頭の中の洪水

言葉に頼っているうちなのでまだまだです。

『意識』に《入れる》

 

本日もご訪問ありがとうございます。

 

今回の主題は【自信】についてです。

わたしが何度も言及していることですね。

 

「まーた言ってんのかよ。解散」なんて、まぁ、思わず。

 

 

わたしは、自信という言葉が嫌いです。

もう言い切ります。

これはこのブログにおいて何度となく書いていることです。

 

『自信という言葉が嫌いな理由』も過去に書いたと思いますが、改めて記します。

 

『自信という言葉が嫌いな理由』は「自信を持っているか、否か」という話において、『《自信が無いこと》を前提にして考えられている』から、です。

『物を持つ』ということは、そもそもがそのものを持っていないから持つことができるはずです。

であれば「自信を持っている」ということは、そもそも《自信なんて無い》ということになります。

言葉というものは面白いですね。

 

《自信が無い》から、他のもので埋めようとする。

その埋めようとする他のものが大概体外的なものだから、色々と歪みが出るのだと感じます。

 

そもそもが、「存在している」という時点で自信などは不要なはずですよ。

 

 

『自信を持っている/自信が無い』と形容されますが、この言葉自体もおかしいと感じます、「持っている」の反対は「持っていない」ですが、「無い」の反対は「有る」です。

つまり、『自信を持っている』の反対は『自信が無い』ではないのです。

まったく、悪どい。

 

 

そして、『有る』ということは「持っている」のではないので、初期設定が《持っていない》ではないのですね。

 

そういったことたちが、巧妙に隠されていることや、それに氣がつかないようになっている構図などひっくるめて、わたしは【自信】という言葉が嫌いなのです。

 

 

 

はて、ふと思いました。

「まず【自信】という言葉が『意識』に《入った》ことがいけないのではないか?」

 

昔、聞いたことがあります。

「肩こりという言葉ができたから、肩こりが生まれた」

「トラウマという言葉が生まれるまで、トラウマというものはなかった」

実際のところは、上記と同じようなもの、似た性質のものは言葉が生まれる前までにもあったと思います。

 

しかし、そういった言葉たちが生まれたことで、その事象が結実化した。

 

これが、【自信】という『意識』にも通ずるのではないかと考えています。

【自信】という価値観を知らない人に、【自信】という価値観を『意識』に《入れる》。

すると、その人は「自信があるか、ないか」という状態に変わります。これは洗脳と言えるかもしれません。

 

 

【自信】という価値観を知らない方が確実に生きるのは樂になると感じます。

ですが、現代では【自信】という価値観が『意識』に植え付けられた人がほとんどでしょう。

なぜでしょうね。

資本主義や利潤が絡んでいるのかな??

 

 

【自信】は、個人的に近現代的な考え方だと感じます。

しかし、残念ながら【自信】という言葉が日本でいつから用いられているかについては知ることができませんでした。

ですが、わたしはそもそも「【自信】という言葉は、西洋的な価値観なのではないか?」と微弱に考えています。

いつからこの価値観が日本に入ってきたかについては、憶測であっても言及いたしませんけれどね。

 

 

ありがとうございました。