本日もご訪問ありがとうございます。
最近重松清さんの『木曜日の子ども』という作品を読んでいます。
まだまだ冒頭までしか読んでいないので、物語がどう転がって行くのかがわからないのですが、なかなかにヘヴィな内容みたいです。
今年は道尾秀介さんの『向日葵の咲かない夏』や宿野かほるさんの『ルビンの壺が割れた』などの作品を読んでいるのですが、どうしてこうも疲れる作品を読んでいるのかな…。
さて、『木曜日の子ども』の中で「母子家庭が理由にいじめられる」という場面があります。
《母子家庭》というのは片親環境とされるものですが、わたしは、昔から【片親を理由にして揶揄ったりいじめたりする】という行動が理解できませんでした。
元々の理由としては、その家庭ごとの事情とかの様々な理由があるのだろうから、別にいいじゃん。仕方ない部分もあるんだろうからさ。というところです。
【片親は良くないと思っている側】の意見として、わたしが考える程度の理由ですが『両親がいないから考え方が狭くなる』とかでしょうか。
確かに、そういった影響はあるのかもしれません。しかし、それは『もしかしたらそういったこともあり得る』というだけで『必ずそうである』ということにはなりません。
あくまでも、『そういうこともあり得る』というだけです。
また《片親環境》を理由に見下している人は、まぁ十中八九、両の親がいるでしょう。
そんな両の親がいる人間が『片親の人間はダメだ』と主張している。これは考え方が狭いということなのではないでしょうか。
つまりは『両親がいないと考え方が狭くなる、と思っている側』の意見は破綻しているということになります。
であれば、どういうことになるのか。
ひと月ほど前、わたしは朝井リョウさんの『正欲』という作品を読んだのですが、その時にはっとした一文がありました。
それは『マジョリティは「マジョリティであること」にアイデンティティを置いている』というものです。
つまり、《マジョリティ側である【何か】に価値を置いている》のではなく、《【マジョリティ側に所属していること】に価値を置いている》ということです。
上記した内容を考慮すれば、【片親は良くないと思っている理由】にも道理が導くことができます。
『両方の親がいるのが普通だから、その普通から逸脱した存在は、異常』という理論です。
わたし個人の意見としては『普通とかいうのも印象次第でどうとでも変えられるのに』と思うので、まったく阿保だなぁと思うばかりです。
これはわたし個人の偏見ですが、『マジョリティであることに価値を置いている人』が、『マイノリティな方を否定する理由』は【《マジョリティであることの価値》を否定されたと感じる】からではないかなと考えております。
そもそもそこまで脳みそが回っていないのだろうか、とも思うのですけれどね。
確かに、異端がいると(革命とかの様々な理由などで)コミュニティが崩壊する危険性が発生するので、排除したい氣持ちが生まれるのも仕方ないとも思います。
所詮は阿保な人間のしていることですしね。
わたし個人の本懐としては、その人の家族構成なんて至極どうでも良いです。
片親かどうか程度でその人の全てを知れるわけがないだろうに。人なんて色んな要素がモザイク的に集合したもんだろうから、ただの一側面だけで判断するのは性急ですよ。と思います。
ですが、よくよく考えずに断定して生きた方が色々と樂ではあるんでしょうね。
わからないな…。
ちなみに、「わからないな…」および、この記事のタイトルは一条二郎さん著作の『レプリカの夜』にて、主人公の往本が発言する「わからないな…」が好きなのでオマージュしました。
オマージュ海老。
最近更新が少ないのですが、それはなんとか今年中に書き上げたいものがあるためです。
万一、わたしのブログをお樂しみにしていらっしゃる方がいらっしゃいました場合は、ご迷惑をおかけいたします。
ありがとうございました( ¨̮ )