本日もご訪問ありがとうございます。
今回の内容は少し憚れるようなものです。
それは呪いについてです。
そういったことが得意でない方もいらっしゃると思われるので、苦手な方はここでおやめください。
みなさまは蠱毒という呪術の技法をご存知でしょうか。
わたしはかの有名ネット怪談『リョウメンスクナ』で、初めてその存在を認識いたしました。
蠱毒の概要については、あまりわたしの言葉で説明したくないのと、詳しい説明は以下の動画様がされているので、そちらを拝見されるか、ご自身でお調べいただけましたらと存じます。
一つ目の動画で、『蠱毒には、〈蠱道〉というものがある』と話されています。
この『道』というのは「武道」や「華道」のような『道』と同じ意味合いで、つまり、その技術を師から弟子へ、親から子へと、継承・より良いものへと精錬していく機関だそうです。
蠱毒にもその『道』があり、蠱毒を行う専門家は「蠱毒師」と呼称されるそうです。
蠱毒師。
この『こどくし』という発声音。
いつからかニュースやらで聞くようになった『孤独死』と同じ音を用いています。
わたしは言靈を信じている人間として、このリンクは何か意味合いがあるのではないか、と感じます。
つまり、『孤独死』として発声した言葉でも、その言葉の発声音が〈こどくし〉だから、『蠱毒師』の方にも影響が行く、といったように。
しかも、双方とも意味合いがネガティヴなものです。
この世は念が支配しているといっても過言ではない、とわたしは思っているのですが、『ポジティヴな言葉はポジティヴな想いのもとに発するからこそ、ポジティヴに作用する』のであって、たとえその言葉が"ポジティヴな意味合い"であってもネガティヴな想いの下で発したら、本来あるはずのポジティブな力は発揮されないのではないか、と考えています。
それの逆で、ネガティヴな言葉もネガティヴな想いで発したらネガティヴな力が増強される、そう考えています。
つまりAとBの言葉は同じ発声音だけど、込められている意味の性質が真逆であった場合は互いを邪魔し合うが、込められている意味の性質が同じ方向であるならば、相乗効果的になっていくのではないのかということです。
もちろんあくまで仮説の話ですけどね。
さて、『呪いの本質』というのは「念」であるとわたしは考えています。
バンドのファンが「活動当初のスタンスから変わらないで」と願い発言するのも呪いですし(生物は変わるのが普通なので、最低最悪レベルの呪いだと言えます)、「頭にあるアイデアを必ず形にしてやる」というのも呪いです。
共通しているのは『想いや念が働いている』ということです。
別な例として『全く健康な人に、「今のあなたはどれそれの病氣なので治療しましょう」という宣告すること』も呪いの一種です。面白いですよね。
〈病は氣から〉ってやつです。
これはプラシーボ(思い込み)の効果が強いと思いますが、それこそが、呪いの本懐たるところです。
と発声の音と、それによって引き起こされる効果を書いてきました。
この記事の冒頭に書いた『リョウメンスクナ』で「おや?」と思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
どうやら『呪術廻戦』という少年ジャンプ連載の漫画作品に「リョウメンスクナ」が引用されているそうですね。
この「じゅじゅつかいせん」という発声音も、あるいは?
もちろん言靈に対して懐疑的な方もいらっしゃるでしょうから、話半分にでも思っていただければと存じます( ¨̮ )
大衆の念を操作するために「言靈は嘘っぱち」であるとか「科學はすばらしいものだ」とのキャンペーンがされているのかもしれませんけどね( ¨̮ )
『発声する音』の話ではないですが、むかしからある行事でも、昔にはちゃんと意味があってしていたことでも、年月が経過するに従って、込められていた意味が"何らかの意思"で真逆なものに変えられてしまったり、『形式化』したことでその意味が忘れられたりして、本来ならなんらかの効果があったのになくなってしまった、ということもあるのかもしれませんね。
下記動画様の『節分の話(13:02~)』のようにね。
少なくとも、現代日本人が病氣に塗れているのは、念の効果を軽視して即物的なものに頼りすぎているから、だと、一回の若輩者は感じる次第です( ¨̮ )
金を出し不幸を買っている己に嫌気はさしていないか?
ま、所詮はオカルトなので、好きな人だけお愉しみくださいませ( ¨̮ )
ありがとうございました( ¨̮ )