本日もご訪問ありがとうございます。
もともとは觀るつもりがなかったのですが、心機一転、映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』を観てきました。
- 『ゲゲゲの鬼太郎』についてほとんど知らない者であるところのわたし
- 煙草
- 村意識
- 千木、男神
- 飲めるもの、呑めないもの
- ふにゃふにゃ
- あたまでっかち
- ゲゲ郎いい奴
- 時ちゃん、そして "利益" に弄ばれた人たちに対して
- 雑記
- 最後に
- 2024/01/15 追記 ~二回目鑑賞しました~
『ゲゲゲの鬼太郎』についてほとんど知らない者であるところのわたし
そもそも、こちらの動画様にて映画の存在は知っていたのですが、「鬼太郎知らんしなぁ」ということで一旦はスルー。
ぼんやりと氣になってはいたものの、上記の理由から鑑賞は見過ごしていたのですが、元日の深夜、以前より好きで觀ていたインターネットプログラムにて下記の動画を拝見しました。
すると?どうやら?横溝の要素がふんだんに入っている?とのこと?だったので、横溝正史作品好きという理由で鑑賞いたしました。
鑑賞後の感想ですが、確実に觀てよかった作品だと考えます。
しかし、それは「めちゃくちゃよかったから觀て!」という熱量で薦めるものではなく「よかったねぁ…。あの作品は良い作品だったよ。」としみじみと旨さに酔うような感覺です。
煙草
あらすじなんてどこにでも書いているので端折ります。
この記事ではわたし個人が「おや?」と思った部分に対しての感想を書きます。
それとネタバレもします。
まず、主人公の一人である水木さんが東京より哭倉村へと向かう場面にて。
列車の中で咳き込む幼い女の子がいるにも関わらず、乗客である男性は本当にほとんどが煙草を呑んでいます。
ここでの場面について、鑑賞中は「まぁ、、時代もあるしね…。。。よくないけど…。。。」と思っていたのですが、鑑賞後の今思い返せば『大人の勝手によって割りを喰うのはいつも若い世代』ということの暗喩だったのかな、と考えます。
ちなみに、この鉄道列車で水木さんも煙草を吸おうとします。
ここで持っているのがPeaceですね。
わたしは非喫煙者なのですが、島田荘司さんの『ゴーグル男の怪』にてPeace缶が登場するので存じております。
Peaceは美味しいらしい。
さて、このPeaceという煙草は自販機などで見かけても、他の銘柄に比べて割高な価格が設定されております。
今調べたら他の銘柄と二倍近く値段が違う場合もあるそうで(ひえっ…)。
ちなみにこの水木さんは上昇思考を持っている人物として描かれるのですが、成り上がりと成金思想を持っている人物が、他の煙草よりも割高である高級煙草を吸っている、というのは、人物に対しての造形が緻密であることなのかな、と感じます。
なお、この車内では水木さんは結局煙草を吸いません。
これは『《車内で煙草をふかす》という行為を車内で行うと、【下の世代が苦しむ世界】がマジョリティかつ平和となってしまう』から、なのかな、などと邪推をいたします。
村意識
哭倉村へと到着した水木さん。
現代の日本がほとんど忘れてしまったところであろう、『田舎』の美しい風景が展開されます。
農道を歩いていると、下駄の鼻緒が切れてしまい困っている少女と出会います。
「お貸しなさい」とばかりに自身のハンケチあるいは手ぬぐいで下駄を修理する水木さん。
下駄を修理する際に、「肩、使ってええやで。あと足も大変やろからわいの腿に足乗せぇ」と少女に声をかける水木さん。
この少女は沙代さん。
鼻緒を修理する場面にて、沙代さんが頬を赤らめる描写がされています。
この場面は物語の冒頭も冒頭なので、単純に異性に慣れていない少女なのかな?と觀客に思わせることができると思いますが、鑑賞後に考えると『自己保身と利己に取り憑かれた村と一族の因習』の中で生活して来た沙代さんからすれば、水木さんの行動は、初めて沙代さんに向けられた利他の行為だったのかもしれません。
物語が進むにつれ、沙代さんは村から逃げたいために水木さんに言い寄ったのか?と思える描写がありますが、ともすれば、沙代さんは水木さんに対して淡くもあれ本当に恋心を抱いていたのかもしれません。
しかし、水木さん自身も「よっしゃ!ここでこの娘さんに恩をかけといたら後々都合上手く回るかもしれへんやで!」と思っていたのかもしれませんけどね。
そんな沙代さんの鼻緒を直すと、一人の少年が二人の元へ走って来ます。
これが時弥くん。
二人の元へ到着すると、水木さんに対して「あんさんが村に入ってきたよそ者かいな」と言います。
そうです。
村という組織、コミュニティにおいての情報伝播は凄まじく早いと言います。
わたしはそこまでの田舎で育ったことがないので経験したことはありませんが、もしかしたら現代の電脳で支配された時代よりも噂の広まる速度は速いんじゃないでしょうか。
規模にもよりますけどね。
この時弥くんが水木さんに話しかけた時、水木さんの肩越しに家屋が映されていましたが、あの手法はおそらく常套的、一般的な手法だと思いますが巧いな、と感じました。
千木、男神
水木さんが龍賀家のお屋敷へ向かう途中、山の上にある鳥居の姿が確認されます。
朱色は緑色と反対の色に当たりますが、あんなに目立つのだなぁ、という感慨がありますね。
ところで、山の上に神社の御社が建てられていることってよくよくありますが、あれってなんでなのでしょうね。
神棚とかの意味合いと同じ?
「土砂崩れとか起きちゃったら大変だよな」なんて、鑑賞中思っていました。
龍賀家のお屋敷に到着した水木さんですが、豪邸ですね〜。
湖畔にある豪邸、お屋敷。
婚礼もお葬式もできるように大広間として設えられた和室に大勢の人間。
大勢の人間の中で遺言状を弁護士?の方が読み上げる場面。
一族と神社とが繋がりがあることなど、非常に横溝正史さんの作品『犬神家の一族』をオマージュし引用しておりました。
特に遺言状を読み上げた後に「うちは分家なのに!」という場面なんて、市川崑監督作の『犬神家の一族』からまんま引用しています。
さてはて、『先代の龍賀時貞翁が神社と繋がりがあった』という話ですが、これも『犬神家の一族』の斧琴菊へのオマージュでしょうし、この村にある神社は男神を祀っていました。
その神社が女性の神様を祀っているのか、男性の神様を祀っているのか、というのは、屋根にある千木の部分が外削ぎ(縦方向に切られて、断面が外向き)になっているか、内削ぎ(水平に切られて断面が上向き)になっているかで見分けます。
そういったことで、この哭倉村で祀っている神様は男神だったのですが、この村の因習と、時貞翁の野望?を鑑みても男性価値觀的であるので、御誂え向きなんだな、と今になって思います。
飲めるもの、呑めないもの
水木さんが務める血液銀行で懇意にしている、龍賀克典さんを龍賀家の跡取りにしたいがために哭倉村へやってきた水木さんですが、早々に目標は潰えます。
克典さんは水木さんへ「ちょっと時間を寄越しんさい」と予定を取り付け、自身が後継者になれなかったことへの愚痴を水木さんに聞かせます。
上手い酒(ウヰスキーかブランデー)を飲み、話を合わす水木さん。
克典さん「あんさん《M》って知っとるか?不老不死には成れんまでも飲んだら疲れなんて吹き飛ぶいう評判やさかい、えら人氣でな。ほんでこの《M》の原液をここ哭倉村で作っとるっちゅう噂や」
水木さん「うわさ?」
克典さん「せやねん!わし製造場所知らへんねん!わてなんて結局は婿養子や、そもそもがわいなんかに龍賀を継がせる氣なんてなかったんや!あんちくしょうジジイ!」
水木さん「(氣の毒なこっちゃな。)」
克典さん「でも《M》の製造工場を見つけたら、わいも龍賀に噛み付ける!どや?探すん手伝ぅてくれたら、あんさんもよしなにしたるで?」
相手が取引先の手前、話を飲み込む水木さん。
「話がわかるやつやで」ということで、克典さんが水木さんに葉巻をあげます。
その葉巻を呑み、激しく咳き込む水木さんを見て大笑いしながら上機嫌で座を去る克典さん。
場面は変わって「なめやがって!」と怒る水木さんは、克典さんからもらった葉巻を湖へ投げ捨てようとします。
その時、のちに目玉の親父となる男(劇中ではゲゲ郎と呼称されています)を見かけ、「…何しとるんやあいつ…」と思って男を追います。
この時に葉巻を胸ポケットにしまったので『捨てへんのかい!』と思いました。
ゲゲ郎さんと一件あったのち、水木さんはゲゲ郎さんへ煙草を一本あげます。
物語の冒頭に登場したPeaceでしょう。
物語の序盤にあった場面では『子どもたちが被害を受けることの象徴』として、克典さんとの場面では『利己行動の象徴』として煙草が描かれていて、そして水木さんはその二つに対して「のめない」の意思表示をしていました。
ですが、ほとんど世捨て人的に、利己的弱肉強食な世界に傾倒していく世の中に対して逆行しているように思えるゲゲ郎さんに、水木さんは自ら「吸うか?」と煙草を差し上げます。
【Peace】という言葉は「平和」という意味がありますが、利他の行動を行うゲゲ郎さんに煙草をあげた、ということ。
この時点で、「そもそも水木さんは利己でしか動けない人間というものには従うつもりなどなかったのだろうな」と考えます。
にしても、ゲゲ郎さんはいい人なんですよ。
哭倉村にやってきた理由は『生き別れた妻を探すため』なのですが、ゲゲ郎さんが話す妻への想いと恋慕がとても良かったし、本当に大事に想っているんだなと感じられました。
『田舎で日陰者で生きてきた俺とは対照的に都会で育った妻は、人間の愚かさも全て受けて入れて愛するような素敵な人だった』
ふにゃふにゃ
物語の中盤に、一つの見せ場であるゲゲ郎さんと裏鬼道の面々との格闘シーンがあります。
あれは多分満場一致で『すごい』と思うんじゃないでしょうか。
御多分にもれず、わたしもそのひとりです。
わたしは基本的に格闘シーンのようなアクションシーンにはほとんど興味がないのですが、あのちゃんばら含めた大立ち回りは流石に『凄い』と思わざるを得ません。
あの凄さは2023年に公開された宮崎駿さん監督の『君たちはどう生きるか』の冒頭にある「眞人さんが群衆をかき分けて進む場面」と同等の凄さだと感じます。
それまでの場面とは明らかに線や表現、タッチなどが変わり、ふにゃふにゃの線になっていたのですが、その表現がダイナミックさや派手さに繋がっているように思います。
その表現を見た時に映画の『鉄コン筋クリート』を想起したのですが、同じ感情を覺えた方はいらっしゃいますでしょうか。
ちなみに『鉄コン筋クリート』は『クレヨンしんちゃん』の映画を想起したりもします。
『鉄コン筋クリート』も素晴らしい作品なので、是非ともご鑑賞くださいましたら幸いです。
ちなみに、その格闘の場面は全て一人のアニメーターさんが描き上げたとのことらしいのですが、そんなの驚くしかないですよね。どっひゃ!
20:00~から
あたまでっかち
なかなかに胸糞の悪い展開ののち、屋敷の最深に辿り着くゲゲ郎さんと水木さん。
そこには時弥くんがいたのですが、その実その正体は時弥くんの魂を追い出して時弥くんの肉体を乗っ取った時貞翁でした。
うーん、さすがは人間の行う所業です。
全ての絡繰を話す時貞翁の憎たらしいこと。
ネガティヴな言葉はなるべく使いたくないですが、愚図の外道で畜生ですね。
わたしは人間に対して期待していないので、「まぁ人間だもんね…そういった愚かな行いをするのも人間の専売特許」と思っていましたが、それでも腑がふつふつと煮立つ感覺を覺えました。
人間を諦観していない人にはかなり辛いものがあったんじゃないのでしょうか。
さて、時弥くんの肉体を乗っ取った時貞翁ですが、その見てくれがかなり奇妙なものになっています。
時弥くんの子どもの肉体に老人の頭が乗っかっているんですからね。
かなり奇妙です。
で、この造形について思ったのですが、これって『精神性は未熟なのに利己の脳みそだけが発達した』ということの表現だったりするんですかね。
時貞翁は「今の若者はなっとらん。これは儂がこれからも世を良くせねばならん」などと、まぁどこでだって聴けるしょうもない意見を口にします。
しょうもない(しょうもない)です。
どうやら聞くところによると、『今の若者、あいつらぁだめだ』の主張というものは紀元前から老人たちが口にしていたそうです。
2010年くらいから《『今の若者、あいつらぁだめだ』の主張》は淘汰され始め、今ではあまり聞くことがありません(残滓のように今もいるのだろうけど)。
そんな紀元前から言われている主張がこの近現代になっても言われているということは、人間は変わっていないということだし、ということは今は老人でも昔は若者。
「あんたも『今の若者はダメだよ』の対象になってたってことでしょ?誰も成長できてないんじゃん」ということなんじゃないの、と思います。
人間は成長できない。
ゲゲ郎さんが時弥くんに対して「いつの時代も自己保身のために改革を良しとしないものがいる」と話しておりましたが、全くその通りと感じます。これはこの現実な世界においても。
氣絶していた水木が斧を持って時貞翁のいる場所へ向かった時に、時貞翁は「会社を持たせてやるし、いい酒、いい女、いい服、なんでも充てがってやる。だからいうことを聞け」という、まっことしょうもない誘いを水木に持ちかけますが(しょうもない)、それに対して「お前つまんね〜〜やつ」と水木がNOの返事をするのも素晴らしかったです。
物質的なことで相手を支配してきた時貞翁であったために、「儂を殺したら狂骨が暴れるぜ」と狼狽えますが、そもそも、狂骨を収めている髑髏を割ったらいいだけじゃん。そんなこと誰でもわかる。
結局、物質主義で生きている人の底って其処なのだろうな、と思います。
自分という人間・魂一つが薄っぺらくてしょうもないから、金を積めば買えちゃう【インスタントな価値】に飛びついてそれに塗れ、それで満たそうとする。
また時貞翁は明言はしていなかったですが、おそらく不老不死を求める類の輩でしょう。
この《不老不死》についても、所詮はその人自身が自分のことを大した経験もしていないしょうもないものだと無自覺的か自覺しているからこそ、不老不死なんて阿保らしいものを求めるのだと思います。
死んだら自分の証明ができないから。
人間、いや、生物なんて老いて死ぬのが本望だろ。
わたしは思うのですが、『何を持っているか』になんて価値はなくて、《何かを持ったこと》で起きた感じた『自らの心の機微』にこそ価値があるんじゃないのでしょうか。
ものなんてあの世には持っていけないし、朽ちるんだしさ。
ゲゲ郎いい奴
時貞翁が堕ち、てんやわんやな地下空間。
搾取され続けていた幽靈族の皆さんも、狂骨になります。
この場面、彼ら彼女らの無念を想うと悲しい氣持ちもあるのですが、それよりも良かったのじゃないかと感じます。
おそらくあの状態で生きていても、それこそ生き地獄だったのだろうと思うし、それならいっそその苦しみから解放した方がまだ良いんじゃないのかと考えます。
もちろん怒りや恨みや無念もあったのだろうから、部外者であるわたしがいう言葉の一つ一つは想像でしかないのですけど。
てんやわんやな状況で、水木さんはゲゲ郎に「逃げるやで」と言いますが、ゲゲ郎さんは動きません。
狂骨になってしまった同士たちの鎮魂のためにも背負う決断をするのです。
いい奴だよ。
その場面で、ゲゲ郎さんは「息子が生きる世界を見たくなった」と言いますが、ここは思わず泣きましたね。
厭世をしていたゲゲ郎さん自身が自分の子の世代のために、全てを背負う決断をしたのです。
ゲゲ郎さんの半生は少ししか描かれませんが、厭世をしていた人が愛する人と出会って、その人との子どものためを想っての行動です。
これも子どもを駒としてしか見ていなかった時貞翁や、飯の種として、自身の利益や自慢のため、自分が成し遂げられなかった夢などのために子どもたちを私物化する昔からの【大人】に対しての叱責なのかな、と考えます。
たとえてめーの子どもだろうが『独立した個人』だっての。目を醒ませ。
時ちゃん、そして "利益" に弄ばれた人たちに対して
てんやわんやの末、水木さんは助かって、物語は現代へ戻ります。
旧哭倉村の跡地に記者の山田さんと鬼太郎さんらが集まり、『最後の狂骨』と対峙しますが、その時に目玉おやじさんが氣付きます。
その狂骨は時貞翁に魂を抜かれた時弥くんだったのですね。
それに氣付いた目玉おやじさんは「世界一の電波塔が建っても人間は愚かだし、貧困も無くなっていない。申し訳ない」と時弥くんに謝罪をします。
「何か言いたいことはないかい?」と鬼太郎さん?が時弥くんに言いますが、その問いに対しての返答が「忘れないで」でした。
ここの答えがあまりに悲しかったので、泣きましたし、今も泣きそうです。
嫌だったよなぁ。一人の横暴のせいでみんな苦しんでるんだもんな。悲しかったよな。
この場面で思ったことがあります。
それはダムのことです。
その昔、村としてあったものも、ダムの建設のために今では水の底にあるなんてのはざらにあるのでしょう。
きっと『日本の発展のため』などと嘯いて開発をしていたのでしょうが(工事をしていた "人" は悪くないです)、生まれ育った土地に二度と行くことができないというのは、おそらく相当に悲しいことなのだろうと思います。
ダムにかかわらず、そんな "利" に惑わされて弄ばれた人たちへの鎮魂をこの場面で感じていました。
そんな悲しいを感じて亡くなった方々には、どうか来世では幸せに生きてほしいな、と願うばかりです。
雑記
ここでは端書みたいな内容を列挙いたします。
地下空間にて巨大狂骨とゲゲ郎さんが闘う場面、狂骨の色の塗りが日本画とか浮世絵っぽい手法で表現されていたのと、狂骨の姿が歌川国芳さんの描いた『がしゃどくろ』を想起しました。
水木さんさぁ、灰になった沙代さんに手を合わせるくらいはしないといけなくない?
彼女も無念で亡くなったんだしさ。
そうだ、この作品ってPG12指定でなかなかにグロテスクな表現やしんどい描写とかもあるのですが、鉄パイプの場面だけは「えぐ…」となりました。
なんとういかコミカルにしている風にもしているように感じたのですが、だからこそ、コミカルっぽくしているからこそエグさが際立つみたいな感じです。
閉鎖的な空間で育った人が外の世界に行きたいと思いを馳せるのは、当然といえば当然だと思いますが、横溝作品を思うと『女王蜂』っぽかったか?と思います。
最後に
はぁ、長い、
わたしの感想は大抵長くなる。
しかし、觀て良かったですね。これは今年ベストかもしれません。
『鬼滅の刃』といい、わたしはやっぱり願いや祈りの込められた作品を好むみたいです。
「誰が至強か」なんてしょうもないものは見ていられないです。
敗戰以降に、より顕著になった日本國の利己主義ですが、利己主義って結局自己満足でエゴなんだな、と感じます。
『誰が至強か』なんてものを決めたところで、畑は耕せないし作物は実らないのです。
『誰が至強か』なんて阿保なことは少年の頃はしても良いと思いますが、いい加減に利他の精神を覺えなさいなって。
現時点での考えですが、おそらく人間は利他で祈って愛を与えるしか方法はないです。
しかも愛は与えれば湧き水のように溢れますからね。
でも自身の愛を自分のために独り占めしようとすれば、愛は枯れます。
不思議なものですね。
水木しげるさんの作品も読んでみよう( ¨̮ )
ありがとうございました( ¨̮ )
2024/01/15 追記 ~二回目鑑賞しました~
はい。
二回目鑑賞してきました。
一回鑑賞したら良いかな〜と思っていたのですが、皆々様のご感想を聞いて「えっ!そうだったの??!」と思った箇所を確かめたかったためですね。
とりあえず、一回目の感想(上のもの)に対して、ニュアンスが違ったかも?と思ったところを追記として書きます。
一
まず、列車内での煙草の場面。
あれ、水木さんは少女の咳に氣付きながらも、煙草に火を点けようとしたので「吸うんかーい!」と思いましたが、やっぱり結局は吸いませんでした。
しかし、あそこは少女を思いやってというよりも『吸う機会を無くした』という感じでしたね。
あの場面の後に吸っていたかも知れませんしね。
また、ゲゲ郎さんに「死相が出ておまんな」と言われたとき、水木さんの背後に浮かぶ影の皆様ですが、戰爭にて従軍された方々なのですね。
二
ゲゲ郎さんが狂骨たちの依り代になることを決心しますが、この場面は「友が生きる世界を見たくなった」と言っていたのですね。
『息子(のちの鬼太郎)が生きる世界』ではありませんでした。記憶ってのも曖昧だ。
あとゲゲ郎さんは厭世の人ですが、厭世の人だったからこそ《昔からの恨み》の依代に進んでなったのかな、と思います。
そうなると、「息子が生きる世界」でもあながち間違っていないんじゃない?と思いますが、それはわたしの都合の良い解釈でしょう。
三
横溝作品へのオマージュについて。
初回鑑賞時、『地下から繋がる洞窟がある』はなんかの作品だったな、と思いながらも思い出せなかったのですが、確かに『八つ墓村』だったような氣がします。
『八つ墓村』も四、五年前に再読して以来なので、大分と記憶が曖昧です。
次女の丙江さんは長女の乙米さんよりお金をせびっている?様な描写がありますが、これは上記にて引用した『犬神家の一族』の松子さんが自身の母親にお金を渡している場面のオマージュなのかな、と感じます。
また上記にて『女王蜂』について少し触れましたが、この『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』が《親の罪を子が背負う》という話になっているのもオマージュなのかも?と感じます。
四
日本人形について
冒頭の列車の場面にて。
咳をしている少女が日本人形を抱えていました。
鬼太郎たちが居た哭倉村跡地にも同じ日本人形がありました。
これであの少女が哭倉村に来たことがわかります。
ゲゲ郎さんが捉えられ、龍賀家の地下にある病棟?に入る際、脇のゴミ置場に少女が大事そうに抱えていた日本人形が棄てられていました。
ということは、彼女も《M》の製造に利用されたのだろう、ということがわかるのですが、少女の咳が持病の喘息などからくるものだったとしたら。
「哭倉村に来たら娘さんの咳もきっと良くなりますよ」などと唆され、やって来たのだとしたら。
これは邪惡ですよ。流石にこれは看過できない。
「娘の咳をどうにかしてあげたい」という親心で頼ったものに騙されていた、というのは、あまりに非道すぎてこの仮説を思い浮かんだ時、思わず絶句いたしました。
あくまでも妄想です。
ですが、《M》への贄を村の外からの人間にさせ、村の人間は「村の外から贄になる人間を集めていた」とのことですので、そりゃあ首謀者じゃないにしても同罪だよ…。。と感じます。
そして、あんな吹きさらし雨ざらしの廃村で日本人形は朽ちていませんでした。
地下に居た、とはいえ、人の出入りがない場所は大氣の流動がないために物の朽ちるのが早いと言います。
それなのに朽ちて居なかったというのは、時弥くんと一緒で彼女も「忘れないで」と思って居たからなのかもしれないな、と感じました。
業の深い話だな…。悲しい。
それと、ゲゲ郎さんが村の子どもたちから石を投げられますが、村の人間はゲゲ郎さんが幽霊族の者であることを無意識的に搾取対象と認識していたから、石を投げたのか???と、全くな深読みをしたりもしました。
などが二回目の感想でした。
一回目を鑑賞した後、『墓場鬼太郎』と『ゲゲゲの鬼太郎』のTVアニメ第六期一話を觀ました。
『墓場鬼太郎』の絵のタッチが最高に格好良かったので、原作漫画も読んでみようと思います。
あと、原作鬼太郎が可愛くて癒しだったので、それも氣になる。
あと、鬼太郎さんは本当に通ってこなかったのですが、鬼太郎さんって結構人間に対して冷たいんですか?
おやじさんが思っていた以上にお茶目だったのでファンになりそうです。
たんこぶ作ってるおやじさんとか可愛すぎでしょう。
改めて、ありがとうございました( ¨̮ )