頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

宇宙は大きくなり続けていると言いますよね。

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

以前にわたしは物価についての記事を書きました。

floodinhead.hatenablog.com

 

最近、物価について思ったことがまた一つできたので、今回、記します。

 

どこから説明するのが良いのかわからないので、内容が摑みにくいかも知れません。

 

 

十七年

物価は上がります。

食べ物とかの消費物については収穫量によって変動しますが、本などと言った情報が乗っているものは物価変動での値下げはありません。

 

 

昨年末(2023年)に安部公房さんの『箱男』を購入したのですが、今、文庫本の定価を見て「どひえ」となりました。

680円(税別)だったのですが、わたしが読書を始めた小學生時分には240頁くらいの文庫本はせいぜい400円以内だったと記憶しています。

 

実際、家にあった平成十九年刊行の芥川龍之介氏著作『地獄変・偸盗』(220頁くらい)は362円(税別)でした。

 

どつひえ。

 

「作家によって値段が変わるのではなく、頁数によって値段が変わるのではないか」と考えているので、芥川龍之介さんと安部公房さんという《作家の違い》が値段の相違の理由だということはあまり考えにくいと思います(ともすれば芥川龍之介さんの方が一般認知が広いので、購入しやすい値段設定になっているという可能性は捨てきれない)。

が、今新潮社のホームページを見たところ定価額が407円だったので、作家による違いというのもやっぱりあるのか?と思いもしました。

www.shinchosha.co.jp

 

平成十九年は2007年なので、現在の2024年より十七年も前になりますね(愕然)。

 

その十七年の間に、物価は高騰しています。

労働への賃金もそう変わらず、國民全体の生活水準が上がっていないらしい現状ですが、今回の記事はそこに言及するものではないので、傍に避けておくとして。

 

 

物価、それが上がると、お金がより必要になります。

お金の価値というものは変わらないようにも見えますが、その実はかなり変わります。

なぜかというと、我々人間は【お金】というものを信仰しているのではなく【情報】を信仰しているからだ、とわたしは考えているからです。

 

思い直しても見てください、我々が有難がっている【お金】というものは、結局のところは所詮紙切れです。

その《紙切れ》に情報を載せたことで、情報を媒介することで、我々の生活が成り立つようになりました( "生活" の形状が書き換えられた、とも捉えることもできます)。

 

【お金】というものは、土台《紙切れ》であるわけですが、元の白紙に印刷がされて【お金】というものへ変化・進化します。

 

日本圓で最高金額の紙幣である壱萬圓札は、原価が十九~二十四圓程度、というのはよく聞くお話で、ということは9,976円が情報量やブランド料ということでしょう。

ハイブランド品と原理は同じということですかね。

 

さて、ということは壱萬圓札の上限は壱萬圓なのでしょうか。

 

その答えは、『否』だとわたしは考えます。

 

 

お金が伸びたり…

物価は上がります。

それは、これまでは千圓で購入できたものが、千二百圓かかるということです。

 

壱萬圓札を払って九千圓のおつりだったものが八千八百圓のおつりになるということです。

 

『壱萬圓札』というものは変わっていませんが、変わっているものがありますね。

それは《情報》です。

 

 

「千圓で購入できたものが、千二百圓かかる」ということは、「壱萬圓で購入できたものが、壱萬二千圓かかる」ということです。

この場合、壱萬圓札は一枚ではなく二枚必要になるということです。

 

何が言いたいかというと、『【お金】という媒介物に乗っける《情報》を、情報率さえを上げさえすれば良い』ということです。

 

これは『お金が伸びたり縮んだり』というやつですね。


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そうすれば、大衆は二枚の壱萬圓札が必要となり、紙幣を印刷する側は19,952円の儲けとなるわけです。

 

となると『値上げを行なった企業』が悪いのか、怒りの矛先は其処なのか?という疑問が生じてきます。

 

企業は製造コストとして、材料を仕入れます。その材料を仕入れた際のお金が原価ってやつですよね。

その原価に、人件費や次の企業戰略への資金などの諸費用を追加した金額を設定し、市場へ売り流すわけですが、それは資本主義とかの商売の基本なのでとやかく言うつもりはありません。

企業としても、原価率を低くしたいというのは資本主義経済の根っこたる部分であろうと考えられるからです。

 

 

企業も「製造するための材料」を仕入れるために【お金】を支払っているのですね。

では、その材料の金額設定やらをしたのはどこか。金額設定をする理由となった根本はどこなのか。

 

 

実際には『企業が悪い』とかではなく、「そう決断するに至った《情報》に原因がある」のではないのか?と考えます(いや、『企業が悪い』という部分や場面も確かにあるとは思う)。

 

見えやすいものは『見え易い』ので目につきやすいですが、実際には奥にある見えないものが理由になっていたりするのではないでしょうか。

『有名無力、無名有力』というやつですかね。

 

 

さあさあ、これは壮大なお話になってきましたね。。

 

 

ダンシング!インテリジェンス!ダンシング!ダンシング!

さてはて、ここまで書いてきたことはあくまでもわたしの妄想である虚妄から去来したことであるので、話半分温冷湿布半分帆布船です。

 

経済やら商売について、わたしはづぶのしろうとなので、専門家の方々におかれましては上の考えを鼻ででも笑っていてください。

 

 

しかしまあ人間というのは情報に踊らされて右往左往するのが好きですね。

よく飽きないなぁ、と思ったりもするのですが、もしかしたら『情報に踊らされているとも思っていない』或いは『踊らされた記憶すら失くしている』とかなのかしら?とも思いました。

 

さて、人のふり見て我がふり直せ。自覺と自戒をしてこれからも生きます。

生きていけるのかは、また別の問題。

 

 

とってもかっこいい。

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そういえばわたしが読書に没頭しだした頃と現在とで、ハードカバーの定価は二千円前後だったような氣がするのですが、ハードカバーはあんまり定価変動していないのか?

しかし、わたしが基本的に文庫を好む人間なので、昔の記憶自体が曖昧である可能性は大いにあります。

 

 

ありがとうございました( ¨̮ )