頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

【ネタバレ】映画 えんとつ町のプペル 解釈と考察と感想【全開】

 

 

 

本日も閲覧ありがとうございます。

 

 

2020年12月25日公開の『映画 えんとつ町のプペル』を公開当日に観てきました。

 

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https://poupelle.com/

 

西野さんについては、お笑いコンビ「キングコング」として活動されていたので昔から存じており(感想しゃかりき頑張ります!)、2015年?くらいに絵本を描いていらっしゃると知った時も、15年ほど前に青木さやかさんと番組MCを務めていらした日本テレビ系の音楽番組『音楽戦士 Music Fighter』のセットの絵を西野さんが描いているというのを知っていたので、特に意外性は感じませんでした。

とはいえ、あの描き込みはびっくりしました。

 

乙一さんの著書『銃とチョコレート』の挿絵のような世界観や、スチームパンクのような雰囲氣は好きなので、西野さんの絵や世界観は好みです。

 

世の中から向かい風を受けている方を見ると、個人的に他人事と思えないので、西野さんは応援しています。

 

絵本『えんとつ町のプペル』も購入し、ビジネス書『革命のファンファーレ』も、小説『グッド・コマーシャル』も読みました。

 

それらを加味した上で、『映画 えんとつ町のプペル』の考察、感想です。

 

 

↓↓以下、ネタバレ↓↓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オマージュと敬意

今回携わったアニメーション制作スタジオはSTUDIO4℃

わたしはアニメ制作会社さんに聡くないので、スタジオ名だけではよくわからなかったのですが、『鉄コン筋クリート』を制作されたスタジオさんらしいですね。

 

このSTUDIO4℃がとても良い仕事をしていたと思います。

鉄コン筋クリート』は宝町という九龍城的なごちゃっとした町が物語の舞台になるのですが、このスチームパンク的な「ごちゃっと感」が舞台となるえんとつ町には強くあるので(より九龍城っぽい)、そういったところが本作と合っていたと感じました。

 

ここからストーリーへの感想なのですが、過去の名作へのオマージュが散りばめられていて、見ていて楽しかったです。

 

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この冒頭180秒動画でもわかるように、新海作品や、ワンピース、エヴァンゲリオン、アラジン、ターザン、ジブリ作品、葛飾北斎などの多くの名作が敬意を持ってオマージュされています。

 

 

主人公ルビッチによる、冒頭の語り(設定の説明・作品の世界へ導入)や、空から心臓が落ちてくる時の表現は、新海誠さんの『君の名は』ですよね。

 

ワンピースに至っては全編に渡ってです。

カメラワークや構図、ルビッチの表情が帽子で見えないショットなんてのは、もう「まんま」です。清々しい。西野さんとかの世代は本当にワンピースとドンピシャだと思いますので、納得ですね。

 

 

「ゴミ人間」の誕生

「ゴミ人間」が誕生し、場面が変わるとOPです。

HYDEさんの「HALLOWEEN PARTY」がOP主題歌に起用されています。

HYDEさんの性格的に、西野さんのやってることは好意的に思うんじゃないかな?と思っていたので、タイアップの情報が流れてきた時も特に大きな衝撃はありませんでした。上記した『音楽戦士』でも、何度もゲスト出演されていましたしね(お蕎麦のお話していましたね。わさびがお好きだとか)。

 

ハロウィン当日のお祭り騒ぎがOP映像なんですけど、あそこでスタッフクレジットがなかったのは意外でしたね。これまでの刷り込み思い込みかな。

 

お祭り騒ぎが終わり、「ゴミ人間」が人間ではないことが町の人たちに知られ、その騒ぎを聞きつけた異端審問官(警察)に追われた「ゴミ人間」は、逃げた結果ゴミ収集車に乗せられることになります。

 

えんとつ掃除の仕事が終わりルビッチが帰途に付いている途中、ごみ収集車に埋もれて助けを求めている「ゴミ人間」を発見し、救出に向かいます。

 

この時に思ったのですが、西野さんの異化効果はお笑い要素が強いですよね。

鬼滅の刃』は演劇的な異化効果の方が強いですが、西野さんはお笑い的な色が強い。『グッド・コマーシャル』の時にもそれを思いました。

異化効果というより、緊張と緩和と表現した方が近いですね。

 

踏切のノロノロと、助けたいルビッチの焦りの対比がコント的というか非常にお笑いの色が強い。

それで、ちょっとくどい。OPでも思ったのですが、ちょっと長いんですよね。これは西野さんの趣味かなぁと思います。

ですが長いというのはわたしの主観で、OPは「HALLOWEEN PARTY」の尺的にもタイアップの関係上そうぜざるをえないのかなとも思います。

 

 

「家族」という共通体験と思い出

救出したはいいものの、ゴミ処理場でともに焼却処分されかねない状況になった「ゴミ人間」とルビッチ。

 

焼却処分されないために二人は逃げます。

 

ターザンの後に助かるための冒険を二人がするのですが、それが非常に「ゴールデンタイムのフジテレビ」っぽい。最近のフジテレビ事情は知らないので10数年前の印象です。

 

二人が走ったりいろいろしますが、そのアドベンチャー感みたいなのが家族向けのアスレチックっぽいんですよね。あれも元ネタがあるんでしょう 。

 

アドベンチャーアスレチックをクリアし、二人がホッとしたのもつかの間、トロッコセクションへ二人は巻き込まれます。

 

ここのトロッコアドベンチャーが、まぁディズニーランド。アトラクション感がすごいです。

ビッグサンダー・マウンテンスプラッシュ・マウンテンが元ネタと思いますが、トロッコが水をかき分けている時のスローモーション2ショットの演出は、USJのCM最後の「ワーォ」でしょうか。

 

この冒険パートは二人が友人として仲を深める為の洗礼的な意味合いがあったのかなと思いました。

 

そんで、冒険パートの出自が分かる感じはあれはわざとでしょう。

ビジネス書『革命のファンファーレ』でも書かれていましたが、「人は思い出に生きる」そうです。

今作は思い出が重要になるのですが、フジテレビっぽいアドベンチャーやディズニーランド的なアトラクション、一目で「あぁ!あれね!」と解る。しかも、それが親子で馴染みのあるものであれば、家族間でコミュニケーションが生まれる。思い出の共有と交流が生まれます。

思い出を話したことで「また行きたいよね」と話が運び、また新しい思い出が誕生することにも繋がります。

 

西野さんが元U-turnの土田さんやカジサックさんなどのお父さんに観てほしい、「家族のお話」と話していたのも納得ですね。

 

伏線とフック

鉱山内にて、鉱山泥棒でレジスタンスのスコップと出会います。

スコップ自身の秘密を知られてしまった(自ら喋った)ので、異端審問官にバラされないように知られた秘密と同じ数の頼みを聞き入れると交渉し、ルビッチたちは鉱山から出る道案内をお願いします。

この出会いがのちの展開に大きく関わりますが、このスコップがまーーぁ喋る。それもなかなかくどい。よく喋る人間が服を着て歩いているようなキャラクターです。

このよく喋るスコップを見て、伊坂幸太郎ファンのわたしは『陽気なギャング シリーズ』の響野というキャラクターを思い出しました。

 

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http://www.s-book.net/plsql/slib_detail?isbn=4396332688

 

このスコップはオリエンタルラジオの藤森さんが声優をされているのですが、この声優起用は藤森さんが「チャラ男」としてブレイクするきっかけになった、タモリさんとの楽屋エピソードからなのかな?と推察します。

 

 

二人の洗礼が終わったあと、ルビッチが「ゴミ人間」の体を洗うために自宅に迎えます。

この体を洗っている時にルビッチが「ゴミ人間」に『プペル』という名前を授けます。

ルビッチの家ではお母ちゃんのローラがごはんを作って子の帰りを待っています。

この時に食器がお箸なのですが、「あ、お箸なんだ」と思いました。

 

 

別の日、ルビッチが自身の職場にプペルを連れて行き、えんとつ掃除屋のボス ダンにプペルの雇用をお願いします。

ここは『千と千尋の神隠し』オマージュですね。千尋が湯婆婆に「ここで働かせてください!」と雇用を求めるシーンです。

 

結果、地上一階の店主不在のテーラーをプペルにあてがい、異端審問官からプペルを匿います。

この時に給料の前払いをします。この時に「ダメにならないうちに早めに使うんだよ(うろ覚え)」みたいなことを言います。これは伏線なのですが、ちゃんと観客に「ん?これはどういう意味だ?」と、ちゃんとフックをかけられるのも大事だなと思いました。

 

ここでも緊張と緩和が演出されます。

強面で何考えてるかわからない恐ろしいボスが、実はお化けが怖くて膝ががくがく大笑いしているという緊張と緩和。

声優は國村隼さんが務めていらっしゃいますが、この國村さんの声も相まって緊張と緩和に大きく貢献していると感じます。

なにより國村隼さんの声がとても芳醇でかっこいい。

 

 

正義の位置と悪役の顔

ここでかは忘れたのですが、異端審問官を率いる「中央銀行」のシーンになります。

なにか思うことがありげなレター15世と、表舞台には出ないが実権を握っている影の独裁者であるトシアキ。このトシアキが本作の悪役なのですが、正統なディズニーヴィラン顔をしています。とてもしています。

トシアキの顔つきを見てアラジンのヴィラン、ジャファーを思い出したのですが、アラジンポイントはまた後にも出てきます。

 

ここの構図が白い部屋の奥(右側)にレター15世が座っており、部屋の入り口(左側)にトシアキが立っています。

昔『にけつッ!!』という番組で、千原ジュニアさんが「テレビにおける正義の位置は決まっている」というお話をされていました。

画面を正面に見て右側(上手)は正義左側(下手)は悪がくるという法則があるそうです。

『笑っていいとも』のテレフォンショッキングも『徹子の部屋』も『しゃべくり007』も、司会側は右側、ゲストは左側です。

この構図で、レター15世とトシアキの関係性やどちらが悪役なのかを示唆しているんですね。まぁトシアキは顔見ればわかるもんだけどね。

そういえば『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』でも、炭治郎vs鬼の構図も、煉獄さんvs鬼の構図も、作中で悪役である鬼が左側の立ち位置にいましたね。

 

この構図がなんでか鉄コン筋クリートっぽいなと思いました。宝町を手に入れんとする蛇の初登場シーン。別に明確に「ここが似てる!」とはならないんですが、なーんでか思い出しました。これが制作スタジオの"味"みたいなものなのでしょうか。

 

 

自らがばかを見ないために、ばかにする側へ

ルビッチから自身の夢を聞き、口外しないでと釘を刺されながらも、つい人に話してしまうプペル。

その話にルビッチの元友達のアントニオが激昂し、プペルを激しく殴ります。

 

このアントニオの怒り方が過剰に思えます。それもそのはず、アントニオもルビッチのお父ちゃんであるブルーノの紙芝居を聴いて星の存在を夢見ていたからです。

 

物語の最後の方で明かされますが、最初はいろんな人が楽しんで見聴きしていたブルーノの紙芝居は時が経つにつれ客足が遠のきます。その紙芝居を最後まで楽しんでいたのが息子のルビッチと、アントニオなのです。

 

まだ小さい頃、頭上にある煙の切れ間に煌めく星をアントニオは見ましたが、前方にいる異端審問官と、それに職質される市民を見て怖気付いたアントニオは「星を見た」ということを言わず、夢を見ることを押し込めて(諦めて)しまいます。

 

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こちらでもお話しされていますが、アントニオは『未だ希望を、夢を見ている人と対峙すると、夢を諦めた自分の居場所がなくなる』という、自己正当化のロジックでプペルやルビッチを嫌っているのですね。

 

このアントニオの思考の変遷も、『鬼滅の刃』と親和する部分がありますよね。鬼になった人にも、鬼になってしまう過去があるという部分です。

 

 

「目を覺ませ」とよく言われますが、『現実を見る』という楽をすることで、しんどい切磋琢磨やプライドがズタスタにされる自己のブラッシュアップをしなくて済む。という部分もあるとわたしは思います。

夢を見る人は見る人で、自分のスキルの無さや至らなさ、圧倒的な差みたいなものと真正面から対峙せざるをえなくなったりしますので、必ずしも「夢を見る=現実を見ずに楽ばかりをする」だとは言い切れないのです。

 

 

ルビッチが「口外しないでね」と釘を刺したものの、プペルがアントニオたちに話してしまった。それを知ったルビッチはプペルに怒りを感じ、距離を取ってしまいます。

 

 

仲違いをしている間にえんとつ町を囲う海から「バケモノ」が現れます。

 

 

プペルの同僚・スーさんが異端審問官のスパイで、スーさんにダンさんが命狙われるシーンがありますが、ダンさんが負傷してから救急車(実は異端審問官)が来るまでの時間が短すぎる、というシーンがありますが、これも現代を象徴しているなあと思います。

BLMや香港デモもそんな感じかも?? 

 

昔々のお話

なんやかんやで仲直りした二人は、頭上を覆う煙を散らして空を晴らす計画を実行するために、鉱山で出会ったレジスタンスであるスコップを頼ります。

 

そこでルビッチがブルーノの息子だということ、頭上の煙を晴らして空の星を町のみんな見せる計画を聞いたスコップは、ある昔話をとうとうと話しだしました。

 

 

その昔、ある国ではお金が一番価値を持っていました。

肉や魚、野菜などは時間が経つと腐ってしまうのに、お金は何年経とうが腐ることはありません。

なのでそこに住む人々はお金を使わず溜め込むようになり、それにより街では強盗やスリ、詐欺や殺人などがはびこっていました。

 

その土地の王様はお金の形態に問題があると思い、現行のお金を廃止し、時間が経つと腐って使えなくなってしまう新しいお金「エル」を作り上げました。

すると、町の人々はお金を溜め込むことなく積極的に使うようになり、町は活気に溢れ非情な犯罪が起こることもなくなりました。

 

ですが、それをよしとしないエル以前のお金を発行していた中央銀行は、土地の王様に申し入れをし、圧力をかけます。

その圧力に嫌気が刺した王様は外界との連絡を断ち、町のあちこちにえんとつと建てました。

そのえんとつから出る煙で空を覆うことで外への興味を無くし、町の人に外界の存在を隠し、町はここだけという意識を植え付け、独立国家を作り上げました。

 

その時の王様がレター1世で、政府の名前も中央銀行となりました。

 

 

外界との連絡を断つためにそれまで使っていた連絡船を廃止し、海に沈めた。

民が海に近づかないように、その海に沈めた連絡船を「海のバケモノ」と民に伝えることで、海への恐怖を植え付けた。

 

その話をスコップの家族は代々聴かされてきた。しかしスコップ自身も話をしてくれたおじいちゃんに「絶対に人に話すなよ」と言われていた。

それをずっと守っていたスコップだったが、ある時酒に酔った勢いである人にその話をしてしまった。

そのある人が、ブルーノだった。

 

スコップから話を聞いたブルーノは、そのお話を紙芝居にします。

それが異端審問官(トシアキ)の耳に入って消された、ということです。

 

 

この話でまず思ったのが、浦沢直樹さんの『20世紀少年』です。

 

「『世界征服を企む男を倒すために、正義の味方が現れる。見事、正義の味方は世界征服を企む男をやっつけて、人類は救われた。しかし、本当はその正義の味方こそが、世界を滅ぼそうとしていた張本人だった』という内容の漫画を描いた漫画家が、刑務所に入れられる」という話が『20世紀少年』には描かれています。

 

この位置関係はブルーノと一緒ですよね。

 

 

「外界の存在を断つことで、町を守っていた」というのは、映画『ヴィレッジ』を思い出しました。

まあ往往にしてそういったご家庭も多々あると思います。

 

 

『腐るお金を作った』というところで、えんとつ掃除屋のボス ダンがプペルに「(お金は)早めに使うんだよ」と言っていた意味が判明します。伏線回収ですね。

 

 

『革命を起こした存在や圧倒的なカリスマが時間が経つにつれ、次第と毒に変容していく』というのも、往往にして起こることですよね。

企業の世界でも起業家の世界でもお笑いの世界でも政治の世界でもね。

レーニンと共にロシア革命を起こしたスターリンとかでしょうか?あれは特殊すぎるか?

溜まった水は腐るという意味合いですね。

 

 

架空の町と箸

そして「架空の町」とされている場所が日本だったことです。

「お金が一番価値を持っていました」は現代の日本ですし(近代化した國はみんなそう)、強盗やスリや詐欺や殺人は茶飯的に起こってしまっています。

 

思い返せば、町のごみ収集車には漢字やひらがなが書かれていましたし、食事をする際の食器はお箸を用いています。

えんとつ町の町並みも渋谷っぽいですしね。

 

 

スコップの話で一番びっくりしたのが、直接的ではありませんがFRBのことを言及していたことです。

作中に出てくる中央銀行は日本でいうところの日本銀行。言わずもがなですが、日本で流通しているお金を発行している、政府から独立した民間企業です。

ですが、本記事の本来の目的から離れるので言及はいたしません。ご自身で調べてみてね⭐️

 

わたしがなにを言いたいかというと、FRBの話をファミリー層向けの映画にぶつけていることです。今までそんな映画は観たことがありませんでしたからね。

義務教育では絶対に教えてくれないことでも、物語なら引っかかることなくするっと入ってくる。

それは映画という、客層の間口が広いエンターテイメントだからこそできることだと思います。

 

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「その空を覆う煙を晴らすためにスコップの持っている無煙火薬を使いたい」というのがルビッチのスコップへのお願い二つ目でした。

この時に初めて「願い事三つ聞き入れる」というのはアラジンのオマージュだなと理解しました。

 

正直、ルビッチ&プペルとスコップが初めて出会うシーンはスコップも話し続けているし、そのスコップに対してルビッチが話していたりプペルの呆れ声みたいなものが重なっていたので、どっちを聞きゃいいのかわからなかったんですよね(スコップが喋りすぎてて正直ちょっとうんざりもしていたし)笑

 

ルビッチの思いに感化を受け、レジスタンス魂に火がついたスコップは、ルビッチのお願いを聞き入れます。

スコップの持っている無煙火薬は先祖代々続くものだというのが、ここで明かされますが、これは『ひとつのことを成し遂げるために、各人それぞれが歴史を生かし合って達成する』ということを指しているのでしょうか?

 

 

異端を許さぬ者

場面変わって海に現れた連絡船(海のバケモノ)に無煙火薬などを積んで、空へ飛び立つ準備をするルビッチとプペルのシーン。

 

早々にトシアキらに見つかります。

トシアキらの異端審問官としては「民には変なこと(政府に都合の悪いこと)をせずに、一方向だけ見ていてほしい」と思っているので、ルビッチとプペルの行動はタブーそのものなんですよね。

 

一つの異端を認めると他の異端も認めねばならず、その結果多様性を産むことになり、最終的に人という矢印がいろんな方向を向いていて、民を束ねる國家として収拾がつかなくなる可能性が生まれます。

その状況がより膨れた状態で圧倒的なカリスマ(JFKジョン・レノン)が登場し、多様化した個々の矢印がそのカリスマと共鳴し、大きくなった圧倒的な力の矛先が為政者に向けば、為政者は危機的な立場になります(つまり、それまでその職やシステムで儲けていた人が儲けられなくなるということ)。

なので、目立ったことをしているルビッチとプペルは目の敵的な存在なのです。

 

もちろん異端審問官はルビッチとプペルを取り抑えようとします。

そんな時、スコップが現れます。「もし異端審問官に見つかった時に、彼らの足止めをするために演説をしてくれ」というのが、ルビッチのスコップへの三つ目のお願いでした。

そのスコップが『働きアリの法則』のお話をします。

・働きアリのうち、よく働く2割のアリが8割の食料を集めてくる。

・働きアリのうち、本当に働いているのは全体の8割で、残りの2割のアリはサボっている。

・よく働いているアリと、時々サボっている普通のアリ、ずっとサボっているアリの割合は2:6:2になる。

・よく働いているアリの2割を間引くと、残りの8割の中の2割がよく働くアリになり、全体としてはまた2:6:2の割合になる。

 

「君達は働きすぎだからもうちょっと休んだほうがいいんじゃない?」とスコップは言います。

 

『働きアリの法則』は、魚の世界でも似たようなシステム(関係?)のお話がありますよね。

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こちらです。

 

ですが働きアリってシフト制で、巣というコロニーを守り続けるために常に一定数の個体は休んでいるんじゃなかったでしたっけ?

よく働くアリ(A)と、普通に働くアリ(B)、サボっているアリ(C)の役割が、A→B→C→A→B→Cみたいに順繰りになっているのではなかったっけ??

 

まあ西野さんの伝えたいこととは関係ないんですけどね。

 

 

ルビッチとプペルが空の煙を晴らそうとしていること、ルビッチがブルーノの息子であることを、スコップがうっかり喋ってしまいます。

それを知ったトシアキも、ブルーノを自身が葬ったようなことをうっかり喋ってしまいます。

それを聞いたルビッチがトシアキを問い詰めます。こことルビッチが夢を町の人々に語るカットの演出は西野さんがキングコングとして舞台に立っている時の光景なんでしょうね。よかったと思います。

 

ローラがルビッチに送った檄も、とても良かったです。泣きそうになりました。

全くの独りより、一人でも応援してくれる人がいれば強固な心の支えになる。いいですね。

 

 

ルビッチ&プペルと対立していたアントニオが最後で会心(この表現あってる?)したのもよかったですね。それまでのアントニオは、いわば自身の感情に蓋をしていた感じなので、自分に正直になったということでしょうか。

 

 

ルビッチの元友達の助けもあって、ルビッチとプペルは空を晴らすための冒険に出発します。

 

ここの雲の中を進むという演出は、ラピュタナウシカのオマージュでしょう。

 

 

プペルの記憶

無煙火薬で煙を晴らしたりなんやかんやあって、プペルがかつてブルーノとして生きていた頃の記憶が戻ります。

これにより、プペルがブルーノの(大柄な)歩き方に変わっているのが個人的に良かったです。

 

どこかは忘れましたが、ブルーノの語りで絵本が紡がれていくシーンの、波の描き方は葛飾北斎氏の『富嶽三十六景』だろうなと思いました。

 

 

ブルーノの心残りだった想いが昇華し、成仏します。

物語冒頭でプペルを作る心臓が流れ星としてえんとつ町に飛来しますが、成仏するに際して飛来してきた心臓が宇宙に飛んで行き、星として瞬くという演出もよかったです。ありきたりかもしれませんけどね。

 

 

煙が晴れて、初めての夜明け(ダブルミーニング)。

ここのシーンがとても渋谷の町ですし、すごく新海作品の『天気の子』でした。

 

 

ルビッチが自分より下の世代を助けて、自分が言われていた(心の支えだった)言葉を与えたところで物語は幕を閉じます。

これはルビッチがメンターである人から言われていたことを乗り越え克服した、それにより、ルビッチ自身が下の世代を助ける人物として、自身がメンターになったというハッピーエンドですね。

 

 

エンドロール後の「おしまい」もジブリですね。

 

 

 

鑑賞後の感想

というのが『映画 えんとつ町のプペル』でした。

過去のヒット作をオマージュしながらも、守破離をしている。

家族へ向けた家族のお話ですが、一つの家族という閉じた関係性だけの作品ではなく、もっと広い普遍的な想いや「広がり伝播していくことの重要性」みたいなことを受け取りました。

様々な解釈ができると思いますが、わたしは「上昇志向の象徴としてのえんとつ・煙と、その煙がはびこった結果周りが見えなくなった町(日本)。それをどうにか打開して行きたい」という想いが込められているのかな、と思いました。

 

本記事の頭の方で「九龍城っぽい」と表現しましたが、上へ上へと繁栄させた結果、地上一階部分は心なしか暗く描かれています。

これが非常に人工林で起きる『緑の砂漠』っぽく、人工林も日本が資本主義に傾倒しすぎた結果、そして高度経済成長が産んだ負の遺産の示唆かなと思います。

また人工林で植えられる樹木も主にスギ・ヒノキが中心で、その二つはまっすぐ上に伸びます。これも町に生えているえんとつと掛け合わしたのかなぁと推察いたします。

 

 

今現在 『鬼滅の刃』が大ヒット中ですが(歴代興行収入1位おめでとうございます!)、双方の作品で通底している伝えたい思いは同じなのではないかと感じました。

floodinhead.hatenablog.com

 

非情の西洋思想(鬼・えんとつ・煙)を、人情や心の東洋思想(炭治郎・ルビッチ)が打開する。

 

双方の作品でちょっと違うなと感じるのは、西野さんは悪役を「正面から立ち向かえばどうしようもない圧倒的な存在」と描いているのに対し、『鬼滅の刃』の吾峠さんは「圧倒的ではあるが、真正面からでも勝ち目はある存在」と描いていることです。

 

これは世代が関係していると思っていて、西野さん(1980年生まれ)は'00年代という時代の、象徴の一つである堀江貴文さんが大暴れされていた時期を直近で体感していらしたでしょうから、そのパワーやスピード感が凄まじいものだとイヤでも感じたのではないでしょうか(だからこそ『はれのひ事件』が発生し、その被害者を西野さんが救済した。宣伝とか目立つため、道化の可能性も大いにあり)。

 

それに対し吾峠さんは1989年生まれだそうです。

わたしもいわゆる"アラサー"ですが、'00年代の空気感の脆さや脆弱性、虚構感というのは、2020年現在に「若者」と大きく区分される世代の人にとって、共通言語的に認識しているのではないでしょうか。

 

だいたいそういった'00年代の軋轢に対しての作品が『鬼滅の刃』だと思いますしね。

 

 

こころの時代へ

最近ようやっと理解しましたが、「時代」ってのはそう簡単に言い表せられないものみたいです。

2000年代の象徴が堀江貴文さんだと上記しましたが、それはあくまで一つのピースでしかなく、ワンピースワタミ(及びブラック企業)マイルドヤンキーなどの一種の君主制といえるかもしれません。

簡単に言えば弱肉強食的ですかね。そして"従"の時代だと感じます。

 

 

そしてこれからはこころの時代だと思います。

それは『鬼滅の刃』が大きく風穴を開けたと感じるのですが、それも一個のピースです。

そして『映画 えんとつ町のプペル』も同じ流れを汲んだ作品だと感じました。

 

これからは弱肉強食ではなく、縄文時代バーニングマンの思想が象徴的な共生の時代。"従"ではなく"集"の時代。

「個の時代」なんて言われていましたがそれももうとっくに終わっており、独立した意思を持つ個が集う時代。YouTuber活動や、いろんな方がされているオンラインサロンが象徴的ですね〜。

 

「個人の意思なんて本当はなくて、みんな自由意志だと思わされている」というお話はまた別で。

 

 

これからこころの時代になるのかと思うと(やっとかよ。)、とても楽しみでしょうがないです。

 

2021年はどんな一年になるのでしょうか( ¨̮ )

 

 

宣伝法として、大口は大きければ大きいだけ良い。

西野さんは「ディズニーを倒す!」と話されていて、まぁ鼻で笑われまくっていますが(わたしも実際「また大きく出たなぁ」と思いました)、西野さんの宣伝方法?を見ていて思いました。

 

「大口を叩くのなら、より突飛でバカでかいほうが良い」

 

その方が野次馬が集まって、各々が大きな声で宣伝してくれるし、それによってその大口をサポートしてくれる人と出会えるかもしれないからです。

それは下記の記事で取り上げた方と西野さんを見て感じたことです。

 

 

floodinhead.hatenablog.com

 

 

 

余談ですが、2015年に西野さんが「ハロウィン翌日の渋谷に溢れるゴミを拾って、アート作品を作ろう」という企画を催した際、西野さんのアンチの方が、アナウンスされている集合時間よりも、早く渋谷へ集って先にゴミ拾いをしたため、西野さんの企画は失敗に終わった。と東野さんは揶揄(愛)していたけど、アンチを動かしてゴミ拾いさせることができたってのはすごいことなんじゃないの??と、わたしは思います。

 

 

 

 

 

(一万字も書いちまったよ…)

 

 

 

ありがとうございました\(´-`)/

 

 

プペプップー😚