧ください。
ゴドーを待ちながら
有名な話ですが、この『桐島、部活やめるってよ』は『ゴドーを待ちながら』 という戯曲を下敷きにしているそうです。
ラーメンズさんもその戯曲をパロディした『後藤を待ちながら』というコントを発表されています。
今回取り上げる『桐島、』はこの『ゴドーを待ちながら』という戯曲がとても重要になってきますので、ここでその戯曲の説明をさせていただきます。
『ゴドー』は「God」、"神"をもじっているそうです。
劇中に出てくるホームレスの二人はゴドーをずっと待ちますが、二人の前にゴドーが現れることはなく、ゴドー自身も劇中に一切登場しないまま幕は閉じます。
『ゴドー』は「God」をもじっていると前述しましたが、ゴドーを下敷きにしている『桐島』は「キリスト」をもじっているそうです。
桐島、部活やめるってよ
「キリスト」としての桐島
そのキリストたる「桐島」が突然いなくなった(部活をやめた)。
その報を受けたバレーボール部のチームメンバーは大きく揺れます。
部のキャプテンであり、チームの要たる人物が突然いなくなったので当然ではありますね。
部とは別で、桐島と同じクラスの男子グループに属していたと思しき竜汰と友弘、宏樹、桐島と付き合っていた梨紗などにも大きな波紋が広がります。
桐島という「神」がいたことで保っていた(神頼みだった)バレーボール部は当然均衡が崩れ亀裂が生まれ、同じように桐島頼りだった梨紗の均衡も崩れます。
桐島の部活が終わるまでバスケをして放課後を過ごしていた竜汰と友弘、宏樹にも氣持ちの変化が生まれ、「なんで俺たち放課後にバスケしてたんだっけ」と口にしたりします。
彼ら彼女らの共通点は「桐島がいることを前提とした行動をしている(桐島頼り)」ということです。
だから、行動規範としていた桐島が突然いなくなると慌て狼狽える。
宗教的だなぁと感じました。
しかし、一言に宗教だけとも言えません。この作品でいうところの桐島を「思想」であったり「道徳」であったり、「常識」と言い換えることもできます。
桐島がやめた後のバレーボール部というのは、さながらジョブズがいなくなったアップルみたいな感じなのではないかなと感じます。
あと、製作した小道具を蹴飛ばしたことを謝ってくれと申し入れる前田に対して、バレーボール部の副キャプテン久保が「おかしいのに絡まれるし」と怒っていた屋上のシーンも、『自分は絶対的に正しく、映画部なんていうよくわからない弱小部活は自分より劣る』と思っていたような独善的に見える描写も、自分の信じたものだけが正しいと思いがちな、一神教的なシーンだと感じました。
その独善的に見える行いをしていたのが桐島を囲んでいた集団だったのも、スパイスの効いた良い毒だったと思います。
多神教映画
この映画が素晴らしいと思ったのは、桐島がいなくなったとて、登場している全員が狼狽えているわけではないことを描いていることです。
桐島が部活をやめたことで狼狽えている竜汰らと同じクラスの前田は、映画が好きで自身も映画部に所属しています。
桐島の存在自体は認識していたでしょうが、行動規範を「映画」に置いていた前田には『桐島が部活をやめたこと』は大したことではないんですよね。
むしろ桐島が部活をやめたこと自体、知らなかったんじゃないか?
他にも、ブラスバンド部の部長を務める沢島や、菊池が所属している野球部のキャプテン、映画部と部室を兼用している(どちらかといえば映画部が間借りしている)剣道部も『桐島が部活をやめたこと』について特に影響を受けていないようです。
沢島は菊池に思いを寄せている(相手の挙動によって自分の行動を変えている)為、語り手となりますが、沢島が所属するブラスバンド部の活動は何の滞りもなく進んで行きます。
菊池が所属する野球部のことはキャプテン以外出てこないのですが、野球部の話が出てこないというのは桐島という、固定の場所での神が「関与せずとも回る集団だから」ですよね。
それこそ前田のように桐島が部活をやめたとて、大した出来事ではないから動揺などなく部が回っている。
前田が映画を撮っていても、平気でボールを取りに来てフレームインしてくる。これも野球部という集団が、他の集団に左右されないという比喩の一つです。
そしてキャプテンが最高に良いんですよ。
菊池がキャプテンに「先輩3年生なのになんで夏が終わっても引退していないんですか?」と質問をするんです。
それに対してそのキャプテンが答えます。
「ドラフトが終わるまではね」
そのキャプテンの元にスカウトマンは来ていないんです。
スカウトマンは来ていないけど、自分の中で諦めがつくまでは頑張りたい。
他人に左右されない。まさに自分軸!
本当に良いキャラクター造形をしていると思います。
日がすっかり落ちて暗くなっているにも関わらず、バットの素振りをしているキャプテンを見て、帰宅中の菊池は動揺しキャプテンに見つからないように隠れる。というシーンもありました。
それも、既に幽霊部員となっているにも関わらず未だ野球鞄で登校してくることや、放課後に一緒に桐島を待つためバスケをしていること、自分で歩くでも自転車を乗るでもなく友人の自転車にニケツしてもらっていることからもわかるように、菊池当人が「他人に付随して生活している(他人の行動で自分の行動を決める)」人間だったからなのでしょう。
ブラスバンド部にはその部を運用させるための神(思想)がいるし、映画部にも野球部にもその集団に見合った神がいる。
桐島がいなくなったところで、神は桐島一人だけだったわけではない。
多神教映画じゃないですか。最高です。
戦おう。ここが俺たちの世界だ。
前述した屋上のシーンで「おかしいのに絡まれるし」と久保が言っていたことに対し「お前らの方がおかしいよ!」と前田が反論します。
神がひとりいなくなったくらいで狼狽えてんじゃねえよ!
てめえの人生だろうが!てめえで考えろ!
神がいなくなったんなら神の再来なんて待たずに、これからどうやって生きていくかてめえで考えろ!
屋上でのいざこざが終わり、撮影を再開する映画部。
台詞の確認をしにきた後輩?に対して、前田が台本を読み上げます。
「戦おう。ここが俺たちの世界だ。俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから」
『神に頼るのもいいけど、今を生きているのは自分なんだから、神に縋るのもほどほどにして自分で考えて戦って生きていかないといけない』という意味だとわたしは受け取りました。
わたし自身も音楽に深く傾倒しているので、桐島を囲んでいた人たちと変わらないのかもしれませんけどね。
とりあえず、世界は一神教的ではないということです。
エンターテイメントは不要不急だという人も居ますし、強く必要だと感じる人も存在します( ¨̮ )
ありがとうございました( ¨̮ )