茄子紺…?
▲ ここに「買ってよかった2023」を書こう
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本日もご訪問ありがとうございます。
今回はお題ブログです。
お題は「買ってよかった2023」
何やらAIさんを用いたお題らしいです。が、そんなものは知りません。
わたしは単純に『買ってよかったもの』を書きたいのです。
そんな、買ってよかったものなのですが、それは辞書です。しかも紙の。
まぁな、電脳っつうもんはよ。
「現代に紙の辞書?」と思われる方もいらっしゃるでしょう。わたし自身もそうです。
ですが、逆に言えば『現代だから』紙の辞書なのです。
現代はいつでも電脳にアクセスできて、なんでも電脳で調べることができます。が、これはほとんど断言なのですが、電脳はいつか裏切りますよ。必ず、です。
そもそも《すでに電脳に支配されていること》に氣付けていないので、何を言っても無駄なのか…、と無情になってしまったりもしまう部分もあったりしますけれど。
必要ごとに電脳で調べるのであれば、電脳がないと何もできないということになります。
つまり、電脳が無ければ、【不能】ということになり、それの表現を変えれば《電脳に支配されている》ということになります。
知識や情報は脳みそに入っていないと意味がないのです。
「あの情報はあの場所にあった」では意味がないのですよ。
さぶすくりぷしょんは "借りる" ですので、所有ではないのです。
「あの情報はとてもよかった」と思っても、サービス自体がなくなってしまったら。
さぶすくりぷしょんが電子媒体を媒介するものなら。
「思えば、図書館もさぶすくりぷしょんなのだな」と考えました。
しかし、図書館なら閉館する時に売りに出したりもするのかもしれない。
図書館に所蔵されていた書籍を所有できるのかについては不明ですが、『所有できる』のも紙の本の特権ですね。
辞っ書をカッフェで。
さて、そんな国語辞典を本屋さんで購入し(この日は七千円分くらい買いました。本屋さんの紙袋って高揚しますよね)、『自分用』の辞書を持ったことの嬉しさで浮き浮きしたまま、カッフェでコーヒーを頂こうと考えました。
昔から辞書を引くという行為が好きだったので、非常に愉しいが深く、小説も読みたかったのですが思わず辞書に夢中となってしまいます。
ちなみにこの『岩波 国語辞典』にした決め手は、紙の手触りと収録されている言葉たちの配置・配列です。
辞書は刊行している出版社によって「どの層に向けて編集・編纂されているか」が変わりますが、その編纂された頁の落ち着き具合も決め手となりました。
ぱらぱらと頁を捲る手、ぱたぱたと音を立てて重なる頁、紙の動きで香ってくる "辞書のかおり" 。
全てが素晴らしい。
そうやってぱたぱたと頁を捲っていたところ、ある言葉が目に飛び込んできました。
【茄子紺】
「茄子紺…?」と思って、過ぎたページを戻して【茄子紺】の項を探します。
【茄子紺】を見つけ、解説を読むと『茄子の実のような、紫がかった紺色』と書いてありました。
「へぇー!そんな色があるのね!知らなかった!」と感心するわたし。己の學の浅さを思い知ります。
しかし、今、思います。
「茄子紺…? 茄子、"紺" ??」
わたしの印象では、お茄子は迷うことなく《紫色》です。
あまりに紫色が濃いので、黒色っぽく見えたりもしますが、いいえ、あれは黒色ではなく紫色です。
なのに、茄子 "紺" と表現されていることに面白味を感じたのですね。
「へぇ〜!茄子紺!」ということです。
あ、でもお漬物とか茹でたりするとお茄子って紺色になったりするな。
あと、こういった色の名前って江戸時代とかにできたものが多そうだから、当時のお茄子は現代よりも紺色が強かったり、当時の方の色彩感覺では紺色に見える方が強かったのかもしれませんね。
現代人は明らかに様々なものが退化しているから。
── その日、わたしは思い出した。紙の辞書の愉しさを。
という感じですね。
紙の辞書の何が良いって、思っても見なかった言葉に出会えることです。
今回の記事で書いた【茄子紺】も、紙の辞書を引かないと人生で出会うことがなかったかもしれませんしね。
紙の辞書の良いところは、紙を捲る時の感触、求めている言葉へじりじりと近づいている感覺、そして、不意の出会いがあるところ、ですね。
以上から、わたし個人の「買ってよかった2023」は国語辞典です。
ありがとうございました( ¨̮ )